水無月を知らぬ者
――我が大学に存在する魔王のことを、あなたはご存知だろうか。
「学部共通の必修でちょっとだけ習ったんですけど……いや、めっちゃ怖かったっす。もー、なんていうか、オーラが。マジで“魔王”って感じで。ずーっとしかめっ面だし、話し方も淡々としてて……二度とあの人の授業は受けたくないっすね」(社会文化部:一年生)
「授業中の圧には耐えられるようになった……でも、ゼミの時ヤバいっすよね。先輩が発表してるとき、ずっと足組んでふんぞり返って、寝てるみたいにしてるのに、発表終わったとたんに目ぇ開けて、またしてくる質問が超怖い。あんな質問されたら、俺絶対に心折れる……泣き出した先輩も見たことあります」(社会文化部歴史学科:二年生)
「やめてください話しかけないで! 来週ゼミ発表なんです!」(社会文化部歴史学科日本史専攻:三年生)
「……ま、もう慣れたんで、平気っす。別に、厳しいけど言ってることは正しいんで。ただ言い方と顔が怖いだけなんで。……卒論? ハハハ……」(社会文化部歴史学科日本史専攻:四年生)
とまぁこんな具合である。
名を宇治野正樹とおっしゃるそのお方は、日本近世史をご専門になさっている教授さまである。冷静沈着が服を着て歩いているような御仁だ。日本史を専攻されている方には「擬人化した国史大辞典のようである」と言った方が伝わるかもしれぬ。国史大辞典というのは日本史Bの用語集を三百倍にしたような辞典のことで、見た目もさることながら中身もめちゃくちゃ硬い・重い・分かりにくい、しかし詳細で確実、知らぬ言葉はまず真っ先にこれを見よ、という日本史研究者の必須アイテムである。
失礼、話が逸れた。
本題は宇治野教授の話である。正確な年齢は存じ上げない。江戸時代ならそろそろ死んでもおかしくない、とおっしゃっていたことがあるから、四十から五十くらいであろうと思われる。ただ、四十と言われても五十と言われても見た目的に違和感はない。痩せ型でやや猫背、髪の毛はグレイ混じりだが毛根は健在だ。目付きは錐のごとく、舌鋒は刀のごとし。常に寝不足のような不機嫌な表情を浮かべておられ、近寄りがたいこと霊峰並みである。
だが恐るることなかれ。今から私が諸兄諸姉に、宇治野教授の魅力をとくと講じてご覧に入れよう――
「という感じの入りでよろしいでしょうか」
「よろしいわけなかろう。アホか」
宇治野教授は私の十五分間の努力の結晶をあっさり切り捨てられた。
「そんなぁ。講談風にやりたかったんですけど」
「新入生向けの学科紹介を講談風にやる必要はない」
「おや、内容に関してはよろしいんですか?」
「俺のネガティブキャンペーンをそんなに開催したいなら好きにしろ」
「ネガティブキャンペーンだなんてそんなそんな。このあとしっかりフォローを入れるつもりですから。下げて上げるは基礎中の基礎でしょう?」
「どこの世界の基礎だ。異世界の常識を持ち込むな」
教授は無愛想に吐き捨てると、愛用なさっているマグカップを持ち上げた。コーヒー、でなければ渋い緑茶を愛飲していらっしゃいそうなイメージを誰もが持っているが、事実とは異なると私は知っている。
「ちなみに、冒頭のインタビューは誰にしたんだ?」
「そこはそれ、トップシークレットってやつですよ」
「ここに今月の和菓子がある」
「一年生は部活の後輩の遠藤さん、二年生はバイト先の子で安倍くん、三年生は京子ちゃんで四年は水野くんです!」
「烏丸と水野か。あいつらの進捗、大丈夫か?」
「何やかんや言ってやる子たちですから、大丈夫でしょう。それより教授、今月の和菓子は?」
「当ててみろ」
「うえっ、トップシークレットを公開したのに!」
「言ったらやるとは言ってない」
「うーわ、騙された。悪い大人だなぁ」
「一つ勉強になったな」
左手の指輪をいじりながら澄ました顔でそう言われてしまうと、私からはもう何も申し上げられぬ。
仕方なしに考えた。
「うーん……今月の和菓子……ヒントください」
「早いな。無病息災を祈るものだ」
「無病息災を? そういう行事と関係あるってことですかね。六月の祭りの時に食べる、とか」
「うん、かなりいい線いっているな」
「マジですか」
教授は長い指を組み合わせて、その上に顎を乗せた。私は斜め向かいに座っているから、伸ばされた首筋の線と尖った喉仏を見ることができた。そういう気だるげな仕草がいちいち似合うお人である。
「えーとじゃあ……六月……六月の祭りって何かありましたっけ?」
「祭りというよりは神事だ」
「神事……夏越の祓?」
「大正解」
「おっ、それじゃあ」
「現代では六月三十日、夏越の祓の時に、残り半年の無病息災を祈って食べる風習が残っている。さてそのお菓子の名前は?」
「知りません」
「……」
ジトっとした目で睨まれた。修士二年の私でも教授の邪眼に睨まれると肝っ玉が縮み上がる。(といっても雑談中の睨みなどゼミ中の睨みに比べたら児戯に等しいが。)
「六月の旧名は?」
「水無月」
「その通り。このお菓子を、『水無月』という」
と教授が出してきたのは、三角形の小さな和菓子であった。見るからにもちっとした感じの白い三角の上に、小豆がびっしり乗っている。またこの小豆がつやつやしていて大変おいしそうだ……!
