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第2話 ワトソンはかせとバスカヴィル家のねこ

ワトソンはかせの新しい友だち、ヘンリーの飼いねこが逃げ出した!?

ホームズさんの助けを借りて、ワトソンはかせはいざねこ探しに乗り出したのであった・・!

「あのね、チャールズがいなくなったの」

ワトソンはかせの言葉に友人は片眉をあげ、彼の言葉を繰り返した。チャールズ。チャールズ。彼にとってそれは舌にも耳にも馴染みのない言葉のようで、首を傾げながら目の前にいる友へとその続きを促した。

「おっとワトソン、きみは話の前後を取り違えるくせがあるね。最初から話してごらん」

「うむ」

はかせはちょこんと自身のカウチにおさまって、ひざのうえにふたつこぶしを作った。昨日の思い出を呼び起こしながら台詞を選ぶ。とはいえ、ワトソンはかせの親友はとても優しいひとなので、はかせを急かすこともなく彼の話を聞いていた。それならばしっとりと安心してお話ができるというものである。

「ヘンリーはぼくの友だちなんだけどね、チャールズという名前の小さなねこを飼っているんだよ。三日前にとつぜん窓から飛び出して、戻ってこなくなったって。だからぼくはヘンリーに言ったんだ。ここに来て、ホームズに相談すれば見つかるかもしれないとね。ヘンリーはううんと唸っていたけれど、もしまだチャールズが帰ってなければ、今日来るかもしれないよ」

「なるほど、ならば、いつでもきみの客人を迎えられるよう準備をしておかないとね……それにしてもヘンリーか。ちなみに彼のファミリーネームはなんと言うんだい?」

「バスカヴィル」

「……なんだって?」

「サー・ヘンリー・バスカヴィル。カナダからロンドンに来て、今はモーティマー医師とノーサンバーランドホテルに泊まっているのだけれど、もうすぐ遠いところに帰らないといけないんだって。領主になるんだよ。すごいよねえ」

「ぼくは今きみがいつの間に巷の話題をさらった大富豪の跡継ぎへ取りいったのかについて、一から十までみっちり問い質したい気持ちと戦っているよ」

「おやおや。友だちというのは取りいるものではなく、気づいたらなっているものだよ。ホームズくん」

ワトソンはかせはカウチへぽふんと背中を沈めて大儀そうに足を組んでみせた。ホームズは彼と対照的に前かがみで指を合わせている。悩ましきそのさまはすべてワトソンはかせへ向けられていて、はかせはよりいっそう得意げな顔にならずにはいられなかった。


ワトソンはかせがヘンリーと出会ったのはコヴェント・ガーデンのマーケットにハドソン夫人と買い物へ出かけに行ったときのことだった。夫人がはかせと同じくらいの歳だと思われる身なりの良い少年がひとり、じっと花屋の前から動かないのを見つけて声をかけたのがきっかけである。彼は愛する女性に渡す花を探していた。しかしどれもプレゼントをする前に枯れてしまうよと言われて途方に暮れてしまったらしい。彼女はいちど兄とともにカナダに来たことがあり、今はこれから行く彼の故郷に住んでいる。小さな村で花や土産を買ったらすぐ噂となってしまうから、どうしてもこのロンドンにいるうちにプレゼントを探したいらしい。うるうると涙をためながら言うヘンリーにすっかりハドソン夫人は絆されてしまった。そうして、押し花を作るのはどうかと少年に提案したのである。つまり、サー・ヘンリー・バスカヴィルをフラットに呼びこんだのはハドソン夫人だった。気ままな大家による即興押し花教室。仕事で留守にしていたホームズだけが知らなかったのである。

「なるほど。さすがぼくらのハドソン夫人だ」

あっという間にホームズから根掘り葉掘り聞き出されてしまったワトソンはかせはもう、しおしおするしかすべがなかった。




ヘンリーとモーティマー医師がやってきたのはそれから約三十分後のことだった。ヘンリーの頬には小さな友人を想って涙に暮れたあとがあり、医師の目元はどんよりと疲れてくまがはっていた。先程までしおしおしていた気持ちが引っこんでしまうほどの面持ちだ。

