第3話 その2 ワトソンはかせと三人のガリデブ
目的のエッジウェア・ロードはベイカー・ストリート駅とパディントン駅の中間地点に位置する閑静な住宅街であった。住人は仕事、ないしは買い物や歓談にでも出かけているのか人通りもまばらである。夜盗という言葉もあるように、空き巣や盗人というのはなぜだか往々にして夜を待って活動する。本当はこういう、晴れやかな昼下がりこそ狙い目であるというのにだ。ガタゴトと揺れる馬車の窓から頭を出そうとするワトソンをけん制しながら、シャーロック・ホームズはそんな物騒なことを考えていた。幸運にもN・ガリデブなる人物は近所に住んでいたので、彼は感受性豊かな友人にうっかり知識を与えてしまうひまはなかった。
リトルライダー通りはエッジウェア・ロードから繋がる横道のうちの一本だった。アーリー・ジョージアン様式を現在にとどめる屋敷はレンガ造りの建物で、一階にある張り出し窓以外はずいぶんのっぺりとした印象を受ける。ワトソンの見つけた『N・ガリデブ』が暮らしているのは一階のようだった。ホームズは真鍮製の表札を指差して、ワトソンが「見えぬ」と不満を言ったのを聞き、彼を両手で持ち上げて表札と視線を合わせてやった。
「古くて、何年も前から掲げてある。ガリデブというのは間違いなく彼の本名だ」
「ちがうかもしれなかったの?」
「可能性はあった。新聞に掲載されていたあの広告は『ガリデブ』という名を持つ誰かをだましてあやつるためにでっちあげられたものだ。あえてアメリカ式の広告にして、英国人が米国人をひっかけようとしたかもしれない。まあ、住所録で見つけた時点で確率は低いだろうと思っていたけれどね」
「変なの。まちがっていたのは名前じゃなくてなかみだったのに」
「だからだよワトソン。広告を出した誰かにとって重要だったのは中身ではなく名前だったんだ。『ガリデブ』というね」
屋敷にはいるとまず目に留まったのは大きな共用階段であり、玄関ホールの郵便受けには多くの名前が書かれていた。個人の住居もあれば事務所として使っている者もいる。気ままな独身者の共同住宅といったところだろうか。
くだんのN・ガリデブ、もといネイサン・ガリデブは突然の来訪者にも関わらず、ホームズとワトソンをこころよく迎えいれてくれた。背が高く痩せていて、背中の曲がった男だ。歳はおおよそ六十半ばくらいだろうか。運動不足でしまりのない身体のせいかそれよりもやや老けて見える。丸眼鏡と小さなヤギ髭が印象的だ。幼子のようにこちらを見つめる瞳。好奇心旺盛な人好きのする老父。総合するとそんな雰囲気だ。
「まさかかの有名なシャーロック・ホームズさんにお越しいただけるとは。実は私、昨日まで貴方へご依頼をしようと思っていたのです。しかし手紙をしたためているところで解決してしまった。いやはや、お会いできて光栄です」
「こちらこそ。急に押しかけてしまってお邪魔でないといいのですが」
「まさか! ささ、こちらへいらしてください」
家とは住まう人間の思考回路を映すもの。ガリデブ氏の部屋は住人に負けず劣らず興味深くて、内装の壁という壁に所狭しと置かれた棚とぎっしり詰まった標本から小さな博物館のような印象を男に与える。化石。石膏。昆虫標本。古代のコインに、無数の考古学にまつわる文献たち。なかにはきっと学術的に大変貴重な代物や、稀覯本も紛れてこんでいるのだろう。
そんな光景だったので、ワトソンは扉を越えた直後から興奮状態であった。「すごいねえ。すごいねえ」と言いながら瓶のひとつひとつをじっくり見ている。新聞のなぞすらも、今はどこかへ行ってしまったらしい。男はとりあえず屈んで、友人へなににも触れないよう言って聞かせておいた。
「ここは私の城なのです」ガリデブがしんみりとした顔で言う。彼は直前まで磨いていたフランス硬貨をそっと箱へと戻した。「主治医は会うたびに私が外出しないことを嘆いていますが、私に言わせれば的外れというもの。だって、いったいなぜ外へと出る必要があるのでしょう? この家にはこんなにも、私を惹きつけてやまないものがたくさんあるのに」
「ほう。滅多に出かけないのですか?」
「ときおりサザビースやクリスティーズまで馬車に乗ることはありますよ。逆にいえばそれくらいだ。私はそれほど身体がじょうぶではありませんし、なにより外出をしているひまがあるならばここで研究に没頭していたい。ホームズさんであれば、私のささやかなこの願いも少しはわかってもらえるでしょうか」
「ええ、とてもわかりますよ」
