ラブレターに恋は難しい
「ご令嬢、貴女との婚約は破棄させてもらう!」
今日も私は、そんな一言で始まる文字の羅列を読んでいる。
貴族学校の図書館は、授業時間になると驚くほど静かだ。重たい扉の向こうでは教師の声と生徒の気配が律儀に動いているはずなのに、ここには時間そのものが置き去りにされているようで、あまり騒がしい空間を好まない私にとって、この時間は聖域のようなものである。
背の高い書架が迷路のように並び、その最奥、柱と書棚に挟まれた影の溜まり場――人の目が自然と逸れるその隅こそ、私のお気に入りの場所だった。
高い位置にあるステンドグラスから差し込む光を頼りにページを進める。
テーブルの上には今日読んだ本がずらりと並び、これから読む予定の本の山はそれより少ない。
お貴族様の生徒にうっかり見られてしまえば、眉を顰めて批判されるに違いない扱いを本にしているというのは自覚済みだ。
だがそれでも彼らは私に直接なにか文句を言いに来ることはない。なぜなら、私こそがこの図書館の主であるからだ。
私は図書館の魔物。
学校側から雇われている、人権のない存在。
魔力溜まりに触れた無数の燃やされたラブレターから誕生した、親の存在しない生き物だ。
親が存在し、縦の血の繋がりからなる魔族とも、普通の人間とも違う。通常では知性など持つことが叶わない生物。しかし、私という魔物は知性を持ってここにいる。
所謂、差別階級というやつではあるが、職を手にしているので生活は充実していると言っていい。なにせこんなにも本に囲まれて生活することができるのだから。
そんな私の興味は皮肉にも『恋愛』にある。
私は叶うことのなかったラブレターの集合体のような魔物である。他人の恋愛に興味を抱くのは自然なことだろう。
ページを捲る。
紙面の中のご令嬢は婚約破棄されながらも強かに立ち上がり、自身を本当に想ってくれるお相手と出会うことになる。婚約者の話す偽りの真実の愛とは違い、これこそ真実の愛と言うべきものだろうと分かる出会いと恋。一度裏切られたからこそ反発し、距離を取る令嬢が少しずつ、心の氷を溶かされていくように惹かれていく様子。
物語の中の恋はいつもキラキラと煌びやかで、綺麗で、羨ましい。とても憧れる。
しかし、紙面の上で視線を滑らせるだけで、私は決してこの学校でお貴族様と関わろうとは思わなかった。現実と理想は違うのだ。
この物語の中の主人公が元からお貴族様であり、現実の私が差別階級に属する魔物であるように。
だから私はいつも図書館の管理とともにこうして恋愛小説を読む。
ありとあらゆる恋愛小説を読んでいるが、そのどれも面白かった。紙面の中の叶う恋も、叶わない恋も、私の憧れと諦観を優しく撫でて慰めてくれた。
叶わなかった恋のラブレターから生まれた魔物。だからこそ、私の恋愛は決して叶うことのない運命だろうから。
魔物である私をお貴族様の通う学校の図書館管理者にするという、随分と大胆なことをしでかしている雇い主には頭が上がらない。トラブルを起こすわけにもいかないから、いつも図書館の隅で腰掛けている。
ときおり聞こえてくる、人間や魔族の少年少女たちの恋愛話は私をワクワクさせたが、決して踏み込むことはない。どんな目を向けられるかなど知れているからだ。
そんな日々を過ごしているのが当たり前だった私の前に異変が現れたのは、勤務歴がそろそろ五年以上となるくらいの年のことだった。
午前の授業が終わったあとのお昼の時間。
静かな図書館に慌ただしい早歩きの音が響いたと思ったら、私のいる隅っこの席のある場所に人が飛び込んできた。
息を切らせて、しかし校則違反にならない程度に早く歩いてきたその人は書架に背を預けて息を潜める。
私と目が合うと、驚いた顔で指先を口元に当てた。
私も頷いて口を両手で塞ぐ。それからまた、本を開いた。目を逸らすように。
書架の向こう側でパタパタと無数の足音が聞こえてくる。
どうやら誰かを探しているようだが、私がいつもいる場所は生徒たちも認知しているのだろう。決してこちら側にはやってこない。生徒たちの大半は魔物などとは関わり合いになりたくないのだ。
やがて話し声と足音が遠のいていき、図書館を出ていく。
すると、張り詰めるように剣呑な顔をしていた男子生徒がゆっくりと息を吐いた。
「ご協力感謝する。図書館の魔物殿。いや、レトラ殿だったか?」
「おお、驚いた。まさか私の名前をご存知だとは……ふふ、面白いものを見させていただいた見物料を払ったほうが良いのか迷うところだが……苦労をしているね、魔族の第三王子――ジルリオ様は」
まさか名前を出されるとは思っておらず、一瞬彼を見つめてしまったがすぐに書籍に視線を戻した。そしてからかうように彼の身分を口に出す。
「不敬……と言いたいところだが、助かったのは事実だ。貴女はいつもここに?」
「でなければお嬢さんがたがここに近寄らない理由にはならないであろうよ」
「それもそうだな……ありがとう。たまに、静かにしたいときにここを利用してもいいだろうか」
「構わないよ。私の読書の邪魔をしないならね」
「助かる」
それが彼との出会いだった。
運命的で、ワクワクする出会い。しかし決して期待などするべきではない、ロマンスの欠片もない協力関係。
だが、私の世界は明確にこの日からなにか違うものに変わっていった。
ときおり訪れる彼が、私の正面で本を読むようになったからだ。
だが、その変化が決していいものにはならないと確信していながら……私はそれを受け入れた。
どうでもよかった。それよりも、叶わない自分の願望を慰めるために恋愛小説の中に浸るのに必死だった。
そんな日々が半年以上、続いた。
今日もページを捲る。
生徒が利用している時間すら、私の周囲には静寂がある。
私は図書館特有の静寂の時間が好きだ。本の中にするりと入り込むように、没頭して意識を研ぎ澄ませる時間が好きなのだ。
故にうるさくならないように、静寂を守るための魔法障壁を張っている。代わりに、図書館内に異変があるとリン、と涼やかな鈴の音が鳴るようになっているが、その音が鳴ることは滅多にない。
