第8話 ワトソンはかせとあかいろの馬車 その6
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。次にまぶたを開けたときにはもう、あたりはすっかり明るくなっていた。狭いカウチで横になっていたためかギシギシと節々が軋み、ぼやけた視界のなかには最後の記憶そのままに捜査資料が散らばっている。閉まっていたはずのカーテンも開け放たれていた。上半身を起こせばブランケットが肩からずり落ちた。おおかた、カウチに転がっている家子を不憫に思った大家がかけてくれたものだろう。
ふわり。鼻をくすぐるいいにおい。きょろきょろすれば発生源を見つけるのは簡単で、ダイニングテーブルに並べられた焼きたてのトーストやスープやソーセージなんかのセットに思わずのどが鳴るのもうけあいであった。ついでにもぐもぐと半熟のたまごをほおばっている同居人のすがたもあった。「んん!」と両手がほほにそえられる。足がパタパタと踊っていた。彼はたまご料理が好きなのだ。
立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。ワトソンの身体がぴょんと跳ねて、ターコイズのふたつの眼がシャーロック・ホームズを見る。「おはよう」という青年の言葉に彼はつんとおすまし顔でうなずいてみせた。
「ざんねんだったな、ホームズくん。きみがあんまりねぼすけさんだから、きみのぶんもぼくがぜんぶ食べてしまったぞ」
背後の扉が開いて、銀のトレイを持ったハドソン夫人が入ってくる。そのうえにはトーストにサラダにソーセージに、それからクラムチャウダーがもう一セット。少年は「むう」と言って、ほほを大きく膨らませてみせたのだった。
闇夜の悲劇―凶刃に倒れた青年
二日前の夜、ブリクストン・ロード、ロリストン・ガーデンズ三番地にて凶悪な事件が発生した。頭部をかち割られた状態の死体を発見したのは巡回中のカンタベリー巡査であり、殺されていたのはジェファーソン・ホープという辻馬車の御者であった。ポケットからは財布が抜き取られていた。
スコットランド・ヤードはこの事件をただの強盗殺人ではなく、かの連続殺人と関連があるのではないかと推測しているようだ。被害者は偶然殺人鬼と合間見えてしまったのだろうか。はたまた、勇気を振り絞り立ち向かおうとして返り討ちに遭ってしまったのだろうか。いずれにせよ、今後の進展が待たれるところである。
新聞の一面はどれもこれも似たり寄ったりで、おととい起こったくだんの事件を好き勝手騒ぎ立てている。死体が発見され、スコットランド・ヤードが本格的な捜査に乗り出したのは昨日の昼だ。早いところは昨日の夕刊ですでに速報を出していた。なので読者からすると「ようやくすべて出揃った」という感じなのだろう。
「あわわ。たいへんだ。あわわわ」
シャーロック・ホームズはかつて、これほどまでに目をきらきらと輝かせる同居人を目のあたりにしたことがなかった。ダイニングテーブルに並べられたたくさんの新聞記事。いつだかふたりで読んだ過去の記録とは異なり、そのすべてがジョン・ワトソンが実際に目のあたりにした事件のことを騒ぎ立てている。そう、どれもこれも、きらきらと、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンのことなのだ。まぶたが開いたり閉じたりし、そのたびに長いまつ毛がふわふわと揺れる。唇はだいぶ前から「わ」のかたちで開いたままとなっていた。
ホームズは咄嗟に自身の口もとへと手の甲を当てたが、残念ながら笑い声を抑えきることはできなかった。友人のほほが膨らみ、きゅっとにらみつけられる。青年は両手を挙げたが、口もとの笑みを消すことはやはりできなかった。
「やみよのじけん。たおれたおとこ。そうさをたんとうするのは、れすとけいぶ」
「トフィー・ヤードの?」
「うむ」
指がアルファベットをなぞり、高い声が単語をひとつひとつ音にしてゆく。対して、椅子を引きずり友人のとなりに移動した青年の視線は眠りに落ちる直前まで広げていたロンドンの地図をなぞっている。食後の紅茶はすっかり冷めて、飲まれないことに不満そうだった。
ワトソンの声が鼓膜をくすぐる。ほがらかなその音色はときおりつっかえながらも確実に事件のあらましを音に変えてゆく。あたたかくて、心地よくて、どうにもこそばゆい。なにより、ほどよくゆっくりとした旋律が脳内の情報整理にちょうどよかった。青年の視界には地図があり、昨夜は単なる平面の紙でしかなかったが、今はそれが事件の語り部となったワトソンによって鮮やかな色に染まっていった。
ホームズは首をかしげた。ひとつ、気になっていることがあった。最初の事件はピカデリー・サーカス。次はタワー・ブリッジの建設予定地。最後の事件はブリクストン・ロード。これまでに起きた事件は四件。被害者は男女問わず富裕層から労働者までさまざまだ。彼らに接点はない。だが、全員が自宅や職場、もしくはその日に行く予定だった場所の近くで死んでいる。つまりは家に帰る途中か、どこかへ行く途中に、死んでいるのだ。最後の被害者を除いて例外はない。だれしもが、なにかをするため、目的を持って外にいた。
