第二話
神聖アクス王国の王都にそびえ立つ白亜の王宮。その一角にある第一軍議室の空気は、凍りついたように重苦しく澱んでいた。
「……もう一度言ってみろ。何が起きたというのだ」
重厚な円卓の上座から、特務内務卿の冷徹な声が響く。
その視線の先――豪奢な絨毯の上に、信じがたい姿の男たちが打ち捨てられた魚のように転がっていた。
数日前、威風堂々とアビス・クレイドルへ向かったはずの特務官僚と、精鋭近衛騎士団の面々である。
だが、現在の彼らの姿には、王国の威信など微塵も残っていなかった。
身につけていたはずの豪奢な銀の甲冑も、仕立ての良い官僚服も、魔導剣もすべて消え失せている。身にまとっているのは、どこかの馬小屋からくすねてきたと思しき薄汚れた麻袋や、底の抜けた木樽だけ。
露出した手足や顔面には、無数の鋭利な嘴で突っつかれたような赤黒い痣が無数に刻まれ、唇は紫色に変色してガチガチと激しく鳴っていた。
「ペ、ペンギン……ペンギンが……っ!」
肥満体の官僚が、幼児のように体を丸めて涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら床を掻きむしった。
「床が割れたと思ったら、氷の滑り台を時速百キロで落とされましてぇぇっ! 終点には極寒の氷原が広がっており、二本足で歩く悪魔の鳥どもが一斉に襲いかかってきて……! 『衣服と貴金属は不法侵入の過料として没収するクエー!』と鳴きながら、身ぐるみ全部剥ぎ取られたのでございますぅぅっ!」
「た、隊長……! 私の誇り高き家紋入りパンツまで……奴らは一切の躊躇なく毟り取っていきました……!」
歴戦の騎士が、麻袋の隙間から涙をこぼして項垂れた。
軍議室に集まっていた貴族や将軍たちが、呆気にとられて言葉を失う。
その中には、リアムを勘当した実父であるバルド・ハミルトン伯爵と、新嫡男となった次男カイルの姿もあった。
「バ、バカバカしい!」
カイルが金髪を苛立たしげに揺らし、円卓をバンと叩いて立ち上がった。
「ペンギンだと!? 氷の滑り台だと!? 何をふざけた妄言を吐いているんだ! あのアビス・クレイドルは、我がハミルトン家から追放された無能の兄――リアムが金貨五十枚で買い取っただけの廃棄ダンジョンだぞ! 兄貴のジョブはただの【土地管理人】だ! そんな大規模な迎撃魔術など扱えるはずがないだろう!」
「し、しかしカイル様、事実なのです!」
官僚が這いつくばりながら叫ぶ。
「かの地には、かつての大穴などどこにもございませんでした! 漂っていたはずの猛毒の瘴気は消え去り、桃源郷のような桜並木と大邸宅が建ち並び……そして、あの男は我々にこう言い放ったのです! 『ここは俺の私有地だ。不法侵入者は害獣として強制排除する』と……!」
「……ええい、見苦しい!」
バルド伯爵が苦々しく吐き捨てた。
「土地管理人の小倅が、何らかの古代遺物を偶然起動させたに過ぎん! 運良く瘴気の抜け穴を見つけ、ハミルトン家の名を騙って虚勢を張っているだけだ! なあカイル、そうであろう!?」
「当たり前ですよ、父上」
カイルは嘲笑を浮かべ、腰の長剣の柄に手を当てた。
「兄貴の浅知恵など、僕の【剛剣士】の力の前には児戯に等しい。上位戦闘職の僕が直率する部隊を率いて乗り込めば、あんな落ちこぼれ、一刀の下にひれ伏させてみせますよ。……ちょうどいいじゃないですか。兄貴がダンジョンの封印を解いてくれたのなら、僕がそれを力ずくで奪い取って、王家に献上してやりますよ!」
カイルの鼻息の荒い言葉に、バルド伯爵は満足そうに頷いた。
現在、ハミルトン伯爵領は危機的状況に陥っていた。リアムを追い出して以降、領内の水路が次々と詰まり、土壌は痩せ細り、帳簿は計算が合わずに大混乱を極めていたのだ。リアムが日陰で処理していた「地味な雑務」が、実は領地経営の屋台骨だったことに彼らはまだ気づいていない。焦るバルドとカイルにとって、アビス・クレイドルの利権強奪は、喉から手が出るほど欲しい手柄だった。
だがその時、軍議室の重い鉄扉が静かに開かれた。
カツン、カツンと澄んだ金属音が響き渡る。
部屋の温度がわずかに下がったかのような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な威厳と神聖な魔力。
「――そこまでにしてもらおうか」
現れたのは、白銀の全身鎧に身を包んだ一人の少女だった。
腰まで届くプラチナブロンドの髪をポニーテールに束ね、切れ長の紫水晶の瞳には、一切の妥協を許さぬ峻烈な光が宿っている。