ページを捲る。
リン、と耳元で音がする。滅多にない、はずだった。
鈴の音で顔を上げると、そこにはすでにジルリオ殿下が立っている。
赤い夕焼け色の残光が散っていく。転移魔法による移動の痕跡だろう。あれ以来、彼は直接図書館にやってくるといつかは居場所がバレると思っているのか、こうして別所から転移魔法を使ってやってくるようになった。
ここには私が雑音を煩わしく思わないための防音障壁が張ってあり、なおかつ異変を知らせる魔法が組み込まれている。隠れ場所としては最高なのだろう。ここに私がいなければもっと完璧だったに違いない。
「今日も来たのかい、殿下」
「よしてくれよ。この学園の中で俺はただのジルリオだ。貴女にまでそう言われると肩肘張ってたまらない。貴女こそ、偉大な魔女の使い魔様……だなんて言われたくないだろう」
一瞬、私は眉を顰めて目を伏せた。
「仕方のないやつだ。ならばジルリオさん、早くそこに座りたまえ。今日はなにを読むんだ?」
「認識阻害魔法の公式理論文を持ってきた」
「これはまた……王子様は勉強熱心なことで」
皮肉げに言ってやるが、王子はそのお綺麗な顔を歪ませることもなくニコニコとしている。可愛げもなにもない魔物の女を前にして、よくもこれだけ笑顔を保っていられるものだと逆に感心してしまうほどだ。
しかし、半年経ってもここに通い詰めてくるくらいだ。本当に私が魔物であることなど気にしていないのかもしれない。
いつもなら軽口だけを叩いて、あとは静かに読書をしたりジルリオが書き取りをしたり、たまに魔法理論についての見解を求めてきたりするだけの時間だったのだが……興味が湧いたので、こちらから話をしてみることにした。
「……ところで、君は気持ち悪くはないのかね。私は魔物だ。親の存在しない、魔力の塊から生まれた別の生き物なんだぞ。他の貴族連中はなるべく私に関わり合いにならないよう気をつけている。王子が近づくには危険極まりない存在だと思うがね」
「おや、貴女から話を振ってくれるのははじめてのことじゃないか? 珍しいこともあるんだね」
「……もしや、からかっているのか?」
ジルリオは変わらず柔和な顔立ちで「まさか」と言う。
「そもそも、貴女はあの『偉大な魔女エルミナ』の使い魔だろう? この学園の理事だ。そんな人が貴女を図書館の管理人としているのなら、生徒の安全は保証されているということだ。俺は貴女という魔物を甘く見ているのではなく、偉大な魔女の功績と判断を信頼しているだけだよ」
「その事実があってなお、他の連中は私に近づかないというのに……やはり君は魔物を甘く見ているよ」
「貴女は卑屈すぎる。逆に聞くが、貴女はエルミナ様の判断が間違っていると?」
「そんなことはないっ!」
魔物として生まれ落ちて、はじめてこれほど大きな声をあげたかもしれない。それほどの強い想いが喉を震わせた。
「ならいいじゃないか……少し驚いたが、この声も外には聞こえていないんだろうね?」
目を丸くした王子が、すぐに気を取り直して微笑む。
「……聞こえていない。エルミナ様から教わった魔法の腕ならば、この程度造作もないことだよ」
「羨ましいね。まるで歴史に残る偉大な魔女の弟子じゃないか」
「……そう見えるか?」
「貴女は卑屈だけれど、エルミナ様に伝授された魔法の腕については自信がかなりあるようだ。エルミナ様のことをそれほど慕っているんだろうね。人をそれだけ慕える貴女なら、やっぱり信用はできると思うよ」
「……そう」
そう言われて嬉しくないわけではなかった。
雇い主……エルミナ・グリモワールは歴史に残る偉大な魔女だ。
数々の魔法理論を生み出し、この国の発展を助けてきた存在。人族と魔族を橋渡しし、平和の礎を築いた魔女。
人と魔族の混血であるあの人は生まれたばかりの私を拾ってくれた。
多くの女性が嘆き、苦しみ、受け取られず、あるいは捨てられて情念のこもったラブレターをまとめて焼き払った際に生まれ落ちた私は大いに気味悪がられた。
それは私が人や魔族の姿に酷似していたからだ。
魔物には通常、魂がない。魔力の塊でしかない魔物が意志を持つことはない。ただ生まれるきっかけとなった物からくる、本能のようなものに突き動かされて動き、ときに人を、魔族を襲う化け物。
そんなものが人の姿をして生まれたのだ。不気味以外の何者でもない。
だというのに、あの人は私を拾って育てた。我が子にするように。魔法を教え、言語を教え、マナーを教え、立ち居振る舞いを教えた。
そして人間や魔族の子にするように職を与えた。
偉大な魔女エルミナでなければ許されないような所業だったが、私は彼女に感謝している。
私には変わらず魂などないはずなのに、こうして意志を持ち、意志を伝える手段を待ち、小説を読み、本能を押さえつけて発散する方法も与えられた。
だが、それでも私はあの人の『使い魔』という立ち位置でしかなかった。
それを、こいつは。ジルリオはまるで『弟子』のようだと……嬉しくないわけがない。
「ジルリオさん、君はいつもこうなのか? それはそれはおモテになることだろうな。君を追いかけ回すお嬢さんがたも、随分とまあ……おかわいそうに」
「それで困っているんだよ。俺は第三王子だから猶予はあるけど、学園卒業までには婚約者を決めないといけない。そこは自由意志だから助かってるんだけど……勉強のほうがどうも楽しくてね」
「ああ、本当におかわいそうに。肝心の王子様がこれではね」
「どういう意味だい?」
「私は失恋の想いから生まれた魔物。美味いご馳走がたらふく食えそうだなと思って」
「……人を食べるの?」
びっくりした王子が本を抱え込んで盾みたいにしたので、思わず私は笑った。
「まさか! 失恋した悲しい気持ちを食べて私の力になったりはするが、本人をバリバリ頭から喰うわけではないよ!」
「そっか、ならいいんだ」
ほっとした顔で王子が言う。
――私は図書館特有の静寂の時間が好きだ。
本の中にするりと入り込むように、没頭して意識を研ぎ澄ませる時間が好きなのだ。
