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第6話 ワトソンはかせのぼうけん

風邪を引いてしまったホームズさんに薬を飲んでもらうため、ひとりロンドンの街へと飛び出したワトソンはかせ。どこもかしこも歩いたことのある道なはずなのに、ホームズさんが居ないだけでこんなにさみしく、景色がくるくる迷ってしまって……?

ごほん。ごほん。扉を挟んだ向こう側で、苦しげな咳が聞こえてくる。ジョン・ワトソンはそのたびぴょん!とカウチから飛びあがり、まぶたをぱちくりとまばたかせた。立ち上がってしまえばあとはもう、いち、に、さんで簡単にドアノブへと手が届く場所。しかし、ワトソンはかせにはそれができない。少年は今朝大家から早々に『はいってはいけませんよ』と釘をさされてしまったのである。

午前八時のことだ。ワトソンはかせがいつものように着替えてリビングへと降りていくと、そこには空っぽのテーブルとイスしかなかった。『おはよう』のあいさつも聞こえなければ、ひょろりと伸びたシャーロック・ホームズの赤いガウンの背中もない。ためしに『おーい』と呼びかけてみたものの、ワトソンはかせの声に応える友人のすがたはどこにもなかった。むすんでもらおうと持ってきたネクタイは小さな手にぎゅっとされたまま、窓からふきこむつめたい風に肩がひやっとした。

『ホームズさん、風邪を引いてしまったんですって』

食器をすっかり片付けてハドソン夫人は呆れ顔でそう言った。いわく、昨日はくらくらしているのに無理をして、遅くまで実験をしていたということである。朝になって起きてみれば、寝室へすら歩けずにカウチで丸まっていたそうだ。

ワトソンはかせは『あわわ』と言った。大家はタオルとポリッジを抱えてふん、と鼻を鳴らすばかりであった。


ごほん。ごほん。扉を挟んだ向こうで、なおも苦しげな咳が聞こえてくる。ジョン・ワトソンはいてもたってもいられずカウチから飛びおりた。いち、に、さんで扉の前。おそるおそる耳をオーク材のそれにくっつけてみる。布がこすれるような音がしてまた、ごほん!ごほん!と少年をびっくりさせるような声が響いた。そのあとすこし静かになって、ごほんごほん。ワトソンはかせが耳を澄ませていたのはほんの数分のことであったが、それは何回も何回も繰り返された。

「あわわ。あわわ。たいへんだぞ」

そう、少年はつぶやいた。思わずドアノブに手を伸ばしかけ、大家とした約束を思い出す。もしあなたに咳を移しでもしたら、ホームズさんはとてもとても悲しいきもちになってしまうでしょうね。ドアノブから手を離し、絨毯のうえに座りこむ。風邪はたいへんだが、悲しいきもちになるのも同じくらいたいへんだということを、少年は知っていた。

うむむ。むむう。唸り声。ワトソンはかせもときには風邪を引くことはあるが、こんなにもたいへんではなかった気がした。いいや、いちばんたいへんなときは眠っているから、あまりおぼえていないのかもしれない。もっと言えば、風邪のときにおぼえていることはひとつだけだった。まぶたを開けると親友がいて、自分の手をにぎっていてくれたこと。そのひとつだけである。ワトソンはかせが今したくともできない、たったひとつのそれである。

「むむむう」

きょろきょろとあたりを見まわしてみる。なにか。なにか。ないものか。ジョン・ワトソンの頭にはそれだけがずうっとぐるぐるしていた。もっと深く考えてみる。ふと、先ほどのハドソン夫人の格好を思い出し、彼は「あ!」と両手を挙げた。ふわふわのタオルと、あつあつのポリッジ。もうひとつ、足りないものがある。それはもちろん、にがにがのおくすりである。

リビングを横切り、よいしょおと書斎机のイスに勢いよく乗りあげた。つみあがった本と紙の山をかきわけて、おめあての名刺をひっぱり出す。数日前、ホームズとふたりで訪ねた家だ。帰ってきた友人が『あとでかたづけよう』とそのへんにぽいっとしたのをワトソンはかせは見ていた。

表返し、裏返し。少年は規則正しく並んだアルファベットをじいっと見つめ、やがてうむうむとうなずいた。これで、まちがいない。声に出して読みあげて、トラウザーズにしまった。


カムデン・タウン ボニー・ストリート 十七番地

内科医 フェルナンド・アンストラザー


コートを着て、帽子をかぶり、リビングを飛び出してゆく。ジョン・ワトソンはもういちどだけ、寝室のほうを振り返った。それからしのび足で階段をおり、背中を向けているハドソン夫人に見つからないようにキッチンを通りすぎ、玄関の扉を開けた。

