イヤミスの考察
……お父さん、お父さん。なに読んでるの? ……
覗き込んで聞いた私に
「六花も読んでみるか?」
そう言って父がくれた本は小難しい推理小説だった。
冬里六花は自室の本棚からボロボロになった一冊の本を手に取り
「よく考えたら小学校入学前の5歳の子供に本格推理小説はないよね」
とボヤキ
「今はもう読めるようになったけど」
と段ボール箱に詰め込んだ。
厳選に厳選を重ねた30冊の推理小説。
ドラマになった有名な小説から絶版になった小説まで、六花の好みに嵌った本ばかりを詰め込んだ。
そして、段ボール箱に封をすると送り状を張り付けて自室の戸を開けた。
そこに父親の冬里六月が立っており小さく息を吐き出すと
「貸しなさい」
と六花が運ぼうとしていた段ボール箱を奪って玄関で待っていた宅配集荷の男性に差し出した。
父親の大反対を押し切って徳島のこの家から新しい下宿のマンションへ送る荷物である。
父の機嫌が良くないことも理解できた。
六花は父親の六月を見ると
「ごめんね、お父さん」
と告げた。
六月はため息を零すと彼女の頭を撫で
「もういい」
と答え
「無理はするな。それから手紙はちゃんと送ってきなさい。東京へ行くのを許す代わりの約束だからな」
と告げた。
六花は頷くと
「私……大学に入ったらお父さんの大好きな『推理小説』の研究を沢山して来るから。きっとお父さん以上に詳しくなってるよ。推理小説研究者になるんだから」
と笑顔を向けた。
六月は困ったように笑むと
「今ももう俺以上に読んでいるだろ? お前にあの本を渡した事を今は少し後悔している」
と告げた。
「東京へ行く切っ掛けになるなんてな」
六花は笑顔で
「でも、他の本でもやっぱり詳しく勉強しようと思ってたよ。私はお父さんに凄く感謝してる。ありがとう、お父さん」
と答えた。
翌日の早朝。
六花は父親の六月に見送られて徳島の実家から東京へと旅立ったのである。
4月から東都大学に通うためである。
梅の花もまだ固い2月下旬のことであった。
☆
六花が新しく生活を始める大都会・東京はとにかく人が多かった。
しかも
「道が複雑すぎる!!」
と六花は当面の服と日用雑貨を詰めた鞄を肩にかけながらカッと目を見開いて告げた。
東京の東都電鉄・文京駅を出た瞬間の彼女の雄叫びである。
それを横で聞きながら彼女の伯父である冬里七月は
「いやいや。これ、普通だからね。マンションから東都大学までは徒歩だから迷わないでくれよ」
と思わず苦笑を零した。
初っ端からこの雄叫びでは心配でならない。
考えれば、徳島の都会ではなくノンビリとした畑と農道と畑と農道と……そんな鄙びた田舎で生まれた時から育ってきた姪っ子である。
行き成り東京へ出てくれば雄叫びを上げてしまうのも仕方がないだろう。
だが。
これからここで暮らしていくのである。
七月は姪っ子の行き先に不安を感じずにはいられなかった。
しかし、六花は心配する伯父の七月に携帯を見せると
「大丈夫です! アルクなびを昨日ダウンロードしておきましたのでご安心ください。七月伯父さん!」
とビシッ! と答えた。
七月はやれやれと肩を竦めながら
「六月から預かった大切な姪っ子ちゃんだから何かあると六月に殴られる」
と天を仰いで息を吐き出し、気を取り直すと
「さあ、こっちだよ」
と文京駅を出て大型ショッピングモールがある商業施設エリアとは反対の住宅街の方へと足を向けた。
マンションや一戸建てが無造作に立ち並ぶ住居区画である。
そこに六花がこれから暮らすマンションがある。
オーナーは彼女の伯父で父親である六月の兄・冬里七月であった。
東都大学を『ディズニーランドに遊びに行く』と嘘をついて受験し、合格した時に
「東都大学かい? それだったら俺のマンションに住んだらいいよ」
と言ってくれたのである。
父親の六月は大激怒して盛大に反対したが伯父の七月が話をしてくれたお陰で渋々東都大学の入学と下宿を許可してくれたのである。
言わば、今回の東京での生活の恩人であり保護者でもあった。
六花は文京駅から徒歩10分の5階建ての独身マンションを前に
「ここですか?」
と七月を見た。
七月は笑みを見せると
「そう、六花ちゃんの部屋は5階の501号室ね。とは言っても一階に一部屋だから5階が六花ちゃんのフロアってことになるからね」
と告げた。
☆
六花は「ほへー」と驚き、七月と共にエレベータに乗り込むと最上階の5階で降り立った。
片方は下へ向かう階段の踊り場で反対側に扉が一つあるだけの正に一階に一部屋の作りであった。
驚く彼女を余所に七月は鍵を見せながら戸を開けた。
家具が備え付けの1LDK。
入って右側に洗面とトイレとユニットバスがあり、左側にキッチンと水回りそして奥の方に広々としたリビングダイニングある。
部屋は狭いがLDKが広いので狭い感じは全くなかった。
七月は部屋の窓の前に立つと道路を挟んで正面にある二階建ての家を指差し
「あそこが俺の自宅兼仕事場だから何かあったら連絡してくれるといいから」
と告げた。
六花は荷物を下ろして
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
七月は「いやいや、ちょうど空いていたからだよ。ラッキーだったね」と言い
「荷物は明日着くんだろ?」
と言って時計を見ると
「6時か。今から行くと少し早いが、まあ良いだろ」
と呟いた。
そして、六花に
「じゃあ、少し早いけど夕食兼歓迎会をしようか」
と告げた。
六花は慌てて小さな鞄を手にすると
「はい!」
と答えた。
七月は頷いて
「じゃあ、これ鍵ね」
と六花に部屋の鍵を渡して
「行こうか」
と声を掛けると部屋を出て一階へ降りた。
一階は部屋と言うよりは店のような作りで七月は
「あ、そうそう。一階は朝7時から夜7時までレストランになっているから自由に使って貰ったらいいからね」
と告げた。
確かにメニューの書かれた看板が置かれている。
七月は更に
「定食は500円と決まっているから外部の人も食べに来るけどマンションの人専用の席があるから気兼ねなく利用してくれていいからね」
と言うと苦笑しつつ
「六花ちゃんは無料でいいんだけど、六月が煩いからなぁ。こういうところが四角四面と言うかカチコチなんだよね」
と肩を竦めた。
六花はくすっと笑って頷き
「ありがとうございます、伯父さん」
と答えた。
夕食はマンションから10分ほど歩いた住宅街の一角にある洒落た洋風レストランであった。
洋館の外観に内装も洋風で店内は明るかった。
六花は予約を入れていたらしい個室へと七月と共に案内され、そこで待っていた三人の人物に目を見開いた。
☆
七月も驚いたように
「おやおや、皆早かったね」
と言い、六花を見ると
「彼らはマンションの住人」
と告げた。
それに左端の長身の青年が
「六花ちゃんですね。俺は田中真守。東都大学2年生で専攻は情報工学科所謂IT系だね」
と告げた。
続いて真ん中の青年が
「えー、六花ちゃんか。可愛い名前じゃん! 俺は伊丹葵な!」
とウィンクすると
「東都大学2回生……専攻は経済学な! よろしく!」