……だが、近頃はジルリオとこうして話す時間もそう悪い物ではないと思っている自分がいる。
最初はうるさければ締め出してしまえばいいと考えていたが、不思議と彼との軽口は煩わしく感じない。この感覚は親代わりとなっているエルミナ様以来感じたことのないものだった。
これが親愛というものなのだろうか。悲恋の元に生まれた私には愛情というものがどんなものなのか分からない。
手紙に込められた情念の大半は愛情とは呼べぬほどの歪んだものだったり、悲恋の結末を受けて書き手の悲しみが染み込んでいて、愛を綴った際の気持ちはほとんど残っていなかったからだ。
小説を読んで、学んでいけばいつか分かるのだろうか。
ページを捲る。
静寂の中ではない、ときおり彼の質問が飛んでくる放課後の時間で。
生徒が帰っていく夜には書架の間で眠りに入り、一人ぼんやりと窓から差し込む月明かりを眺める。
学園の中で寝て、起きて、いつも図書館で過ごす。それはいつもとなんら変わらない。だというのに、なぜか早く次の日になってほしいと願う自分がいた。
ページを捲る。
ある日、いつものように現れたジルリオはまず私に挨拶をして、なにかをテーブルの上に置いた。視線を遮られる位置に置かれたので、綺麗な手の甲の下から現れるそれを否が応でも見ることになった。
「……これは?」
「しおりだよ。いつもなにもなしに読んでいるようだから、こういうのもどうかなと思って作ってみたんだ。本についている紐だけでは不便だろう」
「私はなんのつもりだという意味で聞いているんだが」
置かれたのは赤薔薇の花びらで作られたしおりだった。押し花にしてあるそれは明らかに手作り感があり、まさか第三王子殿下が持つようなものとはとても思えない。どころか、彼が自ら作ったというのも信じがたい話だった。このような幼稚なものをわざわざ作るような性格には思えなかったが。
「日頃、貴女に匿ってもらっている感謝を伝えたくてね。侍女に聞いたら、本を読む女性ならこういうのがいいんじゃないかって教えてくれたんだ」
「ははあ、君、その侍女にからかわれているんじゃないかい? 王子殿下相手にそんなことを吹き込むとはなんて侍女だ。いいかい、君みたいな身分の者が気軽に人様にプレゼントなんて贈るもんじゃないよ」
「ええ、そうかな……」
「君、他の子にもこんなことをしているんじゃないだろうね? それで惚れられて追いかけ回されているというのなら、同情の余地もない。今すぐここから追い出してやってもいいんだぞ」
「いや……そんなことはしていないが……」
なんで真面目に私はこいつのことを注意してやっているんだろうか。
呆れ返って言葉も出なくなる。
王子殿下のわりに甘やかされて育っているのだろうか。本人の表情を見るに完全に善意なのだと分かる。
「……君が女子生徒に追いかけられる原因がそこにないのならいい。だが、気をつけたほうがいいよ。女の子はプレゼントを貰うと喜ぶだろうが、それと同時に気があるのかもしれないと勘違いすることもある。そうして手紙を送り、散っていった恋を私はいくつも知っているから」
「ああ……すまない、浅慮だったかな。迷惑だったなら俺が自分で使うよ」
説教くさくなってしまっただろうか。内心で反省していると、ジルリオがしおりを再び手に取ろうとしたので、私は置いてあったしおりをサッと手に取った。
「使わないとは言っていないだろう」
「今、そういう流れだっただろうか……」
困惑を浮かべている彼に、あまり年寄りのように説教をするのは気が進まないのだが……こればっかりは言わなければならない。それは彼のためでもあるし、学園の生徒たちのためでもある。
「君の感謝の気持ちはありがたくいただくよ。ただ、今後は気をつけたほうがいいよと忠告しているだけだ。図書館に引きこもっている私ならともかく、同じ学生の娘さんたちならば、このような自作のプレゼントを所持していること自体が危険になる。君がこれを持っていた事実と、その後に他の娘が持っている事実があると、妬まれる恐れがあるからね。君にその気がなくとも」
「そうか、すまない。そこまで考えが及んでいなかったようだ」
「恋愛ごとは恐ろしいからね。その末に生まれた私が言うのだから、間違いない。もう少し慎重になりたまえ。君のその善意は美徳だがね」
妙な空気になってしまった。
私はしおりを手持ち無沙汰にひらひら揺らしながら、彼から視線を逸らす。
「年寄りくさいことをするのはここまでだ。さて、気を取り直して私は本を読む。気まずいなら、今日のところは帰るといい」
「いや、今日は異種族間の生活の融和について歴史の勉強をする予定なんだ。前の席をいつも通り貸してもらうよ」
思わず私はため息を吐いてしまった。
「……図太いやつだ」
それでもジルリオが逃げ帰るようなことはなかった。
ページを捲る。そして最後に、彼から貰った薔薇のしおりを挟む。
お貴族様のやることだから、しおりにも薔薇の香りが焚きつけられているかと思ったが、鼻に近づけてみてもそういった趣向はされていないようだ。
もし香りなんて付けられていたら本のしおりとして使用しなかったのだが……そうではないようなので問題ない。
それからまた半年。
私の読書の傍にはいつも薔薇のしおりが鎮座することになった。
ジルリオが三年生になった頃のことだ。
図書館でいつものように本を読んでいるとリンと音が鳴って顔をあげる。
ただ、いつもと違ったのはそこにいたのがジルリオではなかったことだ。
「なにか用かね?」
おどおどとした女子生徒。
たまにあることだ。本や参考書を探したいが、どこにあるかが分からない。または入荷したい蔵書がある場合、管理人たる私に声がかかる。
ほとんどの場合、自分で勝手にアレコレ探したり、教師に頼ったりするものだが、こうして切羽詰まった生徒が聞きにくることもある。
私はご覧の通り、理性も知性もあって人畜無害の魔物であり、学園理事の使い魔という身元もハッキリしており、信用の厚い後見人がいる。本来ならここまで忌避し、警戒されなくとも良いはずだが……嫌われちゃっているのは仕方のないことだ。
