雪灯りの書庫番 〜歴史に敗れた将軍の、百年目の弁護人〜
◆一 左遷
ブレノヴァの冬は、墨を流したように暗い。
王立書庫の高い窓の外では、朝から雪が降り続いていた。リーゼルは机に頬杖をつき、その白い帳をうんざりと眺めていた。石造りの書庫は牢のように冷え、指先はいつもかじかんでいる。ここへ流されて、もう三月になる。埃を払い、虫の食った背表紙を並べ替え、来もしない閲覧者を待つだけの日々だった。
三月前まで、リーゼルは中央財務局の若手文官だった。数字を読むことにかけては局でも指折りと言われていた。それなのに、上司の帳簿の誤りをなぜか自分がかぶることになり、この北の果てへ左遷された。正しく計算した者が罰せられ、間違えた当人は何食わぬ顔で中央に残っている。その理不尽が、いまも喉の奥に棘のように刺さっていた。
正しさは報われない。この三月で学んだのは、それだけだった。
あの日のことは、いまでも夢に見る。監査の席で、リーゼルは自分の検算を示した。数字は明白だった。誤ったのは上司で、正したのは自分だ。なのに翌朝、机に置かれていたのは北方勤務の辞令だった。上司は目も合わせず、局長は「若いうちの地方勤めも勉強だ」とだけ言った。庁舎を出るとき、同期の誰ひとり、見送りに立たなかった。正しい数字を示した者が消え、間違えた者が椅子に残る。あれが中央というものだった。
「おい、また来たぞ。名物婆さんだ」
年かさの同僚が、窓の外を顎で示して笑った。降りしきる雪の中を、黒い外套の小柄な老婦人が杖をつきながら歩いてくる。
「マルガレーテ様とおっしゃるがね。三十年だよ、三十年。来る日も来る日も同じ本を読みに来る。曾祖父さんの名誉がどうとかでな。もう誰も相手にしちゃいない。あんたも深入りするなよ。左遷の上に変人の相手までしょい込むことはない」
老婦人はいつもの隅の席に着くと、書架の奥から分厚い一冊を両手で抱えて運んできた。国定史書。この国の正史を記した革表紙の重い書物だ。彼女はそのある一頁を開き、皺だらけの指で一行の文字をそっとなぞった。撫でて消そうとするかのように。
リーゼルはなんとなく、その頁を覗き込んだ。
——アステリア歴九〇三年冬、グレゴール将軍、北砦ヲ放棄シ敗走ス。
「グレゴール将軍。……雪逃げの、って呼ばれている方ですよね」
皺に埋もれた目が、ゆっくりと持ち上がった。老いてなお消えない、強い光があった。
「雪逃げのグレゴール。みな、そう呼びます。休戦の年の冬、魔族を前にして砦を捨てて逃げた、この国でいちばん有名な臆病者。子どもらが雪合戦で負けて逃げる子を、そう囃すほどに。——それが、わたくしの曾祖父です」
リーゼルは返す言葉に困った。同情も慰めも、三十年通い続けた人の前では軽々しく響くだろう。
「あの人は、逃げてなどおりません」老婦人は静かに言った。三十年繰り返してきたのだろう、祈りに似たひとりごとだった。「曾祖父は、わたくしが幼い頃、膝の上でよく申しました。将のいちばんの仕事は勝つことではない、誰も死なせぬことだ、と。あんな言葉を残した人が、我が身惜しさに逃げるものですか」
夕刻、帰ろうとした老婦人が、書庫の石段で足を滑らせた。
リーゼルはとっさに駆け寄って支えた。羽根のように軽い体だった。老婦人は咳き込み、しばらく止まらなかった。外套の襟の奥で、喉が笛のような音を立てていた。
「……お医者は、なんと」
「雪の日に出歩くなと」マルガレーテは咳の合間に、いたずらが見つかった娘のように笑った。「この歳の冬はひとつずつが賭けですもの。惜しんではいられません。わたくしがこの目を閉じる前に、ひとつでいい、あの人が逃げたのではないという証を。……間に合わせたいのですよ」
杖の音が雪の中へ遠ざかっていくのを、リーゼルは扉口で見送った。三十年という歳月と、残された冬の数とが、あの丸い背中で釣り合っていなかった。
その午後、リーゼルは書庫の奥の未整理区画で、埃をかぶった木箱の山を見つけた。九〇三年前後の北方軍の書類が、整理する者もないまま百年、放り込まれていた。左遷者の暇つぶしにはちょうどよかった。
