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自殺代行サービス

作者: 雉白書屋

「……死にたいな」


 夜、バイトを終えて帰り道を歩いていた男は、ふいにそう呟いた。すぐに咳払いし、後ろを振り返る。思ったより声が大きく漏れてしまったのだ。

 誰もいないことを確認した彼は、今度は深く息を吐いた。

 風が吹き抜け、電線を揺らし鋭い唸りを上げる。その音は、まるで彼のがらんどうの胸を通り抜けて鳴っているかのようだった。

 死にたい――そう口にしてしまうことが、最近の彼には増えていた。

 特に病気があるわけではない。だが、健康とも言い難い。体の芯に常に重石があるようで、朝起きても疲れが取れず、だるさが居座る。それがもう何年も続いていた。

 鬱病――学生時代に受けたいじめのせいかもしれない。ふとした拍子に、嫌な記憶が蘇り、虫歯の疼きのようにキリリと精神を刺し、悶えさせるのだ。

 だが、理由はそれだけではない。失敗した過去の後悔、無駄にした時間、見えない未来への恐怖。いくつもの要因が重なり、つい「死んだほうが楽だ」と思ってしまう。そして、その考えに浸っている間はどこか心が安らいだ。

 どうやって死のうか――それは、旅行先を考えるのとさほど変わらないのではないか。彼はそう思っていた。

 もっとも、本当に死ぬ覚悟があるかと問われれば即答できるわけでもない。が、完全にその気がないわけでもない。曖昧なまま、心に燻り続けていた。


「はあ……ん?」


 ため息をついたそのときだった。ふと、電柱に貼られた小さなチラシが目に留まった。


【自殺したいあなた。気軽にお電話を】


 そのチラシには電話番号とともに、そう書かれていた。

『自殺』という文字が無意識に目を引いたらしい。だが、自殺代行サービスとはどういうことだろう。ロープや練炭を用意してくれるのか。あるいは橋の上で背中を押してくれるのか。それとも、ただカウンセラーに繋がるだけか――それが一番現実的だろう。そして、つまらない。

 彼はなんとなくその番号をスマートフォンに保存して、その場を後にした。

 連絡する気は起きず、その後しばらく番号を見返すこともなかったが、頭の片隅にはずっと引っかかっていた。


「はあ……」


 とりあえず、とりあえず……。とりあえず、今日も生きている。明日も――。

 そんなふうに自分に言い聞かせながら、彼は日々を送る。そしてある夜、“とりあえず”あの番号を押した。


『はい、お電話ありがとうございます。こちら、自殺代行サービス≪モーシヌ≫でございます』


 スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、明るすぎず、かといって淡々としているわけでもない、落ち着いた声だった。


「えっと、その、自殺を考えているんですけど……」


 とりあえずそう口にした瞬間、胸の奥から何かが込み上げてきた。堰を切って言葉があふれ出しそうな気がして、彼はぐっと息を呑んだ。

 だが、相手は淡々と指定の日時と場所を告げ、それだけで通話を切った。ものの数分にも満たないやり取りだった。

 カウンセリングが始まるかと思ったが……と、彼は首をひねった。

 何か質問していれば、もう少し会話が続いていたかもしれない。ただ、心情を吐き出すことへの抵抗と説明しがたい異様さに、言葉が出なかった。


 ――まあ、直接会えばわかるか。電話で話せるようなことでもないし、向こうも警戒しているのかもしれない。


 彼はそう自分を納得させたが、同時に胸の奥に警戒心が芽生えた。詐欺や新興宗教、あるいは犯罪組織の勧誘かもしれない。弱者を食い物にするような罠。自殺志願者など、ネギを背負った鴨よりもよほど料理しやすそうではないか。

