夜の学校に、少年と女性が二人きり。
少年は、夜、忘れ物を取りに学校へ来ていた。
職員室へ向かい、教室に入る許可を貰おうとした。
けれど先生は一人もおらず、仕方がないので許可を得ないまま、彼は今廊下を歩いている。
彼の足音が、響いている。
3階の廊下は老朽化のせいで、一歩歩くたびにギシギシと音が鳴った。
外は雨が降っていて、耳をすませば雨に交じって何か聞こえてきそうだ。
……なんだか不気味だ。早く忘れ物を取って、帰ろう。
彼は歩く速度を速めた。
中学3年生である彼の教室は3階にあった。手前から順に、男子トイレ、3-1、3-2、3-3……
……あった、3-4。
慎重に教室のドアを開くと、ギギギと音が鳴った。その音に、彼の心臓は跳ね上がる。
しかしただのちょうつがいと気付き、少年は教室へ入った。
彼は真っすぐ自分の机に向かい、引き出しから筆記用具を取り出した。
これがなくては、勉強できない。今は受験期なのだから、勉強できないのは致命傷だった。
彼はほっと一息つき、教室から出た。
その時、左側に人影を見た。
「ヒィィィィッ!?」
彼は声を裏返らせた。
すると、人影の方から、少年のそれより高い声が返ってきた。
一瞬、雨の音と二人の悲鳴が重なり、合唱になる。
暗闇の中、少年と人影は互いを見た。
少年の鼓動は早鐘のよう。けれど、こういう時に限って、足は動かない。
「……び、び、びっくりしたぁ……」
人影の方が、先に言葉を紡いだ。
思ったよりも可愛らしい女性の声に、少年は安堵を覚えた。
その場に凍り付いていた足を動かし、女性へと近づく。ちょうどトイレの前に立っている女性まで、おおよそ10m程度の距離があった。
女性の姿が見えるところまで来ると、少年は、女性がおかしな格好をしていることに気がついた。
「えと、あの、その恰好は?」
「え、ええ?」
女性は困惑した様子である。
「『その恰好』って?」
「いや、いい年して制服みたいなものを羽織ってるじゃないですか……それに一体こんな時間に何の用事ですか?」
彼は早口になっていた。
得体のしれない存在相手に緊張しているのである。
生徒にしては身長が高いし、かといってこのような先生がいたかと聞かれれば、微妙である。
彼女は顎に手を当て、少年を見据えた。
少年は反射的に手を後ろで組み、筆箱を隠した。
雨の勢いが、少し強くなる。
女性はぎこちなく微笑んだ。
「……い、いやー、迷い込んじゃって、ね……。そそそそう言ってる君こそ、こんな時間に何してるの?」
いや、迷い込んだって……
少年は苦笑した。緊張が吹き飛んだ。
絶対、『迷い込んで』学校に入る人はいない。こんな夜中だ、泥棒か、あるいは幽霊の類か。でも、足はちゃんとあるみたいだから、幽霊ではなさそうか……
いずれにせよ、下手に刺激しない方がいいだろう。
少年は慎重に言葉を選んだ。
「忘れ物を取りに来たんです。勉強道具を忘れちゃって」
「へー……こ、こんな時間にかぁ」
泥棒にしては演技が下手だな、と感じた。
「わ、わたしはねぇ、ちょっとねぇ……学校行きたいなって思ったんだよ、ウン。ふと懐かしくなることって、あるじゃん?」
ついさっき迷い込んだって言ってなかった?
露骨に怪しい。
絶対に何かしら隠している。
少年はため息をついた。
女性が引きつった笑みを浮かべている。雨の音が小さくなり、蛙の鳴き声が聞こえ始めた。
「……勉強道具、かぁ……」
不思議な格好の女はぼーっと呟いた。
「懐かしいなぁ……ちょっと、中学校の頃の話してもいい?」
「は?」
予想だにしなかったあまりにも不意の質問に、突飛な声が漏れる。
少年は一歩、女性から離れた。
女性が近づく「ダメ?」
少年は根負けし「どうぞご自由に」
女はニッと笑った。
「わたしも、中学生のころはいじめられててねぇ。クラスの輪に溶け込めないくらいならいいんだけど、時には暴力とか、プライドずたずたにされたこともあった……」
唐突にいじめの話をされて、少年は困惑した。
夜中の、雰囲気ある学校で、コミカルに心霊以外の怖い話をしている彼女じは、少し滑稽──しかし、同時に切実だ。
だから笑えなかった。
「でも、勉強だけはやめなかったね。わたしはメモ帳にイロイロ書き込んでたなぁ。お陰で、成績はそこそこ良かった」
女性はそこまでしみじみと語ったのち、「やー、今思えば結構楽しかったね」。
少年はなぜ、彼女が自分にこの話をしているのか、よくわからなかった。
だから、とりあえず相槌を打ちつつ感じたことを言った。
「多分、思い出になれば、全部綺麗に映りますよ。どんなに汚くたって」
少年が呟いた瞬間、雨の勢いが増し、雷が落ちた。
女性は微笑み、「そうかもね」。
「けど、それは後悔しなかったことが前提だよ。どう? 君は何か、やり残したことある?」
「少なくとも、僕はあなたみたいに、満足できるほどたくさん勉強してはいないです」
「え?」
少年が告げた瞬間、女がプッと吹き出した。
困惑する少年をよそに、女は大声を出して笑う。少年は何が何だかわからぬまま、赤面した。
少しの間、笑い声に雨の音が掻き消された。
「……やー、ごめんごめん。わたし、君ほど勉強してないと思う。学校に持物忘れたら、『仕方ないや』でその日は勉強しなかったしね」
女性は少年の頭に手を置いた。
そのあまりの冷たさに、少年は驚いた。こんなに温かい言葉遣いなのに、こんなに冷たいことが、すこし怖かった。
「だいじょうぶ、君は君が思っているよりマジメだよ」
少年は、ふっと表情を緩めた。
雨の音が小さくなり、耳を澄ますとおだやかな蛙の鳴き声が聞こえてきた。
「ありがとう、ございます……そんなこと言われたの、はじめてで……」
「わ、わわっ! 泣いちゃった!? ごめんごめん!」
女性はポケットからハンカチを取り出し、少年に手渡した。
少年が受け取りを拒み、手の甲で涙を拭った。
彼は呼吸を整え、女を見た。そして再び言った。
「ありがとうございます……」
「やー、面と向かって言われると照れるなー!」
女性はまるで太陽みたいな笑みを浮かべた。
「それじゃ、僕、そろそろ帰りますね」
「あ、そっか、もう帰っちゃうのか」
彼女は少し低い声になって呟いた。
「気を付けてね?」
「はい」
少年は、ニッと笑った。
雨が降っていた。
***
彼女の眺めている新聞には、でかでかと『中学校で児童の死体発見』と印刷されている。
新聞の内容によると、三階・男子トイレの個室で、少年の首吊り死体が見つかったそうだ。学校側は、いじめなどは関係ないと断固として主張しているという。死体の近くには、筆箱が添えてあったそうだ。
「刑事! 例の事件、進展がありました!」
飲みかけの珈琲を持ったまま立ち上がり、スーツの襟を整えた。
女性は息を吐き出した。
……けっきょく、あれは何だったのだろう。
「早くしてください、刑事!」
「あーはいはい……」
彼女はコーヒーをひと口すすり、机に置いた。
代わりに、机の上からメモ帳を拾い上げ、ポケットにしまった。
「今行く!」