月光の呼び声
霧崎町の港は、夕暮れになると塩の匂いと波の音に包まれる。霧島悠斗はイヤホンを耳に押し込み、ギターケースを背負って駅前の坂道を登っていた。オレンジ色の空に、かすかに赤い月が滲む。17歳、高校2年生。1ヶ月前にこの町に引っ越してきたばかりだ。
「…遅刻かよ。やばいな。」
悠斗はスマホの時計をチラリと見て、足を速めた。軽音楽部の練習に間に合うかどうか、ギリギリのラインだ。霧崎高校の軽音楽部は、文化祭に向けて新曲を準備中だった。悠斗は転校生ながらギターの腕を買われ、半ば強引に部に引き込まれた。
校門をくぐると、校舎の屋上から軽やかな歌声が聞こえてくる。佐伯葵の声だ。葵はクラスメイトで、軽音楽部のボーカル。明るくて、誰にでも優しい。あの声には、なぜか胸がざわつく。
「悠斗! 遅いよ、ほんと!」
部室のドアを開けると、葵が手を振って笑った。長い黒髪をポニーテールにまとめ、ギターアンプの前でマイクを握っている。隣ではドラムの先輩・高木亮がスティックを回し、ベースの後輩・小林陽菜が気弱そうに弦を爪弾いていた。
「わり、電車が遅れてさ。」悠斗はギターケースを下ろし、適当に誤魔化した。
「言い訳はいいから、早くセッティングして! 文化祭まで時間ないんだから。」葵が頬を膨らませる。
「はいはい、了解。」悠斗は苦笑し、ギターを手に取った。
練習は順調だった。葵の歌声に合わせて、悠斗のギターがメロディを刻む。亮のドラムがリズムを刻み、陽菜のベースが控えめに響く。曲は葵が書いたオリジナルで、どこか切ないメロディが悠斗の心に引っかかった。
「いい感じじゃん! これ、文化祭でバッチリ盛り上がるよ!」亮がスティックを掲げて叫ぶ。
「でも、悠斗のソロ、もっと感情入れてよ。なんか…遠慮してる感じする。」葵が首を傾げる。
「遠慮? んなことないよ。」悠斗は目を逸らし、弦を軽く弾いた。感情か。自分にそんなもの、どれだけ残ってるんだろう。
夜9時。練習を終え、部員たちは校門で別れた。悠斗は一人、霧に包まれた町を歩く。イヤホンから流れる音楽が、静かな港町の夜に溶け込む。家族を失ったあの日から、音楽だけが悠斗の心を繋ぎ止めていた。
ふと、時計を見ると11時59分。駅前の時計塔が、鈍い音で深夜0時を告げる。
――ゴーン。
その瞬間、世界が歪んだ。
空が赤く染まり、街灯が不気味に明滅する。波の音が消え、代わりに遠くで唸るような低音が響く。悠斗の足元に、黒い霧が這う。
「なんだ…これ?」
イヤホンを外すと、静寂が耳を刺す。町が、まるで別の世界に変わったようだ。
路地裏から、獣のような咆哮が響く。悠斗が振り返ると、赤い瞳が闇の中で光っていた。影獣――人の形を歪めたような、黒い霧の塊。鋭い爪が月光に輝き、悠斗に向かって飛びかかる。
「っ!?」
咄嗟に転がって避けるが、肩に鋭い痛みが走る。シャツが裂け、血が滲む。
「くそっ、何だよこれ!」
逃げようとした瞬間、背後から声が響いた。
「そこ、動かないで!」
鋭い声とともに、鎖のような光が影獣を貫く。獣は断末魔を上げ、黒い霧となって消えた。悠斗が振り返ると、葵が立っていた。彼女の手には、青白く輝く鎖が握られている。
「葵!? お前、なんで…?」
「説明は後! 早く、こっち!」葵は悠斗の手を掴み、走り出す。
二人は廃墟と化した町の路地を駆ける。葵の目は真剣で、いつも笑顔の彼女とは別人のようだ。
「ここ、影界。月影の刻に現れる世界。影獣は人の恐怖や絶望から生まれるの。」
「影界? 月影の刻? 何だよそれ!」悠斗は混乱しながら叫ぶ。
「あとで話す! とにかく、生き延びるよ!」
葵の声に、恐怖と信頼が混じる。悠斗は彼女の手を強く握り返した。
路地の先で、黒い霧が再び集まり、新たな影獣が現れる。葵が鎖を構えるが、獣の数が多すぎる。悠斗は無意識に叫んだ。
「くそっ、俺だって…!」
その瞬間、胸に灼けるような痛みが走る。悠斗の左手に、月型の刻印が浮かび上がる。
「――契約を、結ぶか?」
頭の中に、低い声が響く。悠斗の視界が揺れ、家族の死がフラッシュバックする。母の叫び声、父の倒れる姿。あの夜、助けられなかった後悔。
「…結ぶ。俺に力をくれ!」
刻印が輝き、悠斗の手から青白い刀が現れる。体が軽くなり、まるで別の自分が動き出す。
「悠斗!? 待って、契約は…!」葵が叫ぶが、悠斗は影獣に飛びかかる。
刀が獣を切り裂き、黒い霧が散る。だが、戦いが終わるたび、悠斗の指先から淡い光の塵がこぼれる。胸の刻印が熱を持ち、冷たい感覚が体を這う。
「悠斗、大丈夫!?」葵が駆け寄り、彼の肩を掴む。
「…ああ、なんとか。」悠斗は息を切らし、笑ってみせる。だが、葵の目は不安に揺れていた。
時計塔が再び鳴り、影界が消える。町は元の静かな夜に戻る。悠斗と葵は路地に立ち尽くし、互いを見つめる。
「悠斗…あんた、月影の契約を結んだね。」葵の声は静かで、どこか悲しげだ。
「それ、なんだ? この力…」悠斗は左手の刻印を見つめる。
「命を削る力。刻印者は…長くは生きられない。」葵の言葉に、悠斗の胸が締め付けられる。
「でも、俺は…もう後悔したくない。」
葵は唇を噛み、目を逸らす。「…バカ。勝手に死なないでよ。」
遠くで、波の音が響く。赤い月が、二人を見下ろしていた。