 不安は拭えなかったが、結局彼は指定された場所へ向かうことにした。とりあえず行ってみよう、と。


「……ここか。移動するのかな」


 指定されたのは、夕暮れ時の駅のホームだった。日が沈みかけ、オレンジ色の光が線路のレールに反射している。人々が行き交い、電車のブレーキ音と構内アナウンスが重なり、ざらついた空気が漂っていた。

 彼は落ち着かず、視線を泳がせた。心臓の鼓動を早めているのは期待か、それとも不安か。自分でもわからない。

 そこへ、一人の男が近づいてきた。 


「あの……代行サービスの方ですか?」


「え? いや……」


「あっ、すみません……電話したのかと……」


「あ、いえ! 自分も電話でここに来るように言われたんですけど……」


 青白い顔をした男だった。目は落ちくぼみ、焦点が合っていない。上はくたびれたワイシャツ、下は毛玉のついたスウェットにサンダルを履いている。無精ひげが頬に張りつき、髪は脂で重たげに垂れている。右手で左腕をさすり続けていた。かゆいのかもしれない。


 ――社員か? それにしては、みすぼらしいな……。


「あの、じゃあ、あっち向いててくださいね」


「え?」


「始めますから、ちゃんと、ちゃんと見ていてくださいね?」


「は、はあ……」


 男はそれだけ告げると離れていった。彼は言われたとおり、向かい側のホームに視線を向けた。だが、そこには等間隔に人が並び、電車を待っているだけで特に変わった様子はない。


 ――いったいなんなんだ……。ちゃんと説明してもらうか。


 そう思い、彼は男の消えたほうへ顔を向けた――その瞬間だった。

 影が顔を掠め、そして視界に男の全身が映った。電車に向かって飛び込む、その姿が。

 次の瞬間、重い音がホーム全体を震わせた。

 次いで、何かが宙を舞う。男の左腕だった。千切れた腕がくるくると回転しながら飛び、彼の足元へ落ちた。残りの身体は弾かれて、並んでいた人々に勢いよく激突し、数人が倒れ込んだ。

 甲高い悲鳴――顔に血を浴びた女が尻もちをつき、絶叫した。スーツ姿の会社員の男は膝を擦りながら、わたわたとその場を離れ、他の人々も立ち上がるより先にその場を離れようとする。離れた位置にいた人々は口を押さえて吐き気を堪え、何人かはそのまま嘔吐した。ただ、多くの者がスマートフォンを掲げて目をぎらつかせていた。

 男の手足は踏みつぶされた虫のように不自然な角度に折れ曲がり、頭部は潰れた果物のように変形している。割れた頭の隙間からどろりと血が流れ、床に広がっていった。

 混沌の中、彼は呆然とその場に立ち尽くした。耳の奥で、人々の悲鳴と現場をどうにか収拾しようとする駅員の声が遠く反響していた。

 スマートフォンの震えを感じた。彼はゆっくりとポケットから取り出し、通話ボタンを押した。目覚ましを止めるような無意識の動作だった。


『こちら、自殺代行サービスです。いかがでしたか? 何かご不満な点がありましたら、遠慮なく申しつけ――』


 事務的な声。だが、言葉は彼の耳にはまるで入ってこなかった。

 胡乱な目つきのまま帰宅し、彼はベッドに倒れ込んだ。腹はそこそこ空いていたし、尿意もあった。だが、何もする気になれない。全身の筋肉が強張り、頭は熱を帯びていた。それでも、いつの間にか深い眠りに落ちた。


 翌朝――彼の世界は、まるで塗り替えられたかのように変わっていた。胸の重さが消え、空気が澄んで感じられた。

 彼は長年惰性で続けていたフリーター生活に区切りをつけて職探しを始め、やがて小さな会社に就職した。職場の人間関係や業務の忙しさに悩む日もあったが、顔が曇ることはなかった。

 あの日、目の前で見た自殺――あの瞬間、自分がそこで死んだような気がしたのだ。

 もう自殺を考える必要などない。なぜなら、もう死んだのだから。死んだ気になって前向きに生きればいい。どうやら、それがあの『自殺代行サービス』の本質的な効用だったらしい。