老父の嬉しそうな顔を見て、ホームズすらうっかり本来の目的を忘れて絆されそうになる。それなりに名は売れているとはいえ、初対面の相手になぜ彼は心を許すことができるのだろう。男はそれが不思議でならず、同時にそれまで積み上げてきた推測が確信に変わった。
ああ、心優しきネイサン・ガリデブは今、悪意のある誰かによって騙されている。
シャーロック・ホームズは咳払いをひとつして、新しき友人のクロマニョン人とネアンデルタール人についての講義をさえぎった。ガリデブがはっとした顔で相手を見る。彼は照れたように視線をそむけ、ホームズはそんな相手にやわらかな笑みを返した。
「すみません、熱がはいってしまうとつい」ガリデブが呟く。彼は紅茶を勧めたが、ホームズは丁重に断った。「私にどのようなご要件でしょう? お手伝いできると良いのですが」
「ええ。実は今朝の新聞で興味深い記事を見つけまして、あなたが関係しているのではないかとお訪ねしてみたのです。どうやら予想は当たったようだ。もし差し支えなければ、あなたに起こった奇妙な出来事をぼくらに教えてくれませんか?」
眼鏡の奥に思案げな瞳。まあ、普通いきなりこんなことを言われたら、しかも話してもいないのにそれがすべて図星だとしたら、誰しもがまず困惑することだろう。困惑はやがて恐怖となり、怒りへと発展する場合もある。そのため男は家主の様子次第ですぐさま自身の主張を引っこめるつもりであった。今の視点では犯罪に結びついているというわけでもないし、他にいくらでも調査のしようはある。
たっぷりとした沈黙のあと、ネイサン・ガリデブが静かに口を開いた。ホームズは身構えたが、それは杞憂というものであった。
「いいでしょう。あなたがなぜ私の事情に気付いたのは未だにわかりませんが、私としても少しだけ気になることがあります。私に幸運をもたらしてくれたジョン・ガリデブ氏は、あなたに決して相談しないよう私へ言付けました。しかし、ここまで来てしまわれたのであれば話は別だ。ホームズさん、お話しする代わりにアドバイスをいただきたいのです。私は明日、バーミンガムへ行っていいものかどうか」
「ジョンだって! ぼくの名前とおんなじだねえ」
「ワトソン。ぼくのひざにおいで」
男は家主に勧めに従ってカウチへ腰をおろし、ワトソンを持ち上げそのひざへと乗せた。ワトソンは晴れて依頼人となった老父を真剣な顔で見つめたものの、後ろの棚に並んでいる地質学の標本も気になってしかたないようだった。
本当に奇妙な話なのです。ガリデブが前置きをする。ホームズが身体の前で軽く手を合わせ、ワトソンが彼のそれに自分のを重ねた。
「ジョン・ガリデブ氏が私を訪ねてきたのは今から約一週間前のことでした。彼は海を越えたはるか遠くのカンザス州出身であり、トピーカで法律関係の仕事についていたそうです。彼は連絡もなしに突然私を訪ねてきた非礼を侘び、ある条件を満たせば大金が手に入るという、夢のような話を私へ持ちかけてきたのです。
いわく、亡くなったアレキサンダー・ハミルトン・ガリデブという男が自身の遺言書に次のような言葉を記した。『自分は生涯で莫大な資産を得たが、あいにく譲るべき親類縁者がひとりもいない。そのため、わが財産はすべてガリデブという名を持つ成人男性三人に分配する』と。ひとりは生前の彼と出会っていたジョン・ガリデブそのひとで、彼は残りのふたりをどうにかして見つけようと躍起になっていました。現金にして総額一五〇〇万ドル、しかし三人集まらなければゼロ。とうとう彼は海を越え、ここロンドンまでやってきました。そうして、とうとう私を見つけ出したと言うのです。あとひとりミスター・ガリデブを見つければふたりとも大金持ちになれる。にわかに信じがたいことではありますが、失敗して失うものも特にありませんので、そういう事情ならばと私は彼へ協力を約束しました。
ガリデブ探しは難航しました。私にも彼にも近親者はおりませんし、これまで生きてきて同じ苗字の人間と会ったことはありません。ロンドンじゅうの住所録や新聞だって隅から隅まで確認しました。見つけられたのは唯一、私自身の名前のみだったのです。
そういうわけで、私はあなたにご相談しようと手紙をしたためたのです。高名なシャーロック・ホームズ氏なら私たちの思い浮かばない方法でまだ見ぬミスター・ガリデブを見つけ出してくれるのではないかと。ですが、出しに行くときにジョン・ガリデブ氏に見つかり、激しく叱責されたのです。彼は今回の仕事に際し、第三者を誰も介入させたくないようでした。しかたなく私はあなたへ手紙を出すことを止めたのです」