まぶしさに目を細める。きっとだいじょうぶだ。これは、彼のための勇気であった。





てくてく。ぽくぽく。すっかり秋に色を変えてしまった空はひんやりとして、ワトソンはかせの小さな背中を風と寒さで押しあげてしまう。少年は左手で自分のコートをぎゅっと掴んで、右手で帽子を押さえながら、行き交う人々のあいだを早足で歩いた。手袋はうっかり忘れてきてしまった。指はとっくにかじかんで、力がはいらない。ヒューヒューというハサミのような音が彼の耳を赤く染めた。

途中、知っているパン屋の前を通りがかり、なじみの店主がにこやかにワトソンはかせへと声をかけた。しかし当の本人は、前を向いて歩くのでいっぱいいっぱいで気づかなかった。

そんなワトソンはかせのようすに店主は首をかしげた。ジョン・ワトソンほど元気よく『こんにちは』とあいさつする少年はあんまり見かけないからである。店主の手にはトフィーがあった。だが、少年の口にははいらなかった。あたりを見まわした。彼のほか、誰もついていなかった。

『親御さんのおつかいか?なに、勝手に出てきただって?ならおれの馬車には乗せられねえな。さっさと家に引き返しな、ぼうず』

そう、御者にすげなく返されてからもうどのくらい経ったのだろう。引き返すなどとんでもない。馬車に乗れないのなら、診療所まで歩けばいいのだ。ワトソンはかせは頬をふくらませ、勢いよくずんずん歩いた。

たしかに、最初の十分はそれでよかった。ひとのあいだを縫って、よけて、踏んでしまわれそうになって、もう五分経ったあとからはどんどん心細くなってきた。心配にもなってきた。頭上にある道しるべを頼りに歩いているが、いつもとちがって「合っているよ」とか「まちがっているよ」だとか、教えてくれるひとはいないのだ。


ぽくぽく。とぼとぼ。道はどんどん細くなり、ひともまばらになってくる。剥き出しのレンガのかべと、建物のあいだで干された洗濯物。道ばたにうずくまる老父に、走り抜けるボロを着た少年少女たち。すれちがいざまに、玄関から、もしくは窓から顔を出し、身なりのいい幼い少年が歩くさまを興味津々な目が見つめている。しかし当の本人は、上を向いて歩くのでいっぱいいっぱいで気づかなかった。ちょっと前まであった道しるべがどこにもなくなってしまったのだ。

「きみ、迷子かい?ぼくが案内してあげるよ」

三度目に声をかけてきたのは帽子を深くかぶった男だった。前髪は長く、顔には影が落ちていて、笑っているのかただ口角をあげているのかわからない。少年は首をふった。いち、に、さん、四回もふったのに、男は道をふさいで動かなった。それどころかいっそう腕を伸ばしてきて、少年が後ろに飛び跳ねなければ手首を掴まれているところであった。

集まる声。呼びかける声。たくさん。たくさん。どれもこれも知らない声。ジョン・ワトソンは走り出した。上を向くのはもうやめて、ただひたすらに走った。背中越し、霧の向こうでおとなたちの舌打ちが聞こえる。捜査に行き詰まってイライラしている友人がやり、ワトソンはかせを見てすぐさま『おっと、今のはまずかったな。すまない』と謝ってくるあれのことだ。

右も左も上も下も、もうワトソンはかせにはわからなかった。ただひたすら、逃げなければと足を動かした。ぜえぜえと息が切れ、両足が重くなり、前がかすんで見えなくなりそうになる。それでも、彼は足を止めなかった。止めてしまったらたいへんなことになる気がしていた。


走って、走って、袋小路。

今来た、後ろにしか道がない。


ぜえぜえ。はあはあ。どうしよう。小さな両手が胸元をおさえる。目の前には高い石垣があり、建物の入り口はみんなそっぽを向いていた。まわりを見まわせど、どこにも穴は開いていない。隠れられそうな場所もない。

石垣に背中をくっつけて、少年は地べたに座りこむ。どうしよう、とかわいた声が漏れた。聞こえきたたくさんの足音に、ぽろぽろとこらえていた涙が落ちた。いよいよまぶたを閉じた。両手が耳をふさいで、ぽってりやわらかな唇が「たすけて」をかたどった。

