73.有馬記念
「大切なのは平常心ですよ! 焦らず、慌てず、いつものように行きましょう!」
林の威勢のいい掛け声に俺は心で頷く。有馬記念は2500m。日本ダービーとほぼ同じだ。だからリードも……5馬身位でいいだろう。
歓声を受けながら、俺は少し飛ばして後ろに大きくリードを取ろうとした。が、いつもなら聞こえなくなる足音が、いつまでたっても止まない。俺は後ろを少し振り返る。そこには、鬼神のごとき表情で俺の1馬身後ろを進む、ナイトオルフェンズがいた。
「君に勝つにはこれしかないと思ってね!」
ナイトはそう笑顔で言った。おもしれぇ。そっちがその気なら止めねぇよ。
「さっそく面白い展開になっています! いつも通りシンジスカイブルーは先頭! ですが、その後ろナイトオルフェンズがピッタリとマークしています! 注目のレイワカエサルは現在8番手。最後方3番人気コガネスターロード!」
ポジションはあらかた想定通り。後は『全身全霊』をどこで使うかだな。そんな事を考えながら、俺は緑で舗装された勝利の道を突き進む。
「うぉぉぉぉ! シンジぃぃぃ!」
地響きのような声援が俺の心を揺らす。そうか、もうスタンド前か。この歓声は、いつ聞いても気分がいいもんだ。
「頼むぅぅぅ! あの皇帝を! レイワカエサルを倒す雄王になってくれぇぇぇ!」
色とりどりの様々な声が響いては消えていく。だが、その多くは俺を鼓舞するものだった。オッズだけで見ると、俺はスーパーアウェイだ。それなのに、中山は俺の味方で溢れている。みんな、俺の勝ちを信じて駆けつけてくれたんだ。ありがたい。
俺は少しペースを落とし、冷静に地面を蹴った。
その後もレースは澱みなく進行し、俺は向正面中盤に入った。仕掛けてくるなら、このタイミングからだな。とてつもないロングスパートになるが……あいつのスタミナなら不可能ではない。
「おおっ! かなり早い段階でペースを上げましたコガネスターロード! 最後方から先頭目指してぐんぐんと進んでいきます! 菊花賞の再来を、ここ有馬の舞台でも見せる事ができるのか!」
「ロングスパートかけてきましたね、コガネスターロード!」
林がそう唸った。俺の位置から最後方まで、およそ15馬身の差がある。だが、それだけ離れていても、あいつの重い足音は響いていた。
「さぁ、ちょうど先頭シンジスカイブルーが第3コーナーを抜けようかという所! 既にコガネは3番手フリードギアを捉えました! シンジとの差は約7馬身!」
力強い音がどんどんと近づいてくる。実際はかなりの余裕があるのだろうが……それでも油断出来ない。なぜなら俺の相手は……レイワカエサルだからな。
そんな事を思いながら、俺は走り続ける。気づけば、もうすぐ最終コーナーだ。俺は息を入れ直し、昔から愛用してきた『あの技』の準備をする。それに……全身全霊を使わなければ、2号とのシンクロは長時間することが出来る。カエサルが来るまではこれで凌ごう。
「さぁシンジスカイブルー最終コーナーに差し掛かる! いつものあの技が見れるのだろうか!」
「いくぞ2号! 林! 『インコーナー加速』だ!」
「「おう!」」
俺は身体を内に傾ける。そして、自分の持てる全ての力を使って、精一杯脚を回した。
「来い! 2号!」
俺のスピードが最高潮に達した時、2号が隣に来たような感覚を手にした。シンクロが起こったのだ! コガネが扱う100%には敵わないが……時間稼ぎにはなる!
「シンジスカイブルー勝負をつけに来た! だがコガネスターロードはすぐ2馬身後ろに来ているぞ!……今、ナイトオルフェンズを抜かしました!」
「くそ……僕だってシンジくんに勝ちたいのに……!」
「悪いな……でも、俺にも負けられない理由がある!」
後ろで、ドスの効いたコガネの声が聴こえた。まだ最後の直線に達していないのに、もうこんな所か……さすが、コガネだな。
「俺は負けねぇぞ! お前にも! カエサルにも!」
俺は気合い全開で走り続ける。だが、コガネの足音は徐々に迫ってきていた。
「そろそろ……『あの技』を使うべきか!」
俺は心の中で、『全身全霊』を使用するという選択肢が出てきた、その時だった。俺たち2頭の足音に、おかしな音が割り込んできた。まさか……この音は……
「遂に……遂にだ! 今までずっと眠っていた獅子が今、目を覚ました! レイワカエサルです! 皇帝の獅子が、我々がシンジやコガネに集中している間に、ぐんぐんと伸びてきました!」
「やぁ、ごきげんよう♪」
その音の主は、レイワカエサルだった。おかしい……さっきまで後方にいたはずなのに! コガネを抜かしてここまで来るなんて!
「我々は決して、彼を忘れていたわけではありません! だが、これが彼のスタイル! バレない内に忍び寄り、一気に頂点を奪ってしまう! ハゲタカのような戦法! 最強すぎる!」
「やっぱり君たち……遅いねぇ」
カエサルはムカつくような声で言った。
「方やロングスパートを掛けたところで一瞬で俺に抜かれるダメ馬? 方や本気のシンクロを2秒しか出せない半人前? それで俺に勝つとか、笑わせんなよ」
くっそ。シンクロが解けないよう必死に無視してたら……調子乗りやがって……
「やってみなきゃ……わかんねぇだろ」
「またそれ? もう飽きたよ。もういい、飽きた。じゃ、このまま終わらせるね」
レイワカエサルはそう言うと、おもむろに前を向き直した。
次の瞬間、弾丸が風を切り裂いたかのような、凄まじい突風が肌に触れた。レイワカエサルだ。あいつの走りが生み出した風だ。そうだ、あいつは全然、本気なんて出してなかったんだ。もしかしたらこれも……本気じゃないのか?
「速い! 速すぎる! コガネスターロードの前に位置していたシンジスカイブルーさえもすり抜け、1位に躍り出たぞレイワカエサル! 2頭の若武者も打つ手なしかー!」
レイワカエサルはスピードを落とさず、ぐんぐんと進んでいく。カエサルが最終直線の入口に辿り着いた頃には、もう1馬身の差が着いていた。これ以上……好きには……させらんねぇな。
「やるしか……ねぇよな」
俺は覚悟を固める。ここだ、2秒しかない『俺の本気』を使うべきところは。