神聖アクス王国・第二王女にして、近衛騎士団長。
神授職【聖騎士】を冠する、王国最強の剣姫――エリシア・フォン・アクスであった。
「エ、エリシア殿下……!」
貴族たちが一斉に立ち上がり、深々と頭を下げる。
エリシアは冷徹な眼差しで、床に転がる樽姿の官僚たちを一瞥した。
「国庫が傾き、各ダンジョンのマナが枯渇しつつあるこの非常時に、一平民相手に醜態を晒すとは……王国の騎士として恥を知れ」
「は、ははっ! 申し訳ございません!」
「バルド伯爵、そしてカイル殿」
エリシアの冷たい視線が、ハミルトン親子の射抜く。
「貴公らが追放したという長男リアム……彼が手に入れたダンジョンが、かつて国家を破滅させかけたアビス・クレイドルであることはギルドの記録で確認した。そして、現在あの一帯から莫大なマナの清浄化反応が観測されていることも事実だ」
カイルが媚びるような笑みを浮かべて進み出る。
「でしたら殿下! このカイルにお任せを! 僕が近衛の先鋒となり、あの無能な兄の首根っこを掴んで――」
「戯け者を」
エリシアは一言でカイルの言葉を切り捨てた。
「相手がどのような魔導兵器、あるいは古代遺物を掌握しているかも分からぬまま突撃するなど、無策の極み。……これ以上の醜態は王家の名折れだ。私自らが率いる白銀騎士団の精鋭をもって現地へ赴き、実態を検分する」
「で、殿下自ら向かわれるのですか!?」
驚愕するバルドに対し、エリシアは凛とした声で続けた。
「相手が法に基づき土地を購入したというのなら、王家とて無法に接収することは盟約魔法が許さぬ。だが、国家の存亡に関わる危機である以上、放置もできん。私が直接対話し、必要とあらば相応の対価をもって買い戻す。……カイル殿、案内役として同行を命ずる。兄の気性を知る者がいた方が話が早かろう」
「は、はっ! 謹んでお供いたします!」
カイルは頭を下げながら、内心で舌打ちと歓喜を同時に噛みしめていた。
(ふん、王女殿下自らのお出ましとはな。だが好都合だ。殿下の御前で、僕が兄貴を徹底的に叩きのめして、ハミルトン家の武名を示してやる……!)
こうして、王国最強の聖騎士と、野心に燃える弟カイルを乗せた遠征部隊が、再びアビス・クレイドルへと向けて進発したのだった。
その頃、アビス・クレイドルの地上に建つ大邸宅【ハミルトン・ヴィラ】の主寝室では、極めて重大な戦いが繰り広げられていた。
「ん……ぐ……重い……息が……」
リアムは微睡みの中で、胸元に感じる凄まじい圧迫感によって目を覚ました。
視界を覆っていたのは、純白の天蓋ではなく――息を呑むほど美しい、艶やかな銀色の髪だった。
(……え?)
リアムが瞬きをすると、自分の胸の上に、見知らぬ美少女がぴったりと抱きついて眠っていた。
年齢は十四歳前後。陶器のように白い肌に、桜色の唇。規則正しく「すー、すー」と寝息を立てているその頭部には――ふさふさとした白銀の狼耳が生えていた。そして、リアムの足元の方からは、同じく白銀の立派な尻尾が伸び、リアムの太ももに心地よく巻き付いている。
「シ、シロ……!?」
リアムが驚愕の声を漏らすと、狼耳がピクピクと震え、少女が薄っすらと碧い瞳を開けた。
少女はリアムの顔を見るなり、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「……んぅ……ご主人様、おはようございます……!」
ぎゅぅぅぅっ、と細い腕でリアムの首にしがみついてくる。
その瞬間、リアムの鼻腔をくすぐったのは、獣臭さなど微塵もない、日なたの干し草と甘いミルクが混ざり合ったような極上の香りだった。
「わ、わっ、ちょっとシロ、お前……人になれるのか!?」
「はい……! 昨日、ご主人様にいっぱい美味しいお肉をもらって、背中をブラッシングしてもらったら……なんだか体がポカポカして、この姿になれるようになりました……! えへへ、この姿の方が、ご主人様にいっぱい抱きつけます……!」
シロはすりすりと頬をリアムの胸板に擦り付けてくる。
世界を滅ぼす災害指定魔獣【終末の銀狼】の面影は、どこを探しても見当たらない。ただの甘えん坊極まりないモフモフ美少女である。
だが、リアムの試練はそれだけで終わらなかった。
「めぇ〜〜」
枕元から、のんびりとした鳴き声が響く。
見れば、巨大な丸っこいモコモコ毛玉――ベヒーモスの幼体『ポトフ』が、リアムの右腕を完全に枕にして熟睡していた。極上の弾力を誇る羊毛がリアムの腕を包み込み、温かいを通り越して最早腕の感覚が麻痺しそうである。