と告げた。
先の田中真守と対照的な性格のようである。
そして最後に一番右の青年が
「初めまして。六花さんか……漢字は六の花?」
と問いかけ
「俺は吾妻輔で六花さんと同じ今年から東都大学生なんだけど専攻は美術だから講義は重ならないかなぁ」
と言いつつ、ジッと六花を見ると
「んー、俺のこと分からない?」
と聞いた。
六花は「え?」と驚くと
「もしかして何処かで会ってました?」
と考えた。
もしそうなら、かなり失礼かもしれない。
スタートからそれは拙いと六花は「う~んう~ん」と悩んだ。
はっきり言って覚えがない。
いや、そもそもそれほど顔や名前を覚えるは得意ではないのだ。
だが、徳島の知り合いなら大体覚えている。
近隣と言ってもこの周辺のように家が多いわけではないからである。
だが、覚えがない。
思いっきり悩む六花に補はガーンとショックを受けてトホホと項垂れると
「俺、売れてないのかな」
とぼやいた。
それに葵が
「いやいや、今をトキメク売れっ子俳優の吾妻輔ちゃんが、なーに言ってる!」
とビシッと手の甲で叩くふりをした。
「花祭の夜にって映画知っている? 六花ちゃん!」
六花は驚いて
「え!? 花まつりの夜に?? 知りませんが……俳優さんだったんですか!?」
と目を見開いて言い
「私、ミステリーしか見なくて! すみません!!」
と罰が悪そうにアワワと答えた。
そもそもアイドルとか俳優とか所謂メディアにあまり興味が無いのだ。
どちらかと言うと小説を読む方の専門なのである。
それに田中真守は苦笑しつつ
「まあ、テレビを余り見ない子はいるからね」
と言い
「六花ちゃん、花祭の夜にって恋愛映画だけど今やってるから見に行ってあげてくれるかな?」
と告げた。
「あ! 奢るよ。一緒に行こう」
六花は慌てて
「あ、いえいえ。大丈夫です。見に行きます!」
と返した。
それに補は立ち上がると
「いやいや、こっちこそゴメン」
と鞄からチケットを出すと
「これ! 宜しく」
と全員に配った。
「思わず自薦する!」
それに葵も真守も七月も苦笑を零した。
『花祭の夜に』の映画チケットだったのである。
☆
六花は礼を言いながら受け取り、頭を下げて
「あ、皆さん私の名前を知っているみたいですけど」
と言い
「私は冬里六花。補さんの言う通り六の花……父が美しい雪の結晶のような心の綺麗な子になるようにと付けてくれました」
と微笑んで告げた。
「東都大学では文学部文学科で推理小説研究者になる予定です!」
それに真守も葵も輔も「「「おおお」」」と声を零した。
葵は笑って
「じゃあ、事件があったら六花ちゃんにGOだね」
と告げた。
六花は思わず
「いえ、私はミステリー小説を読む方で探偵でも刑事でもないです!」
と慌てて心で突っ込んだ。
正に『ないない』である。
だが、補も笑顔で
「そうかー、なるほどなるほど。俺もミステリーに出る時は知らせるよ。その時は見て欲しいかな」
と告げた。
七月は上手く六花が彼らと融け込むのを見守るように笑むと
「じゃあ、自己紹介は終わったし食事を始めようか。六花ちゃんはこっちに」
と告げた。
見計らったように料理が運ばれ、それぞれの話になった。
輔は芸能界で俳優業をしながら大学へ行き、葵もまた働きながら大学へと通っていた。
真守は個人でITの会社を起業してそのお金で勉強をしているのだ。
六花はそれを聞き同じマンションの住人である三人がそれぞれ仕事をしながら大学へ通っているのに思わず腕を組むと
「私もアルバイト探そうかな」
と呟いた。
父親の六月は六花の東京行きを許したときに真剣な顔で
「東京は怖いところだからアルバイトなんてダメだからな!」
と厳命し、実際のところ授業料から生活費全て父と伯父におんぶに抱っこ状態である。
三人の話を聞いて全員が凄く大人に感じる六花であった。
が、それに葵が笑って
「じゃあ、六花ちゃん。俺のバイト先で働く?」
と告げた。
「ミゲルってホストクラブなんだけど、やわ~いホストクラブだから危なくないよ? まあおしゃべりなボーイがいるからそいつだけは注意した方がいいけどね」
そう告げた。
それに七月が息を吐き出して
「葵くん、姪っ子に間違った知識を植え付けないで欲しいな。俺は弟から六花ちゃんのことを重々重々言い聞かされているからそれは却下ね」
とビシッと告げた。
真守も輔も同時に
「「確かに」」
と大いに肯定した。
七月は更に
「六花ちゃんは先ず勉強を頑張ることだね。それが六月に応えることだよ」
と付け加えた。
真守もまた
「そうだね。大学に慣れてから考えた方がいいし、もしどうしてもなら俺が知り合いに声をかけてみるよ。六花ちゃんは文学部だから例えば書店のアルバイトとかね」
と告げた。
六花は笑顔で
「ありがとうございます」
と答えた。
補も笑顔で
「そうそう! 葵さんの感覚少しずれてるから。俺ももし必要なら知り合いに声かけてあげるからさ。まあ芸能関係になるけどね」
と告げた。
六花は頭を下げて
「ありがとうございます。取り敢えずは伯父さんとお父さんの言う通りに勉強がんばることにします」
と答えた。
初心を忘れてはならない。
推理小説の研究者になるのだ。
そして、何よりも父の六月に素敵な小説を沢山届けるのだ。
☆
六花の母の花桜梨は彼女が生まれて産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなり、その後、ずっと父が一人で育ててくれた。
だから、六花はどうしても父が好きな素敵な推理小説を届けたかったのである。
そのために文学部が有名な大学へと行きたかった。それが志願の理由であった。
東都大学は有名な小説家を輩出した文学部が強い大学だったのである。
家の近隣にはそういう大学が残念ながら無く、反対を承知で東都大学を受験したのだ。
六花は歓談する彼らを見つめ
「皆いい人だよね。これから上手くやっていけそう」
と心で呟き
「お父さんに安心してくださいって手紙書かなくっちゃ」
と考えた。
父親の六月に少しでも早く安心してほしかった。
渋々でも自分を送り出してくれたのだから、それに早く応えたかったのである。
大学での生活の在り方なども聞きながら歓談が進み、一時間ほど経つと葵が立ち上がって
「あ、そろそろアルバイトの時間だから」
と告げた。
七月は頷くと
「ああ、そうだね。気を付けていってきなさい」
と告げた。
葵は頷くと
「ごっちになります!」
と頭を下げて鞄を持つと個室の戸に手をかけた。
真守も輔も
「「問題起こすなよ!」」
と見送った。
六花も何か言わないといけないと思い
「頑張ってください!」
と告げた。
葵は一瞬目を見開いて振り向くと苦笑して
「……わかった! 今日は頑張ってお客さんにたんまり貢がせてくる!」
と手を振った。
彼の仕事はホストクラブのホストである。
六花は「ギャー」と心で雄叫びを上げて
「あわー! ちがいます、違います!!」
と思わず叫んだ。
それに真守も補も七月も思わず抑えきれずテーブルに突っ伏して笑いを零した。
歓迎会は七月の奢りで食事を終えると全員マンションへと戻った。