「それは残念だ。大変興味深いお話でしたのに」
「そうでしょうとも。まあ結局、あなたには見つかってしまったわけですがね……そして、物事が大きく展開したのは今朝のことでした。ついに三人目のガリデブが見つかったのです。ジョン氏がバーミンガムの知人にかけあい、今そこの机に置いてある広告の男、ハワード・ガリデブ氏を発見してくれました。
ジョン氏は私へこの報せを伝えたのち、最後にひとつだけ頼みがあると言いました。明日の午後四時、ここの住所に訪ねて行ってハワード・ガリデブ氏に私から事情を説明してほしいそうなのです。英国に来たばかりの怪しい外国人より、生まれたときから住んでいる老父のほうが説得力があるからと。しかし、ロンドンからバーミンガムですと往復五時間はかかります。友人の気迫に押されて頷いてしまったものの、私はこのとおり出不精ですから、どうにも決心がつかないのです。目の前にはもう五百万ドルがあるというのに。いかがでしょう、ホームズさん。あなたから背中を押していただけるのであれば、とてもありがたいのですが」
シャーロック・ホームズはしばらくなにも言わなかった。
彼は眉間へきつくしわを寄せ、深く考えこむ表情をしている。依頼人が不思議そうに首を傾げた。小さな友人は慣れたように背もたれへと寄りかかり、指をいじりながら、男が再び口を開くのを静かに待っていた。
「ガリデブさん」二十秒ほど経ったのち、ホームズが言った。いやに深刻そうな口ぶりにネイサン・ガリデブはうろたえた。「あなたの収集物のなかに高額なものはありますか? あるいは、これまで盗難被害にあったことはありますか?」
「いいえ。私はそれほど裕福ではありませんし、あくまで個人的な趣味の範囲ですから」
「この部屋にどのくらい住んでいますか?」
「五年ほどでしょうか」
「あなたの不動産屋はどちらです?」
「エッジウェア・ロードにあるハロウェイ・アンド・スティールですが。あ、あの、ホームズさん。話が見えません。三人目のミスター・ガリデブと私の不動産屋にはいったいなんの関連があるのでしょう?」
「いいえ、これも個人的な興味ですよ。あなたはバーミンガムへ行くべきだ。今私が言えることはそれだけです。たとえそこに、なにが待っているとしても……ときにガリデブさん、ぼくもあなたのコレクションをじっくりと拝見してもよろしいですか? ぼくの仕事はときとしてさまざまな知識が求められます。あなたの部屋はすばらしい。学ばせていただきたいのです」
急な話題転換に相手はひどく驚いたものの、すぐさま嬉しそうな顔をした。
彼は鎮座する自慢のコレクションたちへちらりと視線を投げて、またホームズとワトソンに向き直った。
「ええ、ええ、もちろんですとも! もしお時間があるならば今からでも案内しましょうか」
「ありがたいのですが、残念なことに本日は予定があるのです。しかしここにある標本にはすべてラベルが貼られ、あなたの手によって精密に分類されている。ぼくにも少なからず知識がありますから、どうやら個別に説明していただくお手間をかけなくて済みそうです。明日であればたっぷり時間が取れる。あなたが留守のあいだにお邪魔してもかまいませんか?」
「あなたたちならば大歓迎ですよ。当然鍵がかかっているでしょうが、四時までにお越しいただければ地下にいるサンダース夫人が開けてくれますので」
「それはよかった。では、本日はこれで失礼します。行くよワトソン」
「いいえ。ぼくは化石を見るのでのこります」
「夕飯までに帰るってハドソン夫人と約束したろう」
「ぐうのねもでない」
ワトソンを腕のなかに収め、ホームズはガリデブ宅を辞した。依頼人も友人もどことなく名残惜しげで、まるで自分だけが悪者のような心地になってしまった。
帰りがてらネイサン・ガリデブが懇意にしている不動産屋に寄った。偶然なのか必然なのか、前の借主も同じ不動産屋を使っていたようで、ホームズが家を借りんとする新規客を装うとあれよあれよと必要な情報を収集することができた。正直、男ひとりでここまで引き出せたかは自信がない。腕のなかで船を漕ぐ幼い友が販売員の同情と誤解を買ったのである。
「ワトソン。やはりきみはすばらしいな」
「ふむ。ほめられていないということはわかる」
馬車のシートにおさまったワトソンがもぞもぞと男の膝をまくらに横たわる。彼の手が小さな頭を撫ぜるとくう、と心地よさげに喉が鳴った。
ベイカー街のフラットまでは約十分。
彼らは束の間の移動時間をうたた寝で埋めたのだった。