さらに、リアムの額の上には――手のひらサイズの黄緑色の丸っこい小鳥が、ぽふんと鎮座していた。
シマエナガのようにまん丸な体型をしたその鳥は、伝説の神鳥【カラドリウス】の雛、『ピィ』である。昨日、庭の桜の木に巣を作ろうとして落ちてきたところをリアムが保護したのだ。
「ピピィ……♪」
ピィはリアムが起きたことに気づくと、嬉しそうに翼をパタパタさせ、リアムの寝起き特有の首の凝りや疲労物質を「ちゅるちゅる」と心地よい魔力で吸い取ってくれた。一瞬で頭がスッキリと冴え渡る。
「あはは……ピィ、ありがとう。でもみんな、ちょっとだけ退いてくれないかな? 朝ご飯が作れないんだ」
リアムが苦笑しながら言うと、寝室の引き戸が静かに開いた。
「おはようございます、リアム様。……あらあら、今日も皆さん、リアム様にべったりですね」
エプロン姿のドライアド、アルルがくすくすと笑いながら盆を持って入ってきた。盆の上には、絞りたての果実水が湯気を立てている。
「アルル、おはよう。助けてくれ、身動きが取れないんだ」
「はいはい、シロちゃん、ポトフちゃん、朝ご飯の時間ですよ。リアム様を解放してあげてくださいね」
アルルの優しい呼びかけに、シロは名残惜しそうに「むぅ……」と唇を尖らせながらも、ぽふんと音を立てて元の小さな子犬(狼形態)へと戻り、リアムの足元へと飛び降りた。ポトフもモコモコと体を揺らしながらベッドから降り、ピィはリアムの肩の上へと移動する。
ようやく自由になったリアムは、ベッドから起き上がって大きく伸びをした。
「ふあぁ……! よし、今日もいい天気だ。まずは朝の収穫から始めよう!」
朝のハミルトン・ヴィラは、活力と心地よい香りに満ちていた。
リアムが地下第一層の【オーガニック農園】へ向かうと、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
見渡す限りの黄金色の海。
毒素を中和し、超肥沃な土壌へと作り変えた水田には、たった数日で天寿を全うした稲穂が、たわわに実って首を垂れていた。
「ノア、これ……もう収穫できるのか?」
『はいマスター!』
空中に現れたダンジョンコアのノアが、得意げにツインテールを揺らす。
『ポトフちゃんの排泄物……あ、いえ、聖なるマナ堆肥と、アルルちゃんの植物成長促進魔法、そして私のダンジョン魔力循環が完璧にシンクロしまして! 通常なら数ヶ月かかる【アビス・コシヒカリ】が、最高の糖度と魔力を蓄えて完全に熟しております!』
「すごいな……! よし、今日は新米祭りだ!」
リアムはエプロンの紐を締め直し、【土地造成】の権能を使って稲を一瞬で刈り取り、脱穀・精米までを完了させた。
出来上がったのは、まるで磨き抜かれた白真珠のように透き通った、息を呑むほど美しい白米だった。
地上邸宅の台所へ戻り、さっそく調理を開始する。
地下の湧き水――ミネラルを豊富に含んだ神聖水を用いて、南部鉄器のような重厚な羽釜で米を炊き上げる。
火力を地熱オーブで調整し、一気に沸騰させる。
パチパチ、と釜の中で米が踊る小気味よい音が響き、やがて蓋の隙間から、甘く芳醇な蒸気が台所いっぱいに吹き出した。
「わあ……! なんて良い匂いなんでしょう……!」
アルルが目を輝かせ、シロは尻尾を扇風機のように激しく振り回して台所をうろうろと旋回している。ポトフも「めぇ〜〜!」と期待に満ちた声をあげた。
炊き上がった釜の蓋を開けると、そこには銀色に輝く白米が、一粒一粒ピンと立っていた。
リアムは手早く朝食の準備を進める。
羽釜の炊きたてご飯を、少し塩を効かせた大きなおにぎりに握る。具材は、昨日スモークしたドラゴンの塩漬け肉と、家庭菜園で採れた大葉。
さらに、裏庭で採れた大根、人参、ゴボウ、そして豚バラ肉をふんだんに使った具沢山の豚汁を大鍋でコトコトと煮込む。合わせ味噌の香ばしい匂いが立ち上り、仕上げに刻んだ小ネギを散らす。
「よし、できたぞ! 縁側で食べよう!」
縁側のウッドデッキに、木製のお盆が並べられた。
リアム、シロ(再び狼耳美少女形態)、アルルが並んで座り、庭の芝生の上にはポトフとピィ専用の特大ボウルが置かれる。モフモフたちには、アビス・コシヒカリに高タンパクな魔獣肉スープをたっぷりとかけた特製リゾットだ。
「「「いただきます!」」」
リアムはまず、握りたてのアビス・コシヒカリのおにぎりを両手で持ち、大きく一口かじった。
パリッ、と香ばしい海苔の音が響き、続いてふっくらとした米粒が口の中でホロリと解けた。
(……っっっ、美味い……!!!!)