気まぐれに、一冊の帳面を手に取った。北砦の兵站簿。軍が食料をどこへどれだけ払い出したかを記した、地味きわまる帳簿だ。数字を追うことだけが、錆びついた自分に残った、たったひとつの得意だった。財務官の目が、ひとりでに数字の列を追いはじめる。
やがて、リーゼルの指がぴたりと止まった。
「……この帳簿、変だわ」
◆二 帳簿は嘘をつかない
帳簿は嘘をつかない。人は嘘をつくが、数字はつかない。それがリーゼルの、たったひとつ揺るがぬ信条だった。
敗走した軍の帳簿というものは、めちゃくちゃになっている。逃げる兵は食料を置き去りにするか奪い合うかで、数字は乱れ、記録は途中でぷつりと切れる。中央で嫌というほど見てきた、負けた軍の帳簿の姿だ。
ところが、この帳簿は違った。最後の一日まで払い出しが整然と記録され、数字が合っている。混乱の痕跡がどこにもない。これは敗走ではない。あらかじめ決めた手順どおりに物資を配り終えた、明確な意志のある撤収の記録だ。
そしてもうひとつ。払い出し先の欄に、リーゼルは蝋燭を近づけた。
兵站簿の払い出し先は、ふつう部隊の名だ。ところがこの帳簿の末尾の数日、宛先は部隊ではなかった。
——北嶺村ヘ麦二十俵。氷ヶ谷村ヘ塩十樽。峠下ノ三戸ヘ干し肉、有ルダケ。
村の名だった。砦のまわりに散らばる貧しい村々。将軍は退く前の数日、砦の兵糧のほとんどを、兵にではなく村人に配っていた。それも、有るだけ、と。
「なぜ……逃げる軍が、村に食料を配るの」
三月ぶりに、胸に熱いものが灯った。数字の向こうに、隠された真実がある。かじかんでいた指先に、いつのまにか血が通っていた。
翌日、リーゼルは同じ木箱から北方軍の陣中名簿を掘り出した。
敗走には、必ず代償がある。追撃を受けた軍の名簿には、戦死、戦死、行方知れず、と黒い文字が並ぶものだ。震える指で、九〇三年冬の頁を繰った。北砦守備隊、総勢四百十二名。撤収時の点呼、四百十二名。
——一人も、死んでいない。
リーゼルは名簿を抱えたまま、しばらく動けなかった。魔族の大軍を目の前にして砦を捨て、雪の中を敗走した軍が、ただの一人も欠けていない。そんな敗走が、この世にあるだろうか。追撃が、なかったのだ。敵は、追わなかった。まるで最初から、追わないと決めていたかのように。
帳簿は嘘をつかない。だとしたら、嘘をついているのは——史書のほうだ。
夜更けまで木箱にかじりつくようになったリーゼルの机に、ある晩、音もなく灯りが置かれた。
老書庫番のオズヴァルトだった。この書庫の主のような老人で、無口なことしか知らない。彼は油を足した灯りをリーゼルの手元へ押しやり、机に広がった百年前の帳簿の山を、しばらく眺めた。
「……仕事のあとの、道楽です」リーゼルはなぜか言い訳をした。「百年前の帳簿なんて、誰の得にもならないのに」
「書庫番はな、歴史の敗者の弁護人だ」
老人はそれだけ言って、暗がりへ戻っていった。意味を訊く間もなかった。ただ、その晩から、リーゼルの机の灯りが油切れで消えることは、一度もなくなった。
その日から、リーゼルは木箱を片端から開けた。夜も更けるまで埃にまみれて探し、いちばん底から、油紙に包まれた一通の書簡が出てきた。
だが、読めなかった。角ばった見たこともない文字が、隙間なく並んでいる。背筋が冷えた。魔族語だ。ティーボの、かつての敵の言葉。それがなぜ、味方の砦の書類箱に、大事そうな油紙に包まれて眠っているのか。
「よせよせ」覗き込んだ同僚が、露骨に顔をしかめた。「魔族語の文書なんぞに関わるな。休戦てのは紙の上の話だ、いまだって北じゃ小競り合いが絶えん。妙な文を訳して回ってると知れたら、密告されるぞ。ただでさえあんたは中央に睨まれてる身だろうが」
「でも、これを読まないと、あの帳簿の意味が」
「帳簿?」同僚は肩をすくめた。「百年前の帳簿が今さら何になる。婆さんの繰り言に付き合って、身まで滅ぼす気か」