真守はエレベータに乗る前に六花に
「あ、そうだ。六花ちゃん、パソコンとかは? 冬里さんから大学ではパソコンをよく使うからよろしくって言われているんだけど」
と聞いた。
六花は「あ」と声を零すと
「お父さんにノートパソコンを買ってもらったんですけど私、殆ど使ったことが無くて……設定とかしないといけないとは思ってます」
と告げた。
真守は笑むと
「マンションにはWifiもあるから設定してあげるよ」
と言い
「明日の朝一で一階のレストランの住人用エリアでどうかな?」
と告げた。
六花は笑顔で
「ありがとうございます」
と答えた。
それに補が
「真守さん、後、ワードとかプレゼン用のソフトもチェックしてあげて、良く使うようになるから。ネットで調べていたらそう書いてた」
と告げた。
真守は頷いて
「そうだな」
と答えた。
3人はエレベータに乗りそれぞれの階で降りた。
2階が吾妻輔。
4階が田中真守。
そして、5階は六花であった。
伊丹葵は3階を使っている。
六花は部屋に戻るとベッドに座り窓の外を見つめた。
「お父さん、みんな良い人だったよ。安心してね」
そう告げて小さく欠伸を零すとカーテンを閉めて服を着替えた。
当初こそ初東京の騒がしさにドキドキしたが今は静かで町も眠りに落ちているようであった。
何もない日常。
落ち着いた日常。
きっと、この日々が繰り返されていくのだろう。
六花はそう無意識に感じていたが……その日の夜。
思わぬ事件が勃発し大学が始まる前から大波乱に巻き込まれることになるのである。
☆
その事件は伊丹葵の職場で発生した。
葵がアルバイトをしているホストクラブ『ミゲル』は会員制で入店は予約のみ、常に『誰が今日の客か』が分かる状態になっていた。
この日の葵の客は浅田秋子という女性で彼女は上機嫌で訪れていた。
浅田秋子は50代の主婦で息子は既に独り立ちし、夫は元々仕事仕事の人間。
その寂しさから近隣の同じ主婦から誘われてこのホストクラブに通うようになり、今では常連となっていた。
中でも葵に入れ込んでいるのは彼が若い頃に好きだったアイドルに似ているからと言う理由らしいが自重はしているらしく彼女が店へやってくるのは2ヵ月に一度で使うお金は2万ほどであった。
ミゲルでは『売掛』制度は利用していなかったので店に来る女性たちはホストに借金をするという事はない。
葵もその方が気楽で他にも贔屓の客が何人かいるので歩合が少ないという事もないので売り上げの多い少ない関係なく同じように接していたのである。
だが、この日の秋子は葵に
「今日は楓くんに思いっきり貢ぐからね!」
と席に座った途端に
「シャンパンタワーしましょう!」
と告げたのである。
楓というのは葵の店での源氏名で店では『楓』と呼ばれているのである。
葵は彼女の言葉に目を見開くと
「え!? 秋子さん。俺は良いけどシャンパンタワーは……その……高いよ?」
と告げた。
台の上にシャンパンのグラスをピラミッド状に並べて上からシャンパンを流し込むというモノだ。
店でもかなりの稼ぎになり大歓迎されるが、それこそ使うシャンパンによってはン十万ン百万するのである。
ホストであっても葵には一般的な金銭感覚があり、彼女の日頃を知っているだけに突然言われると思わず制止体制に入ってしまうのである。
だが、彼女は笑顔で
「いいの! この前、他の人にしてもらって喜んでいたんしょ? 今日は特別! いいえ、これから一杯してあげるわ」
と告げ
「これまで自重してきたんだもの、もうしたいようにするの! 楓くんに稼がせてあげる」
と言い
「前にいた櫂君のお陰で金の成る木が手に入ったんだもの……一本はダメだったけどもう一本あるわ」
と小さく呟いた。
そして、ボーイの真野翔に
「シャンパンタワーお願い!」
と呼びかけた。
呼びかけにオーナーの正岡一郎もボーイたちも集まり盛り上げ始めた。
シャンパンタワーはホストクラブでも一大イベントの一つなのだ。
例え自分の客でなくても全員がノリノリで盛り上げないといけないのである。
それにボーイの畦地友也が慌てて奥に入ると暫くして台とグラスを用意してワイングラスを飾り付け始めた。
オーナーの正岡一郎は時計を見ると
「お、畦地。真野と代わって倫子の迎えを頼む」
と告げた。
畦地友也は笑顔で
「あ、はい」
と答え、グラスを真野翔に渡した。
が、正岡一郎は携帯が震えると手に取り着信に出ると
「ん? ああ……分かった」
と答え
「悪い、倫子から30分後にと言ってきた。準備を続けて手伝ってくれ」
と指示を出した
真野翔は舌打ちしながら
「奥さんの送迎なんて……お前がやってることを知らないからオーナーは贔屓するんだろうけどな。上手く取り入りやがってホスト殺しのカナリヤ野郎」
とこそっと畦地友也に囁いて、グラスを丁寧に拭いて一番上に乗せた。
☆
戸惑う葵と上機嫌な浅田秋子に畦地友也が
「準備できたのでこちらへ」
と誘った。
葵も何時もと違う立ち位置で戸惑いつつも案内係の畦地友也に勧められて天井の防犯カメラをぼんやりと見つめながらハァと息を吐き出し、それ以上に浅田秋子の懐具合を懸念しつつも
「ありがとうございます!」
と移動して上から彼女とシャンパンをどんどんと流し込み全てのグラスにワインが行き渡ると、一番上のグラスを彼女に手渡した。
自分は次のグラスを手に、他の面々もそれぞれがグラスを手に乾杯をしたのである。
そして、浅田秋子が一口飲んだその瞬間であった。
彼女は急に咳込み始めると胸を抑え悶えると倒れ込んだのである。
目の前で行き成り倒れた彼女に畦地友也は思わず驚いて避けると台を奥に倒して慌てて屈んだ。
何がどうした? という感じである。
真野翔も顔を向けて葵を見ると
「おい! どうしたんだ!?」
と呼びかけた。
葵は呼びかけに暫し呆然としたものの慌てて
「秋子さん!」
と屈んで叫んだ。
正岡一郎も驚いて立ち尽くし、ホストの上田七三生が我に返ったように
「救急車! 救急車!!」
と周囲の人間に呼びかけた。
まさかである。
何が起きているのか誰も分からない状態であった。
店内は大混乱となり、他にも「殺しだ!」などと声も飛び交った。
全員が暫く呆然としていた為に真野翔が慌てて救急車と警察に連絡を入れ、少しして同時に救急と警察が駆けつけた。
葵がシャンパングラスを渡し、それを飲んだ直後に浅田秋子は倒れたのである。
幸い彼女が手にしていたグラスは散乱して割れたグラスには混じっていなかったが現場はぐちゃぐちゃな上に騒然としていた。
彼女のグラスなどを鑑識が調べる中で警察は全員の身体検査と証言を取り本郷と名乗る刑事が事情聴取後に葵を見ると
「伊丹葵くんか……署の方で詳しく聞こうか」
と警視庁へと連れて行ったのである。
彼が逮捕された連絡が冬里七月の元に届いたのはそれから1時間ほどしてからであった。
七月にしたら正に寝耳に水の話である。
が、彼は彼の知り合いの弁護士に連絡を入れると直ぐに警視庁へと出向いた。
六花が聞いたのは更にその後の翌朝であった。
「え!? 葵さんがお客さんを殺したんですか!?」
マジですか―――!