リアムは思わず目を見張った。
噛みしめた瞬間に広がる、圧倒的な甘みと旨味。米の一粒一粒が濃厚なマナのスープを内包しているかのようにジューシーで、ドラゴンスモークの塩気と大葉の清涼感が、米の甘みを極限まで引き立てている。
飲み込むと、食道を通って胃袋へ落ちた瞬間、じんわりとした温かいエネルギーが全身の血管へと巡り、指の先まで力がみなぎっていくのが分かった。
続いて、熱々の豚汁をすする。
野菜の甘みが溶け出した濃厚な出汁と、豚肉のコク。味噌の塩気が完璧な調和を奏でている。
「んん〜〜っ! 美味しいです、リアム様! こんなに美味しいお米、世界樹の時代でも食べたことがありません……!」
アルルが両手を頬に当て、蕩けそうな顔で咀嚼している。
シロに至っては、人化形態のまま両手でおにぎりを抱え、リスのように頬袋をパンパンに膨らませていた。
「むぐ、むぐ……! ごひゅにんしゃま……! お肉も美味しいけど、この白いツブツブ、世界でいちばん美味しいです……! ほっぺたが落っこちちゃいそうです……!」
「あはは、慌てなくていいから、よく噛んで食べな。おかわりは釜にいっぱいあるから」
「ふぁいっ! おかわりします……!」
ポトフも「はふはふ、めぇ〜!」と鼻息を荒くしながらボウルに顔を突っ込み、ピィはリアムの肩の上で、米粒を一粒ずつ突っついては「ピピィ〜♪」と極楽の鳴き声をあげていた。
春の穏やかな陽光、満開の桜、心地よい風。
そして、愛するモフモフたちと囲む、最高に美味い朝ご飯。
「ああ……生きててよかったなあ……」
リアムが縁側に背中を預け、心底からの至福を噛みしめていた。
追放されたあの日、ハミルトン家の息苦しい屋敷を飛び出して、本当に正解だったと確信した。
だが――その極上の平穏を切り裂くように、けたたましい警報が鳴り響いた。
『――マスター! 侵入者です!』
ノアのホログラムが、むっとした表情で現れた。
『南西ゲート前! またしても王国の軍勢です! 今度は前回の比ではありません……白銀の甲冑を着た騎士団が百名以上、さらに強力な聖神気を持つ指揮官が一名接近しております!』
リアムは湯呑みを置き、小さく息を吐いた。
「……また来たのか。本当に懲りない人たちだなあ」
シロの狼耳がピクンと立ち上がり、碧い瞳にスッと冷徹な光が宿った。
「ご主人様……シロが、あいつらを噛み殺してきましょうか? 凍らせて粉々に砕けば、お庭の肥料になります」
「物騒なこと言わないの。せっかくの朝ご飯の後なんだから、まずは話し合い……というか、いつも通り規約を説明して帰ってもらおう」
リアムは立ち上がり、作業用エプロンを整えると、愛用のサンダルを突っかけて境界線のゲートへと向かった。
アビス・クレイドルの敷地外縁――南西ゲートの前には、白銀の軍団が整然と陣を敷いていた。
神聖アクス王国が誇る最強の軍事組織、白銀騎士団である。
だが、馬上に座る第二王女エリシア・フォン・アクスは、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
「……な、何なのだ、これは……」
彼女が記憶していた大荒野『黄昏の爪痕』は、足を踏み入れることすら躊躇われる死の土地だったはずだ。
しかし、目の前にあるのは――どこまでも続く瑞々しい緑の芝生。
風に揺れる美しい桜の並木。
そして、漂ってくるのは有毒な瘴気などではなく……信じられないほど甘く香ばしい、米と味噌の、人を狂わせるほど暴力的なまでに美味そうな匂いだった。
(な、何という芳香……! 昨晩から乾パンと干し肉しか口にしておらぬ胃袋に、直接訴えかけてくるようなこの匂いは一体……!?)