「いきなり押しかけてしまい申し訳ございません。シャーロック・ホームズさんですか?」

「とんでもない。事情は友人からお伺いしております。ぼくで手伝えることなら喜んで」

握手を交わすおとなたちをすり抜けて、すぐさまワトソンはかせは新しい友だちのもとへと駆けよった。ヘンリーはなおも目尻に涙をためながら、それでもちゃんとまっすぐ立っていた。

はかせがヘンリーの手を両手で握り、ぎゅうっとその身体を引き寄せる。ハグをすれば体温が伝わるのはすぐのこと。おそるおそるヘンリーの腕が自分の背中に回るのを、はかせはこそばゆい気持ちで受け入れた。

「来てくれてうれしいよ。やっぱりチャールズは帰ってこなかったんだね?」

「もう三日だ。彼はほとんどぼくのそばから離れたことはないから、狩りの仕方さえ知らないんだ。このままじゃお腹がすいてしまう」

「うんうん、けれどもうだいじょうぶだよ」

ワトソンはかせが優しい声で言う。ヘンリーはしばらく黙って難しい顔をしていたが、信じたい気持ちが勝ったのか、小さくうなずいた。

「ぼくたちの泊まっているノーサンバーランドホテルの部屋は二階にあるんだ。普通なら人間でさえ飛び降りることのできない場所だが、窓の真下には別の部屋のベランダが飛び出ていて、その下にはホテルの軒がある。ねこならぴょんぴょんと移ることができるというわけだ。だから窓をなるべく開けないように、そもそもこの街は霧がひどくて窓を開けようが閉めようがなにも見えやしないし、気をつけていたのだけれど、どうしても空気がどんよりした日にメイドがちょっとだけ開けてしまった。そのときにたぶん、チャールズはなにかを気になるもの見つけたんだ。一目散に外へと走っていってしまった」

「うむむ。見つけたか。嗅ぎとったか」

はかせとヘンリーの会話はハドソン夫人のもたらしたミルクとクッキーによっていったん打ち止めとなった。ヘンリーはクッキーをミルクに浸してから食べて、ワトソンはかせはそんな友だちを見つめたあと、やはりそのまま食べるに越したことはないという顔でかじった。

ホームズとモーティマー医師が話している間、はかせはヘンリーがこれから領主になる場所について聞いていた。彼いわくそこは広い広い湿原のうえにぽつりぽつりと家があり、とても静かな土地なのだという。そのため昔のひとたちが暮らした横穴や、すべてをぺろりと飲みこんでしまう沼が至るところにあるというのだ。ごちゃごちゃのロンドンで暮らすワトソンはかせにとって想像するのはあまりにむずかしかった。

眉を寄せたはかせにヘンリーは「いつかきみも来るといい」と言った。そんなわけで、はかせはそうしようと決めたのであった。きっとそう遠い未来ではないだろう。


すっかりクッキーの皿がからっぽになったころぱちん! とはかせの友人が手を叩いた。ヘンリーは飛び上がったが、ワトソンはかせはいつものことだと、ゆっくり立ち上がった。

「本当によろしいのでしょうか。ホームズさんのお言葉に甘えてしまって」

「ええ、必ず彼らと大切な友人を見つけ出してみせますよ。その様子だと明日には出立しなければならないようですから、あなたも時間を持て余すようなことがあればチャリング・クロス病院の旧友たちへ挨拶でもしてくるといい」

「そうですね。ぜひそうさせていただ……いや、ホームズさん。なぜ私がチャリング・クロス病院出身だとわかったのです?」

「立派なステッキをお持ちでしょう。あなたが医師であるならば、そこに刻印された『C・C・Hの友人より』というのはチャリング・クロス・ホスピタルと思うのが自然だ。ステッキはそれほど古くなく、あなたもまだ開業医としてはお若い。旧友のひとりやふたりロンドンに残っていると仮定してもそれほど不自然ではないと思いますが」