と、思わず雄叫びを上げた。
昨日話をした感じでは全くそんなことをする人物に見えなかったからである。
☆
それに補が慌てて
「いやいや、違うよ! 落ち着いて六花ちゃん!」
と告げた。
真守も頷いて
「彼はそんな人間じゃないよ」
と冷静に答えた。
朝の食事の場での話である。
朝7時に一階のレストランで朝食をとっていた時に真守が告げたのである。
七月が警察へ行って話を聞いてくるので六花のパソコンの設定と共に近隣にある店とかを教えておいて欲しいと頼んできたからである。
真守にしても正に寝耳に水の話であった。
一年以上を共に暮らしてきたのだ。
葵の性格などは熟知していたのである。
補は朝食をとるのと2人の作業をそれとなく見ようとレストランの住人用スペースに来ていて六花と共に聞いたという事である。
全員の前には朝食のトーストとスクランブルエッグと紅茶とヨーグルトとサラダが置かれていたが暫くの間は誰も手付かずの状態であった
六花は漸くパンを一口食べて
「でも推理小説のような事が東京では本当に起きるんですね。驚きです」
と呟いた。
今まで全く経験のない話である。
彼女にとって事件などは小説の中だけの出来事のようなイメージであった。
だが、と六花は考えると
「葵さんが無実なら救わないとですね!」
と告げた。
それに真守と補は六花を見た。
補も腰を浮かして大きく頷き
「だよね! 同じマンションチームだからね!」
と答えた。
……。
……。
マンションチームってなんだ? と真守は思わず心で突っ込んだ。
しかし六花も輔の言葉に大いに頷くと
「ですよね! マンションチームって素敵な言葉です! 絆感じます」
とグッと手を握りしめた。
……。
……。
え!? 待ってくれ、絆って? と真守は六花のパソコンのキーボードの上で手を止めたまま思わず硬直した。
六花は笑顔で
「葵さんを救い出しましょう!!」
と告げた。
補は腕を上げて
「おー!」
と声を上げた。
真守は冷静に
「あ、いや。無理はダメだからな」
と告げた。
六花は彼を見て
「ご心配ありがとうございます。真守さんも一緒に頑張りましょう」
と告げた。
真守は目を見開くと
「え!? 俺もチームの一員になっていたのか!?」
と心で叫んだ。
補は笑顔で
「真守さんも一緒なら正に三本の矢だよね! 解決できる!」
と告げた。
真守は一人取り残されたように冷静に
「本当に……解決できるのか?」
と心で呟いた。
突っ込みどころが多すぎてどう突っ込んで良いのか分からない真守であった。
☆
六花は2人を見ると
「先ずは現場100回です。事件があった会員制ホストクラブ『ミゲル』へ行きましょう。事情聴取も必要です」
と告げた。
推理小説を読んでいるだけにそう言う知識はあった。
だが。
だが。
真守は息を吐き出し
「それはダメだ」
と言い
「恐らく警察が規制線を張って立ち入り禁止にしていると思う」
と告げた。
所謂、黄色い立ち入り禁止のテープで囲っているという事だ。
六花は頷くと
「確かに。では警察に事件の状況を聞きに行きましょう」
と告げた。
「恐らく鑑識などで指紋採取とかしていると思うし毒の種類や毒の入手ルートを割り出していると思います!」
そう付け加えた。
流石に知識だけはある。
真守は思わずふぅとため息を零した。
六花は更に
「推理小説では探偵だけで解決できることは殆どなくて警察の協力は必須事項です。協力を仰ぎに行きましょう!」
と拳を作って告げた。
輔はそれに
「さすが! 推理小説探偵!」
と目を輝かせた。
だが、である。
真守はフムっと
「まあ、簡単には教えないだろうし現実を知れば六花ちゃんも補君も冷静になるだろう」
と冷静に考えて
「わかった。そうしよう」
と答えた。
大学が始まるのは4月。
まだ一ヵ月以上もあるのでその間にパソコンの設定をすれば良いと真守は判断すると
「半日ぐらい良いか」
と軽く考えてパソコンを預かると食事を終えて車で彼らを警察へと連れて行くことにしたのである。
早々に諦めさせて大人しく警察に任せる方向に持って行くつもりだったのである。
六花は出発前に一度部屋に戻りメモパッドとICコーダーを手にすると
「作家先生にインタビューに行ったとき用にって思っていたけど、こんなところで役に立つなんて」
と感慨深げに呟き
「葵くん救出大作戦! 頑張らないとだよね」
と鞄にそれらを入れて部屋を出た。
補は目深に帽子を被り伊達メガネをして既に真守の車の助手席に乗っていた。
六花は後部座席に乗りながら
「お待たせしました! よろしくお願いします!」
と声をかけた。
やる気満々である。
真守は2人が来るまでに七月に携帯で連絡を入れて事と次第を報告してした。
一応、七月は六花の東京での保護者であり、自分たちの後見人的な役割も担っている。
報告は必須であった。
七月は既に彼の顧問弁護士の見禰君生に連絡して共に警察で事情を聞いており、何があっても対応できるようにしていたので真守からの電話を受けても
「あー、まー、六花ちゃんと補くんが合体すればそう言う方向性もあったね」
とアハハハと何処か軽く答えて
「悪いけど暫くお目付け役宜しく!」
と全て丸投げの返答をしてきたのである。
真守は苦笑いを浮かべて
「合体って……特撮ものじゃないんですけど」
と呟き、ふと
「でもあの六花ちゃんならこういう展開はあったかな」
と目を細めて笑みを浮かべた。
彼は2人を乗せると車を警視庁へと走らせた。
☆
警視庁は東京都内をメインに総合的に管轄する警察の一つの心臓部である。
その上が警察庁なのだがこの二つの組織は隣接して建物があった。
彼らの住むマンションから車で16分ほどの距離で真守は警視庁の駐車場に車を止めると二人を下ろして鍵をかけた。
六花はドーンと聳える建物を見上げ
「ここが推理小説ではある意味定番の建物……警視庁! 凄い!!」
とカッと目を見開いて呟いた。
ドラマや映画などではよく登場し、見慣れた建物だが実物は初めてである。
映像とはやはり迫力が違っていた。
補は反対に笑顔で
「わぁ、久しぶりだな~」
と呟いた。
六花は「なっ!」と鋭い視線を向けると
「まさか……補さんはよく警察のご厄介に!?」
と聞いた。
補は慌てて
「じゃなくて! ドラマで使ったりしたから」
と冷や汗を掻きながら六花の言葉に修正を加えた。
警察によくご厄介などと、とんでもない話である。
六花は彼の言葉に
「あ、そうだったんですね」
とあっさり矛を下げ、足を踏み出すと
「行きましょう」
と歩き出した。
真守は2人のやり取りを前に
「まるで漫才コンビだ」
と心で突っ込みつつ黙って六花達の後ろについて足を進めた。
警視庁前はそれなりに人が行き交っており、出入り口の自動ドアも忙しく開いたり閉まったりを繰り返していた。
決して閑散としている訳ではないのである。
そこに一人の男性が足早に出てくるとふっと足を止めて
「貴方は」
と呟いた。
それに六花は疑問符を飛ばして首を傾げ
「私?」
と指をさしつつ、男性が見ている視線の先を追った。
補も
「俺?」
と自分を指しつつ男性の視線を追い、2人して真守を見た。
真守は苦く笑みを浮かべ
「こんな時にこんなところで」
と思いながら小さく会釈した。
男性は近付き
「お久しぶりですね、元気に過ごされておられましたか?」
と真守に聞いた。
六花は男性と真守を交互に見て
「もしかして」