エリシアが思わず喉を鳴らしたその時、横からカイルが苛立たしげに進み出た。
「殿下! 惑わされてはなりません! これはきっと、兄貴の仕掛けた精神攻撃の幻術です! 汚らわしい農民の術など、僕の剣で打ち破ってみせます!」
カイルは愛剣を引き抜き、ゲートの前に突き刺さっていた木製の立て看板を指差した。
『私有地につき立ち入り禁止。猛犬注意。不法侵入者は規約に基づき、全自動で荒野へ射出されます』
「はっ! 猛犬注意だと!? フェンリルなどと大ボラを吹きおって! 兄貴の頭は追放されて完全に狂ったようですね! おい、貴様ら、こんな看板叩き壊して門を破れ!」
「お待ちください、カイル殿!」
エリシアが制止の声をあげようとしたが、功名心に逸るカイルは聞く耳を持たなかった。自ら馬を飛び降り、十数名の私兵を引き連れて、堂々と境界線のラインを土足で踏み越えた。
「おいリアム! 隠れてないで出てこい! ハミルトン家の正統なる後継者、このカイル様が成敗して――」
その瞬間、大気がピシリと凍りついた。
『――警告。敷地利用規約・違反者を検知』
どこからともなく、冷ややかなノアのアナウンスが響き渡る。
『侵入者カテゴリー【愚鈍な親族】および【取り巻き】計十二名。防犯アトラクション第2号――【全自動超粘着スライム・トルネード】へとご案内します』
「な、何だ――!?」
カイルが叫んだ瞬間、彼らの足元の地面が突如としてトランポリンのようにボヨンと跳ね上がった。
「「「うわあああああああっ!?」」」
重力が反転したかのように、宙へと高く放り出されるカイルたち。
さらに、上空から巨大なダクトが出現し、凄まじい勢いの竜巻が吹き荒れた。
吹き荒れる風に揉まれ、錐揉み回転するカイルたちの頭上から、ドバババババッ! とピンク色の粘度の高い液体――ダンジョン特製の超粘着アビス・スライムが滝のように降り注いだ。
「ぶべっ!? な、なんだこれ、ネバネバして……取れない!? 剣が抜けないぃぃぃっ!?」
カイルの自慢の金髪も、仕立ての良い鎧も、全身余すところなくピンク色のネバネバで固められていく。スライムは物理攻撃を完全に無効化し、動けば動くほど絡みつく性質を持っていた。
「く、くそっ! 【剛剣士】奥義――『裂空――ぶぎゃっ!?』」
技を叫ぼうとしたカイルの口に、容赦なくスライムの塊が飛び込んだ。
そして、巨大な送風機によってピンボールのように空中で弄ばれた後、十二名は綺麗に一束にまとめられ、ゲートの脇に設置された巨大な鳥黐マットの上にベチャリと叩き落とされた。
全身ピンクの粘液まみれで、ミノムシのように身動きが取れなくなったカイルが、白目を剥いて泡を吹いている。
「……カ、カイル殿……!?」
馬上のエリシアと白銀騎士団の面々は、開いた口が塞がらなかった。
上位戦闘職の剛剣士が、剣を一振りをすることすら許されず、わずか十秒足らずで無力化されたのだ。
「……だから、看板に書いておいたんですけどね」
ため息混じりの声とともに、桜の木陰から一人の青年が歩み出てきた。
無造作な黒髪に、琥珀色の瞳。麻の作業着にサンダル履きという、およそ戦場に似つかわしくない格好の少年――リアム・ハミルトンであった。
「な……貴様が、リアム・ハミルトンか!?」
エリシアは即座に馬から飛び降り、腰の白銀の剣の柄に手をかけた。白銀騎士団が一斉に槍を構え、張り詰めた殺気が荒野を包み込む。
だが、リアムの後ろからトテトテと歩み出てきた存在を見た瞬間、エリシアの背筋に本能的な戦慄が走った。
銀色の髪に、碧い瞳の少女。
頭部から生えた狼耳を苛立たしげに伏せ、エリシアたちに向けて、絶対零度の冷気を宿した視線を投げかけている。
(な……何だ、あの少女は……!? 少女の姿をしているが……内包している神聖魔力と破壊のプレッシャーが、桁違いすぎる……! まさか、本当に……神話級のフェンリル……!?)
