第1話 ワトソンはかせの朝は早い
ここは19世紀のロンドン、ベイカー街221B。朝はうんとさむさむで、起きるのも一苦労なのである。
ワトソンはかせの朝は早い。
まずこの、とても温かい毛布のなかから出ることが第一の関門である。柔らかなこれは小さい身体をすっぽりと包んでしまっていて、手足をうんと伸ばしたとて簡単に出れるものではない。なによりの問題は毛布ではなかった。とてもとても寒いのだ。外の世界というやつは。
なんとか毛布の入り口あたりまで這ってきて、手のひらをちょっとだけ、ほんのちょっとだけ外へ出してみる。彼は「ひゃっ」という声と一緒にぬくぬくのなかへと腕を引っこめた。それはもう、吹雪の最中のような寒さである。それでもはかせは知っていた。ここを抜け出さなければなにも始まらないのだということを。大好きなひとにも会えないし、大好きな朝食にもありつけないのだということを。はかせの愛するひとたちは世界でもっとも優しいが、決して彼を甘やかすようなことはしないのだ。
身体を縮めて、心のなかでみっつ数える。「よし」という力強いかけ声をして、ようやくはかせは毛布をばさり! と自身から取り払った。小さな体躯を容赦なく冷気が襲う。はかせは震えながらもぬくぬくにはもう戻らなかった。
腰掛けたベッドから足をおろしてぶかぶかのスリッパへとつま先を埋める。ハドソン夫人お手製のバンドで止めれば途中で脱げてしまうことはなかった。もちろんはかせはこれよりもっと小さくて履きやすいスリッパがあることを知っているし、フラットに住む友人たちがことあるごとにはかせへ買い替えをおすすめしてくる理由もちゃんと理解している。しかし、はかせにはこのスリッパこそが大切だった。なにぶん、大好きな同居人とおそろいなのである。
ペタペタと効果音を鳴らしながらクローゼットの前に立つ。両手で取っ手をきつく持ち、全身の力を使って扉を開ける。この頃めっきり建つけが悪くなってしまって、自分の服を取り出すことすら朝の大仕事なのである。昨晩同居人が『油をささないとね』とつぶやいていた。もしかしたら、明日からは少しばかり快適になるかもしれない。
ワトソンはかせはむずかしい顔をして、ずらりと並んだ服を見る。彼のために作られたクローゼットは、台を使えばはかせでも簡単にハンガーへと手が届いた。まだまだ大きいように見えるのは、聡い同居人が彼の成長を加味して特注したためである。なので、いつかこの踏み台も必要なくなるだろう。きっとそう未来のことではないはずだ。
彼はしばらくうんうんと唸ったのち、部屋の隅から踏み台を引きずってきてよいしょと登る。手に取ったのはお気に入りのツイード。まあ、すべてお気に入りなのだけど。そんなことをぼやきながらシャツとネクタイ、それから靴下を引っぱり出してくる。それからまたベッドに腰かけて、ぶらぶらと揺らした足元を見て、そうしてワトソンはかせは気付いた。スリッパはトラウザーズを履くため脱がなければならないのに、バンドをしっかり留めてしまっているのでとても脱がしがたいということを。そして昨日もはかせは同じあやまちをしたということも。
「むむう」
もしここにハドソン夫人が居れば「ちゃんと転ばないようにしていて偉いですわね」と言ってくれるのだろうが、あいにくここにはワトソンはかせひとりしか居ないので、はかせはムスッとした顔のままもういちどスリッパのバンドを解いた。朝いっかい留める練習をしたので、次リビングへ降りるときはもっと上手に留められるはずである。そう、ただの練習だったのだ。
気を取り直してシャツに腕を通し、パチパチとボタンをひとつずつ留めてゆく。このあたりはお手のもの。英国紳士である彼は、いつでもきちんとシャツとトラウザーズを身につけている。ときたまフリルのついたカボチャパンツの子供服を着ることもある。本当に、ときたまである。
トラウザーズを履いて、ベストをつけて、いよいよはかせは最後の難問に移った。ネクタイ。これが第二にして最大の関門である。選んだのは戦いの赤。しかし、残念ながら負けてしまった。腕にぐるぐると絡まったので、はかせはそれをほどいてジャケットのポケットへといれた。