 普通の人生を送ること。何者かにならなくていい。誰にも迷惑かけずに静かに穏やかに。それから、ほんの少しだけ幸せになる。ただそれだけを目指せばいい。それで十分。

 そんな思いを胸に、彼は日々を送った。


 ――あとは結婚することくらいだな。 


「これでよし……ん?」


 そう思い立ち、マッチングアプリに登録したそのときだった。スマートフォンが震えた。どこか見覚えのある番号。思い出せないまま、彼はとりあえず通話ボタンを押した。


『こちら、自殺代行サービスです』


「え、あ、どうも……」


 あの抑揚のない声が鼓膜を打った。突然の連絡に、彼は思わず姿勢を正した。


「えっと、あの、おかげさまで、あれから――」


『本日は、自殺のご依頼のお電話をさせていただきました』


「……え?」


『来週火曜、午後三時にマルハビルの屋上から飛び降りてください。位置は床の赤いテープをご確認いただき――』


「え、え、あの、ちょ、ちょっと待ってください。ど、どうしてですか? なんで、僕が死ななきゃいけないんですか!?」


『先送りされていた自殺の実行をお願いしております』


「さ、先送り……? じゃあ、あの人も、あ、これって、そういう……ははは……いや、あの、嫌です……絶対に嫌です!」


 冷たい汗が噴き出し、彼はスマートフォンを落としそうになった。喉が詰まり、手足は震え、目の奥が焼けるように熱い。涙と尿意が同時に込み上げ、身体が芯から冷える感覚に襲われ、歯ががちがちと鳴り始めた。

 とんでもないところに電話してしまったのだと、今さら気づいた。遅い、遅すぎる。逃れられない――その予感が背骨を這い上がってきた。

 それでも、かすかな希望に縋るように彼は声を絞り出す。


「あの、お、お金とか払いますから……お願いします、お願いします……」


『かしこまりました。では、自殺の件は取り下げで結構です。お時間をいただき、申し訳ございませんでした』


「へ? あっ……」


 あまりにもあっさりした回答に彼は返す言葉を失った。電話が切れたあともしばらく動けず、その場に立ち尽くした。

 やがて、胸の奥からじわじわと何かが込み上げてきて、彼はへたりと座り込んだ。

 生きている――その実感が、あの日の感覚のように押し寄せ、彼は喉の奥から突き上げる叫びをそのまま漏らした。言葉にも満たない、生の噴出であった。

 それからの日々は、穏やかに流れていった。


「へー、意外。免許取るの遅かったんだ」


「まあ、いろいろあってね。でも、ある日を境に……なんというか、いろいろ前向きになったんだ。まあ、いいやその話は。ははは!」


 ある日、彼は郊外の店へ車で向かっていた。助手席に座るのは彼の妻。そう、彼は家庭を持ち、立派な社会人としての日々を送っていた。傍目には人生に絶望し、自殺を考えたことのある男には見えない。いっぱしの真人間だった。


「ふふ、なにそれ。でも気をつけてね。事故とか嫌だから」


「大丈夫、大丈夫。慣れてきたし、安全だって。ほら、スムーズなもんだろ?」


「慣れ始めが一番危ないんでしょ。もう、ふふふ」


「ははは!」


 車内に笑い声が跳ねる。近い未来、そこに子供の声が加わるだろう――そう彼は夢想した。


「でも、念のため事故代行サービス、頼んどけばよかったかなあ。なーんて」


「……え?」


「あ、この先にうどん屋さんできたらしいよ! お昼そこにしない?」


「いや、え? 今、事故代行サービスって……」


「ん? ああ、友達がそんなこと言ってたの。そういうサービスがあるんだって。事故死代行だっけ? 受けとくと事故に遭わないとか。まあ、おまじないみたいな――え、ねえちょっと、前見てよ。ほら、前! 前――」

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