なにか。変だ。思って、言って、シャーロック・ホームズが勢いよく顔をあげた。視線の先ではいつのまにかリビングに入ってきていたハドソン夫人が食後のティーセットを用意している。ワトソンがいそいそと新聞をおしのけて、乗らないぶんは大家と一緒にカウチに移動させ、ふたたび元いた椅子へと腰かけた。
大皿に積みあがったドーナツ。プレーンもあればクリームが乗っているものもあり、ドライフルーツやシナモンがアクセントになっているものもある。見た目よく、味よく、なにより小さな子どもがひとくちでぱくりとできるように。技術と愛情がたっぷりと詰まった宝石の山に家子がきらきらと目をまばたかせてみせた。
「ハドソンさんのおかしもなかなかのうでまえだ」
「あらま。言葉を間違えていますわよ、ワトソンさん。すばらしいうでまえです」
「すばらしいうでまえだ」
「よろしい」
伸ばされた両手がてっぺんに鎮座するひとつを持ちあげ、あぐっとワトソンの口が大きく開く。身じろぎをしたドーナツからふわり、シナモンの香りが漂った。
シナモン。
『実は私、菓子作りが趣味でして。いつも食べきれないほど作りすぎてしまうのです。よければ一緒にいかがですか?』
シナモン。
甘く、芳ばしい香り。
「………ああ、そうか。なんてばかだったんだろう。ぼくはひどい勘違いをしていた。だが、なぜだろう。それほど爽快な気分でもないな」
若き探偵が立ち上がった。
リビングを横切ってコートを取り、整った黒髪に帽子をかぶせる。そのすばやさに住人たちが目を丸くする。青年はハドソン夫人によって淹れられた自分用の紅茶を受け取り、そして一気に飲み干した。
「ホームズくん?」
「スコットランド・ヤードに行ってくるよ。おっと、ドーナツはひとりで全部食べてはだめだよ、ワトソン。ぼくもあとでひとつふたついただくし、これから連れてくるレストレードがお腹を空かせているかもしれないから」
「わるものがだれかわかったの?」
「いいや、ワトソン。それはちがう。最初から悪者なんて居なかったんだ。強いて言うならもう死んでいた。ぼくは、それを解いてしまった」
解いてしまった。
ワトソン。ぼくは、解いてしまったんだよ。
そう、苦々しげにつぶやいた友人を見送って、ワトソンはふたつめのドーナツへとかぶりついた。混ぜこまれたリンゴの果肉が、口のなかでしゃくしゃく鳴った。
※
フェリアー・ホープは最初から知っていたと言う。次自身の前にシャーロック・ホームズが現れるときには、スコットランド・ヤードの警官を伴って、自分を逮捕しに来るであろうということを。その証拠にレストレード警部がベルを鳴らしたとき彼はすでに身のまわりの整理整頓を終えており、昨日訪れたときとはまったく別の家であるかのように、部屋のなかはがらんどうになっていた。
ジョン・ワトソンはホームズの手をきゅっと握り、淡々と権利を読みあげる警官のすがたを見つめていた。ターコイズの瞳につい昨日、彼にあたたかなアップルパイをふるまった老父が殺人犯として逮捕されるさまがありありと映る。ホームズはフラットを出る直前まで、幼い友人をこの場に連れてくるかどうか迷っていた。それでも手を引いたのは、小さな彼にも見届ける権利があると思ったためだ。謎は解いて終わりではないことを知らせる義務が自分にはあると思ったためだ。なにより、ワトソン自身が『ぼくも』とコートを取った。少年は聡い。なにをしに行くのかちゃんとわかっていただろう。
先導するレストレードの動きに合わせて巡査が左右へと避ける。
老父は黒服の男たちに混ざって同じことをしていた青年たちの前で立ち止まり、昨日と似たような、悲しげな笑みを浮かべてみせた。
「なぜ、わかったのですか?」
「あなたの作ったアップルパイがとてもおいしかったからですよ」
「……ああ、なるほど。それではしかたありませんね。あれはねホームズさん、息子の好物だったのですよ。世間はこれからあいつを『怪物』と呼ぶでしょう。好き勝手に非難するでしょう。彼らの言うことはすべて正しいのかもしれない。たしかに、息子は償っても償いきれぬほどの罪を犯しました。だが、それでも、私にとってはいつまでも幼く可愛い息子だ。たとえこの手にかけたとしても、その尊厳だけは最期まで守ってやりたかった」
被疑者フェリアー・ホープを乗せて四輪馬車が走り去ってゆく。
家主を失った玄関を背に手を繋ぎ、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンはただただ立ち尽くすばかりであった。
「帰ろう。ぼくらの家に」
「ぼくらの、いえ」
「そうだよ、ワトソン。ぼくときみとハドソン夫人の家だ。今も、そしてこれからも」
シャーロック・ホームズは言った。
ジョン・ワトソンは友人を見上げて、小さくたしかにうなずいた。




