第4話 その3 ワトソンはかせとつみきのガチョウ
大英帝国の誇るスコットランド・ヤードはいつ訪れてもがやがやしている。行き交う黒服の男たちに相談を待つ民衆の列、玄関ホールでやんやとさわぐ逮捕者は一種の名物と化していた。貧富貴賤関係なしに誰しもが恐れ、嫌い、そして最後にすがりつく場所。ワトソンはかせはここに来るたびにキラキラと眼を輝かせるのだが、ホームズとしてはそんなはかせのすがたを見るのは少々複雑であるそうだ。それが『ホームズさんに似てきましたね』とからかわれるためなのか、いたいけな友人に刺さる悪意の視線によるものなのかはわからない。そんなわけで、ホームズはワトソンはかせをひょいと担ぎあげてそそくさと目的の部屋へ向かった。はかせがおもしろくない顔をしているのも承知だ。
ワトソンはかせとホームズの友人、G・レストレード警部は署の中央部に事務室を構えていた。そして、ふたりがドアを開けたときの第一声はいつでも決まっている。「ノックくらいしたらどうですか」だ。今日もそうだった。
「相変わらずつれないね」
ホームズの返答に警部が鼻を鳴らす。
ようやく呪縛から解放されたワトソンはかせは、なにか素敵な出会いはないかと室内をふらふら歩きまわり始めた。
「もしやあなたも今朝私が逮捕したジョン・ホーナーについて異議を唱えに来たのですか? やれやれ、スコットランド・ヤードの警部はひまじゃないってのに」
「ぼくらの前にも誰か来たのか?」
「ええ、ホーナー夫人が面会にね。『主人は二度と盗みをしないと私に誓ってくれたのです』と、それはもうなだめるのが大変でした。しかしホームズさん、今回ばかりはあなたでも覆せないと思いますよ。なにせ家から盗まれた宝石の現物が出てきたんですから」
「それはどうだろう。ぼくはむしろ『ジョン・ホーナーのガチョウから宝石が出てきた』という事実が彼の無実を証明していると思うがね……とりあえず、ホーナー氏に会わせてくれ。彼の逮捕にはぼくにも多少の責任があるんだ。頼むよ」
「ふん、五分だけですよ。これほど大々的に報道しておいてあとから誤認逮捕だと判明しようものなら、私もスコットランド・ヤードも面目丸つぶれですから」
「その意気だ! 今ならまだ修正できるぞ」
「ひとこと多い」
おとなたちの話は続く。ワトソンはかせは聞き耳を立てるのにも飽きてしまったので、レストレード警部の椅子に昇って机を物色し始めた。紙。紙。それから紙。ホームズの机のうえと似ているが、ホームズの机のほうが何倍もおもしろい。彼の机はワトソンはかせが覗くことを加味した趣向になっているので、仕掛け絵本であったり妙な色の薬瓶が乗っていたりするのだ。
ワトソンはかせは頬を膨らませながらも真ん中に置いてあるメモ書きを、調書ともいう、読んでみた。むずかしい言葉ばかり書いてあるが、だいたいはさっきまでホームズとレストレード警部が話していたことの繰り返しである。最初から最後まで読んで「むむう」とつぶやく。友人はいったいどうするつもりなのだろう。ワトソンはかせは自分なりに仮説を立ててみたが、生き返ったガチョウがお腹を空かせて宝石を食べてしまった以上の考えは思いつかなかった。
積み上がった紙の山を崩さないよう机のうえで腕を伸ばす。コツン、となにかが指先に当たってワトソンはかせはがばりと起き上がった。身を乗り出して覗いてみれば、そこには今フラットのマントルピースに置いてあるそれとまったく同じ形のガチョウが鎮座していた。
「ガチョウさんだ」
両手でつみきを掴んで紙の洞窟から引っぱりだす。幸いにも積まれた山をはかせが崩してしまうことはなかった。せいぜい傍らに置かれていたペンが転がったくらいなものである。
持ち上げて、光にかざして。再び机に置いて観察する。上から、下から、そして横から。じっくりと観察した結果、このガチョウはまさしくフラットでお留守番をしているシャーロックの兄弟であると結論付けた。