もういちどスリッパへと足を埋め、バンドをしっかりと留めて履き心地を確かめる。今ならジャンプもできそうだ。してみた。できた。
窓に近寄り、カーテンを開け放つ。出窓にある小さな観葉植物たちに「おはよう!」とあいさつをした。ハドソン夫人が毎朝やっているのを見て、とても良いと思ったのである。
扉を開けて外に出た。廊下も寒くはあるが寝室よりかは何倍もましで、階下から昇ってくるかぐわしいにおいに思わず鼻がひくひくと動く。手すりを掴んで、ワトソンはかせはスリッパを鳴らした。大好きなふたりに、とびきりのあいさつをするためだった。
「おはよう!」
「ああ、おはよう。ワトソン」
「おはようございます、ワトソンはかせ」
ワトソンはかせの朝は早い。
早くて早くて、とても素敵なのである。
※
シャーロック・ホームズの朝は早い。
まずはまぶたを開き、周囲の音に耳をすませる。その後右と左へゆっくり寝返りをうってみて、なにもないことをたしかめるのだ。そうして始めてぬくい毛布をめくって起き上がり、ナイトキャップを枕のあたり目がけて放る。好き勝手に飛び跳ねている黒髪を億劫そうにぐしゃぐしゃとかきまわすのは彼のくせであった。
今日のようにただ冷たい朝はとりあえずそれでいいのだが、ときおり、正確に言えば週に三日くらいの頻度で隣に湯たんぽもとい同居人が眠っている場合があるので注意が必要だ。寝ぼけまなこのまま起きたら相手をびっくりさせてしまうし、もっと悪ければ腕などが小さな身体に当たってしまう可能性もある。なのでホームズは朝からとても慎重であった。起きていちばんに耳を澄ませるのも、寝返りで周囲を確認するのも、すべてはそのためなのである。
「寒いな」
彼はぼそりと低い声で呟いた。厚手の絨毯のうえに両足を下ろし、裸足のままカーテンを開けにゆく。果たして昨日の自分はスリッパをどこへ落としてきたのだろうか。男はとても賢いが、賢い以外のことはてんでだめだった。
カーテンを開け、射しこんでくる眩しさに思わず目を細める。いつの間にかずいぶんと寒くなってきた。行き交う人々は足元を眺めるばかりだが、両親の間に挟まった少年少女はどことなく浮き足立っている。その理由はいわずもがな。今が祝いの十二月だからだろう。
寝室の扉を少し開け、階下で慌ただしく支度をしているであろう大家を呼ぼうとした。息を吸って、唇を開いて、声が出る前にホームズは気付く。開いた扉のすぐ右下にちょこんと、彼の求めていた水差しが置いてあることに。立ちのぼる湯気。持ち上げれば熱いくらいである。つまりこれは夫人の手によって、ほんの数分前に置かれたということだ。これにはかの名探偵も「さすが」と感嘆せざるを得なかった。
ありがたく水差しを部屋に引きいれて、用意しておいた洗面器に溢れぬようそっと注ぐ。浸したタオルはすぐさまホカホカになり、端正な男の口元すらもほっとゆるめてしまった。癒しの湯。もはや永遠に手を入れておきたい。そんな気分にさえなってしまう。とはいえ、この室温ならばそんなに長く持たないだろう。なので男は手早くナイトシャツのボタンを外し、朝の日課である湯浴みに取りかかった。
シャツとトラウザーズに着替え、キュッと鏡の前でネクタイを締める。前髪を軽くうしろに流してコロンを付ければだいぶ見られるようになった。ベストと、それからジャケット。しかし足だけは靴下のままだ。昨晩スリッパも靴も階下に置いてきたことを思い出したためである。
リビングに降りれば気の良いハドソン夫人がにこやか、とは言いがたい表情で男を迎えた。ダイニングテーブルにはすでにふたりぶんの朝食とティーセットが並べられている。男は夫人の鋭い視線を受けて肩をすくめた。彼女の言いたいことは痛いほどわかっているし、いつもどおりのそれである。
「どうするのです。あと少しではかせが起きてきてしまいますわよ、ホームズさん」
それが最後の決め手であった。男は唸り声をあげて床へと屈み、盗人でもはいったのかというほどに散らばった書類を集めてゆく。今日は紙であるだけまだマシだ。ホームズはもともときちんと整理整頓ができるほうではなく、かつ夜行性の気質を持ち合わせている。なので朝は惨状だ。書き物も、実験器具も、検体も、わりかし出しっぱなしであった。なので彼はこうして、それらを朝慌てて片付けている。同居人が触れると危ないというのもあるが、ほとんどは見栄というやつだった。ちやほやされていたいのだ。世間ではなく、ひとりだけに。
