思っていたより重症
いのししが去ってどうにかひと落ち着きしたスーパー陣営のキャンプ地にてポカリを飲んでいると、蜂鳥さんがちゃっかりバーベキューの肉を食いながらやってきて隣に座った。
『さっちゃんも食べる?もらってきてあげましょうか?』
「いえ…さすがにいのししに襲われたばっかりで肉食う元気ないです」
『怖かったわよねー!本当に怪我とかなぁい?初仕事で労災とか超ブラックよね!』
「おかげさまで何ともないです。ありがとうございました、助かりました」
無事でよかったわああとかユキちゃんがばたばたしながら蜂鳥さんはもくもくと肉を食べている。
どこからか早咲きの桜の花びらが飛んできていた。
嘘みたいにのどか。
「ところで、駆け落ちカップルはどういうことになったんですか?」
あの双眼鏡で覗いた一連の流れではなにがなんだかさっぱりわからない。
『ご想像にお任せするわ。とりあえずハッピーエンドになったみたいよ』
なんだそのテキトーな説明。
まあそれよりも気になることがあった。
「ユキちゃん毒霧吐いてましたよね?」
『あれは熊撃退スプレーよ★最近このあたりで猪目撃情報が出ていたからさっちゃんに持ってきてもらったの』
ユキちゃんの口元にはスプレーのなごりの赤いシミがついている。
『駅までだから危なくないと思ってお願いしちゃってごめんね』
「いえ…ところで」
本体はめっちゃ肉食ってるのにユキちゃんは通常通り喋っているのはどういう仕組みなんだろう。
もしかして妖怪二口女みたいになってるんだろうか。
なにげなく蜂鳥さんの後頭部を見ようとすると、視線を感じたのか目が合った。
「…ところでさっき喋りましたよね」
『ずっと喋ってるわよ?』
「いえ、その声じゃなくて」
『なんのこと?いのししにびっくりして白昼夢でも見ちゃった?』
「バイト応募の時電話対応してくれたのって蜂鳥さんですよね?」
蜂鳥さんがすーっと目を逸らす。
「私が激しい声フェチってご存知ですよね?あなたの声がめちゃくちゃ好みって電話で唐突に主張してしまったから喋ってくれないんですか?!」
蜂鳥さんの目が泳いでいる。
「さっき依頼者さん達とは会話してましたよね?どうして私とは喋ってくれないんですか?!」
いのししに襲われたばかりだからか、言動が猪突猛進になってしまっているのは自覚済みだ。しかしここではぐらかされるわけにはいかない。
「電話で唐突に主張してしまい驚かせてしまったと思いますが、すごくすごく好みな声だったんです」
録音しておかなかったことを悔やんでその日は眠れなかった。人間はこれほどまでになにかに執着できるのだと自分ごとながら驚いたほどに。
「ただ聞きやすい声とかそういうのではなくてですね、こう…鼓膜を震わせる瞬間に芳醇な色香を発して甘く琴線に触れてくるというか、脳髄に軽い麻薬なみの効果をもたらして中毒寸前の幸福感というか。耳元で囁かれたらたぶん私失神します。ああ、全神経を聴覚にしてしまいたい!鼓膜だけでなく全身であなたの声を感じていたいんです!毛穴からも吸収したい!その声だけで飯を三杯は食えます。一言一言の発音すら神憑り的に好みなんです。あ、退いてますね?そんな無言で退かないでください。もったいない!声に出して怒ってください!その声で叱られたい、むしろ罵ってほしい、吐き捨てるような罵詈雑言ですら残さず鼓膜に焼き付けたい!発声する瞬間の息の漏れ方や母音の響き、Lにかかる発音と声の抜き方、タ行の溜めや滑らかなラ行、ややくぐもるガ行…。本当、奇跡の声帯ですね。もういっそ声だけの存在になればいいのに!顔も身体も無用の長物、空気を介して響くなんて人体で一番崇高な機能ですよね!ああ声・声・声!もっと話してください!喋ってください!叫んで!囁いて!呟いて!呻いて!嘆いて!喘いで!喚いて!とにかく常に声を出していてくれさえすればいいんです!」
途中から興奮が抑えきれなくなり押し倒す勢いでつめ寄ってしまった。蜂鳥さんと鼻先がつきそうになっている状態なのに気がつき慌てて後退りする。
『思っていたより重症でこわいわ!!』
ドン引きされた。
「す、すみません。熱いパトスがほとばしってしまいました」
『神話になあれ!』
そんな風に蜂鳥さんに警戒されつつ、仕事の顛末を報告するため私達は事務所に帰った。
さすがに義姉や兄の前では地声で喋るだろうと期待していたのだが、『ただいまああ!』と軽やかな幼女の声で叫びながら事務所のドアを開けていた事により期待はガラガラと崩れる。
社長や夏樹さんも普通に
「あらおかえり秋くんさやかちゃん。一緒に帰ってきたのね、さやかちゃんがなかなか戻ってこないからどうしたのかと思ってたところよ」
「ユキちゃんを運んでくれてありがとう。千秋も仕事お疲れさま」
となにごともない様子で会話している。
蜂鳥さんは幼女の声とテンションで仕事の顛末を報告しておりどうやらこれが通常らしいのは理解した。
ちなみに勤務時間が過ぎたのか、田中さんはすでにいなかった。
一通り報告を聞いた社長が申し訳なさそうに
「ごめんなさいねさやかちゃん、初日から危険な目にあわせちゃって…。いつもはここまでは危険じゃないのよ?命の危機まではなかなかないのよ?」
と全然安心できない事をおっしゃっている。
「いえ…大丈夫です。蜂鳥さんが助けてくださいましたし。おつかいで運んだユキちゃんの活躍も見られましたし…」
「ああ、お人形のユキちゃんね!今回は防犯スプレーだったのね」
「今回…?」
よくわからないので聞き返すと社長は大きめな唇でくっきり引き締まった笑みを作った。
「なんでもないわ」
それ以上は聞けそうにないのでしかたなく話題を変える。
「ええと…蜂鳥千秋さんは腹話術がお得意なんですね」
「そうなのよ!秋くんは器用だからだいたいなんでもできるんだけど、あの七色の声は色々使えて便利よねー。なんたって武器ちゃn…じゃないユキちゃんを持っていてもあの特技を披露すればみんな納得してくれるしね!」
どうやらユキちゃんはあやしい仕事道具を隠す入れ物らしい。
なんなんだこの職場。
大丈夫なのか?
まあ、あの声を聞いてしまったらもう辞めるという選択肢は私には無いのでいまさらだ。
「そうなんですね…。それで普段からあの声で喋っているんですか」
地声が聞きたいのに。
「え?ああそういえばそうね。たまに練習であの声を出してるから気にしなかったけど、今日はなんでかずっと幼女声で喋ってるわね。なんでかしら」
社長が蜂鳥さんを怪訝な表情で見た瞬間、何かを察したのか蜂鳥さんが『あらー!もうこんな時間!!バイト初日で残業になっちゃうわ!さっちゃんお疲れ様!!遅いし駅まで送っていくわ!!』と言いながらユキちゃんで私をぺしぺしとドアに追い立てる。
「いえそんな駅まで近いですし大丈夫です」
『暗くなってから女子高生を一人で帰せないわ!大丈夫、腹話術師さんは人畜無害だし小道に引きずり込んだりしないから!』
いいからさっさと出ろ、とばかりにユキちゃんをずずいと私の眼前に押し出してくる。
しかたなく社長と夏樹さんに挨拶をし、暮れ始めた外に出た。