「あの……探してる本があって……」
「いいだろう、タイトル、もしくはどのような内容の本をお望みか答えてくれ。案内する」
「あ、はい……」
魔法植物の歴史についてだと結構移動する必要があるな。
私はしおりで本を閉じてから立ち上がる。
案内自体は上手くいった。たまにしかないとはいえ、本来の業務だ。どれだけ抽象的な要望だろうと図書館にある書籍なら案内することができる。
しかし、防音用の魔法障壁から出たせいで余計なことを聞いてしまったかもしれない。
いつもジルリオを追っている女子生徒のグループがそこにいたのだ。
「だから言ってるでしょう? ジルリオ様にはもう、婚約者がいるのよ」
「えっ、本当ですか?」
「もちろん。そう、わたくしのことよ。家同士でも話は通っているはず。最近、逃げ回ってるのもそのせいだわ。ほら、照れ屋でしょう? あのかた」
「ジルリオ殿下は真面目なかたですものね」
「卒業までに婚約者をお決めになるという話でしたが……」
「なにを言っているの。そんなの決まっているじゃない! わたくし以外にありえないわ。だから、あまり近づかないでね。あのかたは誰にでもお優しいから勘違いしてしまいますわよ。貴女たちも無駄な期待をしたくないでしょう」
「さすがですわ! それでは他のかたがたにも身の程を弁えていただかないといけませんね」
「選ばれるのはわたくし。当然の帰結ですわ。だってあのかたのことは幼い頃から一緒に過ごしてきたのだもの。お兄様がたが家柄ですでにご結婚が決まっているのに、あのかたがここまで婚約を決めるのを迷っていらした理由は分かりませんが……」
リーダー格らしい生徒が取り巻きたちに得意げに話している。こういう騒がしさが苦手だからいつもあの隅っこに引きこもっているというのに煩わしい。
女子生徒を無事案内し終わり、結界内へ戻るためにその近くを通る。
「あらまあ、本当に魔物なんてこの学園にいらっしゃるのね」
「カメリア様! あまり声を大きくされては……!」
「大丈夫よ。あの魔物にはちゃあんと理事長の首輪がかかっているのでしょう? 失恋のラブレターから生まれた魔物だなんてお可哀想に。そんな出自ではきっと恋をしても決して叶わない運命なのだわ。それなのに恋多き学園で働いているだなんて、とっても惨めね」
「それは……」
「とても美しいお顔をしているのに、あんなツノや、小さくとも翼があるんですもの。お可哀想ですよね……」
「まるで伝承に聞くサキュバスという魔物のようではなくって? 服装はしっかりしているけれど、魔法使いのローブを着こなしているんじゃなくって、あれじゃあ衣装に着られちゃっているじゃない!」
「美しいですけど……その、陰気なお顔をしていらして少し怖いです」
好き勝手に話す女子生徒たちに思わず息を大きく吐いた。
取り巻きにしている女子生徒が何人か肩を跳ねさせて私を恐怖の宿る視線で貫いたが、気にせず席に戻る。最後まで得意げで、傲慢で、彼女たちのリーダーらしいご令嬢が私を嘲笑していたが無視を突き通した。
ああいう手合いは関わるだけ無駄である。
しかし彼女たちの話を聞いて以来、私の胸の中には消化しきれないものがいつまでも腹の中に残っているような不快感が存在し続けた。
無性に苛立ちが抑えきれず、いつものように本を読もうと文字列を眺めても目が滑って何度も読み直すはめになる。
なぜこんなにも苛立っているのか訳も分からず、私はそのままテーブルに突っ伏して目を閉じた。眠っていれば気が紛れるだろう。
私が寝ていても、ジルリオが来たら声をかけてくるだろうし、そうすれば改めて起きて本を読めばいい。それだけだ。
なのに、その日。夜、自然に目が覚めるまで私は誰にも声をかけられることなく、人の気配で目覚めることもなく、一人きりだった。
「腹が立つ。ほとんど毎日やってきている癖に、今日に限ってなんなんだあいつは」
声に出して自己嫌悪する。
なんだ、これではまるで無駄に話しかけてくるあの男が来るのを今か、今かと待っていたようなものじゃないか。そんなの私らしくはない。
「身の程を弁えて……か。それもそうだな」
ポツリとそんな言葉をこぼして、ますます思考が深く沼の底に沈んでいくような感覚に陥る。
開かれたままの本の上、不器用で幼稚な押し花のしおりを指先でそっと撫でながら……私は再び目を閉じた。
それから数日して、ジルリオがやってきた昼休みのことだ。
彼がしおりを渡してきたときのように、私は用意していたものをテーブルの上に置いた。
「……これは?」
ここまできて、自身の気持ちについてを推測できないほど私は馬鹿ではない。客観的に考え、悩んだ末。自身のもやもやとした気持ちが、恋愛小説で培ってきた知識と完璧に照らし合わせることができてしまうことにとっくに私は気がついている。
そう、私はきっとジルリオのことが好きなのだろう。
だが、彼にはそのつもりなどない。
むしろ、恋という煩わしさから逃げるために私のいるこの場所を避難場所にしているくらいだ。ジルリオにとってこの感情が迷惑なものであることぐらい理解している。
だから、私はこの恋心を殺すことにした。
「ラブレターだ。しかし、決して君宛ではないということを弁明しておこう。実はだね、私は身分違いの恋とやらをしてしまったらしい。そして、その気持ちを自身の出自の通りに綴った」
「俺宛ではない……と」
「ああ、安心してくれたまえ。だが、友人として君に頼みたいことがある」
「話くらいなら聞いてあげられるが……どうしたんだレトラ。そんなに思い詰めた顔をして――」
「『私らしくない』、か? まあ、そうだろうな……それで頼みだが」
深呼吸をするように一拍置く。そして、口に出した。
「この手紙を破いてはくれないか。そして否定してくれ。お前はこの学園に通う生徒に相応しくない。ただの魔物が思い上がるな――と。私の恋心を殺す手伝いをしてくれ、友人だと思ってくれているのなら」
目を丸くして、ジルリオは驚いた。信じられない言葉を聞いたような……否。事実信じられない言葉だったのだろう。
