不在の第一王子
忘れていれば見る事も叶わず、覚えている者が直視すれば死ぬ。
その王城で第一王子とはその様な存在であった。
○
背筋が粟立つ、言い知れない恐怖。
何故私は忘れていたのか。
正体不明の攻撃を受けていたのは明らかだ。
いや、それはひょっとしたら攻撃ですらないのかも知れない。
私が忘れていたのは第一王子の存在。
個人としての存在ではない。
第一王子と言う概念から忘れていたのだ。
私は荒々しく手紙を折り畳む。
それは父からの手紙だが、内容は本国から送られて来た指令だ。
「ミイテ、どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
侍女仲間のサカアが心配そうに顔を覗き込んで来る。
祖父が体調を崩した様だと言うと、サカアは大げさに心配する。
この子は裏表のない間抜けだが、それは美徳でもある。
そしてそんな子を騙す事に罪悪感を覚えている様では密偵の仕事は務まらない。
最初にこの国に潜り込んだのは私の曽祖父。
四代かけて、私が王城に潜り込めたのは四年前。
他の同業者がどうやっているのかは知らないが、雑に潜り込もうとした他国の諜報員が秘密裏に消されたのは先月の事だ。
この王城は得体の知れない何かがある。
曽祖父の時代にこの国に潜り込んだ者がどれだけいるのかは知らないが、私達一族以外は駆逐された。
手紙の内容は、文面上では祖父が体調を崩したと記されている。
そこに隠された内容は――本国が第一王子の情報を求めている事。
王の病状がいよいよもって危険な状況である事は、最早隠しきれないからこその司令。
「ねえ、本当に顔色が悪いわよ? 今日は休んだら?」
結局その日はサカアの助言に従い休む事にした。
色々な意味で仕事にならない事は明白だったのだから。
夜、人の気配の減った王城を一人歩く。
警備兵の巡回はあるがそれ程厳しくはない。
真冬の夜は冷え込む。多少の防寒対策はあるとは言え、糞真面目に夜間警邏をやりたい者等極僅かだろう。
四年掛けて把握した王城内を静かに歩く。
全ては、第一王子を見つける為に。
この国の第一王子は全く表舞台に出て来ない。
本来ならば王国の次期国王の筈である人物が、容姿はおろか名前すら不明となるとこれは明らかな異常だ。
第一王子の存在が明らかになったのは今から十九年前、この国の第二王子が生まれた時だ。
誰もが第一王子だと認識していたその赤子を、王国は第二王子と呼称した。
周辺国は様々な外交ルートを通じて第一王子の情報を探ったが、少なくとも本国は何等情報を得られていない。
表からの問い合わせは全て無視され、裏から探る試みは諜報員の消失と言う結果だけが残った。
王国がこの様な態度を取る理由が色々と推測されたが、未だに筋の通った説は存在しない。
王国は一貫して第一王子の存在を無視する。
第二王子は次期国王として扱われ、私が知る限りその教育内容もまた次期国王としてのそれである。
では第一王子は実在しない架空の人物なのかと言うと、どうやらそうではない様なのだ。
今から遡る事二十三年前、王妃御懐妊との情報が出回ったらしい。
その当時まだごたごたしていた周辺国との情勢を考慮したのか、王家はその事を一切公表しなかったが、それでも王妃が一切の公務に姿を現さなくなれば情報は事実だと公言している様なものだろう。
翌年何人かの産婆が登城し、王妃は赤子を産み落とした――と、そこまでは確からしい。
しかし、その情報には続報が全く無い。
当時は死産だったのだろうとの憶測から深追いしなかった様だ。
第一子の存在が抹消された事は不可思議ではあったが、王子か王女かも分からなかったその赤子が生きている痕跡が一切無かった事から、本国はそれ以上の情報を強く求めなかったらしい。
そうして、第一子は死産だったのだろうと内外が納得した。
そしてその僅か三年後に、第二王子出産の一報で私達は混乱の渦に呑み込まれる事になる。
私が王城に潜り込むために教育されていたのは不幸中の幸いだったと、侍女として採用された時に祖父が言っていた。
第一王子の情報を得る事。
それは私に課せられた最重要任務の一つでもあった。
それを今日まで、第一王子と言う概念から完全に忘れていた訳だ。
巡回の隙間を縫って王城の深部へと辿り着いた。
本国からの司令は、第一王子の情報を求めていた。
それは近い内に国王が死ぬ事を予見しているからだろう。
次期国王は本当に第二王子なのか、それとも第一王子なのか。
本国はそれを知りたがっていた。
そこは第二資料庫。古い情報が行き着く場所。
ここに全ての回答があるとは思ってはいないが、今の所他に良い調査先が思い付かない。
人の記憶が当てにならないのならば、物理的に残された記録に頼るしかないだろう。
拙速とも浅慮とも言える行動だが、私が第一王子の事をいつまで覚えていられるかも分からない。今は行動あるのみだ。
第二書庫の鍵を開けようとして、開いている事に気が付く。
先客がいる様だ。それは同業者か、はたまた……。
私は慎重に扉を開く。
扉は音も無く開いた。
滅多に人が立ち入らない部屋の扉が音を立てない。
ここの管理に携わる者が勤勉なのか、或いは……。
私の記憶は、そこでぷっつりと途切れた。
●
物音に振り向くと、若い侍女が床に突っ伏していた。
今一状況が掴めないが、取り敢えず僕のせいだろう。
近寄ってこめかみを蹴り飛ばすと、弱々しい呻き声が聞こえた。
死んではいない。面倒臭い。
死んでいたら、庭の片隅に捨てれば良かったのだから。
いや、どちらにせよ面倒くさいか。
しかし死んでないと言う事は、この良く分からない現象の効果が弱まって来ているのだろうか?