エリシアの額から、ツーと冷や汗が流れ落ちた。
百名の精鋭騎士団など、あの銀狼が一息ブレスを吐くだけで、瞬時に氷像へと変えられて全滅する――聖騎士としての直感が、そう警告していた。
「あの、白銀の騎士様」
リアムが困ったように眉を下げながら口を開いた。
「看板、見えませんでしたか? ここは私の私有地なんです。武器を持って乱入されると、防犯システムが自動で作動しちゃうんですよ。そこのピンク色になってる人たちみたいに」
「き、貴様……!」
エリシアは必死に動揺を抑え込み、騎士としての威厳を保とうと声を張り上げた。
「私は神聖アクス王国第二王女、エリシア・フォン・アクスである! リアム・ハミルトン、貴様がこのアビス・クレイドルを不法に占拠し、国家の使者を害したとの報を受け、検分に参った! 直ちにその危険な魔獣を控えさせ、門を開けよ!」
正義感に満ちたエリシアの宣告。
だが、リアムはまったく動じる様子もなく、懐から一枚の羊皮紙を取り出してヒラヒラと見せた。
「不法占拠じゃありませんよ。始祖王の盟約魔法が刻まれた、正規の永久領有登記書です。私は金貨五十枚をギルドに支払い、このダンジョンと周辺領域を合法的に買い取りました。王家であっても、私の同意なく敷地内に立ち入る権限はありません」
「ぐっ……! そ、それはそうだが……しかし、国家が未曾有のマナ危機に瀕しているのだ! 貴様ほどの力があるならば、その力を国家のために役立てようとは思わんのか! 私利私欲のために最凶の迷宮を私物化するなど、貴族の端くれとして恥ずかしくないのか!」
エリシアの痛烈な批判。
しかし、リアムはフッと自嘲気味に笑った。
「貴族の端くれ、ですか。私は数日前、その貴族社会から『戦闘職じゃない無能』『草むしりしか能のない出来損ない』と罵られ、実家を追い出された身ですよ。そこに転がってるカイルや、父上からね」
「な……」
「都合のいい時だけ『貴族の義務』を押し付けられても困ります。俺はただ、金貨五十枚で買ったこの家で、拾った家族たちとのんびり暮らしたいだけなんです。――お引き取りください。これ以上無理に侵入されるなら、あなた方も規約違反として、荒野へ射出せざるを得ません」
リアムの言葉には、憎しみも怒りもなかった。
ただ、どこまでも冷徹で、揺るぎない「拒絶」の境界線が引かれていた。
エリシアは言葉に詰まった。
彼女は知らなかったのだ。リアムがどのような理不尽によって追放されたのかを。
そして何より、リアムの背後に広がるあまりにも美しく、清浄な桃源郷を見れば、彼がこの地を「悪用」しようとしていないことなど一目瞭然だった。
張り詰めた沈黙が流れる。
白銀騎士団の誰もが、リアムの放つ不可侵のオーラと、シロの放つ絶対零度の重圧の前に、一歩も動くことができない。
その時だった。
――ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ。
静寂に包まれた荒野に、信じられないほど盛大で、情けない音が鳴り響いた。
エリシアの腹の虫が、限界を告げて大合唱を奏でたのだ。
「………………っっっ!?」
エリシアの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
両手で必死に腹を押さえるが、一度鳴り始めた腹の虫は止まらない。連日連夜の強行軍、不味い保存食の連続、そして目の前に漂う暴力的なまでに美味そうな炊きたてご飯と味噌汁の匂い――張り詰めていたエリシアの緊張感が、食欲という生理現象の前に無惨にも崩壊した瞬間だった。
騎士団の部下たちが、見てはならないものを見たという顔で一斉に視線を逸らす。
「あ、いや……これは……その……断じて、そのような意図では……っ!」
羞恥のあまり涙目になり、剣を取り落としそうになる王国最強の聖騎士。
そんな彼女を見て、リアムはポカンと目を丸くした後――ふっと表情を緩めた。
「……お腹、空いてるんですね」
「ち、違う! 違わぬが……いや、武士は食わねど何とやらだ! 私は王家の誇りにかけて――」
「朝ご飯、まだ残ってますよ。新米で握ったおにぎりと、温かい豚汁。……食べます?」
悪魔の囁きだった。
エリシアの喉が、ゴクリと激しく鳴った。
「お、おにぎり……? 豚汁……? いや、しかし私は敵地へ乗り込んできた身……毒が入っておるやもしれんし……」