ぱたり。聴こえていた声が止む。
ガチョウと見つめ合っていたワトソンはかせの傍らに事務所の主人がひざをついた。視線が合う。痩せた頬にはくまがくっきりとあった。
「おやおや、警官のデスクをこっそり覗き見するなんて大物ですな」
「れすとだ。おはよう」
「おはようございます、ワトソンはかせ。あれ、よくそのつみきを見つけましたね。たしか書類に埋もれていたと思いましたが」
「ふん、ぼくは鼻がきくからね」
「頼もしいことで。けれどまあ、今回はさすがのホームズさんでも劣勢ですよ。あなたの力をもってしても勝てるかどうか。負けたら慰めてあげてくださいね」
「ガチョウさんパンチ!」
「痛っ……パンチって……ガチョウには羽しかないくせに……」
レストレード警部は肩を押さえ、若干の心の傷と戦っているような顔をした。数秒ののち、ワトソンはかせをガチョウと共に抱き上げる。
ホームズとは異なる細くて小さな身体。だが、はかせに向けるぬくもりは一緒。はかせはいつものように警部の肩へと手を置いて、勝手知ったる足取りで先導するホームズの背中を追ったのであった。
ワトソンはかせがガチョウと話している間、ホームズは昨晩起こった出来事をレストレード警部に話したらしい。彼はいまだ疑いの姿勢を崩さなかったものの、ホームズの言うことが本当ならばもう少し詳しく調査する価値があると判断したようだ。はかせは新しい友人を握りしめ、ふたりとは違う決意に燃えていた。今朝ホームズにジョン・ホーナーの名前を聞いたときから決めていたことだった。
警察署の奥、冷たくて暗い拘置所でがっくりとうなだれているひとりの男。ホームズたちが中に入ると、ホーナーは疲れきった瞳で彼らを見つめ返した。しかし牢にワトソンはかせがいることにはちょっと驚いたようである。
「話すことはもうありません。どれほど脅されたところでぼくは罪を認めませんから」
力なく片手を振る男へシャーロック・ホームズが素早く近寄る。友人は男の隣に腰掛けて、そっと痩けたひざに自身の手を置いた。
「いいえ、ホーナーさん。ぼくらはあなたを尋問しに来たのではありません。助けに来たのです。しかし、そのためにはあなたの口から事実を話していただかなくてはなりません」
「ええと、あなたは……」
「おっと失礼。ぼくはシャーロック・ホームズ。こちらは友人のジョン・ワトソン。昨晩、ピーターソン巡査の依頼でくだんのガチョウをあなたのもとへ届けさせた者です」
「ええ、ええ、あなたの名は存じております。なぜなんの変哲もないつみきから家がわかったのか不思議でしたが、あなたの手助けがあったのならば納得だ。どうやらぼくはまだ神に見捨てはいないらしい。お願いしますホームズさん、どうかぼくの無実を証明してください!」
「おまかせください」
ホームズの力強い言葉にほっとしたのかホーナーの全身の力が抜けてゆく。友人は魔法使いのようだとワトソンはかせはつねづね思っていた。彼の台詞には不思議とひとの心をふわっと丸くしてしまう力がある。はかせが知るかぎり、そんな魔法が使えるのはシャーロック・ホームズただひとりであった。
ぽつぽつとホーナーが話し出す。彼がモーカー伯爵夫人の滞在するランガムホテルで仕事をしたのは四日前、質屋でつみきを買ったのは三日前のことだったそうだ。レストレードの手を離れたワトソンはかせはホームズとホーナーのあいだに飛び乗って、冷たい石の椅子できゅっと背すじを伸ばした。ついでにこんなにも冷えている椅子じゃ寒すぎるぞという顔をした。
「ランガムホテルには何度も点検や修繕に呼ばれて行ったことがありました。あの日もいつもと同じように商売道具を一式持ってホテルに行きました。まわったのは四部屋。どこも宿泊客がいる、もしくは給仕長のジェームズ・ライダーがぴったりとついてまわってきたのでひとりになる時間なんてありませんでしたよ。伯爵夫人の化粧室はその日最後の仕事場でした。たしかに数十分ほどライダーが部屋を出ていた時間はありましたが、その後間違いなく鞄にはぼくの荷物しかないことを確認しましたし、報酬だって後払いです。ぼくが途中で帰っただなんてありえない。タダ働きになりますから」
