67.勝つためにここにいる
朝、俺はいつにも増して早く起きた。こんなに早起きするのはいつぶりだろうか。だが、今の俺は前の俺とは違う。やる気に満ち溢れた、俺だ。
「シンジさん!おはようございます!」
林の大きな声が聞こえた。昨日、あそこにいたのは林だ。多分、あの柱の陰から聞いていたのだろう。言葉、分かるはずがない。だが、そんなものよりも熱い「何か」をあいつは感じ取った。だから今日、こうして元気なんだろう。
「今日は調教、行きますよね!」
「当たり前だろ! 調教師はまだ具合が悪ぃのか? 今すぐにでも呼んでこい!」
俺はハキハキとした声でそう言った。そんな俺の菅を見た林の目が、どんどん輝いていく。
「も、もちろんですよ! 待っててくださいねぇぇぇぇ!」
そう言うと、林は一目散に建物の中へと消えていった。また、いつもの日常が戻ってきた予感がする。
「シンジ、お前……元気になったらしいじゃないか」
調教師は恐る恐る聞いてきた。そんな態度に、俺は歯をむき出して、ニカッと返した。
「おう、俺を誰だと思ってんだ! 確かにあの時はよ、悲しかったし、辛かったし……でも、俺は吹っ切れたんだ。ナイトやパケットを初めとした、仲間たちとお陰でな!」
俺がそう言うと、調教師はぷるぷると身体を震わせ、目から大粒の涙を落とした。
「シンジ……シンジ、シンジ!!!」
調教師は俺の身体に抱きついてきた。
「正直、お前はもう走れないのかと思ってた! そして、何も出来ない自分が悔しかった! でもお前は、俺なんか必要ないくらい、素晴らしい奴らを持ってたんだな! 感動……だ」
「おいおい、泣くなってよ! それに、調教師にはまだやらなきゃいけねぇことがあるだろ!俺にとって必要なことがよ!」
「……?」
頭にはてなマークを浮かべる調教師に、俺はズバッと言ってやった。
「調教があるだろうが! もし次があるのなら、俺は絶対負けねぇ! だから、早く行くぞ!」
「お、おう!」
俺たちはコースに向かって走り出した。これが俺たちの、新たなスタートだ!
――
「ふぅー、疲れたぁー!」
久しぶりの調教は、中々ハードなものがあった。俺は馬房にべたりと座り込み、身体を休めた。
「おーい、シンジー!」
遠くから声がする。この声は、おっちゃんだ。そういえば毎回レースが終わった後、こっちに来るのが恒例だったっけ。俺は立ち上がり、おっちゃんが来るのを待った。
「久しぶりだな」
おっちゃんはニコニコした顔で顔で言った。
「そっちこそ。元気そうで何より」
「それはこっちのセリフだよ。俺、心配したんだからな……」
おっちゃんは少し顔を曇らせてそう言った。が、すぐにその顔を直し、笑顔になった。
「ま、とりあえずは元気みたいだな。良かった良かった」
おっちゃんは笑顔で笑った。けどこの人……借金は……
「そうだ、おっちゃん、借金どうすんだよ。俺負けちゃったから、返済ギリギリだろ?」
俺の言葉に、おっちゃんは苦い顔をした。
「んー、ま、どうにかなるだろ。それよりもよ、お前は自分の事だけ考えて走れよ!お前が活躍してくれた方が、俺はよっぽど嬉しいからな!」
おっちゃんは子供のようにシシシと笑った。俺はそれを見て、少し心配になった。おっちゃんは、何でも1人で抱え込んじまう性格だ。だから、口では大丈夫と言っても、信用することは出来ない。それも、借金関係なら余計に。
「じゃ、俺はちょっと早いが帰るからよ。期待してるぜ!」
そう言って、おっちゃんはそそくさと帰ろうとした。その時だった。
「すいません、蒼海誠さん、でよろしいでしょうか」
突如、おっちゃんの肩を叩きながら、歳をとった男が現れた。高そうなコートと靴を履いた、金持ちそうな風貌。俺はこいつを、どこかで見た事があった。
「お、お前は……」
おっちゃんが唖然として言った。
「私……蒼海誠さんに資金を融資している、エクリプスグループ代表、安藤雅文と申す者です」
俺はハッとした。エクリプスグループ……数々の優秀な競走馬を独占し、ある一定の競馬ファンから嫌われている大型クラブだ。確か、リュウオーもここ所属だったはず。まさか、こいつに借金をしていたなんて。
「先日はご入金ありがとうございます。ですが……今までの利息分の「1000万円」が振り込まれていないようですが……いかがなさいましたか?」
安藤は意地悪そうな顔をして言った。
「そ、それは……」
「もし返済出来ないのであれば……それ相応の手段を取らせていただこうと思います。……んー、そうですね。とりあえず、あなたが運営している晴空牧場、これの運営権でも貰いましょうか」
「!!! それだけは……!」
おっちゃんは血相を変えてそう言った。晴空牧場は、おっちゃんが魂を賭けて作ってきた牧場だ。それを取られるなんてことは、あってはならない。
「晴空牧場は、現状、競走馬生産牧場として相応しくありません。ですので、私共の手で少し改良させて頂こうかなと」
「うちには、まだ育成途中の馬も、妊娠中の馬もいる! そんな状態で持ってっちまうなんて、あんまりじゃないか!」
「嫌なら返してくださいよ。その、利息分をね」
安藤はニヤニヤしながら言った。不快極まりない、ゲスな顔だ。