「毒なんて入れませんよ。敷地内で死なれると片付けが大変ですから。ほらシロ、お盆持ってきて」
「わふっ」
シロが木製の盆を器用に咥えて持ってきた。
そこには、竹の皮に包まれた、まだ湯気を立てている巨大な三角おにぎりと、お椀に入った具沢山の豚汁が載っていた。
艶やかに輝く白真珠のような米粒、香ばしい海苔、そして食欲を狂わせる味噌の香り。
エリシアの理性の糸が、ブツンと音を立てて千切れた。
「……毒味だ。王族として、民が食すものに害がないか、確かめねばならぬからな……!」
誰に対する言い訳かも分からない言葉を呟きながら、エリシアはおずおずとゲートの敷居を跨ぎ、お盆を受け取った。
騎士たちが「殿下ーっ!?」と悲鳴をあげたが、エリシアの耳には届いていなかった。
彼女は震える手でおにぎりを持ち、大口を開けてガブリとかじりついた。
その瞬間――エリシア・フォン・アクスの世界が、白銀の閃光に包まれた。
「――――――――――っっっ!?」
言葉が出なかった。
歯が米粒に触れた瞬間、パツンと弾けるような弾力。
そして噛み締めるごとに、泉のように溢れ出してくる圧倒的な甘みと旨味。
「な……何なの、このお米……!? 柔らかいのに、一粒一粒が信じられないほど立っていて……噛めば噛むほど、甘い蜜のような旨味が広がる……! それに、この具は……ドラゴンの燻製肉!? 濃厚な肉の塩気と脂が、米の甘みと混ざり合って……っ!」
涙が、エリシアの紫水晶の瞳からポロポロとこぼれ落ちた。
彼女は王族として、世界中の最高級料理を口にしてきたはずだった。宮廷料理人が腕を振るった山海の珍味も、高価な魔獣のフルコースも。
だが、そのどれもが、この青年が素朴に握った一個の「おにぎり」の足元にも及ばない。
「温かい……。冷え切った体に、温かい力が染み渡っていく……」
夢中で豚汁をすする。
シャキシャキとした根菜の歯ごたえ、トロトロに煮込まれた豚肉、そして胃袋を優しく包み込む味噌の滋味。
飲み干した瞬間、エリシアの全身を巡っていた聖神気が、かつてないほど清らかに、力強く活性化した。連日の疲労も、荒野の毒素も、すべてが綺麗さっぱり洗い流されていく。
「ふはぁぁぁぁ……っ……美味しかったぁ……」
お椀を空にしたエリシアは、縁側の柱にぺたんと座り込み、完全に魂の抜けたような恍惚の表情を浮かべていた。
そこには、王国最強の騎士姫の威厳など欠片もなかった。ただの、美味い飯を食って幸せの絶頂にいる一人の少女であった。
「お粗末様でした。お口に合ってよかったです」
リアムがお茶を差し出すと、エリシアは両手で湯呑みを受け取り、ふうふうと息を吹きかけながらすすった。
「……リアム殿」
エリシアは真っ赤な顔を伏せながら、消え入るような声で言った。
「……私が、浅はかであった。貴殿を無能と侮り、武力でこの地を奪おうとした我が国の行いは、恥ずべき暴挙であったと認めざるを得ぬ」
「分かっていただければいいんですよ」
「……この地は、貴殿の手によって完全に浄化され、守られている。王国のどの直轄ダンジョンよりも、遥かに豊かで、平穏だ。……先ほどの無礼を、どうか許してほしい」
エリシアは深々と頭を下げた。
王族が、平民に落ちた追放者に対して頭を下げるなど、前代未聞の事態である。
だが、リアムは気にした様子もなく、あっけらかんと笑った。
「頭を上げてください。話が通じる人で良かったです。……あ、そうだ。せっかく遠くまで来ていただいたんですから、お風呂でも入っていきませんか? ちょうど地下から引いた天然温泉が沸いてるんです。旅の泥を落としていくといいですよ」
「お、お風呂……!? おんせん……!?」
エリシアの目が再び輝いた。
温泉――それは神話の時代に存在したとされる、万病を癒やす幻の神聖秘湯。
「は、入る! ぜひ入らせていただきたい……!」
食の次は、風呂の罠であった。
リアムの差し向ける「快適スローライフの暴力」に、王国最強の聖騎士は、もはや指一本動かすことなく完全に屈服しつつあった。
一時間後。
ハミルトン・ヴィラの地下二十層に作られた【大露天岩風呂】から、エリシアの蕩けきった吐息が漏れていた。
「あひゃあぁぁぁ……っ……極楽……ここは、極楽浄土か……」
乳白色の硫黄泉に首まで浸かり、頭の上に手ぬぐいを乗せたエリシアは、完全に腑抜けた顔で天井を仰いでいた。
ダンジョンの殺菌鉱石で濾過されたメタケイ酸泉は、傷ついた肌をつるつるに磨き上げ、筋肉の疲労を芯から溶かしていく。さらに、湯気に含まれる高濃度のマナが、彼女の【聖騎士】としての魔力回路を極限まで修復・増幅していた。