「はは、素晴らしい推理だ。今ので余計にあなたの頭蓋骨が欲しくなりましたよ」

「おっと、それはご遠慮願いたい」

おとなたちが握手を交わすのを見たので、ワトソンはかせとヘンリーも真似して固く手を握りあった。依頼人とは事件解決までばいばいするのが常であったが、どうやら今回はそうではないらしい。モーティマー医師が帰ったあともヘンリーは当たり前のようにカウチへどっかり座っていて、三杯目のミルクをちょうど飲み干したところであった。浸すためのクッキーがもうないことを残念がっている雰囲気さえある。

しばらくして、ホームズが屈んで所在なく立っていたワトソンはかせと視線を合わせる。彼は友人にウインクをして「あれを持っておいで」と耳打ちをした。彼らにとって「あれ」はたくさんあるのだが、はかせはすぐにホームズの言いたいことがわかったのであった。


力強く頷いてとたとた寝室への階段を昇る。扉を開けて、クローゼットも開ければ、お目当てのものを見つけてはかせの眼が輝いた。それはリビングのコート掛けにあるのよりもふたまわり小さい、インヴァネスコートと鹿撃ち帽子。ぴったりと温かなそれに袖を通せば、ちょこんと名探偵の完成なのである。

ワトソンはかせがとっておきのコートと帽子を持って降りてくると、すでにホームズとヘンリーは出かける準備を整えていた。相棒とお揃いのそれに客人は驚き、友人は似合っているとワトソンはかせの肩を叩いた。

「さてヘンリー、腹ごしらえは済んだかい? きみの友人を迎えに行くとしようじゃないか。なに、心配はいらないさ。今日はぼくとこの頼もしいワトソンがきみと共にあるからね」

「うむ。まかせたまえ」

ワトソンはかせが大きいほうのインヴァネスコートのポケットから拡大鏡を取り出してかまえる。こういうのは形からが大事なのである。




一行がまず向かったのはくだんのねこが逃げてしまったノーサンバーランドホテルであった。『こんなことをしている間にもしかしたら戻ってきているかもしれない』と言ったのはワトソンはかせで、ヘンリーもそれに賛成した。ホームズは別の理由からふたりに賛成したようだ。

しかし、ものごとというのは早々うまくいくものではない。ホテルの部屋はヘンリーが出てきたときとまったく同じで、チャールズは戻ってもいなければ絨毯を歩いたような痕もなかった。いつでも帰って来れるように窓を開けっぱなしにしているのだという。それはそれで不用心なので、ホームズは窓の向こうをひとしきり眺めたあとにぱたんと閉めてしまった。


なにはともあれ出発点はホテルである。チャールズは窓からなにかを感じて、外の世界へと歩き出したのだ。問題はふたつ。彼はなにを感じたのか。そして、それはどこにあったのか。ホームズの言葉にふたりは唸って腕を組む。これはとっても初歩的ではないぞ。はかせは神妙な面持ちでつぶやいた。

チャールズは道をまっすぐ走っていった。ヘンリーが指さす方向へ三人はゆっくりと歩いてゆく。たくさんの人々が行き交う道はどうにもきゅうくつで、ホームズの手をちゃんと握っていなければすぐさま人波に押し戻されてしまう。しかしそんな道行きをものともせず、ホームズはうまいことはかせとヘンリーを誘導し、紛れこむスリに遅れをとることもなかった。さすがワトソンはかせの親友である。


通りを歩いて、路地を覗いて、なにもないとがっくり肩を落としてまた歩く。そんなことを続けるうちはかせとヘンリーは何匹かのねこに出会った。出会うたびにしゃがんでチャールズのことを聞いてみるが、逃げられてしまうか、ちっとも答えようとしてくれない。しまいにはエサをねだられて非常用に持っていたクッキーの欠片をすべてねこたちに渡してしまった。ねこのほうが一枚も二枚もうわてだったのだ。