そのまま、十秒。二十秒。三十秒経ったのち、ワトソンはかせはゆっくりまぶたを開けた。

「おい、ぼっちゃん。こんなところでなにしてるんだ?」

ひゅっとおどろきに喉が鳴る。そこにはジョン・ワトソンのよく知るベイカーストリート・イレギュラーズのリーダー、ウィギンズ少年が立っていた。





「ホームズさんが風邪で薬をねえ。はあ、おまえさ、自分がいったいなにやらかしたのかわかってるのか……おい、ジェシー。ベイカー街まで走ってこい。そんで、おまえはおれと来い。ドクター・アンストラザーだろ。この近くだ、連れて行ってやる。言っておくが、今回かぎりだからな。次の道案内からは一シリング取るぞ」

てくてく。ずんずん。ワトソンはかせより頭ふたつかみっつぶん抜けた少年が軽い足どりで前を歩く。彼は自分より数個下の少年の手首を掴み、明るい陽のひかりのもとへ引っぱり出した。このあたりも彼らのなわばりなのだろう、数分前のワトソンはかせとちがって足に迷いがちっともなかった。

てくてく。とぼとぼ。手を引かれているワトソンはかせは、歩きながらひと言もしゃべらなかった。ついさっきまでの怖さが胸にずんとまだ残っていたし、そこからひとっ飛びに安心したことにもまだ心が追いついてきていない。そんな彼にウィギンズはなにも言葉をかけなかった。ただ、いちばん近い道をとおって、彼の行きたかった場所に連れてゆくだけだった。


カムデン・タウン ボニー・ストリート 十七番地

内科医 フェルナンド・アンストラザー


扉に埋めこまれた銀の看板。ウィギンズがかたちばかりにノックして、向こうから返事がかえっくる前にドアノブをまわして押し開ける。ぐい、と腕を引かれたワトソンはかせはまだあいさつの準備ができていなかった。だが、しかし、はいってみたら必要なかった。どうせいくら準備をしていたとしても、このびっくりで全部忘れていてしまっただろうから。

「ジョン・ワトソン、四歳の少年です!何度かこの診療所にも顔を出しています!今日はここに来ていませんか?なにか彼から連絡はありませんでしたか?大家によるとここを目指して家を飛び出したのではないかということなのです、ホームズさんのための処方薬をもらうために!ベイカー街周辺にはもうおらず、なんでもかまいません、なにか情報はありませんか!」

待合室には、医師につかみかからんばかりのいきおいで質問している男がいた。医師は困惑の面持ちで、まったく応えられていなかった。

小柄で華奢なからだつき。ピシッと伸びた背すじに黒コート。それから、黒い革靴。細く鋭い目とどこか素早いイタチを思わせるシルエット。

ああ、そうだ。彼もまた、ジョン・ワトソンのよく知る、大切な友人のひとりであった。

「………れすと、けいぶ」

小さく、小さく、ワトソンはかせの口から言葉が落ちる。

呼ばれて、振り返って。探しびとをようやっと視界に収めたG・レストレード警部は両目を潤ませて、袖でごしごしぬぐったあと、駆け寄った少年をつよくつよく抱きしめた。

「ああ、ワトソンはかせ!本当によかった!

耳のすぐ近くで聞こえた声は掠れ、息が上がっていた。こんなにも寒いのに彼のからだは汗ばんでいて、まるで走ったあとのワトソンはかせと同じような熱さであった。

服には泥がついていた。靴も汚れきっていた。髪が乱れ、帽子すらもかぶっていない。彼はこう見えてきれい好きなので、汚れはすべて今日ついたものだった。

「ホームズさんがなぜいつもあなたをそばに置いているかわかりますか?どれほどいそがしくしていても、決してあなたから目を離さない理由を知っていますか?それはですねワトソンはかせ、この世界でもっとも愛するあなたをあらゆる危険から守るためですよ。あなたがすこやかに育ち、幸せになることを誰よりも願っているからですよ。だから、今ここで私と約束してください。もう二度とこんな危ないことはしないと。もしそこの少年と出会ってなかったら、あなたは誘拐でもされて永遠に、ホームズさんと会えなくなっていたかもしれません」

ジョン・ワトソンを抱きしめる腕の力がつよくなる。とくとく、と心臓の音が聞こえる。

それは優しくて、あたたかくて、いつもどおりの大好きな響きであった。

「それでも、よくここまでたどりついた。がんばりましたね」

とたん、前が潤んで見えなくなって、ひくひくと肩が震えだした。

そうして、少年は泣き出した。しゃくりあげるようにして、友人のコートを、ぎゅっと掴んでしばらく泣いた。





「さて、薬も受け取ったことですし、そろそろベイカー街に帰りましょうか。ハドソン夫人はお怒りでしょうが、なに、心配いりませんよ。今回だけは特別に私も一緒に怒られますから」

「トフィーはもう食べていい?」

「いいえ。馬車に乗ってから」


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