★第八話★
自宅前で発見した数億円が詰まったトランクに右往左往する私だが、もう一方の事件、テレビで一週間前から一般大衆を騒がせている竹やぶ一億円事件の方は、現金を捨てた犯人が判明し、事件は解決に向かうことになった。
テレビに注目していた大多数の社員は、それこそ驚きを隠さなかったわけだが、その中のひとりは、半ば呆れたような表情で、このようなことを言い出した。
「あーあ、どうせ、竹やぶのアレも、汚い手段を使って、税金払いから逃れ続けて、溜め込まれた、札束なんだろうけど、これから、マスコミや税務署を始めとする、金の匂いを嗅ぎつけて、地面の底から這い出してきた、亡者たちによる、しつこい詮索が始まるぞー」
「こういう富裕層によって行われた、資産隠し関連の事件は、恵まれない庶民からの嫉妬が絡みやすいから、全国的にも盛り上がるよね。政治の汚職関連の小難しい記事よりも、一般大衆としてはよっぽど好ましいニュースだから、これを売り上げや手柄に変えていきたい、新聞各紙も警察としても、このまま、黙って見ているわけないよね」
「まず、関係者がどういういきさつであれを捨てたのかについて、警察から厳しい事情聴取を受けるでしょうよ。何度も、何度も。何週間にもわたって……。会社側としても、素直に真相を明かすとは思えないしね。すべてが完璧に判明するまでには、かなり、時間を要すると思うよ」
その中の数人は、私が心の中で繰り返し念じていたことと全く同じことを、熱い感情を込めながら、口走るのだった。多くの人目を引くこのような事件になると、犯罪に関わった本人も、また、自分たちの金策にするために、事件を徹底的に追い回しているマスコミ各社も、彼らが誇張しまくって書き込む記事を読むことで真相を知り、犯人たちをより妬み、自分には関係がないのにひどく嫌い、しつこく嫌みをぶつけてくる、一般大衆の汚らしさをも、社会にうごめく魑魅魍魎の全てを学ぶ機会になるわけだ。
「せっかくなんだからさ、拾った家族が、一億円を全部もらって幸せになる展開の方が、ドラマチックで良かったのにね。まあ、彼らが大金を手に入れたことで人生の進路が変わり、家庭内不和に陥ったり、プライバシーの侵害によって、さらなる不幸に見舞われたとしても、それは、他の多くの国民にとって、『不労所得で大金を手に入れても、幸せになれるとは限らない』ということのよい教訓になるんでないの?」
入社三年目の若い女性の口からは、面白半分なのか、知識をひけらかしたつもりなのか、そんな言葉が漏れ出してきた。もちろん、それが彼女の本音なのか、どうかは全くわからない。『自分の人生は、大金を追いかけていないから、決して幸福ではないが、少なくとも、他人が捨てた金で幸福を拾うような、汚い人間にはならない』という、ほとんど意味のない主張をしたいだけなのかもしれない。
「こうなってみると、最初にあれを拾った人達は可哀想だったよなあ。落とし主が現れなければ、あの大金が、やがては自分の懐に入るんだろうって、家族みんなでニコニコして、あんだけ期待してたってのに、結局のところ、何も得ることはなく、全国放送のテレビカメラの前に、プライベートのほとんどが晒されただけじゃないか。可哀そうに、丸々一週間、身内の情報が駄々洩れて、恥をかいただけになっちゃったよ」
「でも、正当な手段で手に入れたのであれば、拾った金の一割か二割を落とし主に対して請求できる権利があるらしいぜ」
テレビの前に陣取っている、愚かな社員たちは、ほぼ全員がこの事件の展開だけに夢中であり、間もなく開始される今日の仕事のことも、後からフロアに入ってきた、上司である私のことなども、見向きもしないのだった。最近の若者は勤務前の上司への挨拶の義務などを理解していないことは、こちらとしても、すでにわかりきっているから、こういう場面でいちいち怒鳴りつけたりもしないわけだ。ただ、出勤してから、すでに十分間も誰の視界にも入らず、挨拶も相談もされずに、放置されていると、さすがにいたたまれなくなってくる。私は不機嫌なままに、自分の荷物を机に備え付けの引き出しに放り込み、上から順に並べて整理してしまうと、なるべく足音を立てずに、ゆっくりとテレビの方に歩み寄っていった。テレビには民放の報道センターの様子が大写しにされていた。『竹やぶ一億円事件、ついに落とし主が判明』と大見出しを流しながら、アナウンサーと主要なスタッフたちが、次々と送られてくる、新しい原稿を掻き分けて整理しながら、あっちへこっちへ渡したり、続報が入るたびに訂正したり、慌ただしくやり取りをしていた。
『今、新たな情報が入りました。あと十分後、午前九時頃から、竹間建設の代表取締役社長が報道各社との会見に応じるとのことです。繰り返してお伝えします。あと十分後に……』
「ほう……、竹やぶに一億円を捨て置いて逃げた犯人が、ついに見つかったわけか……」
私は皆の背後に立ち、誰にともなく独り言のようにそう呟くと、テレビ画面にかじりついていた者たちは、皆一斉にこちらを振り返った。