「他にあなたのすがた、あるいは荷物の中身を確認した者はいますか? ライダーからもらった報酬の明細書はありますか?」
「いいえ。ちょうど団体客がチェックインする時間帯だとかで裏口から帰らされました。普段は報酬の受け渡し時に明細書をもらうのですが、あの日は忙しくて用意できなかったと渡されませんでした。その代わり口頭で説明を聞きました。玄関口での会話でしたので誰にも聞かれなかったと思います」
「なるほど。ライダーの主張がまかり通ってしまうというわけですね。誰もあなたを見ていない」
「ええ、残念ながら……その日はまっすぐ家に帰って、家族と食事をしました。質屋でつみきを買ったのはその翌日です。もちろん、なかに宝石がはいっていたことなんて知りません。ただ最近仕事で家を空けることが多かったので、せめてもの償いをと。アレク、息子はとても喜んで私や妻が注意しても出かけるときはガチョウを連れて行くと言って聞きませんでした。ああ、ちょうど今のワトソンはかせのように。
息子がガチョウをなくしたことに気付いたのは次の日の午後でした。家と近所は探したのですが、なにせ本人がどこへ置いてきたのかさえ覚えていなかったものですから、諦めるように彼を説得したのです。交渉は決裂、しかたなく新しいつみきのガチョウを買うことにしました。ピーターソン巡査がいらしたのは夜です。もうすこし買いに行くのを待っていればよかったのにと、家族の笑い話になりました」
「最初のガチョウはどこの質屋で買ったのです?」
「ええと、たしか『ウィルソン&スポールティング』だったと思います」
「ほう、ランガムホテルのすぐ裏だな。これは興味深い。ホーナーさん、とても明快なお話ありがとうございました」
「私はどうなるのでしょうか?」
「どうもなりませんよ。釈放されたらガチョウと共に家へ帰って、アレク君に小さな友人を借りてしまったことを詫びるといい。またなくしたと言って、別のつみきをねだられたらたまりませんから」
「……ええ、ええ、必ず。どうかよろしくお願いいたします。ホームズさん」
呼ばれた男は頷き、依頼人と固い握手を交わした。
コートをひるがえして立ち上がる。鋭い眼光。ワトソンはかせは友の映したその煌めきがどういう意味を持つのかをちゃんと知っていた。きっとシャーロック・ホームズの頭にはもう、考えなければならない謎なんてないのだ。
留置所を出たのはレストレード警部が最初で、ホームズは自分より先にワトソンはかせを出口へ促そうとした。しかし、はかせが動こうとしないのでホームズ自身も立ち止まる。親友が屈んでワトソンはかせと同じ目線になる。彼は口を開こうとしたが、はかせの顔を見てすべてを察したようで、結局なにも言わなかった。
「ホーナーさん」
「なんでしょう、ワトソンはかせ」
名の持ち主はワトソンはかせの言葉に立ち上がり、先ほどのホームズと同じように屈んでみせた。はかせがきゅっと証拠品のガチョウを握りしめる。こういうときは深呼吸だと以前ホームズに教わったので、はかせはその通りにした。
「ぼくのガチョウはその、シャーロックと言います。いまはぼくの家にいて、ぼくの代わりに部屋をまもっています。だから、ええと、ありがとう。ぼくに新しい友だちをくれて」
「……それはよかった。シャーロックもあなたと友だちになれてきっと喜んでますよ」
大きくて優しい手のひらがワトソンはかせの頭を撫ぜる。その温かさにはかせは照れたようにはにかんで、持っていたつみきをホーナーに返した。男が手のひらにおさまったそれを見つめる。きゅっと噛みしめられた唇。それ以上、父親からなにも台詞は出てこない。
ワトソンはかせは今度こそホームズのエスコートに従って、留置所から出たのであった。