師匠曰く、僕を起点としたこの不可思議な現象は時間に対して一定ではないらしいのだから。
だが、時間が好転を呼び込むと仮定するのはいささか楽観が過ぎるだろう。
いずれにせよこの女が今日この時間に第二資料庫を訪れたのはただの偶然だろうし。
まだ生きているであろう女をひっくり返してみる。
目と鼻と口から血を流していた。気持ち悪い。うげ、手に血が付いた。
もう一度ひっくり返して気持ちの悪い顔を見えない様にする。
恰好からして侍女の様だ。
いや、こんな時間にこんな場所をうろつく侍女なんていないだろう。
侍女に変装した諜報員か、或いは侍女として潜り込んだ密偵か。
ああ、何でこんな時に師匠はいないのだろうか。
僕を起点としたこの現象のせいで、僕にはこの女の素性を確認する術がない。
はぁ……豆を喉に詰まらせて死ぬとか、稀代の大魔道士が聞いて呆れる最期だ。
……取り敢えず情報を整理してみようか。
僕を起点とした現象に師匠が観測した時と同等の効力があると仮定して、この女が死に掛けているのはどの様な状況だろうか?
第一王子の存在を忘れていたとしたら、僕を視界に入れても認識しないだけだ。
となると、外からやってきて完全に僕の存在を忘れてしまう前にここに辿り着いた、と。
うん。諜報員一択だな。
死んでいないのは現象が弱体化したから……と考えるより影響が半端な状態だったからかな。
きっと潜り込んで半日以内なのだろう。
これで辻褄が合うな。
違っていたとしても結局明日には僕を認識出来ないのだから同じ事だし。明日が迎えられればだけどね。
そう考えると、一連の考察は無駄だったな。
で、この諜報員をどうしたものか……。
諜報員なのだから殺してもいいのけど、直接止めを刺して現象が変な形で作用したら面倒だし。
ああ、いい事を思い付いた。
どこか適当な部屋に放り込んでおこう。
上手く生き延びればそれはそれでよし。
死んでしまってもそれはそれでよし。
どちらにせよ諜報員は発見される訳で、大騒ぎになればこの手の輩が忍び込む可能性も減るだろう。
他国の軍隊が城を攻め落としても僕は大丈夫だろうけれど、静かな環境が維持されるならそっちの方が良い。
○
心配そうなサカアの視線を背中に受けながら、気力で仕事をこなす。
酷い顔色をしているのは体調がすぐれないからだ。
その理由は昨日気が付いてしまった不気味な事実が半分と、もう半分は硬く冷たい床の上で目を覚ました事だ。
目を覚ました時点で血塗れの床と身体を綺麗にする時間があったのは不幸中の幸いと言うべきか。
寒気が酷い。
一晩冷えた床に寝そべっていたせいで熱があるのか、第一王子に絡むあれこれに恐怖しているのか。
大半は発熱が原因だとは思うが。
昨夜の行動から来る後ろめたさから普通に仕事を始めてしまったが、今日も体調が悪いと言う事で休むべきだったか?
いや、あまり目立つ言動は避けた方が無難だろう。
今の所密偵であると疑われてはいないと思うが、一応。
だが、報告だけは早めに済ませた方が良いだろう。
この現象に関する情報だけは、私が覚えている内に何としても外部に。
城下町に住む祖父が先の手紙を送って来たと言う事は、祖父はこの現象の影響下にないか、或いは本国からの連絡によって第一王子の存在を思い出したのか。
「あれ?」
頭の後ろで声がした。
私の記憶はそこで再び途切れた。
●
いやあ、やらかした。
割と大きな騒ぎになってしまった。
今まではこんな事例無かったのになあ。
第一王子を思い出したとしても、一晩眠れば忘れている筈だったのに。
「ミイテ! ミイテ!」
昨日の女はミイテと言う名前らしい。
名前も知らない侍女がその身体をがくがくと揺らしている。
……多分そっとしておいた方がミイテのためだと思うよ?