「ああ! か、課長、おはようございます! さあ、仕事始めよう!」
部員たちは一斉に振り向き、深々と頭を下げてから、幾分かの恥じらいと恐れを感じたのか、遅きに失した挨拶を口々にしながら、テレビの脇にあるテーブルの上から、自分のコーヒーカップを拾い上げて、慌てふためきながら、フロアのあちこちへと散っていった。蜘蛛の子を散らす状態とは、まさにこのことだ。まだ始業前なのだから、例え、くつろいでいる場面を上司に見つかったとしても、朝の挨拶をせずにテレビを見たままの体勢でいたとしても、私としては、別に構わないと思うのだ。どうも、あの狼狽ぶりから見ると、ここの部員たちの脳裏には、社会の道徳やマナーについて、私が非常に厳格だというイメージがあるらしい。始業の準備もろくにせずに、バラエティー番組などに夢中になっていれば、後で別室に呼ばれて、必ず叱責を受けるのでは、とまで考えているのだろう。これまで長年に渡って、苦労を共にして一緒に勤めてきた中で、そんな厳格で冷酷な局面を見せたことは、ほとんどなかったはずだが……。自分の席に戻った社員たちは、ようやく普段の仕事モードに入ったらしく、わざとらしく、机の引き出しから書類やボールペンを取り出すフリまでして、せわしなく仕事の準備を始める素振りをアピールしていた。
「おいおい、みんな、そんなに焦ることはない。世を揺るがすような大事件なんだから、今日だけは仕方がないじゃないか。しばらく手を休めて、罪深き落とし主たちの会見の成り行きを見ていようじゃないか」
私があえて表情を緩めて、優しくそう呼びかけてみると、何人かの部員は愛想笑いを浮かべながら、大事件の動向に興味を惹かれて、再びテレビの前へと戻ってきた。私がこの事件の展開にいたく興味を持っているのは、ここの部員たちと同じような、愚かで大衆的な興味ではなくて、自分が今現在、まったく同様の事件に巻き込まれているからである。今後訪れるであろう、重要局面において、自分の選択の際の参考のために、ことの結末を注視する必要があるのだ。それに加えて、他人の敷地内に無造作に大金を捨てていく理不尽な行為は、いったい、どのような主義主張を持った人種ならば出来るのかを知りたいわけだ。テレビの中の一億円事件の顛末を詳しく見ていれば、私を悩ましている五つのトランクについても、何らかの参考になる情報が得られるかもしれない。やがて、時計の針は午前九時を指して、始業のチャイムが高らかに鳴り響いた。それと共に、テレビの画面は竹間建設社内に設置された、会見場に切り替わった。
「ほう……、竹間のような大企業ともなると、会社の内部に、会見場にも使用できるような、こんな立派なフロアがあるんだ……」
後ろの方で好奇心旺盛な社員のひとりがそう呟いた。フロアに五十席ほど即興で用意されたパイプ椅子は、テレビ局や新聞、雑誌関係の報道陣ですべて埋め尽くされ、白い絹布で覆われた、前方の長細い木製のテーブルには、建設会社の役員たちが、マスコミ各社が用意した多くの集音マイクを前にして、すっかり憔悴しきった表情で、やや下を向いて、なるべく顔を隠すように座り込んでいた。そんな緊迫した状態にあっても、すぐ前方に陣取ったカメラマンたちは、役員たちに向けて容赦なくシャッターの雨嵐を浴びせていた。この役員たちはおそらく、竹やぶ一億円の存在が公になってからの、この一週間、ほぼ徹夜で、今後のマスコミ対応や善後策を協議していたのだろう。どの顔も頬がこけて、顔が強張り、すっかりやつれてしまっている。それも当然だろう。この事件の解決いかんでは、会社の存亡に関わることに発展することになる。たった一度の不祥事で、世論の熱い非難の前に足元から崩れ落ち、経営が傾いてしまった大企業が、これまでにいくつあっただろうか。そのことがよくわかっているからこそ、竹間建設の幹部たちも、皆、明日無き苦渋に満ちた表情をしているのだ。これから先、自分たちの会社がどうなっていくのかを一番知りたいのは、手柄を立てるためにここへやって来た、マスコミの記者連中などではなく、まさにこの幹部たちである。どの役員もこの会見の重大性を十分に知っており、どんな巧妙な策を講じてこれを乗り切るかを、今まさに頭の中で巡らしているのだろう。
九時を五分ほど回った頃、テーブルの中央に座っていた、若干太めの体型をした人物がやおら立ち上がり、マイクをひとつ手に取って、この場の空気にやや怖気づきながらも、感情のこもっていない、やや淡白な口ぶりでゆっくりと話し始めた。
「えー、私が竹間建設の代表取締役の竹林と申します。本日は世間の皆様をお騒がせしています一件についてのご説明をさせていただきます。どうか、よろしくお願いします。このたびの一件では、懸命な捜査に当たられた、警察各署の皆様をはじめ、多くの方にご迷惑をおかけすることにもなってしまい、まことに申し訳なく思っております。まず、そのことをお詫び申し上げます……」
