第4話 その2 ワトソンはかせとつみきのガチョウ
つみきのガチョウについても物語が大きく動いたのはベイカー街にそれがもたらされてから約十時間後、つまり翌朝のことであった。
「なんだって!」
大声とともに新聞を読んでいたホームズがいきなり勢いよく立ち上がり、ワトソンはかせの尻を驚きでぴょんと浮かせてみせた。はかせは向かいの食卓から盗んだゆで卵をそっと返した。
ホームズは叫んだのち、そのまま石のように固まって新聞をきつく握りしめている。見開かれたシルバーグレーがひとつの記事を凝視していた。新聞の一面。つまり今朝のいちばん大きなニュースということである。
「どうしたの」
ワトソンはかせの言葉にホームズはようやく友の存在を思い出したようだ。彼はとてとてと傍らに並んだ同居人を自分の椅子に座るよう促す。目の前に差し出されたふたつ折りの両端をはかせは両手でしっかりと掴み、大きく記されたタイトルを読み上げようとする。
紙面いっぱいまで引き伸ばされた文字。街頭で民衆の注目を集めるための工夫だと、いつだか友人に教えてもらったことがある。ワトソンはかせはびっくりした。それまで紳士は毎朝ロンドンじゅうの新聞を取り寄せて読むことだと思っていたのだ。
じいっと文字を眺めるターコイズ。いつも声に出してなにかを読むときは、いちど文章をぜんぶ静かに読んでからにするといいのだとホームズは言っている。なのでワトソンはかせは今日も友のアドバイスを守った。
「『ぬすまれた宝石が見つかった。はんにんはジョン・ホーナー。つみきのガチョウのなかに宝石をかくしていた』って。おやまあ」
「ありえない! 彼らはガチョウをなくした際、あっさり諦めて新しいつみきを買ったんだぞ。なかに盗んだ宝石があるならもっと血まなこになって探しまわったに決まっているし、そもそも息子になんて触らせるものか」
憤るホームズがワトソンはかせをひょいと持ち上げる。はかせは数秒足がぶらんとなったのち、自身が同居人のひざに着地したことを知った。筋肉質な腕が後ろから伸びてきて、ワトソンはかせの代わりに新聞を掴む。はかせは手を離しても目の前のそれが浮いている状態を喜んだ。全体までじっくりと読めるからである。
つみきのガチョウが宝石を飲む!?
配管工ジョン・ホーナー逮捕。
千ポンドの懸賞金がかけられていたモーカー伯爵夫人の青いガーネットが昨晩ついに発見された。犯人は配管工ジョン・ホーナーであり、盗まれた宝石も男の自宅からすでに押収されている。ホーナーは不遜にも子供用のつみきの玩具のなかにガーネットを隠していたのだ。
事件発覚の前日、ランガムホテルの給仕長ジェームズ・ライダーは暖炉の鉄格子修繕のため、ホーナーを伯爵夫人の化粧室へ通した。ライダーはしばらくホーナーの仕事を見守っていたが、呼び出しを受けて三十分ほどその場を離れた。戻ってみるとホーナーはいなかったが、鉄格子は直っていたので気にしなかった。
翌日、モーカー伯爵夫人の悲鳴によって盗難があったことが判明した。伯爵夫人が化粧タンスにしまっていたモロッコの宝石箱を開けると、なかにはなにもはいっていなかったのだ。それはかのガーネットを入れておくためだけに造られた、特別製の宝石箱であった。
スコットランド・ヤードの聞き取りによると、伯爵夫人が宝石箱を開けたのは二日ぶりであったらしい。昨日は別の宝石を身につけていたため、カーバンクルの箱は確認していなかったと言うのだ。
盗難事件を担当したのはスコットランド・ヤードの敏腕警部G・レストレードである。彼は盗難が発覚した日とその前日に化粧室へ立ち寄った者全員から調書を取り、ジェームズ・ライダーから上記の証言を引き出すことに成功した。レストレード警部はすぐに部下を連れてジョン・ホーナーを逮捕しに向かった。ホーナーからはまだ話を聞いていなかったので、遅かれ早かれ訪ねただろうということだった。
ホーナーは自身が逮捕されることを知ると半狂乱になって暴れ、自分は完全に無実であることを主張した。しかし、つみきのガチョウから宝石が見つかった途端、腰を抜かしてその場に倒れこんだ。彼には盗難の前科があり、審理ではそのあたりも追求されることになるだろう。またしても事件を速やかに解決へと導いたレストレード警部には賞賛の至りである。
一八××年十二月二十二日
ザ・タイムズ
すらすらと記事を音読するホームズの声を聞く。ワトソンはかせは「もしガチョウのシャーロックも宝石を飲んでいたらどうしよう」と心配をして、そういえば彼からはなにも音がしなかったということを思い出して安心した。昨日まで音が鳴らないのはよくないことだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。それがはかせの大まかな感想であった。
同居人が新聞を絨毯へ放る。ワトソンはかせをひざに乗せたまま思案げな顔でトーストをかじり、人さし指でテーブルを叩いた。はかせはそんなホームズを見上げて「これはまいったぞ」とつぶやいた。この顔になった友人は、この顔でなくなるまで、うんともすんとも言わないのだ。つまりはここからも降りられないということである。ワトソンはかせはふうっと溜息を吐きながら、先ほど咄嗟に返したゆで卵を自分のもとに引き寄せた。スプーンの腹で殻を割って、バターナイフで上の部分だけを切り取る。予想通りの半熟。はかせにとって本日のふたつめの卵であったが、なにぶん同居人がこんな感じなので、しかたないというものである。
ホームズの意識が戻ったのはエッグスタンドに置かれた卵が残り半分くらいになったあたりであった。
「こら、食べすぎだぞ」
節くれた指がワトソンはかせからスプーンと食器を遠ざける。椅子が引かれて、地面に降ろされて、なんと理不尽なものかと頬が膨れた。しかしすぐにホームズが謝ってきたので、怒っていたこの気持ちをどこにやればいいのかちっともわからなくなってしまった。
向かいの男があっという間に朝食の皿を空にする。ワトソンはかせも自分の椅子に戻り、友人に引っぱられるように残っていたレタスのサラダを平らげた。えらいぞ。ホームズからストレートに褒められて悪い気はしなかった。
食後の紅茶もそこそこにホームズがコートを羽織る。彼はワトソンはかせが帽子をかぶるのを手伝って、ついでに屈んで小さなコートのボタンを上まできゅっと留めてしまった。そのうえ首元にマフラーまで巻きつけてくる。手袋をしたらはかせはもうすっかりもこもこだ。
「ぼくらはどこに行くんだい?」
十七段の階段を降りながらワトソン博士が問いかける。ホームズははかせが最後の段まで下りきるのを待ったのち、人さし指を唇につけて答えた。
「スコットランド・ヤードだよ。ほら、われらが親愛なる友人、レストレード警部にクリスマスのあいさつをしに行かなくちゃ」
幸運にも辻馬車はすぐ掴まった。後ろへ流れてゆく景色を見つめ、ワトソンはかせは「お腹いっぱいだねえ」とつぶやいた。