その揺らし方、頭に良くない衝撃が入り続けていると思うから。
僕を覚えていない人間は声を掛けても触れても反応してくれないから、伝えようがないけどさ。
しかしこのミイテと言う名の女、正規の侍女だったのか。
昨日の事が気になって見に来てみれば、良く似た女が普通に仕事していたものだからついつい声を出してしまったのは失敗だな。
今日も元気良く目と鼻と口と耳から血を噴きだして倒れてしまった。
顔を覗き込んでいたせいで若干血を浴びてしまった上に、強烈な頭突きをお見舞いされた。
頬がぬるぬるして気持ち悪いし、頭突きを受けた鼻が痛い。
あ、鼻血が出て来た。
名も知らない侍女がミイテを揺らすのを止めて人を呼びに行ったので、もう一度その顔を覗き込んでみる。
青白いな。
ピクリとも動かない。
生きているのか死んでいるのかは分からない。
あれだけ激しく揺さぶられていたからなあ。
そうでなくとも昨夜に続いてこの出血量。普通に死ぬかもしれない。
死んでいるにせよ生きているにせよ、僕に出来る事は一つしかない。
ここを立ち去る事だ。
万が一この場で意識を取り戻そうものなら、僕の存在が止めを刺してしまうだろう。
取り敢えず第二資料庫へ戻ろう。
気が向いたら後で生存を確認するかな?
取り敢えず何か、見られずに観察する方法を考えるべきだろうか?
見納めになるかも知れないミイテの顔を凝視する。
僕の鼻から血が垂れてミイテの眉間に落ちて流れ、目から溢れるそれと合流した。
○
全身に纏わり付く倦怠感と頭蓋を掻き毟る鈍い痛みで目を覚ます。
五感はまともに機能しておらず、比較的鮮明な嗅覚が強い酒精を嗅ぎ取る。
気付けか、或いは傷口の洗浄か。
声が聞こえた。男の声だ。まだ若い。
言葉の内容は分からない。
ふと、手に熱と柔らかな刺激を感じる。
誰かが触れた様だ。
その手は熱い。
触れた者の体温が高いのか、或いは私の体温が低いのか。
ここに至って、視界が暗いのは目を閉じているからだと気付く。
信じられない程重い瞼を無理矢理持ち上げようとして、失敗する。
知らず止めていた息を大きく吸い込み、噎せた。
口の中がからからに渇いている。
そこに湿った何かが差し込まれる。
「口の中を湿らすだけだ。飲み込まない様に」
ようやく声の意味を理解する。
若い男の声。確か、先月来たゲータと言う名の見習い医の声。
喉が水を渇望するが何とかこらえる。湿った何かが引き抜かれる。
「済まないが、シャッハ卿を呼んで来てくれないか? 例の侍女が目を覚ましたと」
手に感じる刺激が、長短の組み合わせで打ち込まれている事に気が付く。
……これは、密偵の間で利用される符牒。
見習い医は本国から送り込まれた諜報員か。
符牒は何があったかを尋ねていた。
私が見習い医の正体を知らず、見習い医が私の正体を知っていると言う事は、私の一族よりも権限が上なのだろう。
私は僅かに湿った口で声を紡ぐ。
符牒で返答を出来る様な状態ではない。
「第一王子」
それをちゃんと言葉に出来ていたか、見習い医に伝わったのか、それを確認する間もなく私の意識は眠りへ沈む。
聴覚が再び機能不全に陥る寸前、何かが床に落ちる音を拾った。
●
やってしまった。
また大事だ。
痙攣しながら血を吐く男を見ながら僕は憂鬱な気分に浸る。
この男は駄目だな。助からない目をしている。
無言でなおかつミイテに見られなければ大丈夫だろうと、ベッドの陰に蹲っていたのがいけなかった。
まあそうだよね。意識を取り戻した患者の容体を見る為に近寄れば視界に入っちゃうよね。
一つ言い訳をするなら、ミイテが第一王子を覚えているのが予想外だったんだ。
最初に第二資料庫で倒れてから丸二日以上経過しているのだから、もう完全に第一王子の存在は忘れていると思ったんだけどね。
しかし、この見習い医も運が悪いな。
第一王子の存在を思い出したその瞬間に、視界に僕がいるなんて。
回避不可能な罠だよね。
そろそろさっき人を呼びに行った侍女が帰って来るだろうし、今日の所は撤退するかな。
それにしても……ミイテは僕の事を覚えているのか……。
……。
○
何が何だか分からない内に、私が仕事中に倒れてから二十日が過ぎた。
と言っても、意識があったのは後半の五日だけだが。