と呟いた。
真守は六花と補に
「あ、この人は警視庁刑事部捜査一課の本郷沙介さんで一寸した知り合いなんだ」
と少し言葉を濁しつつ告げた。
六花はそれに「おお!」と声を零すと
「あの、昨日の夜の事件のことを聞きたいんです!」
とメモパッドとICコーダーを素早く取り出して
「葵さんは私たちの知り合いで……彼が犯人でないことを証明したいんです」
と告げた。
メモパッドにICコーダーとはまるで新聞記者のようだと本郷沙介は一歩後ろに引いてチラリと守を見た。
「このお嬢さんはもしかして真守さんの知り合いですか?」
そう問いかけた。
真守はふぅと息を吐き出して頷き
「ええ、実は昨日の事件で逮捕された伊丹葵くんは俺たちと同じマンションの知り合いで俺も彼が人を殺すとは思えなくて捜査状況を確認しようと来ました」
と告げた。
早々に諦めさせるつもりだったが、真守が考えていたことと違う流れへと変化した。
思わぬ出会いが思わぬ流れを生む。
正にそう言うことである。
☆
本郷は警視庁に出入りする人々を一瞥して小さく息を吐き出すと
「ここではな」
とぼやき
「こちらへ」
と歩き出した。
六花と補と真守は彼について足を進め、一軒の落ち着いた愛らしい喫茶店へと入った。
そこの奥にちょうど中からも外からも死角になる席があり、4人はそこに座ると店員に飲み物を頼んだ。
本郷は店員が去ると三人を見て
「それで?」
と聞いた。
つまり、多少なりとも協力するつもりはある。
そう言うことなのだろう。
六花はメモパッドとICコーダーをテーブルに置いて
「あの、先ず警察の方では葵くんはどういう扱いでしょうか? 重要参考人というか犯人だと思われているのでしょうか?」
とビシッと聞いた。
「もしそうなら理由を聞きたいです」
とも付け加えた。
言葉を濁すつもりも遠回しに聞くつもりもないということだ。
本郷はある意味やりやすいと思いながら頷くと
「彼が最重要容疑者であるというのが正解だな。浅田秋子の側にいて彼女が毒を口にしたとされるワイングラスに最後に触れているのは彼だからな」
と告げた。
六花は「なるほど」と頷きながら
「つまりワイングラスから毒が出てきたという事ですね」
と告げ
「ワインからは出てきていないんですか?」
と聞いた。
ワイングラスに毒が塗っていたのか。
ワインに混入されていたのか。
そう言うことである。
本郷は手帳を見ながら
「ワインからも多少の毒は検出されている。ただワイングラスの縁に塗られていたものが混入したと考えている」
と答え、続けて
「彼女の手にしたグラス周辺のワインからしか毒は検出されなかった。そういうことだ」
と告げた。
「まあそれだけなら今から捜査を更に突き詰めようと調べる必要はないんだが色々と気になるところがあって彼は最重要容疑者だが他に犯人がいるのではないかという見方もある」
と説明も付け加えた。
つまり、状況的に犯人に一番近いのは伊丹葵だが、他にも犯人になりえる人間がいるのではないかと警察は考えて捜査を更に進めている。
そう告げているのである。
☆
六花は少し考えて
「その理由は何ですか? 被害者に恨みを持っていた人間がいたとかですか?」
と聞いた。
本郷は少し考えてチラリと真守を見ると
「彼女は探偵なのですか?」
と聞いた。
真守は少し考えて
「まあ、その力があるかどうか今回の件で見極めようかと」
と有体に言うと嘘を告げた。
そう言わなければきっとここで終わりだと判断したからである。
成り行きだとしてもここで警察に全て預けましょう、という気持ちに真守もならなかったのである。
つまりは乗りかかった船である。
六花と補は2人のやり取りに疑問符を飛ばした。
六花に至っては『私、探偵になった記憶ありません』である。
が、真守の言葉に本郷が立ち上がり六花に
「じゃあ、ついてきなさい」
と言うと六花も輔も目を輝かせた。
無実を証明するチャンスが与えられたのである。
探偵だろうが何だろうが問題なし! であった。
本郷は彼らを連れて警視庁へと戻ると応接室へと案内した。
六花と補はドギマギしながら中へと入り、何故本郷が真守を特別扱いしているのかまで思い至ることが出来ずにいたのである。
それ以上に何もかもが始めて尽くしでそれどころではなかったのである。
本郷は三人を応接室で暫く待たせ、ノートパソコンと検死書や写真を持って現れると
「取り敢えず、パソコンを見てくれ。これは店内の事件当時の防犯カメラの映像だ」
とノートパソコンの画面を見せた。
「これらを見て忌憚のない意見を聞かせてもらいたい。それで俺も君の力を見てみようと思う」
そう告げたのである。
六花は目を見開いて「え? いや、私探偵じゃないです」と思いつつも
「葵さんを助けるためなら頑張らなきゃ! これまで読んだ推理小説ン百冊は伊達じゃないんだからね!」
とガッツポーズを心で取った。
ある意味、六花の思考はポジティブ思考であった。
隣では補が
「なんか、思わない方向に何かが向かっている気がするけどノープロブレム! 六花ちゃん頑張れ!」
とこちらもまたガッツポーズを心で取っていた。
どこかパッションが似ている二人であった。
映像はシャンパンタワーが準備されるところから始まっていた。
グラスが拭かれながらピラミッド型に積まれ、それが終わるとカメラから見て奥側に葵と客の女性が誘導されて乾杯するところが流れていた。
2人とシャンパンタワーを囲むようにボーイやオーナーや店員が集まって音頭をとっている。
お祭り騒ぎである。
補は「ほへー」と驚きながら
「凄いね、ホストクラブでこんなことしたら幾らぐらいするんだろ」
と呟き
「ン万からン十万くらいするんじゃないかなぁ」
とはぁ~と息を吐き出した。
六花は隣で呟いている輔の言葉が耳に入っていないのか、ジッと画面を見つめ沈黙を守っていた。
集中していたのである。
画面の中にヒントがひっそりと隠れているかもしれない。
そう考えていたのである。
葵と客の女性がシャンパンタワーの前に立ち、葵が一番上のワイングラスにワインを流し込み下へと流れて下のワイングラスに入っていくのが見えた。
ビンの中身が無くなれば用意されていたビンを手に更にワインを流していく。
次々に使って、全てのグラスにワインが入ると一番上のワインを葵が手に取り、それを女性へと渡してその下の4つのグラスの内の一つを葵自身が手に持って、後に他の人々が次々に他のグラスを手にしたのである。
そして、葵の音頭で掲げて同時に口に運んだのである。
恐らくここまでは普通の光景だったのだろう。
直後に女性が苦しみだして倒れ、葵や側にいたボーイや誰もが慌ててグラスを倒してしまったり騒ぎになり始めたのである。
補はそれを見ると顔を顰めて
「これって……葵さん本当に容疑者になっても仕方ない……よ」
と小さく呟いた。
ワイングラスに最後に触れたのは確かに葵でそれを渡したのも彼であった。
☆
六花は反対に笑顔を浮かべると
「葵さんは犯人じゃないですね」
とさっぱり言い
「おじさんもそれに気付いていたんじゃないんですか? だから調べている。そういうことですね」
と告げた。
補も真守も六花と本郷を交互に見た。
本郷は笑みを浮かべながら腕を組み
「ほう、何故だ?」
と聞いた。
六花はシャンパンタワーを指差すと