眉を困ったように曲げて、彼は悲しそうに私を見つめる。やめろ、そんな顔をするな。私のやっていることが馬鹿らしく思えてくるだろう。
「……正気かい?」
「私は正気だ」
「たとえ大事な友人の頼みだとしても、さすがにその頼みを受けるのは躊躇われるよ……それでも俺にお願いしたいのか?」
「ああ、この学園の生徒で今のところ一番の権力者は君だろう。なら、君に否定されれば私も納得することができる。これは儀式だよ。『私』という存在はこうして生まれたんだ。だから、これは私が私であるための儀式だ」
私という存在は失恋によって生まれた。
そんな私が恋をして、そして万が一にも成就することはあってはならない。なぜなら、それは私を生み出した手紙の主たちの無念を裏切ることになってしまうから。
失恋の象徴を核として生まれ、失恋した無数の想いを魔力で編むようにして姿形を作っている私が恋をしていいわけがない。失われた恋の数だけ、私は彼女たちの想いを踏みにじってしまうことになる。
怨念のような、呪いのような出自故に私は自分の恋が叶うことはあり得ないと断じる。あり得てはならないと否定する。だが、それだけでは弱い。ただの虚勢でしかない。だから、外部の最も親しい者に……いや、恋をした本人に否定してもらうのが一番なのだ。
想いを伝える必要などない。
私は手紙だ。ラブレターだ。ラブレターを書いたかつての人々のように私も同じ思いをしなければならない。そうでなければいけない。そうでなければ……己の生まれを否定するようなものだからだ。
本人には決して伝えない。
しかし、彼が手紙を破いてくれればそれでいい。それだけでいい。
心の中に埋め立てるだけでは済まさない。それではまたいつか、自ら掘り出して手に取ってしまうかもしれない。だから。
だから。
どうか殺してくれ、私の心を。
「貴女はそれでいいのかい、本当に」
「頼む。君にしか頼めないことなんだ。頼む……」
「……分かった」
テーブルの上に置いた手紙をジルリオが優しく手に取る。
そして、ピリッと封筒に亀裂が入る。魔法を使うでもなく、手ずからゆっくりと破られていく手紙に、私は内心ホッとした。
「なんなら罵倒してくれたっていい。私の恋を徹底的に否定してくれ。もう二度と、こんな想いをしないように。友人に頼むようなことじゃないのは承知だ。だが……すまない」
「さすがにそこまでのことはできないよ。手紙は何回も千切ってあげよう。そうしたら、最後はどうする?」
「君の魔法でも燃やしてくれないか。私が生まれたときのように」
「分かった。貴女がそれで満足するなら」
彼の手の中で煌びやかな炎が燃え上がる。
図書館の中にステンドグラス越しに差し込んでくるような、燃えるような真っ赤な夕焼けの、けれど優しい炎だった。
燃え尽きていく手紙をぼおと眺めて、首を振る。
いつのまにか涙が瞳から一筋溢れ出ていて、乱暴に拭った。
「ありがとう、ジルリオ。今日はすまないが、一人にしてはくれないか。わがままばかりですまない……君の安全地帯になると決めていたのに、勝手なことをしてすまない」
「あまり謝らないでほしい。俺こそ、貴女がこれほど追い詰められるまで悩んでいるなんて知らずに……のんきにほとんど毎日訪れていたんだ。ごめんね」
「いい……君のせいではない。叶わぬと知っているのに、魔物の癖に勝手に心など持ってしまった私が悪いんだ。さあ、去ってくれ。いつも読んでいる本で、もう防音と認識阻害の魔法障壁くらいは自力で張れるだろう。君がここで隠れる理由も、もうないはずだ」
「……そうだね。それでも、俺は卒業までここに通うつもりだった。それだけは覚えていてほしい。レトラ」
去り際にジルリオが言った言葉を心の中で反復して崩れ落ちる。
いつもの席の隣には転移魔法特有の光が散っていき、それに手を伸ばしたところで掴むことはできない。
自分で決めたことだというのに、燃えかすすら残らなかった自分の手紙を想い涙が溢れてたまらなかった。
まさか自分がこんなことになるなど、誰が予想できるだろうか。
恋愛小説のように上手くいくように世の中はできていない。
身分差は絶対だ。そもそも、恋愛に対してあれほど消極的なジルリオのことだ。私の恋心など受け取ったら迷惑だろう。どうやら、本人は逃げ回っているものの婚約者はすでにいたようだし。
そうだ、私はただ身の程を弁えて真実を告げずに彼にナイフを持たせただけ。私の恋にトドメを刺すためのナイフだ。彼はそれを自分のことだと知らずに振るって、そして上手に突き刺してみせた。
それでも未練たらしく痛い、痛いと泣いている私が悪いのだ。
魔物なんかに生まれた私が悪いのだから、これは仕方のないことなんだ。
私はただいつものように、『恋』や『愛』なんて自分からは最も遠い位置に存在するフィクションのように扱うだけ。憧れ、自分を慰めるために本を読むだけの生活に戻る。天上の星々に届くことがないように、私はそもそも手を伸ばすことさえしない。
だから、これでいいんだ。
次の日も、その次の日も、ジルリオは私の秘密の席に来ることはなかった。
殺したはずの心がじくじくと痛む。
そんな日々のある日、私は本を開いた拍子にうっかりしおりを落としてしまった。随分と注意散漫になっているらしい。手を伸ばして拾おうとして……しおりが風に攫われる。
「ま、待て……!」
慌てて後を追うが、しおりは風の流れに乗るようにするり、するりと私の手をすり抜けて舞い上がる。
そうして、ステンドグラスではない窓から外に飛び出した。
「しまった!」
身を乗り出しても手で掴むことはできなかった。
たかがしおりだ。そこまで必死になることはない。心のどこかでそう思いつつも、窓から身を投じる。
大丈夫。私は偉大な魔女エルミナ・グリモワールの弟子だ。飛行術くらいは造作もない。あまり披露する機会がないため、かなり不安だったが上手く風の魔法を用いて着地する。
周囲を見渡せばそこは学園の中庭のようだった。