あの見習い医は死んだらしい。
私が一時的に目を覚ましたあの日、私と同じ症状で死んでいたとだけ聞いている。
本国への連絡は成されていないと考えるべきだろう。
私はまだ第一王子を覚えている。それは僥倖か、はたまた……。
筆頭医師のシャッハ卿は当初から伝染病を疑っていたそうだ。
私と接触のあった侍女や兵士は今も隔離されていると言う。
私の看病はそうやって隔離された侍女や兵士が行う……筈だったが、誰もが死病を恐れたがために侍女長一人が私の看病をした。
あの善意と浅慮が人の皮を被っているサカアですら嫌がったらしい。
当然と言えば当然の反応なのだが、その結果規律が人の形をしている侍女長と相部屋で五日を過ごす羽目になった。
どう考えても病人に優しくない人選だ。
最終的に致死率が高いが感染力の弱い伝染病は終息したとみなされて、明日私は侍女長から解放される見通しだ。
非常に喜ばしい事だ。
そして私は侍女を首になるらしい。
四代に渡って潜伏した成果が台無しである。
生きた心地がしない。
第一王子の情報を持ち帰れそうなのが唯一の希望だ。第一王子を明日まで覚えていられればの話だが。
ああ、憂鬱だ。
祖父にどうやって弁明しよう……。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
そこには第一王子がいた。
彼に名前は無い。彼は第一王子であり、第一王子である事に名前の有無は必要条件と成り得ないからだ。
だから彼を認識出来る者は第一王子としか認識出来ず、逆説的に第一王子を認識する者は彼を知覚に収める事が可能である。
しかしそれと同時に、第一王子はその身を守る目的で誰にも認識されない。
情勢が不安な状況で第一王子を守るために施されたその祝福であり呪いである現象は、今日まで第一王子と言う存在を頑なに隠蔽してみせた。
とは言え、その効力は王城内に限定されていたが。
「やあ、ミイテ。はじめまして、がいいかな?」
爽やかな笑顔と眉目秀麗な偉丈夫。
生まれた瞬間から放置され、生まれてから十年誰にも認識されず、為政者としての教育も受けていないその第一王子は、間違いなく第一王子である。
生まれが、立場が、祝福が、そして呪いが第一王子を第一王子として形作っていた。
しかしその日、王が死んだ。
王が死んだ事を第一王子は知らなかったし、王城の関係者ではなくなったミイテは知らされていなかった。
だが、二人が知らなくとも、王の死は第一王子が第一王子である前提を揺るがせる。
「第一王子……」
ミイテの顔は盛大に引き攣っていた。
ミイテは何も理解していないが、それでも第一王子の存在を覚えているが故に逆説的に第一王子を第一王子として知覚していた。
第一王子は第一王子であるが故に王には成り得ず、王を失った事で第一王子としての地位を失い、それでも自らを生んだ王妃と血を分けた兄弟が健在であるが故に辛うじて第一王子としての個を維持した。
それでも尚、第一王子は第一王子である呪いからは逃れられず、しかし第一王子を守る為の祝福だけがその力を失った。
故に第一王子は王城から解放された。解放されてしまった。
「話が出来て嬉しいよ、ミイテ。僕を認識して知覚した唯一の女性、ミイテ」
結局の所第一王子を巡る呪いは血の呪いであり、第一王子に巡っていた祝福は血の祝福だ。
第一王子が呪いから解き放たれるには王族の血が絶える事が条件であり、条件が満たされる時は近い未来に訪れるかも知れないし、未来永劫訪れないかもしれない。
そして、鼻血とは言えその身に王族の血を取り込んでしまったミイテは巻き込まれた。
最初に第一王子を目撃した時、視界に収めたのが後ろ姿であったが故に死ねなかったがために。
二度目に第一王子と接触した際、声を聞くに留まったが故に死ねなかったがために。
第一王子はミイテの腰に手を回して抱き寄せ、愛を囁く。
第一王子と侍女。
例えばそれは身分違いの恋。例えばそれは美しき主従の形。例えばそれは権力の横暴。
詰まりそれは、第一王子が第一王子である事と矛盾しない。
ミイテが悲劇のヒロインとなるのか、成り上がりのヒロインとなるのか、或いは全く別のヒロインとなるのか、はたまた第一王子から逃げ切るのか。
それはミイテ自身の行動が決める事だ。