「一番上のワイングラスの縁に毒が塗っていたとして、これだけワインを溢れさせて流したとしたら葵さんも他の人たちも毒を飲みます。それに毒は流れてこの女性は反対に死ななかったかもしれません」
と言い
「それにこんな視線が集中しているところで堂々と毒を塗れば直ぐに分かるし、映像にも塗っている様子はないですし……葵さんには彼女に毒を盛ることが出来なかった。つまりこの人はグラスやワインで毒を摂取させられたのではなく違う方法で摂取させられたんだと思います」
と告げた。
補は「あ! なるほど」と呟いた。
「確かに被害者の女性の人が苦しむまでのあいだで葵さんが細工できる状況はなかったよね。カメラにもバッチリ映っているし」
ワインやグラスに先に細工しても流し込んだワインで流れてしまう。
葵がワイングラスを手に彼女に渡すあいだに細工している様子がカメラには映っていなかった。
それ以上に人の目が集中しているので塗れば一目でバレる。
本郷はチラリと真守を見た。
真守は黙ったまま静観していたのである。
六花は止まった防犯カメラの映像を見ながら更に
「そう考えるとワイングラスの縁に毒を塗ったのはこの後の混乱の時だと思います」
と告げた。
本郷は頷いて
「確かに」
と相槌を打つと
「我々も実はそう考えて伊丹葵の容疑は半分だけ薄らいでいる。だが浅田秋子が毒を盛られた瞬間も細工をできただろう瞬間も彼が近くにいたことは間違いない」
と告げた。
それこそが葵が最重要容疑者から外されなかった理由である。
☆
六花は頷いて
「そうですね」
と答え
「でも、葵さんが犯人だとして、ばれないように細工をしつつ一番疑われる行動と場所にいるのはちぐはぐしてますよね? それにこんなに割の良いお客さんを殺す理由がない気がします。つまり動機、それからアリバイ作り、全てがちぐはぐなので真犯人は他にいると思います!」
と告げた。
「おじさんも分かっているんじゃないんですか?」
ニッコリと言われて本郷は苦笑して咳払いをした。
「なるほど、中々智慧の回るお嬢さんだ」
六花は「よし! 葵くんは無実」と検死書を手に取った。
検死書は死体の状況や解剖結果などが細かに記されている。
死の直前に何があったのかを知る重要な手掛かりを見つけられる情報の一つである。
六花は丁寧に検死書を見ながら口を尖らせて
「う~む」
と目を細めると
「手に小さな傷があるわね。腰にも背中とかにも……でも腰や腕には蚊用の丸い絆創膏張ってるわ。もしかして、蚊に刺されやすいタイプの人なのかしら? そう言う蚊に刺されやすい人いるよね」
と心で呟き、パソコンに手を伸ばして
「あの、他のシャンパンタワーの映像とかありますか?」
と言い
「あ、その前に葵くんと周囲の方がなんて言っているか聞きたいです。事情聴取はされたんですよね?」
と告げた。
本郷は頷くと
「もちろんだ」
と答え
「わかった」
と手帳を出すと
「伊丹葵は自分はやっていないという事と彼女が亡くなる前に『今日は特別だ』とそれから『これからも稼がせてあげる』と言っていたそうだな。周囲の人たちはその会話までは聞いていなかったそうだが」
と言い
「ボーイの真野翔は突然彼女が苦しんで倒れたので暫く放心状態だったらしいが『殺しだ!』とか『救急車!』とか聞こえて我に返って慌てて救急車と警察に知らせたらしい」
と告げた。
六花は考えながら
「直後に殺しだって言葉が出るの……変ですよね? 誰が言ったんですか?」
と聞いた。
本郷はそれに
「それが分からん。真野翔も混乱していて誰の声かも分からないって言っていたからな」
と答えた。
更に本郷は
「それからボーイの畦地友也は伊丹葵がワイングラスを彼女に渡して彼女が飲むと急に苦しみだして倒れてびっくりして避ける拍子にグラスを倒してしまったそうだ。オーナーの正岡一郎も何があったのか一瞬分からなかったが直ぐに異常に気付いて救急車と叫んだらしい。何人かが救急車と叫んでいたらしいからその一人だとは思う」
と言い
「ホストの上田七三生も救急車と叫ぶしかできなかったらしい」
と告げた。
「まあ、こんな贅沢イベントが回収したカメラ映像に映っているかは分からないが映像全て提出させたからそれらを流すぞ」
そう言ってパソコンのキーパッドに手を乗せた。
六花も補も真守も頷いた。
☆
本郷は早送りをしながら流し、他にも2回ほどあったシャンパンタワーの映像に関しては通常スピードで流した。
一つはホストの上田七三生と若い女性客のものでオーナーやボーイや他の面々がやはり盛り上げながら、防犯カメラから見てシャンパンタワーの手前で二人が立ちワインを流し込んでいた。
もう一つも葵と40代くらいの宝石などを身に着けた女性だったが同じように防犯カメラから見てシャンパンタワーの手前で立って乾杯してオーナーやボーイが取り囲んで盛り上がっているのが映っていた。
六花はそれを見ると
「葵さんも他のホストさんもいつも同じ席に座ってるみたい。決まっているのかな?」
と呟いた。
六花はホストクラブに行ったことがないので分からなかったのである。
勿論、輔にもわからない。
真守もわからないが
「まあ、店にもよると思うけど」
と返した。
そして、パソコンの画面に事件の映像が流れた。
六花はそれを見ながら不意に
「あの、この人、一旦セッティングを止めようとしていますけど何故ですか?」
と聞いた。
本郷は手帳を見ながら
「ああ、オーナーの奥さんの送迎役らしくて時間になったのでオーナーが声をかけたらしい。だが30分ずらして欲しいという着信があって直ぐに準備に戻ったそうだ」
と答えた。
六花は少し考えて
「そうなんですね」
と頷き
「あ、それからこの途中から手伝った人何か言っているみたいなんですけどなんて言っているんですか?」
と聞いた。
本郷は首を傾げて
「いや、そこまでは聞いていないが何か事件と関係があるのか?」
と返した。
かなり細かいことを聞いてくるなぁ、と思ったのである。
六花は首を振ると
「多分関係ないと思います。でも何となく気になって」
と答えて
「あの、浅田秋子さんのところへ行ってもいいですか?」
と告げた。
「犯人はこの人だと思うので」
そう言って画面を指差した。
それに補と真守は目を見開いた。
☆
本郷は慌てて
「いやいや、待ってくれ。当てずっぽうは困るぞ」
と制止するように手を前に出して
「何でもかんでも犯人に仕立てれば良いって言いうモノじゃないんだぞ」
と告げた。
それこそ冤罪だらけである。
六花は本郷を見ると
「だから、確信を得るために浅田秋子さんのところで探したいんです。動機」
と告げた。
つまり、何かに気付いた。
そういうことである。
本郷は目を細めて
「ほう」
と呟くと腕を組み
「……本当に何か出ると思っているのか? 何も出なかったら俺が困る」
と睨んだ。
六花は笑顔で頷いて
「運が良ければ多分」
と答えた。
「それからこの人の銀行とお金の流れをお願いします」
本郷は笑むと息を吐き出し
「まあいいだろ。ついでだからな」
と答えて立ち上がると、三人を連れて浅田秋子の家へと向かった。
彼女の家は極々普通のサラリーマンの家庭であった。
とてもじゃないが一夜で数十万も使えるような環境ではなかった。
六花と補と真守と本郷は家の中に入り単身赴任から戻ってきていた夫の浅田雄一に許しを貰って彼女の部屋に入った。
机にはパソコンがあり六花は真守を見ると
「あの」
と告げた。
パソコンは使い慣れていないのだ。