「ふふ、気持ちいいでしょう? 私も毎日入っているんですよ」
隣で髪を洗い終えたアルルが、優しく微笑みかける。
湯船の縁では、小さな狼姿のシロが前足だけをお湯につけて「ぱしゃ、ぱしゃ」と遊んでいた。
「アルル殿……私はもう、王都に帰りたくないかもしれん……。一生ここで、お風呂に入ってご飯を食べて暮らしたい……」
「あらあら、殿下ったら」
すっかり毒気を抜かれ、身も心も骨抜きにされたエリシア。
風呂から上がると、リアムからキンキンに冷えた【極楽炭酸ソーダ水】を手渡された。
シュワリと弾ける炭酸の刺激と、天寿蜜柑の甘酸っぱさが喉を駆け抜ける。
「んんっっっ!? な、何だこの美味さは……!? 炭酸水に、こんな果汁を合わせるなどという贅沢が許されるのか……!?」
腰に手を当て、一気に飲み干したエリシアは、「ぷはぁっ!」と豪快な息を吐いた。
白銀の甲冑を脱ぎ、リアムが貸し出した麻の浴衣を着崩した彼女の姿は、もはや完全にただの湯治客であった。
そこへ、庭の鳥黐マットからようやく引き剥がされたカイルが、全身ピンクのネバネバまみれ、異臭を放ちながら這いずってきた。
「で、殿下ぁ……! な、何をしているのですか殿下! そいつは我がハミルトン家の恥さらし、無能のリアムですよ! そいつを捕縛して、ダンジョンを接収するのが我々の任務――」
ギロリ。
エリシアの紫水晶の瞳から、氷点下の殺気が放たれた。
カイルの言葉が、喉元で凍りつく。
「……黙れ、下劣漢が」
エリシアは冷徹な声で吐き捨てた。
「自らの兄が授かりし至高の才を見抜けず、無能と罵って追放し……その兄が築き上げた楽園に土足で踏み込み、強奪を企むなど……騎士道精神の風上にも置けぬ恥知らずめが」
「なっ……!? で、殿下!?」
「貴公のその醜悪な振る舞い、王宮に戻り次第、陛下と騎士団本部に具申する。ハミルトン家の爵位剥奪も含めてな。……リアム殿、見苦しい身内をお見せして申し訳なかった」
エリシアはリアムに向き直り、居住まいを正して一礼した。
「リアム殿の所有権は、神聖アクス王国の不可侵特例法に基づき、完全なる正当性を有している。私エリシア・フォン・アクスが名誉にかけて、王国による不当な干渉は断じて許さぬと約束しよう」
「ありがとうございます、エリシア様。そう言っていただけると助かります」
リアムは穏やかに微笑んだ。
「……その、リアム殿」
エリシアは急にもじもじと指を絡ませ、頬を赤らめながら上目遣いにリアムを見上げた。
「……もし、私が公務の合間に……その、非番の日に、一人の客として……その……お風呂と、あのおにぎりを食べに来たとしたら……迷惑、であろうか……?」
「ふふ、もちろん歓迎しますよ。『敷地利用規約』を守って、武器を置いたお客様としてなら、いつでも大歓迎です」
「ほ、本当か……!? よし、ならば来週また来る! 必ず来るぞ!」
エリシアは満面の笑みを浮かべ、まるで祭りの約束を取り付けた少女のように飛び跳ねた。
カイルは信じられないものを見る目でエリシアを見つめ、泡を吹いてその場に卒倒した。白銀騎士団の面々も、すっかり毒気を抜かれ、「自分たちもいつかあの温泉に入りたい……」と羨望の眼差しでリアム邸を見つめていた。
カイルたちを引きずり、名残惜しそうに何度も手を振りながら帰路につくエリシアたちを見送った後。
境界線のゲートが、カシャンと静かに閉まった。
「ふう……やっと静かになったな」
リアムが縁側に戻ると、シロがトテトテと駆け寄ってきて、リアムの太ももにピタリと体を預けてきた。
「ご主人様、あの金髪の女の人、シロのご飯をいっぱい食べてました……。ずるいです」
「あはは、シロの分はまだまだいっぱいあるから大丈夫だよ。ほら、お昼寝の続きをしよう」
リアムが芝生の上に寝転がると、シロが嬉しそうに胸の上に乗っかり、ポトフが足元にモコモコと寄り添い、ピィが頭の上で丸くなった。
アルルが淹れてくれた温かいお茶の香りと、爽やかな春風。
外の世界がどれほど混乱し、王国の権力者たちがどんな策謀を巡らせようとも、この『私有地』の境界線の内側は、誰にも侵すことのできない絶対の聖域だった。
「やっぱり……我が家が世界で一番だな」
リアムは目を閉じ、愛するモフモフたちの温もりに包まれながら、深い安らぎの微睡みの中へと落ちていくのだった。