リーゼルは書簡を胸に抱えたまま、答えなかった。身に染みて知っている。正しさは報われない。それでも、数字が嘘をついていないことだけは、確かなのだ。
書庫の司書に、魔族語を読める者はいなかった。王都の学士院に問い合わせれば、と司書は言ったが、往復の文だけでひと月かかる。マルガレーテの咳を思うと、ひと月は永すぎた。
途方に暮れて、リーゼルは街道沿いの渡り鳥亭に入った。翼を広げた渡り鳥の看板を掲げた、旅人相手の宿と食堂だ。凍えた体に温い麦湯が染みた。厨房からは煮込みの湯気、卓のあちこちからは、雪の峠の様子だの、南の相場だの、旅の話が立ちのぼっている。国境の街の食堂は、書庫よりよほど広い世間とつながっていた。
その世間が、答えをくれた。
「——古文書? そりゃあんた、運河のそばの爺さんだよ」隣の卓の旅商人が、麦湯の椀ごしに言った。「アイデンから来た獣人の翻訳屋でね。南方の商い文書から古代語のかけらまで、たいてい読み解いちまう。腕は確かだ。ただし、偏屈だよ」
その足で、リーゼルは翻訳屋を訪ねた。
戸を開けたのは、白い体毛に覆われた老いた獣人だった。丸い眼鏡の奥の目が、リーゼルの差し出した書簡を見た途端、すっと細くなった。
「……魔族語だね。お断りだ」
「読めるんですね」
「読めるとも。わたしらアイデンの言葉は、魔族の言葉と遠い親戚でね。だからこそ、お断りだよ」老獣人は静かに戸を閉めかけた。「世間はただでさえ、わたしらを魔族の末裔だと言いたがる。とんだ濡れ衣だがね。その上、魔族語の文書を訳したなどと知れてみなさい。この街で四十年かけて建てた信用が、ひと冬で雪の下だ。あんた一人の好奇心のために、負える荷ではないよ」
閉まりかける戸の隙間に、リーゼルはとっさに言葉を差し込んだ。
「好奇心じゃありません。……三十年、雪の日も書庫に通い続けたお婆さまがいるんです。曾祖父さまの汚名を雪ぐ証を探して、三十年。その方の冬が、もういくつも残っていない。この書簡は、その最後の望みなんです」
戸が、止まった。
「わたしは中央を追われた文官です。信用ならもう失くしました。だから約束できます。この文があなたの手を通ったことは、誰にも言いません。墓まで持っていきます。——お願いします。百年前の帳簿が、嘘をついていないことを確かめたいんです」
長い沈黙のあと、老獣人は深いため息をつき、戸を開いた。
「……帳簿、ときたか。妙な口説き文句だ」
蝋燭の明かりの下で、老いた指が角ばった文字を一行ずつ滑っていった。しんとした部屋に、雪の落ちる気配だけがあった。
そして、ある一行のところで、その指がぴたりと止まった。
老獣人はしばらく黙っていた。やがて静かに顔を上げた。声がひとつ低くなっていた。
「……あんた。これを、誰から預かった」
◆三 同じ夜に退く
その書簡は、私信だった。
差出人はゾルガ。九〇三年の冬、北砦でグレゴール将軍と対峙した魔族の将。宛先はグレゴール将軍その人。老獣人が一行ずつ声に出して訳すのを、リーゼルは息を詰めて聞いた。
書簡はこう語っていた。
あの冬、両軍は北砦を挟んでにらみ合っていた。そこへ、南で休戦が成ったという報せが届く——はずだった。だが報せは深い雪に阻まれ、この北の果てにだけ遅れに遅れた。中央ではもう戦が終わっていたのに、北の地では、終わりを知らされぬ二つの軍が、誰も知らぬ戦を雪の中で続けていた。
両軍とも兵糧は尽きかけていた。このまま対陣が続けば、飢えるのは兵だけではない。両軍の背後には、それぞれの村があった。冬の雪に閉ざされた貧しい村々が。戦を続ければ真っ先に死ぬのは、戦う力もない年寄りと子どもだった。将たちには、それが見えていた。
そこで二人の将は、雪の夜、ひそかに使者を交わした。戦の最中に敵と文を通わせる。あってはならぬことだった。そして、ひとつの密約を結んだ。
——戦わずに、同じ夜に退く。
どちらも勝ち名乗りを上げない。どちらも追撃をしない。同じ夜に双方の軍が静かに砦を捨て、互いに背を向けて雪の中へ消える。戦って何百の兵を死なせるより、汚名を着て退くほうを、二人はためらわず選んだ。
