1-1 『スライムの魔核』2
ヘレナが涙を顔に浮かべながら、しかし利口にも悲鳴を上げずに外へ飛び出した。それを横目で確認して、斧を構え眼前の怪物に向かう。
ブラクベンが跳んだ。
正面から来る。大きく横に跳んで躱すと、ブラクベンは床を滑って壁に激突した。
『ぐぁッ!』
速い。けれど、動きは単純だ。目が覚めたばかりのせいか、まだぎこちない。
ブラクベンが体勢を立て直す前に、斧の柄を握り直した。
再びブラクベンが跳ぶ。今度は低い軌道だった。足を狙っているのがすぐに分かった。
跳んで躱す。着地と同時に振り返り、斧の柄でブラクベンの胴を横から叩いた。
『ガッ――!』
手応えがあった。ブラクベンが床を転がる。思ったより軽い。思ったより、脆い。
『このォ……!』
怒ったように尾を振り回してくる。床を叩く音が部屋に響いた。僕は後退してそれをやり過ごし、距離を取った。
荒い息を整える。肩が上下する。こちらも必死だ。
ブラクベンはじりじりと間合いを詰めてくる。さっきよりも慎重に、さっきよりも低く構えて。学習している。
『ギャハハハ……!やるじゃねぇか、オマエ。』
褒めているのか、怒っているのか、よくわからない声だった。
また跳ぶ。今度は僕の右側、右腕の感覚が鈍い方を狙ってきた。
躱しきれなかった。牙が肩をかすめる。薄く、皮膚が裂ける。
「っ……!」
痛みをこらえて斧を振り下ろす。ブラクベンの頭を、床に向かって叩きつけた。
鈍い音がした。
ブラクベンの動きが、止まった。
僕はすかさず左手でブラクベンの首根っこを押さえ、全体重をかけて床に縫い付けた。
『離せ、離しやがれ……!』
「離さない。」
暴れる。熱い。左手がじりじりと焼けるように痛む。それでも放さなかった。
どのくらいそうしていただろう。ブラクベンの動きが、少しずつ弱まっていった。暴れる力が、潮が引くように失われていく。
『……チッ。』
最後に短く舌打ちして、ブラクベンはぐったりと動かなくなった。
僕はゆっくりと手を離した。
するとブラクベンは、煙のように輪郭を失い、するりと床から消えていく。気づいたときには、右腕が、そしてあの黒い巻き付く感触が戻っていた。
紋章の赤が、静かに瞬いて落ち着く。
右手の指を、ゆっくりと握る。開く。
動く。ちゃんと、自分の腕として動く。
そのとき、何かが流れ込んできた。言葉ではなく、感覚として。頭の中に直接刻まれるような確かな手応え。スライムの魔核を喰らい、その力をものにした。そういう感覚だった。
『……ギャハハハ。悪くはなかったぜ、オマエ。』
ブラクベンの声は、さっきよりずいぶん大人しかった。
「何が悪くない、だ。もう暴れるんじゃない。」
『うるせぇ。あーあ、こんなガキに負けちまうなんて、弱くなったもんだなぁ、オレサマも。』
僕は小さく息を吐いて、その場にへたり込んだ。
『力が欲しい、力が!オマエもそうだろう?もっと素材を寄越せ、素材だ!』
「ちょっと静かにしてくれ……。」
暴れるようにわめくブラクベンを窘めて、空を見上げるように寝ころんだ。まさか自分の魔道具が、これほど危険なものだったなんて。
この世界の誰もが、生まれながらにして持っているもの。それが魔道具だ。それは剣であったり、鎧であったり、ペンであったり、このように謎の生物であったりと、人によって様々である。
本来は持ち主の助けとなるはずの魔道具が、このように牙をむいてくるとは。今までうんともすんとも言わず、何の役にも立たない魔道具だと思っていたが、まさかそれより酷いとは。
『おおい、オレサマはなんとなくオマエの考えがわかるんだぜ?そんな文句言ってるとまた喰っちまうぞぉ?』
「事実だろう?」
『オレサマを舐めるんじゃねぇ!喰えば喰うほど強くなる、それがオレサマだ!生憎、『反抗』するにはまた素材を喰わなきゃいけねぇが、それまではオマエに力を貸してやるよ。腹が減って仕方ねぇんだ!』
全く、うるさい魔道具だ。
「お前に喰わせる飯は無い。」
『ああ!?おい、オレサマは知っているんだぞ。この孤児院、随分ぼろっちいよなぁ。経営難だろぉ?ちょうどいいじゃねぇか。ここを出て、迷宮に行く。素材を喰って、いらねぇモンは売り払って金稼ぎ。その手伝いをしてやるっつってんだ!』
「……。」
肩が痛い。左手の甲も切れている。全身が熱い。考えがまとまらない。しかし、それでも一理あると思った。いや、こんな悪魔みたいな魔道具の口車に乗っていいわけがないが、しかし……。
駄目だ、疲れた。このまま寝てしまいたい。そう思ったとき、勢いよく扉が開いた。孤児院から誰かが出てきたようだ。
「ルメ!」
飛び込んできたのはシスターだった。いつも穏やかな顔が、今は血相を変えている。その後ろからヘレナが、涙でぐちゃぐちゃになった顔を覗かせた。
「にいちゃん……!」
「ああ、シスター。ごめんなさい。うるさくして……。」
できるだけ普通の声を出した。
シスターは辺りをざっと見回し、散らかった薪、地面に残った焦げ跡、そして僕の肩から滲む血に視線を止めた。
「……何があったの。」
「……。」
シスターの声は静かだった。静かだったが、その静かさが怖かった。僕はただ苦笑いすることしかできなかった。なんと言おうか。
ヘレナがとてとてと駆け寄ってきて、僕の左腕にしがみつく。
「ごめんなさい、ごめんなさい。わたしがあれを持ってきたから……。」
「ヘレナのせいじゃないよ。」
頭を撫でながら、僕はシスターを見上げた。
シスターはまだこちらを見ていた。怒っているのか、心配しているのか、その両方なのか。たぶん、両方だ。
「話を聞かせて、ルメ。ちゃんと、全部。」
僕は少し間を置いてから、うなずいた。
出ていかなければならない、という考えは、もうこのときには固まっていた。
【Tips】
『素材喰らいのブラクベン』能力その一
『捕食』:モンスター由来の素材を捕食することで、その素材に対応した能力を得る。