まして人のパソコンである。
真守はクスッと笑ってパソコンを立ち上げると、そのままログインした画面を見て
「彼女はパスワードをかけていなかったみたいだね」
と言い
「そういう人良くいるけどね」
と告げた。
六花はそれに「私もそういうタイプになりそう」と心で呟きながら画面を見て
「あの、写真とか画像とかのファイルを見たいんです」
と告げた。
真守は頷くと検索機能を使って画像と写真のファイル一覧を出した。
そして、それらの表示方法を大アイコンに切り替えたのである。
サムネイル表示に近いために開けなくても大体の画像が見ることが出来るからである。
六花は一つを指差して
「これを大きくしてもらえますか?」
と聞いた。
真守は頷いてクリックしてフォトプログラムを立ち上げた。
本郷はチラリと六花を見た。
彼女が示した写真には2人の人物が写っていた。
それも所謂ラブホテルの前で、であった。
六花は写真を見つめたまま
「これなんですね」
と言い
「おじさんも……半分は分かっていたんではないんですか? だから序だと」
と告げた。
「何故、気付いたんですか?」
それに補が
「ええ!? 刑事さんも当たりを付けていたんですか!?」
と思わず叫んだ。
真守も驚きながら本郷を見た。
☆
本郷は苦く笑って
「取り敢えずこれを回収して本庁へ戻るか」
と告げた。
そして、浅田秋子の夫である浅田雄一に許可を貰ってパソコンを回収して警視庁へと戻ったのである。
応接室に彼らを再び案内すると本郷は
「先の話だが、どちらにしても裏取りが終わるまで決めつけは出来ないが」
と前置きをして
「伊丹葵の話から浅田秋子の金回りが急に良くなったという事で誰かを脅しているのではないかと我々は判断した」
と話を始め
「それでミゲルのホストやボーイなどあの時にフロアにいた全員の金の流れを調べた。すると一人だけ高額な金を最近下ろしている人間がいてな。それが畦地友也だったというわけだ」
と告げた。
「それで奴を調べるのと同時にもし脅しているとすれば脅しのネタを彼女が持っている。そう考えるのが普通だろう? だからどちらにしても調べることになるので序でと言ったわけだ」
そう説明した。
「ただ問題はあの時点でのトリックだ」
本郷を含め警察が行き詰っている最大の問題が実行方法であった。
そう言うことである。
それについて六花は笑むと
「一緒に映っていた女性はオーナーの奥さんですよね」
と告げた。
本郷は頷いて
「ああ、こっちとしてもそれ関係だと分かったのでトリックが分れば落とすのは問題ないと思っている。動機も分かったからな」
と告げた。
「それで君が彼を犯人だと思った理由を聞かせてもらいたい。金の流れは知らないはずだからな」
そう、六花に畦地友也の銀行口座や金の流れを知ることはできない。
だが、六花は彼を犯人だと言ったのだ。
つまり、現場の状況を見て彼が犯人だと気付いたということである。
それが本郷の知りたいことの一つだったのである。
六花は頷くと
「先ずセッティング方法です」
と告げた。
本郷は「ほう」と呟いた。
六花は笑むと
「一つは立ち位置の問題です。他の二回は偶然かも知れませんがホストと客の立ち位置が逆でカメラから見れば背中を向けてその向こうにシャンパンタワーがあります」
と画面を指さして告げた。
「でも今回の一回だけはシャンパンタワーの向こう側なので、もしかしたら細工をするのにカメラの位置を気にしていたのかもと考えました」
そう告げた。
六花は更に
「最初の二回と同じ立ち位置だとバッチリ防犯カメラに映りますから」
と本郷を一瞥し
「二つ目は検死書の写真の中にあった背中の虫に刺されたような小さな傷です。これは恐らく注射器か何かの針を刺したものだと思います。彼女の背中にこの傷をつけられるのは真後ろに立っていた彼だけです」
と告げた。
そして、自らの手を見ながら
「手の傷はグラスの欠片で切ったものだし、この腰などには全て絆創膏が貼っています」
と付け加えた。
輔は驚きながら
「なるほど~」
と呟いた。
六花は頷いて
「三つ目に屈んでグラスに細工できる位置にいることです」
と言い、少し顔を顰めて
「あと『殺しだ!』と叫んだ声が彼の声だと判断できれば……間違いないと思いますけど」
と三人を見た。
本郷は「なるほど」と言い
「だが全ては状況証拠だな。物的証拠がなければな」
と告げた。
六花は少し考えて
「問題のグラスに指紋は? それから例えば注射器のようなモノ落ちてませんでしたか?」
と聞いた。
本郷は軽く
「なかったな、それに身体検査でも奴の持ち物からは出なかった。ただグラスについてだが指紋は出た」
と答え
「伊丹葵と被害者の浅田秋子、畦地友也だな。だが畦地はグラスを準備してセッティングして……」
と言いかけて目を開いた。
☆
「そういう事か! 浅田秋子のワイングラスは真野翔が最後に丁寧に拭きながら乗せていたな」
六花は頷き
「恐らく態々ワイングラスに毒を入れたのは注射のトリックを誤魔化すためだったと思います。今のように彼がセッティングしていたので注視しないと指紋がついていても疑われにくいですから」
というと息を吐き出し
「それから彼が倒して大量に割れたグラスの中に同じガラス系だけど違う種類のガラスが混じっていないか調べてもらえますか?」
と告げた。
「もし注射を利用していたら葉を隠すなら森の中を利用したのかもしれません。小説でもあるトリックです」
本郷は苦笑すると
「小説でもあるトリックか」
と呟きながら、六花の肩を叩くと
「探偵か……確かに良い洞察力をしている」
と言い
「だがな、俺はまだ32歳だ。おじさんは止めてくれ」
と告げると
「本郷と言う名前があるからな」
とビシッと指をさした。
本郷は六花たちを警視庁のエントランスまで送ると別れ際に真守に
「これは……都合のいい希望かも知れませんが彼女ならあの事件を解いてくれるかもしれません」
と囁き、敬礼すると立ち去った。
真守はそれを聞き視線を伏せると
「……六花ちゃんは……探偵じゃないんだ。本当は……」
と小さく呟くと車の方へ振り返り、先に進んで手を振る六花と補を見て強く足を踏み出した。
葵はすぐ後に釈放され七月と弁護士の見禰と共にマンションへと戻ってきた。
事情を聞いていた葵はその日の夜に一階レストランで3人を招いて
「今日の夕飯は俺が奢らせてもらうからな! ありがとうな!」
と頭を下げた。
これで捕まったままだったら、と思わずにいられなかったのだろう。
葵は息を吐き出して
「本当に助かったよ。でも秋子さんもあんな無理をしなくてもよかったのに……俺、無理のない範囲で楽しんでくれれば良いって言ってたのにな」
と呟いた。
六花はそれに
「でも……きっとその人、寂しくて仕方なかったんだと思います。だから行くと振り向いてくれる葵くんにもっともっと自分を見て欲しくなったんだと思います」
と告げた。
ずっと家で一人きりだったのだ。
夫は仕事仕事で彼女はずっと一人っきり。
寂しい女性だったのである。
その後、本郷から畦地友也が全てを自供したという連絡が入った。
決め手は縁に毒が付いたグラスの指紋であった。
最後に真野翔が拭いていたと画像を見せると諦めたようであった。
六花の言った通りに彼女の背中に針を刺して毒を注入し、その後に葵に罪を着せるために毒をグラスの縁につけたという事であった。