だが、そうすれば汚名が残る。とりわけ人類側のグレゴールは、砦放棄の責を一身に負う。休戦をまだ知らぬ本国からは敵前逃亡とそしられ、家名は末代まで汚れる。
グレゴールは、承知の上で退いた。
いや、ただ退いたのではない。退く前の数日をかけて、砦の兵糧を村々へ配って回った。自分たちが飢えるかもしれない食料を、惜しみなく。そして整然とした撤収を、あえてぶざまな敵前逃亡の姿にすり替えた。整えて退けば軍略と呼ばれ、密約を疑われ、部下にも累が及ぶ。だから、我先に逃げたように見せかけたのだ。
将は雪の中を逃げたのではない。民を、雪の中から逃がしたのだった。
老獣人の声が、結びの一行にたどり着いた。
「——貴殿の退き際こそ、我が生涯最良の敵であった」
リーゼルの頬を、涙が伝っていた。敵将はグレゴールの選択を誰よりも深く理解していた。おそらく自らも、背後の村を守るために同じ汚名を故郷へ持ち帰ったのだろう。味方にすら読めぬ魔族語のこの手紙は、宛先の将ただ一人へ届けられた、たった一人の理解者からの弔いだった。
「これは書庫に返してやりなさい」老獣人は書簡を油紙に包み直した。「百年、読む者を待っていた手紙だ。ようやく巡り会えた」
翌日、書庫の隅の席で、リーゼルはマルガレーテに訳文を読んで聞かせた。
兵站簿の村の名。欠けたところのない名簿。同じ夜に退いた二つの軍。老婦人は身じろぎもせず聞いていた。皺だらけの両手が、膝の上で祈りの形に組まれていた。そして結びの一行——貴殿の退き際こそ、我が生涯最良の敵であった——のところで、組んだ手が小さく震えた。
「……もう一度」掠れた声だった。「そこを、もう一度、読んでくださいまし」
リーゼルは読んだ。二度、三度。マルガレーテは目を閉じ、一語ずつ、噛みしめるように聞いた。敵将ただ一人だけが、百年間、彼女の曾祖父の味方だったのだ。
「三十年」老婦人は目を閉じたまま言った。「三十年、雪の日にここへ通いますとね、時々、曾祖父が気の毒がっているような気がしたものです。もうよせ、風邪をひく、と。……でも、来てよかった。生きて、この文に会えた」
「マルガレーテ様。わたし、訂正を申請します」リーゼルは身を乗り出した。「証拠は揃っています。帳簿と名簿と、この書簡。これだけあれば、史書の一行を書き換えられます。今度こそ——今度こそ、正しさは通ります」
言い切ったとき、老婦人の目がふっと曇ったことに、リーゼルは気づかなかった。三十年の壁を、まだ一度も殴ったことのない者の言葉だった。
十日後、リーゼルは審問の間に立っていた。
史書の訂正申請。受理されただけでも異例だと、書庫の同僚たちはざわついた。細長い石の間の上座に、中央から来た監督官が座った。羊皮紙のように乾いた顔の男だった。左右に立会の書記が二人。傍聴の席に、リーゼルはマルガレーテを座らせなかった。呼ばなかったのだ。万一のときに、あの人の前で恥をかくのが怖かったのではない。あの人に、却下の瞬間を見せたくなかった。
リーゼルは兵站簿の写しを広げ、払い出しの宛先を示した。次に陣中名簿を開き、欠けた者のない四百十二の名を示した。追撃なき敗走はあり得ないこと。整いすぎた撤収の帳簿。最後に、書簡の訳文を読み上げた。声は途中から震えなくなった。数字と文面が、彼女の代わりに語ってくれた。将は逃げたのではない。この一行の汚名は、事実に反する——。
監督官は、最後まで書類に手を触れなかった。
「終わりかね」乾いた声だった。「中央財務局にいた娘だな。帳簿の件で北へ回された。……なるほど、役人というものは、失った場所を数字で取り返したがるものだ」
「わたしの話では、ありません」
「同じことだよ」監督官は初めて、書類の束を指の先で二寸ほど押し返した。「百年前に定められた国定史書は動かない。一度正史と刻まれた記述は、いかなる証拠でも書き換えぬ。それがこの国の掟だ。私信一通と帳簿一冊で正史が動くという前例を作れば、次は誰もが先祖の汚名を消しに来る。歴史は時の声の大きい者のものになる。——ご苦労だったが、諦めなさい。功を焦る左遷者の相手は、これで終いだ」