いつも図書館にいるものだから他の場所に赴くことはなく、外がどうなっているのかも興味はなかった。故に図書館の下が中庭になっていることをはじめて知ったが、それよりもしおりだ。
飛んで行ったほうを見れば、そこにはいつか見たご令嬢とその取り巻きのグループが佇んでいた。
ご令嬢のリーダーが風で舞うしおりを掴んで眺める。
「すまない、風でしおりが飛ばされてしまったんだ。すぐに退散するからそれを返してはくれないか」
「魔物が人間様になんて口の聞きかたかしら!」
「……申し訳ありません。そのしおりは大事なものです。返していただけませんか?」
「嫌よ。返してもらったのはわたくしのほうだわ。ジルリオ様の手作りのしおり。本来貰うのはわたくしだったはずなんですもの!」
……よく考えれば、図書館の中に吹いた風は不自然だった。魔法の関与があってもおかしくはない。しかし、なぜ彼女たちがこのしおりのことを知っているのだろうか。私は外に持ち出したことなど一度もないはずだが。
だからこそ、ジルリオに説教するだけで済ませたのだ。あれ以来彼は手作りの品など作っていないはずだ。なぜなら、それを渡すことで渡した相手を危険に晒す可能性があるからだともう理解しているからだ。
……今の私のように。
「あ、あの! これでいいんですよね……?」
「ええ、貴女は上手くやってくれましたわ。ご報告とご協力ありがとう」
中庭の入り口から走ってやってきたのは小柄でおどおどした女子生徒。
見覚えがあった。
私の元まで本を探すために尋ねてくる生徒は珍しいから、よく覚えている。
確かにあの日、私は本にしおりを挟んで席を立った。
すでに王子がしおりを持っているのを見たことがあったのであれば、手作りのそれに気付けばその符号に気がつくことだろう。
うっかりしていたのは私のほうもだったらしい。決して生徒の見ることのない夜間か朝方にしか使用してはいけなかったのだ。このしおりは。
「わたくしはカメリア。ジルリオ様の婚約者ですの。本来このような愛を伝えるような贈り物はわたくしに渡されるはずだったはずです。それなのに、あなたはこのしおりをあのかたから奪ったのですね? なんて嘆かわしい……人畜無害なお顔をして、しっかりと魔物なんですのね。彼を誘惑しようとするのはおやめになってくださる?」
「そのような意図はありません。彼とはただの友人関係です。恋愛ごとが苦手でいらっしゃるようでしたから、人気のない私の近くで隠れていらしただけですよ」
「婚約者のわたくしから逃げて魔物のところに隠れていたですって? 彼から贈り物を盗んだ挙句、侮辱するなど許されないことですわ!」
まるで取り合ってもらえない。
こういう差別意識の強い生徒は何人も目にしてきて慣れているが、あのしおりは私にとって大事なものだ。このまま取り上げられてしまうのはなるべく避けたい。しかし、彼女はそれでは納得しそうにない。
……どうしようか。
このまま諦めるか、反論するか。
そもそもどうして私は諦められないでいる?
元々はしおりなど使っていなかったじゃないか。あのしおりに執着するのはジルリオから贈られたものだからだ。それを手放せないのに、恋を殺しきったとは言えないのではないか?
ならば、このまま諦めてしまえばいい。あちらから取り上げてくれてかえって助かったじゃないか。自分では手放すことなどできないのだから。
「分かった、しおりのことは諦めるよ」
言い切って、風をまとう。空を飛んでもう一度静かな図書館に戻るだけ。
ただそれだけの行為だったが、カメリアという令嬢は私が諦めるだけで満足はしなかったらしい。
「逃しませんわ!」
声とともに聞こえてきた魔法の放たれる音に振り返る。
目の前に炎があった。
「あ……」
焼かれる。
燃える。
私が?
いつかの手紙たちのように。
同じ末路を辿る。
あたたかいジルリオの魔法とは違う、魔物を殺すためのギラギラとした魔法の炎が全身を包み込んで悲鳴をあげた。
「ああ、あああああああ……!!」
「あっはっはっは! 人間の心を惑わすような危険な魔物は処分するべきなんです! 燃えなさい! 跡形もなく!」
燃える。燃える。
私自身が、想いを捨てられず綴った紙切れと同じように燃え上がる。
みんなも、こんな気持ちだったのだろうか。
私の元となった手紙たちも、こんな想いをしたのだろうか。
涙も焼かれて流れることはない。
数秒の出来事だったろう。しかし、私にはどれほど長い時間焼かれていたのかと思うほど、その苦しみは続いた。
抱いてはいけない恋心を持ってしまったせいなのか、それとも醜い魔物が心を持つこと自体が罪だったのか。
まるで罰が下るように私が焼かれる。
踊るように無様に暴れながら倒れ込んで、カメリアたちを見上げる。
赤い視界の外で、彼女たちがまた炎の魔法を撃とうと準備しているのが見えた。
最後に浮かぶ顔は、いつのまにか二つあった。
親変わりのエルミナ様と……そして、ジルリオ。
ごめんなさい、お母様。いい子にしていても駄目でした。
ごめんなさい、ジルリオ。こうなるなら……ちゃんと伝えておけばよかった。
幼稚な謝罪が次々と心のうちから溢れ出してくる。そして届かない星を掴むように手を伸ばして……。
「レトラ!」
――この場にいないはずの声を聞いた。
熱い。
赤一色だった視界が急に晴れて、今度は冷たくなった。
水がかけられたのだ。
ボロボロになった服と火傷だらけの肌に水が染み込んで涙が込み上げる。
今度は、涙が焼かれて乾くことはなかった。
「ジルリオ……?」
魔法の杖を掲げたまま、静かに歩んでくる彼の姿が見えた。
魔族なのにいつも柔和な顔をしていて、笑っているような人だったというのに、彼は一度も見たことがないほどの表情をしていた。
それは怒りだ。
追いかけ回されて辟易としていたときでさえ見せることのなかった、心の底から怒っているときの表情。
杖がまるで突きつけられた剣先のようにカメリア嬢に向けられ、彼女たちは気圧されたように後退する。
ぼんやりとした視界で、痛みに耐えながら、それでも見つめる。