「ねえ、もしかしたらチャールズはねこたちについていったのかもしれないぞ。ロンドンのねこはとてもずる賢いから、ぼくらの知らない方法でチャールズに合図したのかも」

ワトソンはかせがそう言い出したのはホテルから体感一時間くらい歩いたあとだった。時間というのは不思議なもので、はかせはもう一時間も二時間も歩いた気持ちになっているのに、ホームズの持っている懐中時計は三十分も経っていないとはかせに示してきた。つんと無視をした。

ホームズに促され、はかせは自分が立ち止まったのが道の真ん中であることを思い出す。しょもしょもと傍らを歩くヘンリーに並びながら、はかせは自身の言葉をこんこんと考える。ねこ。ねこ。こね。こね? つぶやきすぎて間違えているが、はかせは気にしない。

「ねこがたくさんいる場所か………」

 心ここにあらずのワトソンはかせを見たホームズはヘンリーに合図をし、通行人の少ない建物のそばへと寄った。布こすれの音がして、はかせの目の前に友人の顔が来る。ホームズがしゃがんでくれたことにはかせはすぐに気がついた。

「とても大切なことが思い浮かびそうなんだね、ワトソン」ホームズの言葉にワトソンはかせがうなずく。大きな手のひらがはかせとヘンリー、両方の頭を撫でる。はかせの親友は不安げな眼をした新しき友を見つめた。「ワトソンは今『ねこがたくさん集まる場所』について考えている。彼は普段ぼくと一緒にロンドンじゅうを駆けまわっているから、あともう少しだけ材料があれば思い浮かべることができるはずだ。これからぼくたちがどこへ行けばいいのかをね。手伝うのはきみだよ、ヘンリー。このさいきみのねこはいちど置いて、考えてみてくれないか。『ねこが集まる場所』の条件について。どうだい? 思ったことをなんでも言ってごらん」

ヘンリーはたっぷり三十秒黙ったのち、小さな声でつぶやき始めた。その声は段々と大きくなって、彼本来の自信に満ちたそれになる。ホームズは相槌を打った。

「ううんと、まずはご飯がなくっちゃいけません。あと寝る場所も。ふかふかしていて、人間たちから身を隠せる場所がいい。ねこはそれほど雨が好きではないから、空がぽっかり見えていてはだめ。それと、ときたまいじめてくるひどいやつがいるから、あまり人間が居ないところがいい。それぞれ縄張りがあるから広さもないと」

「すばらしい推察だ。ならヘンリー、きみがもしねこならどんな場所を家にする?」

「………公園。ぼくなら広い公園にする!」

 ヘンリーが大きな声でそう言った。

 ワトソンはかせが「あ!」と叫んだのと、ほぼ同じタイミングであった。

「リージェンツ・パークだ! 広くて、木がたくさんあって、いつもたくさんのねこたちがリスと追いかけっこをしている! あそこに違いないよ!」

 まるではかせの宣言を待っていたかのように、するりと三人の目の前で馬車が止まった。ホームズがウインクと共にヘンリーを車内へエスコートし、続いてワトソンはかせへ手を差し伸べる。むむむ、という顔ではかせはホームズを見上げた。しかし、はかせの友人はいつだって魔法使いのような男だ。なのではかせはしかたなくそのままホームズの手を取って、ふかふかのシートに背中を預けたのであった。


 ガタン、ガタン。車輪がまわり、馬が走り出す。

 目的地はそう遠くない場所にあったが、なにぶんワトソンはかせもヘンリーもくたくたであったので、いつの間にか互いに身体を預け合い、すっかり眠ってしまった。ホームズはそんな小さなふたりを見つめ、あくびをひとつ噛み殺したのであった。


 平日の昼間だからか、穏やかなリージェンツ・パークにはほとんど誰もおらず、ときおりマフラーに顔を埋めて歩くひとが通りがかるくらいであった。雪こそ降ってはいないがだいぶ寒い。馬車を降りたはかせとヘンリーはぶるりと身体を震わせて、すぐさまホームズのインヴァネスコートのなかへと潜りこんだ。大変歩きずらかっただろうが、はかせの友人は特段気にすることもなく、ふたりを隠したまま並木道を歩いていった。