石の間に、書類を束ね直す音だけが響いた。
外は雪だった。
審問の間から書庫までの短い道を、リーゼルは長い時間をかけて歩いた。腕の中の書類が、来たときの倍も重かった。数字は正しかった。証拠は揃っていた。それでも負けた。壁は、正しさでは崩れない。この国で三十年闘い続けるということが、どういうことなのか——初めて、その重さの端に触れた気がした。あの小さな老婦人は、この重さを三十回の冬のあいだ、たったひとりで抱え続けてきたのだ。
その夕、リーゼルは書庫の隅の席で、マルガレーテと向かい合った。
言葉にする前から、老婦人にはすべて分かったようだった。リーゼルの顔を見て、皺の奥の目がすっと静かになった。
「……通らなかったのですね」
「証拠は、揃っていたんです。帳簿も、書簡も、何もかも。それでも」リーゼルの声が崩れた。「ごめんなさい。あと少しだったのに。真実はそこにあるのに、わたしには、認めさせる力が」
「いいのです」
マルガレーテは、テーブル越しにリーゼルの手を取った。氷のように冷たい、小さな手だった。
「いいのです。慣れております。三十年、ずっとこうでしたもの」
その言葉が、いちばん堪えた。慣れております。この人は三十年、この却下を、この壁を、この諦めの作法を、静かに積み上げてきたのだ。そして自分はたった二度目で、もう膝が折れかけている。正しさが報われないこの国で、リーゼルの信じてきた最後の何かが、音を立てて折れた。
うつむいたリーゼルの背後で。
こつり、と鍵束の鳴る音がした。
老書庫番のオズヴァルトが立っていた。灯りを置いていってくれた、あの無口な老人。彼は腰の鍵束をもう一度ゆっくり鳴らし、初めて聞くほどはっきりとした声で言った。
「若いの。書庫番の仕事を、教えてやる」
◆四 書庫番附記
オズヴァルトは、書庫のいちばん奥へ二人を連れて行った。
鍵束から選んだ古い鉄の鍵で、施錠された鉄格子を開ける。その奥に、国定史書の原本が収められていた。革の表紙は黒ずみ、角は擦り切れ、百年この国の正史を担ってきた重い書物だった。
「史書は動かん。それは監督官の言うとおりだ」オズヴァルトは静かに言った。「一度刻んだ正史を書き換えられるようにすれば、歴史は時の権力の都合のいいように歪む。勝った者が負けた者の記録を好きに書き替える。だから動かさぬ。それはそれで正しい掟なのだ」
彼は原本の頁を慣れた手つきで繰り、あの一行の頁で手を止めた。
「だがな。書庫番には、ただ一つ許された仕事がある。史書を書き換えることはできん。だが史書に、事実を書き添えることは、できる」
リーゼルは息をのんだ。
「書庫番附記という。正史の記述はそのままに、その頁の余白へ、後の世に見つかった事実を書き添える。史書は変えぬ。だが真実は消させぬ。勝者の歴史のかたわらに、敗者の言い分を小さく添えておく。それが書庫番が百年守ってきた、たったひとつの権限よ」
オズヴァルトはそこで一度、言葉を切った。蝋燭の光に、皺の刻まれた横顔が揺れた。
「わしはな、四十年、この日を待っておった。……わしも昔、一度だけ訂正を申請したことがある。若い書庫番だった頃だ。ある男の汚名を雪ぎたくてな。証拠も揃えた。だが通らなかった。お前とそっくり同じよ。以来わしはこの座に居座り続けた。中央からの誘いも断った。いつか附記を書ける日が来ると信じてな。——書庫番はな、歴史の敗者の弁護人だ。勝者ばかりが華々しく書き残す歴史に、負けて消えた者の言い分をそっと書き添えてやる。それが我らの、静かな務めだ」
老書庫番は羽根ペンを、リーゼルに差し出した。節くれだった手が、わずかに震えていた。
「お前が書け。見つけたのはお前だ。わしの四十年より、お前の三月のほうが、この将軍を救った」
リーゼルはペンを受け取り、それから振り返った。
「待ってください。……あとひとり、ここにいなくちゃいけない人を、呼んできます」