「まずはカメリア嬢。他者に向けて魔法を放ち、あまつさえ殺害しかける行為は看過することができない。重大な規則違反に加え、これほど威力の高い魔法を放つということは殺傷の意思があったとしか考えられない。貴女のことは殺人未遂として報告をさせてもらう」
「な、なにを言っていらっしゃるのジルリオ様。魔物は基本的に駆除対象でしょう? そのかたは無害な魔物を装って学園で悪事を働こうとした邪悪な存在です。即刻処分するべきではありませんか?」
「レトラは学園理事長が後見人を務める魔物だ。意思のない他の魔物とは決定的に違うことは証明されている。悪事を働いたとして、人と同様に法で裁かれるべきであって私刑をしていい理由にはなりはしない」
カメリア嬢が焦りを見せる。
取り巻きたちも口々にまずいのでは、と呟いて慌てていた。カメリア嬢に指示を仰ぎ、不安そうにしている。
「おっと、その前にレトラ……少し触れるよ」
「……ああ」
倒れている私に近づいてきたジルリオはしゃがみ込み、私の背中に手を添える。治癒魔法だ。あたたかい力が背中に触れてまぶたが重たくなってくる。
「それで、この子がどんな悪事を働いたと証言するつもりだ?」
「ジルリオ様がわたくしに渡す予定でいらしたしおりを盗み取っておりましたわ! 婚約者たるわたくしというものがありながら、ジルリオ様もよくありませんよ。そんな魔物のもとへ通うなど……品位に欠ける行為ですわ。卒業までに婚約者を決める件ならすでに決まっているのですから、逃げる必要などどこにもありませんのに!」
顔は見えなかったが、ジルリオが小さく息を吐いたのは聞いていた。呆れるようなため息だった。
「そのしおりは俺がレトラのために作って贈ったものだ。匿ってくれている日々の感謝としてね。王子が他者にプレゼントを贈ることについて忠告をもらったが……実際に俺の行いは軽率だったろう。すまない、レトラ。カメリア嬢も。そして、こちらもハッキリと言わなかった俺が悪いな」
一拍区切って、ジルリオが言う。恐らくカメリア嬢をまっすぐと見つめながら。
「俺と貴女が婚約したという事実は一切ないと記憶している。なぜ自分が婚約者だと?」
「……え?」
小さな絶望の音がこぼされた。
カメリア嬢はしどろもどろになりながらジルリオとの思い出を語った。長々と、まるで覚えていないのか? と確認するように。しっかりとその全てを聞いたうえで、ジルリオは硬い声で話しだす。
「確かに俺は幼少期、貴女と長く過ごしていた。しかし正式に婚約を結んだことなどはない。俺は兄たちと違い、ある程度自由恋愛をすることを許されている。だからこそ、身分に申し分のない者たちが集うこの学園を卒業するまでに婚約者を決めるように、と父に言われていたよ。学園を卒業しても決まらなかったら政略結婚として貴女が選ばれていた可能性はある。けれど、まだ俺たちは卒業していないだろう」
「……では、なんですか。その魔物を選んだと? 身分のうえでは最も劣る魔物ですよ!?」
「まだそうは言っていないだろう。それに、彼女は偉大な魔女の弟子だ。最高の後ろ盾があるじゃないか」
「平民の出ですらない……魔物に……? そんなこと、あるわけないじゃないですか! あり得ていいわけないじゃないですか……! あ、ああそうですか。もしかして恋愛小説の中のように、その子は本来の恋人たちを引き裂く役割のお邪魔虫なの? なら」
「貴女が勘違いしたままでは心苦しいので、貴女の望むように本の中の台詞のように言ってあげようか……カメリア嬢、君との婚約は最初からなかった。破棄するものさえないんだ。諦めてくれ」
悲痛な言葉だった。
それはそうだ。私だってそう思う。身分が保証された学園で、なにも一番駄目な相手を選ぶような真似、王子がするはずがないじゃないか。
カメリア嬢もかわいそうに。ジルリオには私を選ぶつもりなどないだろう。ただ丁寧に、勘違いしている彼女の言葉をひとつひとつ否定しているだけだ。
「言っておやりよ……卒業までに、信頼を取り戻せば……可能性はあるだろうって」
「そんな無茶なことは言わないでくれ、レトラ」
あまりにも可哀想だ。
こんな魔物ふぜいのせいで彼女の恋心が摘み取られてしまうことになるなど。
「私は、恋から生まれた魔物だよ。今失われゆく恋が、哀れでならないんだ。だから、チャンスをやってあげてくれないか、ジルリオ」
「だから、そんな無茶を言わないでくれ」
「わたくしのことを馬鹿にしないでくださる!?」
ああ、しまった。
怒らせてしまった。
すまない、カメリア嬢。
治癒魔法をかけてもらっていても、痛くて、痛くて、メチャクチャなことを言ってしまっている。支離滅裂だ。
「本人に、恋を殺されるのはとても、痛いから……やめてやってくれ。ジル、リオ……」
意識に限界が来て、ゆっくりとまぶたが下がる。
慌てるジルリオの声が聞こえて、そして。
「あたしの可愛い娘を見に来てみれば……いったいこれはどういうことですか」
底なしの怒りがこもった、最も親しい親の声が聞こえたところで、ぷっつりと糸が切れるように私の意識は闇の中に沈んでいった。
……私が目を覚ましたときにはすでに数日が過ぎていた。
私は図書館とは違う綺麗な部屋でベッドに眠らされていて、ベッドの近くには椅子に腰掛けて優雅に果物を切り分けているエルミナ・グリモワール……学園理事長がいる。
「起きたのかい、レトラ。大事がなくて良かったよ。少し時間はかかるが、お前の怪我は問題なく治るだろう。世界最高の魔女であるあたしが保証しよう」
「……エルミナ様が自ら治療を?」
「あたしは可愛い弟子のために力を惜しむような畜生ではないよ」
「……ありがとうございます」
最高峰の魔女の治癒魔法を受けられるのだ。これほど安心できる言葉はないだろう。
「その……」
目を伏せる。そして、私のほうから件のことについて口に出した。
「申し訳ありません、エルミナ様。私の落ち度で、ジルリオ殿下の名誉が傷ついた恐れがあります」
「いいのよ、お前はなにも悪いことはしていない。あたしこそ、ごめんね。学園で過ごすのはひどく寂しくて……痛いでしょう。お前を受け入れてくれるものばかりではないだろうから」