ああ。英国紳士たることはとてもとてもむずかしい。ホームズは噛みしめながら束ねた書類を棚に押しこみ、落ちていたクッションを本来あるべきカウチへ戻したのである。
ようやくハドソン夫人のお墨付きをもらい、男はいそいそと椅子に腰かける。新聞を開いて、紙巻タバコをくゆらせて、煙と共に安堵の溜息を天井へ吐く。耳を澄ませばとたとたとスリッパが下ってくる音がした。ゆるんでしまう口元を男が隠すことはなかった。
勢いよく開いた扉。小さな親友はキラキラとターコイズの瞳を輝かせ、高らかに宣言したのであった。
「おはよう!」
「ああ、おはよう。ワトソン」
「おはようございます、ワトソンはかせ」
シャーロック・ホームズの朝は早い。
早くて、早くて、慌ただしくて、このうえない愛おしさから始まるのだ。
ホームズは結局、新聞を読めなかった。朝は広げた途端にワトソンが降りてきたのでたたまざるを得ず、というよりそもそもポーズなので読む気はなかったのだが、朝食が終わりカウチへ移動した今もなおその機会が訪れることはなかった。理由はもちろん目の前にいる小さい友だ。彼はホームズがカウチで新聞を広げた途端、「よいしょ」というやけに年寄りくさいかけ声と一緒にひざへと登ってきたのである。
普段ならその行動はイコール男にならい新聞を読むため(彼は朝新聞を読むことが紳士だと思っている)なのだが、今日ばかりは違うらしい。ワトソンはすぐさまホームズの手から邪魔な紙の束を追いやって、小さな手のひらで彼の両頬を覆ってきた。こちらを真っ直ぐ見つめる瞳。今朝眺めた浮き足立つ少年少女の姿がぼんやりと脳裏を掠めていった。
「ときにホームズくん。ぼくはとてもとても良い子だと思うのだけど、いちおうはきみの意見も聞いておこうと思う」
「少なくとも、紳士になるにはまだまだ修行が必要だろうね。ネクタイを貸してごらん」
「むむう」
ぬくい手が離れてゆくのを寂しく思う。そんなことを思った自分にずいぶん絆されたものだと笑ってしまう。友は男の表情をどう解釈したのか、不服げに唇を突き出してみせた。
ワトソンを背中から抱えるようにしながらワインレッドのネクタイを慣れた手つきで結んでゆく。小さな指が真似をするように動くので、結んだそれをいちど解いて、彼の手をとってゆっくりと結び方の実演をしてみせた。ワトソンの唸り声が聞こえる。彼のネクタイ係としての栄誉を手放すのはもう少しかかりそうである。
きゅっとお揃いのそれを束ねたら、そそくさと友人がまたこちらへ向き直った。ふよふよした頭を撫でられながらも強い面持ちで男を見つめている。男は微笑みながらも、まっすぐに親愛なる小さき友を見つめ返した。
「ワトソン。良い子悪い子というのはぼくの一存で決めるものではないからわからないけれど、きみはぼくがこれまで出会ったなかで最もすばらしくて、愛おしいひとであることはたしかだよ」
「サンタクロースもびっくりするくらい?」
「ああ、サンタクロースもびっくりするくらいね。誰しもがきみへプレゼントを贈らずにはいられないだろう」
「ふふふ」
満足げな顔。しかし両手で頬をむにむにすれば、すぐさまくるりと背中を向けてしまう。しかたなくサイドテーブルから新聞を引っぱってきて、彼のひざに広げてやった。
「英国一幼い当主誕生。カナダからやってきた、サー・バスカヴィル」
「とても高い、宝石がなくなる。見つけたものにはお金がいっぱい」
「ウォータールーでの殺人事件、ついに捜査打ち切りか。つまらない事件ばかりだな」
腕を組んで背中を伸ばす。
ワトソンは揺れた椅子の感覚を楽しんで、にやりと親友を見上げてみせた。
「でもね、ホームズ。今日はこれから、とてもすてきなことが起こるんだよ」
「本当に?」
「ほんとう。だってきみとぼくがいっしょにいるのに、おこらないわけがないんだ」
呼び鈴が鳴る。
途方に暮れた依頼人がやってくる。
ハドソン夫人から名刺を受け取って、親愛なるジョン・ワトソンは元気な声で言った。
「さあ、おはいりくださいませ!」