また割れたグラスの欠片の中からやはり種類の違う注射器のガラスの欠片も見つかりそこにも畦地友也の指紋が付いていたという事であった。
☆
犯行動機は警察の調べた通りにオーナーの妻と不倫関係になりばれると二人とも店から放り出され多額の慰謝料や借金を背負うことになるので口を封じたという事であった。
実際にはラブホテルに入ったもののオーナーから呼び出しがあって上手くいかなかったが写真をネタにされると言い逃れが出来ないので口を封じるしかなかったという事である。
浅田秋子はUSBに写真データを入れて畦地友也に渡し、300万からの金を得ていたようである。
ただ想定外だったのは浅田秋子の夫の戻りが早く事件後すぐに家に入ることが出来なかったことと警察に早く目を付けられたという事であった。
畦地友也は不倫を隠すために殺人を犯したものの結局全てが明るみに出てその上に多大な罪を背負う事になったのである。
六花は葵の奢りの夕食を口に運びながら
「名探偵アリサシリーズのお話のラストでアリサが言う言葉があるんですけど」
と言い
「犯罪を実行することほど割に合わないモノはないって言葉なんですけど、考えるとそうですよね」
と告げた。
そして、目を細めると
「殺された人はもっと生きて楽しいことや色々なことを体験できたのにそれを失い犯人は一生を棒に振ることになる。周りの人は悲しむし……被害者も犯人もどちらも絶対に救われない。本当に犯罪を実行することほど割に合わないものはないって思うんですよね。完全犯罪なんてないのだから必ず明るみに出るし運命のしっぺ返しは何処かできっと出てくるはず」
と呟いて
「ただ名探偵アリサシリーズは面白いんですけ私あまり得意じゃないんですよね」
と告げた。
「イヤミスで癖があるお話だったから…今回の事件のように」
補は不思議そうに六花を見て
「ん? イヤミスってモヤッとするミステリーのことだよね? 犯人は捕まったしスッキリじゃないの?」
と告げた。
それに真守がコーヒーを飲みながら
「暗黙の共犯者が捕まっていないってことじゃないのか?」
と告げた。
よもや。
まさか、である。
葵はカッと六花を見て
「ええ!? 共犯者ぁ??」
と叫んだ。
☆
六花は考えながら
「これは想像の域を越えないけど」
と前置きをして
「本当だったら奥さんの迎えがあって畦地さんは実行できなかったと思います。でも突然奥さんが30分遅らせて欲しいと言ってきたので実行した。私は彼が台をとるため奥へ下がった時に奥さんに電話をしたんじゃないかと思うんです。他の二回に比べて急いで裏に回っていたわりに台を出してくるのに時間が掛かっていたし時間変更のタイミングが絶妙過ぎるし」
と告げた。
「でも警察はきっと着信履歴を調べてると思うし、あの本郷さんならきっと気付いていると思うんです。それでも奥さんの話まで出てないからきっと落とせなかったんだと思います」
確かに本郷沙介も気付いたのだが畦地友也は冷静に寸前で電話をしたのは時間をずらして欲しいと言っただけだと告げたのである。
「殺人に関して彼女は全く知りません」
それだけしか言わなかったのである。
電話の遣り取りも実際に
『時間をずらしてください』
『そう』
だけだったので追及しても決定的な証拠にはならないと判断されたのである。
葵は蒼ざめながら
「まじか」
と呟いた。
六花は頷き
「浅田秋子さんはボーイでお金を持っていない彼だけでなくオーナーの妻と言うお金を沢山持っていると思われる奥さんの方も脅していたと思います。ダメージ的には奥さんの方が不倫だし『オーナーが知れば離婚』ですよね……でも実際に奥さんは時間をずらしてくれと言われたからずらしただけなので背景は別としても彼が何をするか知らなかったと言えばそれまでだと思います」
と言い
「私は彼が何をするか知っていて奥さんは素直に時間をずらしたんだと思うんですけど、予約制だから浅田秋子さんが来ている時間だって事は知っていたと思うし……でももっと突き詰めれば凄く怖い想像しそうで」
ホテルに入った途端電話とか……奥さんの送迎に彼を選んだりとか、と呟いた。
「浅田秋子さん以外にも本来の目撃者がホテルの前にいたのかもしれないって」
……その上で奥さんはもしかしたら究極の一言を言ったのかもしれないですし……
「『私も脅されているわ。ずっと永遠に言われたらどうしようかしら』みたいなことを」
永遠とか。
ずっととか。
「意外と究極のキーワードなんです」
真守はそれに視線を伏せながらそっとコーヒーを口に運び
「まあそれも独り言……それに殺せという意味も全くない。つまり限りなく黒に近い灰色でも白ということだな……」
と小さく呟いた。
翌日、葵がミゲルを辞めるために挨拶に行くと正岡一郎と妻である倫子が並んで挨拶を返したのである。微笑を交わし合う仲睦まじい様子であった。
葵は頭を下げて
「今までお世話になりました」
と告げ
「その……それで、これからどうされるんですか?」
と聞いた。
正岡一郎は意味深な笑みを浮かべると
「名前と場所を変えてやり直そうと思っているよ」
と答え
「お喋りなカナリヤもいなくなったし、次はボーイやホストは厳選してね」
と告げた。
葵はハッと六花の言葉を思い出しながら俯き
「奥さんとは……」
と聞いた。
正岡一郎は笑むと
「妻とはこれまで通りだよ」
と向き合って微笑を交わした。
葵の疑惑の目に正岡倫子は綺麗に微笑むと
「お喋りなカナリアも『永遠』を前に鳴けなくなってしまったってことね」
と告げた。
「二羽とも止まってはいけない枝にとまったから『永遠』に鳴けなくなった。誘ったのは『私たち』だけれども」
……貴方の知りたい答えはこのことでしょ? ……
そう言って赤い唇で綺麗な三日月を描いた。
正岡一郎は笑みを深めると
「君は性格も良いし客受けもいい……君を誘いたいと思ったけど、かなり勘が良さそうだ。他で頑張りなさい」
と付け加えた。
「そうそう、君と仲の良かった櫂は復帰させるよ」
……君なら何故かわかるだろ? ……
葵は畦地友也がホストの噂などを売って金を手に入れ、櫂と言うホスト仲間を含めて数名が辞めたことを全て知った上でオーナーは妻の送迎を行わせたのだと理解すると慌てて頭を下げて立ち去った。
櫂がもう一人の存在だったのだ。
本来の目撃者だったのだ。
同時にオーナーと夫人にとって浅田秋子は予定外の都合のいい存在だったのだ。
……そして永遠と言うキーワードで二匹の鳥を地に落としたのだ……
畦地友也は二人の手の平で踊らされていただけということなのだろう。
ただ二人とも金に手を伸ばさなければこんなことにはならなかったのだ。
金と言う魔力にさえ憑りつかれなかったら。
葵は『イヤミス』という六花の言葉を思い出しながら、この事件はやっぱりそうなのだろうと視線を空に向けた。
六花は自室で徳島から届いた本や衣類を整理しながら名探偵アリサを棚に入れていた。
「私の想像があっていたらオーナーと奥さんにとって浅田秋子さんは都合のいい存在だったのかもしれない」
そして、本当に嫌な想像だけど本当の仕掛け人は捕まらなかったのかも……
彼女は机に座ると真守にセッティングしてもらったパソコンを立ち上げてワードを起動した。
『イヤミスにおける考察』
そう打ちこみキーボードの上で指先を動かした。
窓の向こうの夜空には笑うような三日月が浮かび、風が東京の町を駆け抜けていた。