「おい!」
騒ぎを聞き付けてやってきた調教師が、慌てて駆けつけた。
「ほら、金なら俺が出す! とりあえず今の利息分は、俺が用意した! だからこいつから夢を奪うのはやめてくれ!」
そう言って、安藤に通帳を見せた。確かにそこには1000万を優に超える金額が乗っていた。
「つ、剛ちゃん……」
「ふっふっー、たーしかにありますね……でも! 私は誠さんにお金を貸したんですよ?あなたが払ってしまっては、いけませんよね?」
「こいつ……」
「正直ね、借金なんてどうでもいいんですよ。私はただ、シンジスカイブルーを生産した牧場をぶんどって、次世代のシンジを作りたいだけなんですよねぇ!!!正直、蒼海の夢なんてどうでもいい! 金! 金さえあれば! あっはっはっはっ!」
なんだ、なんなんだこいつは。邪悪。悪意の塊。本当に、気持ち悪い。
もう、我慢の限界だ。元はと言えば、俺が勝っていれば良かったのだ。そもそも、おっちゃんが最初に俺を研究施設にでも売っていれば、こんな状況にはならなかった。おっちゃんは俺を救ってくれたのだ。なら――
今度は俺が、助ける番だ。
「おい安藤、俺と、勝負しろ」
「!?」
「おやおや、やっと喋りましたか。ずっと、退屈してたんですよ。で、勝負ってなんです?」
「エクリプスグループの中で1番強い奴を、有馬記念に出走させろ。そこで、俺とそいつでバトる。もし俺が勝ったら、この借金は全部チャラにしろ」
安藤をにやりと笑った。
「でも、それだとこちら側にメリットがないのでは? それ相応のメリットを提示してほしいものですがね」
こう言われるのは分かっている。だから、俺は、メリットを用意しておいたぜ。それも、とびっきりの。
「もし俺が負けたら、俺の所有権を、お前にやる」
安藤の顔がさらに醜く歪んだ。気持ち悪い。
「それはそれは……つまり、どれだけ酷使しても、種牡馬として使い潰そうと、あなたは構わないと、言うことですね?」
「もちろんだ」
「おいシンジ! 何むちゃくちゃ言ってやがる! 早く取り消せ!」
おっちゃんがそう叫んだ。取り消すつもりなんて、あるわけねぇよ。
「随分と自信があるようですね。では、こちらは、我がグループの最高傑作、「レイワカエサル」を出させて頂きましょうか」
レイワカエサル……どこかで聞いた事が……
あ、あいつだ。スプリングスターさんが、唯一負け続けた、あの馬だ。
「彼はすごいですよぉ。皐月賞と菊花賞を除いたほぼ全ての中長距離レースに勝っていますからねぇ! 今まで積み上げてきたGI勝利は……8つ。そして、今日の天皇賞で、9つ……」
安藤はそう言うと、部下に小型のテレビを持って来させた。そして、俺たちの方向にそれを向け、電源を入れた。
「さぁ、見なさい。レイワカエサルの走りを!」
俺はテレビを覗き込む。そこには……
「さぁ、残り200mを通過!現在1位はレイワカエサル! その2馬身後ろ、アカガミリュウオーが懸命に追いかける!」
リュウオーを置き去りにして走る、レイワカエサルの姿があった。
「そのままレイワカエサルゴールイン! 勝ったのはレイワカエサル! これでGI9勝目!」
「ふぅ……あなたがライバル視していたアカガミリュウオーが、こんなにあっさり負けてしまった。それでも、あなたは挑むのですか?」
「勿論」
安藤は再度ふふっと笑って、背を向けた。
「楽しみにしてますよ」
 
そのまま、安藤は車に乗り込み、去っていった。
「おいシンジ! 何馬鹿なことやってんだ!」
安藤が去ってすぐ、おっちゃんの怒号が響いた。
「俺の事なんてどうでもいいだろうがよ! なんで、あんなこと言っちまったんだ! お前はレイワカエサルの力をなんも分かっちゃいねぇ! 恐ろしい……恐ろしい馬なんだぞ! それなのに……なんで!」
「……うるせぇよ」
「は?」
「うるせぇっつってんだろ!」
俺は怒鳴り返した。おっちゃんが軽くたじろぐ。
「俺はお前の為に喧嘩を売ったわけじゃない!俺自身にケジメをつけるためにやったんだ!約束を守れなかった俺に!」
「シンジ……」
「おっちゃん、あんたは俺を助けちまった段階で、勝負に勝つしか選択肢はないって、決めてたんだろ! なら、俺がやりたがってる勝負を停めるんじゃねぇ!」
おっちゃんは軽く涙ぐんでいる。だが、俺はやめない。
「おっちゃんは、俺を助けてくれた! だから俺に、夢が出来た! それも、本気で叶えたい夢が! だからその夢を、止めないでくれ! 俺を信じてくれ! 俺に青空を、駆けさせてくれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
俺は叫んだ。自分の心を、精一杯の力で叩きつけた。
「……わかったよ」
おっちゃんは口を開く。
「そこまで言うなら! 俺はお前を信じるしかない! お前が死ぬ時、それが俺の死ぬ時だ!だから……」
おっちゃんは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら言った。
「負げんじゃねぇぞ!」
おっちゃんの声は震えていた。
「当たり前だ!」
俺はおっちゃんと、熱い拳を交わした。
空も、青く澄んでいた。
 