「覚えたか?」
「覚えました! 水無月です! 食べていいですか?!」
「どうぞ」
「わぁい、いっただっきまーす!」
私は半透明のケースをうやうやしく開けて、付属の黒文字楊枝をそっと差し込んだ。クッとわずかな抵抗は絶妙な弾力の証であろう。
適切な大きさに切って、口に運ぶ。
含んだ瞬間、思わず笑みがこぼれた。
「んっふ……ふふー、美味しい……っ!」
白い部分はういろうのようだった。見た目通りにモチモチしていて最高に美味しい。そしてこの小豆とのコンビネーションである。甘さ控えめ、素材の味重視、かといって味気なくもない、素晴らしいバランスだ。
「ええー、ここの小豆めちゃくちゃ美味しいですね! ちゃんと小豆の味がして、小豆食べてるーって感じなのに、もそもそしないでサラッとしてて、甘みもしっかりあって。どこのやつですか?」
「金犀堂だ。大学からはちょっと遠いな。ここは味噌饅頭も美味い」
「ああ~絶対に美味しいやつじゃないですか。食べたい……っ」
などと話しながら楊枝を進める。
ゆっくり食べているつもりだったのに、あっと言う間になくなってしまった。ああ、名残惜しいものよ……。
意地汚く空になったケースを凝視する私を、教授は鼻で笑った。ふっと緩んだ頬に寄った皺。わずかに垂れた目尻に柔らかさが滲む。
「名残を惜しむくらいがちょうどいいぞ。それを覚えない限り、太る一方だ」
「ヴッ……肝に銘じます……」
五寸釘を打ち込まれたような感覚がした。はー、怖い怖い。
手早くゴミを片付ければ、院生限定のおやつタイムは終了である。教授の目は猛禽類のごとき鋭さに戻り、仏頂面はさらにしかめられて空気が薄くなる。
「それで、次の古文書調査の件だが」
「はい」
「写真撮影の班をお前に任せる。目録の方は高嶺に――」
本題の打合せはするすると進んでいった。
――宇治野教授は確かに魔王である。
と同時に愛すべき人間である。
顔は怖いが愛妻家。毒舌であるが美食家でもある。特に甘いものがお好きで、季節の和菓子からお徳用のチョコ菓子まで、美味しければなんでも食される御仁だ。酒と煙草とは一切無縁。カフェインを苦手としてらっしゃるため、コーヒー緑茶もお好きでない。代わりに愛飲していらっしゃるのは、夏場は奥様お手製のレモネード、冬場は購買のココアである。なんともお可愛らしい。そのことを最初に知った時は、あまりの温度差にヒートショックで心臓が止まる寸前であった。
ゼミ中は本当に寝ていらっしゃる。ただしつまらない発表の時だけ。教授ほどのお人になると、大したことのない発表はレジュメを見ただけで分かるそうだ。いやはや恐ろしい特殊能力である。だがきちんと努力をしておれば、無碍にすることはけっしてない。助けを求めた時の頼りがいは大学一と言って過言でなかろう。教授のアドヴァイスに私がどれだけ命を救われたものか知れぬ。
別に教授は隠していらっしゃるわけではない。四年生くらいになると、知っている人もちらほら出てくる。
ただ諸兄諸姉の大抵は初見の怖さに威圧され、深く知ろうともせず遠巻きにするから、一生分からぬままになるのである。
人は見かけに依らぬモノ。大学教授となれば尚更。ここは魔王の巣窟である。優しげに見えて厳しい者、厳しげに見えて優しい者、変わり者のような常識人、常識はないが凄まじい研究者、さまざまな魔王が君臨する群雄割拠の魔界である。ゆえに諸兄諸姉、恐るることなかれ。魔王を一人避けたところで、避けた先にまた魔王がいる。大学とはそういう場所である。
さればこそ、新入生の諸兄諸姉、腹を括ってやりたいことをやりたいようにやるがよろしい。私から言えるアドヴァイスはそれだけである。
一つ勉強になったであろうか――
私は教授の研究室を出てから、その原稿を破り捨てた。
(しっかりネガティブキャンペーンしてやろーっと)
魔王の魅力は“知る人ぞ知る”だ。それでよいのだ。教えてやらねば近付こうともしない軟弱な連中に、ご丁寧にこびへつらう必要は皆無である。そんな連中にかの人の良さを教えてなどやるものか。
(自ら知ろうとする者こそ真の研究者である。――なーんてね)
私はひょいとスキップのなりそこないをして、階段を下りていった。
おしまい
狼子由(@yoshi_roushi)様主催の『夏のいけおぢ祭り』に参加させていただきました。
素敵な企画をありがとうございました!
イケオジって好きなんですがあまり書いたことがなくって……苦戦しましたが、楽しかったです。
自分の好きなイケオジを詰め込みました(笑)
夏バテが吹き飛ぶと良いのですが……!
なお、こちらの企画は「#夏のいけおぢ祭り」で他の方々の作品も読めます。
ご興味ある方はぜひ検索を!
読んでくださってありがとうございました!