呼びに走ったのは、リーゼルではなかった。話を聞いていたあの同僚が、面倒くさそうに、けれど外套を掴むのは誰より早く、雪の中へ出て行った。深入りするなと言った男は、老婦人の家の戸を叩き、雪の道を杖に付き添って、ゆっくりゆっくり戻ってきた。
マルガレーテが見守る前で、リーゼルは兵站簿の写しと書簡の訳文を史書の頁に挟み、余白にペンを下ろした。指先は、もう寒さで震えてはいなかった。一文字ずつ、刻むように書いた。
——将ハ雪ノ中ヲ逃ゲタノデハナイ。民ヲ、雪ノ中カラ逃ガシタノデアル。
書き終えて、ペンを置いた。
マルガレーテは開かれた史書の前に立ち、まだ墨も乾かぬその一行を、一度、それからもう一度、目で追った。やがて皺だらけの手をそっと伸ばし、指の先で確かめるように、何度も何度もなぞった。乾いた頬を涙がいく筋も伝い落ちた。声はなかった。三十年分の、声にならない涙だった。
「……ありがとう」
やがて老婦人は、それだけを言った。
「これで、あの人に会いにいけます。逃げてなどいなかったと。曾祖父さま、あなたは誰も死なせなかった、立派な将軍でしたと。ようやく胸を張って言えます」
部屋の隅で、あの同僚が帽子を取って、うつむいていた。名物婆さん、と呼んだ日のことを、その背中が詫びていた。
数日後、書庫に珍しい客が来た。運河のそばの、あの老獣人だった。
リーゼルの文を受け取って、雪の道をわざわざ歩いてきたのだという。翻訳屋は史書の頁を開き、丸眼鏡の奥の目で、余白の一行と、挟み込まれた自分の訳文とを、長いこと眺めた。
「……ふむ。百年前の手紙が宛先に届いて、翻訳料は麦湯一杯か」老獣人は眼鏡を外し、体毛の白い頬のあたりを、ごしごしと拭った。「いい商売をした。ここ何十年で、いちばんだ」
書簡の原本は、油紙に包み直され、兵站簿と名簿とともに、史書のかたわらの小箱に納められた。オズヴァルトが「附記の証拠書類」として、書庫の目録に正式に登録した。もう誰も、木箱の底へは戻さない。
そしてマルガレーテは——附記の日から、ぱたりと書庫へ来なくなった。
十日ほどして、雪の晴れ間にひょっこり現れた老婦人は、いつもの史書には目もくれず、リーゼルの机の前でこう言った。
「何か、面白い本はないかしら。……考えてみたら、わたくし、この書庫で他の本を読んだことが、一度もないの」
三十年、たった一行のために通った場所で、彼女は初めて、一冊の本を借りた。南の海の旅行記だった。次の冬の話を、老婦人は当たり前のようにした。読み終わったら、続きも借りに来ますからね、と。
その冬の終わり、リーゼルのもとに中央復帰の内示が届いた。
財務局へ戻れという報せだった。三月前まで、あれほど恋しかったはずのものだった。書面の末尾には、あの乾いた顔の監督官の署名があった。功を焦る左遷者、と言った同じ手が、今度は有能な人材の呼び戻しに署名している。中央とは、そういう場所だった。
リーゼルは、それを辞退した。
書庫に残ることを選んだのだ。ここにはまだ、光の当たらない敗者たちの言い分が、木箱の底にいくつも眠っている。読む者を百年でも待ち続けている。中央で正しさが報われる日を待つより、報われなかった正しさに附記を書き添えるほうが、よほど自分の性に合っていた。喉の奥の棘は、いつのまにか抜けていた。
窓の外では、まだ雪が降っていた。
けれどその白い帳は、もううんざりするものではなかった。史書はこれからも、彼を雪逃げの将軍と呼び続けるだろう。マルガレーテがいなくなり、リーゼルもいなくなった、そのずっと先まで。だが、その余白に真実は書き添えられた。もう、消えない。
歴史に残らなかった選択が、いちばん多くの命を残した。
背後で、聞き慣れた足音がした。あの同僚が、埃だらけの木箱をひとつ、どすんとリーゼルの机に置いた。
「奥の区画にまだ山ほどあったぞ、こういうの」同僚はそっぽを向いたまま言った。「……手伝わんとは言ってない。言っとくが、深入りはせん。運ぶだけだ」
リーゼルは笑いをかみ殺して、雪灯りの差す窓辺で、木箱の蓋にそっと手をかけた。まだ弁護を待っている、名もなき誰かのために。