 歩いて、探して、また歩いて。ヘンリーの呼びかけにちっとも答えは返ってこない。それでもふたりは信じていた。理由なんてないけれど、きっとここにまだ見ぬ小さな友人が隠れているような気がしていたのだ。

「チャールズ!」

 しんとした木々の間でヘンリーの声がこだまする。地面を走りまわっていたリスがびっくりして木に登ってしまう。聞いているのかは知らないが、ヘンリーは念のためリスたちに「すまなかった」と謝っていた。


 歩いて、探して、呼んで、そうしてまた歩いた。

 みゃあ。か細い声が聞こえたのは、一行がリージェンツ・パークに着いてから約二十分後のことだった。

「チャールズ!」

 にわかにヘンリーが走り出す。ホームズとワトソンはかせは互いに顔を見合わせて、ヘンリー・バスカヴィルのあとを追いかけた。あの小さな身体のどこから力が出ているのだろうと思うほど、彼は全速力で走った。みゃあ。みゃあ。みゃあう。はかせとホームズにはわからないものの、ヘンリーにとってこの声はきっと唯一無二のものなのだろう。


 はかせたちが追いついたとき、ヘンリーはひときわ大きな幹を持つ木の根元にいた。彼は今にも泣き出しそうな顔で空を見上げていて、背伸びをするように両腕を伸ばしている。鳴き声は依然として聞こえていた。しかし走ってきた道にも、まわりの草原にも、木の後ろにもねこの姿はひとつもなかった。

 ヘンリーの視線の先、はかせとホームズは天をあおぐ。伸びる太い枝のひとつ、冬の低い太陽に照らされて小さな影がちんまりと、うずくまっているのが見えた。

「た、大変だ………」

 ワトソンはかせがつぶやく。その言葉をきっかけとして、今までがんばってきたヘンリーの気持ちがついに負けてしまった。瞳にたまる大粒の涙。溢れて、頬を流れて、唇がみるみるうちに歪んでしまう。小さな手のひらでは到底ぬぐいきることはできなかった。

ひく、と鼻が動く。しゃくりあげて、背中が震えてしまう。チャールズ。ヘンリーが友の名前を呼んだ。何回も、何回も、泣きながら友の名前を呼んだ。ワトソンはかせは友人の背中をさすったがあまり効果は現れてくれないようだった。

 ホームズはなおも枝から動かないチャールズを見上げていた。おおかたリス、もしくは他のねこを追いかけて木によじ登ったはいいものの、恐怖を思い出し降りれなくなってしまったというところか。ワトソンはかせもそのくらいは思い浮かべることができた。チャールズは二階から軽々と外へ飛び出すことができたほどの器用なねこだ。木に登るなんてことも、たとえ初めてだったとしても、彼には簡単だったのだろう。しかし、今回彼の登った木はホテルの窓から見る景色より何倍も高い。

ワトソンはかせはチャールズが今見ているであろう光景を思って身震いをした。想像するだけでとても怖くなってしまう。

「ぼくがいけなかったんだ。ちゃんとチャールズを見ておかなかったから。あんなに高いところから降りられるわけないよ。どうしようはかせ、チャールズが死んじゃう」

 泣きながら訴えるヘンリーに返せる言葉はもちろんなくて。ワトソンはかせはは自分よりも少しだけ背の低い彼を慰めながら、助けを求めて顏を上げた。相手もワトソンはかせを見下ろしていた。決意と優しさに満ちた、シルバーグレーの瞳であった。

「ヘンリー。泣いてはだめだよ」

 涙を癒す静かなテノール。名前を呼ばれたヘンリーが鼻をすすって声の主を見上げる。よっつの視線を受けながら、救いを求める小動物の叫びを聞きながら、シャーロック・ホームズはなおも自信たっぷりに笑ってみせた。


 男は帽子を取って、それを友人へ持っているよう手渡した。続けざまにコートとジャケットを脱いで地面に放る。手袋も外して落としてしまった。彼の視線は木漏れ日のあいだ、弱りつつあるヘンリーの小さき友をまっすぐに見ていた。

