第3話 その1 ワトソンはかせと三人のガリデブ
「ぷる、ぷろ……ぷらあ………」
ある日新聞を読んでいたワトソンはかせはなんだかちょっと不思議な言葉を見つけた。彼の手元を覗きこみ、調査してみようと言うホームズ。うきうきと出かけて行った先で待っていたのは?
なんだかおもしろくなりそうな、大事件の予感がするぞ・・・!
おだやかな朝のことだ。ホームズがいつものようにまぶたを閉じて思案していると、ひざに乗った小さな友人がぶつぶつとなにごとかを唱え始めた。ささやかながらもたしかなそれに、思わず男のまぶたも開いてしまう。友は新聞の広告欄とにらめっこしている最中であった。
「ぷる、ぷろ……ぷらあ………」
「ワトソン、いったいどうしたんだい?」
「これを見てごらんよ。ぼくはてっきり畑をたがやす道具を売っているのかと思ったのだけどね、ひとつだけちっとも読めないんだ。ぼくの知らない道具なのかもしれない」
ふにふにした指が紙面を叩いて男の関心を引き寄せる。私事広告欄。それは「ハワード・ガリデブ」という、事業主の名前から始まっていた。
ハワード・ガリデブ
農耕具製作二十年
刈とり束ね機、刈りとり機、蒸気エンジンと手動の鋤(PLOWS)、ドリル、まぐわ、農業荷車、四輪馬車、そのほかの関連製品。深堀井戸はみつもり次第で対応できます。
ご興味のある方は、どうぞアストン、グローブナー・ビルまでお申しこみください。
「ああ、きみが読めなかったのは鋤(PLOW)だね。本来ならばPLOUGHと書くべきなのだろうが、大陸ではこっちの綴りが一般的なんだ」
「たいりく」
「しかし妙だな。創業から二十年も経っている片田舎の事業主がセオリーを無視して、アメリカ式の広告を掲載しているなんて。渡英したばかりならそれこそこんな書き方をしないだろう。もっと土着の人間の信頼を勝ち取れるような文言をリサーチするはずだ……ふむ、なにかわけがありそうだな」
「じけんか」
「さて、どうだろうね」
ホームズは言い、軽々とワトソンを持ち上げる。隣に移動させられた友はあからさまにふきげんで、ぷうと頬を膨らませながら新聞を広げ続けていた。そのうちビリビリ破りかねない。男は友人に先を譲っていたので一面すらもしっかり読めていない。まあ、ロンドンはおおかた平和なのだろう。なにせ兄から応援要請が来ていないのだから。
本棚の前で立ち止まる。節くれた指が並べられた背表紙を辿ってゆき、やがて一冊のうえで止まった。それがたしかに住所録であることをたしかめて手に取る。小さな住人を抱えるこのフラットはたとえ汎用性の高いそれであってもテーブルへ置きっぱなしにすることは許されない。男もいちいち面倒だとは思わない。
ワトソンが傍らに腰かけた男の手元をのぞく。新聞の役目はもう終わり。友の視線は新しい文字列に夢中である。
「なにを持ってきたんだい?」
「住所録だよ。店も個人も、ロンドンの郵便局員が扉をノックできる場所ならばほとんど載っている。ここから親愛なるミスター・ガリデブを探してみようじゃないか。ぼくの予想が正しければひとりしかいないはずだよ」
めくられるページをターコイズの眼が追いかける。
該当の人物が出るまでそれほど長くはかからなかった。
「あ!」と嬉しそうな叫びが挙がる。ふたまわり小さな指が紙面に触れた。「『ガリデブ、N。西区のリトルライダー通り一三六』だって。ほかにはね、いないみたい」
「なるほど。ならば今回のなぞは彼を中心として巻き起こっているに違いない。どうだいワトソン、このままおだやかな午後を過ごすか、ぼくと冒険に出かけるか」
「ぼうけんする!」
「そうこなくちゃ! さすがわが勇敢なる友人だ」
ホームズがコートを羽織れば、すぐさまワトソンもそれにならった。彼の背では届かない場所にかかった帽子を取ってやり、小さな同居人がそれをかぶるのを見届ける。冬が深まるにつれてワトソンの服は次第にもこもこへと変わっていった。いやきっと、彼の服がもこもこになるからこそ、男は今が冬の真っただ中であると認識するのだ。
玄関の扉を開ける直前、キッチンから顏を出したハドソン夫人が何時ごろ帰ってくるのかと家子たちに問いかけた。男が逡巡していると、代わりに傍らの紳士が元気よく手を挙げてみせる。「ごはんまでに!」と彼は高らかに宣言した。夫人も、男も、さすがに頬をゆるめずにはいられなかった。
「いってらっしゃいませ」
大家の言葉を背中で受けながら外へ踏み出す。しかし、すぐに小さな手で袖を引かれたため男は振り返った。彼は頬を膨らませたワトソンと、腰に手を当てているハドソン夫人を交互に見た。うう、と唸ってしまったのは今日が初めてではなかった。
「……いってきます」
「いってきます!」
「はい、おふたりともお気をつけて」
こそばゆさと暖かさで色づく肌。手を繋いだ同居人に見えなかったのはさいわいだ。