「そ、そんな! エルミナ様が謝ることなどありません。私が……馴染む努力を怠っているだけです」
「お前のその卑屈になる癖は本当に厄介だね」
顔を伏せた頭上で苦笑いをする声が聞こえる。
「だからね、お前の最後の勘違いを解いてやるために人を呼んである。入りなさい」
「私の勘違い……?」
思わず顔を上げた。
キイと小さな音をたてて扉が開かれて現れたのは、ジルリオだった。
「レトラ、もう体は痛くないか……?」
「あ、ああ……問題ないよ。さすがはエルミナ様だ。もちろん、君が先に治療してくれていたおかげでもあるけれど」
見舞いに来てくれたのだろうか。相変わらず損なほどにお優しい人だ。自分も婚約者関係のトラブルがあるのだから、私のことなど忘れてそちらに集中してしまえばいいのに。仮ですらいつまでも決めないからああいった手合いに勘違いされてしまうのだ。
正直、小説の中のような出来事が目の前で起きて今思い返せば貴重な体験をしたな、などと思ってしまうくらいに現実みのない出来事だった。けれど、彼はそんな現実みのない世界に生きている者なのだ。遠くから眺めるぐらいがちょうどいい。
「レトラ……前に言っていた、手紙を燃やしてくれというお願いなんだが……」
「……それがどうした」
傷口を掘り返された気分になったので、無愛想に返す。
「いくら考えても誰のことかは分からなかった。でも、貴女をそれほど苦しめるような人がいるのだと考えたら、貴女の気持ちがその人に向かっていると考えたら俺はすごく嫌な気持ちになったんだ」
「……ほお」
君のことだよ、なんて口が裂けても言えはしないが。
「なあ、レトラ。君を苦しませるそんな人ではなく、俺にしないか」
「………………うん?」
一瞬、なにを言われているのか分からなかった。
そして言葉を理解したあとでも意味はまるで理解できなかった。
「貴女に好きな人がいると知ったとき以来、俺はどうしてももやもやして気持ちが晴れずにいて、貴女が接触したことのある男子生徒は誰だろうと探したりしたこともある。思えば、これは全て俺が……貴女のことを、その……特別に、思っているからだと、気づいた」
「正気か……?」
手紙を燃やしてくれと頼んだときと言うことが逆になっていた。今度は私が彼の正気を疑って目を丸くする。
「正気だよ。貴女が殺されそうになって、ますますこの気持ちが強くなったくらいだ。どうだろうか、俺を選んではくれないだろうか?」
驚いた。いつのまにかジルリオが選ぶ立場から選ばれる立場になるなどと。
現実逃避気味にそう考えたが、彼は私の手を取って口付ける。
本気だと分かった。
「え、選ぶもなにも……私が手紙を送りたかった相手は……最初から、君、だった……私が、私が恋を叶えるなんてあってはいけないことだと、思って……私は」
呪いの言葉を吐き出す。
自分自身に対して毒となるその考えをもっと垂れ流す前に、エルミナ様が大笑いしはじめたことで私は口を閉じた。
「あははは! お前ねえ、そんなことを後ろめたく思う必要なんてないんだよ。手紙たちも、手紙を書いた乙女たちもお前のことを責めたりなんてしないよ。お前は自分で自分に呪いをかけていただけだ!」
「で、でも私は……」
エルミナ様の大きな手が私の頭に置かれて、微笑みかけてくる。その表情は本当に慈愛に満ちていて、嘘なんてついている様子はない。
「あたしもね、お前が生まれた手紙の中のひとつを書いた乙女だよ。そのあたしがいいって言うんだから、もうお前は自分を許しておやりよ」
「……え?」
「昔のことだけどねえ。結局渡さずに取っておいた手紙をさ、お焚き上げがあるって言うから出してみたんだよ。そしてお前が生まれた。あたしの魔力が少し残っていたんだろうね。だから、お前はあたしの娘なんだよ」
少しずつ、少しずつ事実を噛み砕いていって、飲みくだす。
そして、頬に涙が流れた。
「……本当に、いいのか?」
「俺は貴女がいい。父の説得は必ずする。どうか、俺の婚約者になってくれないか、レトラ」
「ふうむ、説得に足るように努力するのが母の勤めだろうな……レトラ」
「は、はい」
二人に返事をしながら、緊張に肩を震わせる。
「お前は今日から、このエルミナ・グリモワールの正式な娘。レトラ・グリモワールと名乗るが良い。このあたしの娘ならば王も説得することができるだろう。ただし、レトラが魔物である事実は変わらない。お前たちへの風当たりは強いだろう。それでも良いと誓えるか」
「はい、もちろんです」
ジルリオは即答だった。
「……はい」
むしろついていけないのは私のほうだった。
急にいろんな真実が明らかになって、目まぐるしい。混乱しないわけがないだろう。
しかし、じわりじわりとエルミナ様がその苗字を私に与えてくださった事実と、真にジルリオが私を想ってくれている実感が湧いてきて顔を覆う。
「レトラ、お前が自身を蝕む呪いは消え去った。今度はお前の意思で歩み出すといい。二人の恋の旅路に祝福を。この偉大なる魔女が与えるよ」
「あり、がとう、ございます……!」
世界で一番安心できる祝福だった。
――こうして世界ではじめて人と魔物が愛を育み、結婚することになるのでした。めでたしめでたし。
ページを捲る。
読むだけではなく、自ら綴った世界で一番長いラブレターの最後のページを。
「ほら、早くお眠り。子供は寝るのが仕事のうちだよ」
「やだ、もう一度読んで! お母様のお話」
「はいはい、また明日の夜にしよう。困ったな、私のオススメの本はいくらでもあるんだが……」
寝かしつけていた子の背中をさすり、自らもベッドに横になる。
「レトラお母様、絶対、絶対に約束だよ!」
「ああ、もちろんだとも。明日はジルも一緒にね」
「やった!」
枕元の照明を落として子守唄を歌った。
世界で一番幸せな魔物と……その子の今後の祝福を願うように。
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