「ホームズ、まさか」

「そのまさかだよ。ワトソン、ぼくの帽子をしっかりを護っていてくれたまえ。きみがそれをぎゅっと抱いていてくれるかぎり、ぼくはなんだってできるんだから」

 ワトソンはかせがうなずく。腕がお揃いのディアストーカーをつよくつよく抱きしめた。ホームズが微笑みながら親友の頭を撫で、視線を再びチャールズに戻した。


 そこからはまさにあっという間のできごとだった。

 はかせとヘンリーが見守るなか、ホームズは木のくぼみへと指をかけ、はかせたちより何倍も大きな身体を軽々と持ち上げた。それから止まることなく腕を伸ばし、つま先でふんばり、ぴょんぴょんと天を目指して登ってゆく。

居ても立っても居られなくなったワトソンはかせは、集中した友人には届かないであろうことを知りながら、大きく大きく息を吸った。ヘンリーもまた同じであった。

「ホームズ! がんばれえ!」

「がんばれえ!」

 公園に響いたふたりぶんの声援。それは道行くひとたちをなにごとかと立ち止まらせるのには充分で。ひとり、五人、十人と見物人が増えてゆく。

誰しもが気に登りこねこを救おうとするホームズの姿を見上げていた。ひとりが子供たちに続いて声援を送れば、水面に投げた石のようにぐわんぐわんと広がっていった。


「がんばれ!」

「あと少しだぞ!」

「あの枝を掴めばいいわ!」

「がんばれ!」

「毛布を持って来よう! 落ちても受け止められるように!」

「がんばって!」

「がんばれ!」


 気がつけばワトソンはかせとヘンリーのまわりにはたくさんの人々が居た。みんながみんな、頭上で繰り広げられている救出劇のゆくえに夢中であった。チャールズのいる枝の真下にはどこからか持ってきた毛布が広げられ、力自慢の男たちがその端を持って準備を整えている。ワトソンはかせは嬉しくなって、まわりの声援に負けないよう、自分もめいいっぱい声を張り上げた。ヘンリーと手をつないでその行く末を見守っていた。


 ようやくホームズがねこと同じ高さの枝までよじ登った。手が届くまであと約二ヤード。ねこがわずかに後ずさりをする。枝が揺れて、数枚の葉っぱが地面に落ちた。

 ホームズがねこに向かってなにごとかを話しかけている。当然、木のしたにいるワトソンはかせには聞こえない。英語かもしれないし、はたまたねこ語かもしれない。しかし、話が通じているかは別として、チャールズは少しずつホームズへ心を許しつつあるようであった。威嚇するでもなく、逃げようとするでもなく、そのかたまりは枝のうえに留まり続けている。

 ホームズ。ワトソンはかせが祈るようにささやいた。その場にいる全員が固唾を飲んで見守るなか、じりじりと男がねこへと近づいてゆく。慎重に、的確に。ホームズの動きは静かであったものの、決して迷いはしなかった。

「チャールズ!」

 ヘンリーが言う。

 ねこがホームズの腕に収まったのも、それとほぼ同じくらいのことであった。


 突如、人々の拍手と喝采が空気をまっぷたつに割ってゆく。ホームズはチャールズを抱えたまま木の枝に腰かけてぽかんとしている。

「これは、いったい………」

ワトソンはかせは友人の唇がそうかたどったのを見た。まわりを見まわして、みんながみんな笑顔を浮かべているのをたしかめる。最後にヘンリーのほっとした顔を見て、なんだか泣きたい気持ちになった。

だって、とても嬉しかったのだ。自慢の友人が褒められているのを見るのは、自分が褒められることよりも、ずっとずっと心地良かった。





「ホームズさん、お茶を持ってまりましたよ。あら、ワトソンはかせはいったいなにをなさっているのです? ホームズさんの背中を登っているように見えますけど」

「ああ、さすが親愛なるハドソン夫人! お茶を注ぐついでに彼も止めてくれませんかね。数日前にねこの捜索を手伝ってからずっとこの調子なのですよ。ぼくを幹に見立てて練習しているのです。木登りができなくとも立派な紳士になれるのだと、いくら言っても聞かなくて」

「あらあら」

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