社長がそこまで述べたタイミングで、取締役の五名も全員立ち上がり、呼吸を合わせて、深々と一礼した。
実際には、一億円が竹やぶに放置されていただけの、この事件において、迷惑を被った人などは、まったくいないと思われるのだが、私は言いたいことを言わず、黙ってテレビの画面を注視していた。マスコミや大衆の視線に日々怯え、これからいったいどんな厳しい質問を受けるのかと、関係者全員が神経をすり減らしている様子は、よく確認できた。
「本日はマスコミの皆様から、会見のご要望がありましたので、三十分だけですが、時間を取りまして、ご質問にお答えしたいと思います……」
社長は時々言葉を区切りながら、慎重に話を続けた。とりあえずの謝罪の意は伝わってきたが、『犯罪を犯したわけでもないのに、なんでこんな会見を開かねばならんのだ』という反感の意思も若干伝わってくるような気がする。
「まず、皆様に向けまして、最初に申し上げておきたいことは、一週間前の金曜日に、件の竹やぶにおいて一億円の現金がお近くにお住いの方に発見されたとき、代表取締役である、この私自身は、あのお金が自分の会社の資産の一部であったという事実を、全く知らなかったということであります。この紛れも無き事実を、ぜひ出発点にして頂きたいと思います」
社長はそこで一端息を止め、何らかの決意を込めた鋭い視線で前方を見据えた。つまり、『この一件には、最初から最後まで、自分の意思はまったく関わり合っていない』と、はっきりとした口調でそう宣言したわけだ。そのタイミングで、マスコミ各社のカメラマンによる、激しいフラッシュが再び焚かれた。この社長は自ら記者会見まで開いておきながら、自分たち幹部は、この一件については知りませんでした、と言ったも同然なのである。もちろん、会場からは、『さて、どう料理してやろうか』とでも言いたげな、記者たちによる少しのどよめきが起こった。セクハラや脱税疑惑など、色々と良くない噂のある、この企業だけに、竹やぶ一億円遺棄事件が、何らかの理由を孕んだ、会社ぐるみの犯行なのか否かが、この事件の最大のポイントの一つであった。
「これから、ことの顛末を詳しく申し上げます。今回の事件を引き起こしてしまったのは、我が社で勤続十五年にもなる、経理部所属の三十六歳の男性社員であります。人伝に聞いたところによりますと、彼は数年前から、決算期を迎えるたびに、事前に不正に作っておいた、幾つかの迂回口座を経由して、会社の口座から、自分の口座に大金を振り込むという犯罪行為を繰り返しておりました。最初に申し上げておきますが、この不正が判明したのは、竹やぶの事件が判明するよりも、以前の話であります。現在では、その横領の総額は数億円にものぼることが判明しております。残念ながら、今年に入るまで、この数年間の彼の所業に気がついている人間は、誰一人としておりませんでした。普段は物静かな真面目な社員であったからです。職場において、仕事の上で、小さな嘘をついた試しすらありませんでした。これは直属の上司からの聞き取りにおいて判明した話です。しかし、そういった表向きの勤勉さの裏では、上司や同僚の目をかいくぐって、大金をくすねるという許されざる犯罪行為に手を染めていたわけです。去年の冬に偶然行われた経理調査におきまして、会社の貯蓄金が予定よりも大きく足りないという他の社員からの調査報告がありまして、厳正な社内調査の結果、今回の不正事件が明るみに出たわけであります。ここまでが社内横領という一つの事件であります。ここからが、彼の思慮が足りない部分なのですが、会社の自分の机の引き出し(厳重に鍵がかかるようになっております)に隠しておいた現金の一部を、事前に用意していた目立たない茶色の革のカバンに詰め込んで持ち出しますと、良い棄て場所を探して、会社の周辺を行きつ戻りつしていたそうなのですが、結局は、それを遺棄する場所に困り、ひと気のない近所の竹やぶに捨てたと供述しております……。どのみち、もう逃れる道などなかったわけですが、自身への調査間近の余りの混乱から、『罪を逃れるために現金を捨てる』という最も愚かしい選択をしたものと思われます……」
そこで社長はスーツの内ポケットから、周到に用意されていた白いハンカチを取り出すと、眼鏡を一度外して、下を向きながら涙を念入りに拭う仕草を見せた。この十数秒間は、まるで、時が止まったかのように誰も音を立てる者はいなかった。
「我が社は聡明正大をモットーに、創業以来、一度たりとも不祥事などを起こすことなく、ただ社会に貢献するためだけに汗を流し、全社員一同となって、会社を運営してまいりました。この数年間の長い期間にわたり、このような低劣な犯罪を発見できなかったのは、申し上げるまでもなく、すべて社長である私の責任です。本当に申し訳ありませんでした……」
竹間建設の社長は、そこでいっそう辛そうにそう呟くと、再び深々と頭を下げた。しかしながら、私の目には、何度も練習された、嘘泣き付きの供述演技にしか見えなかったのだ。テレビに注目している一般大衆とて、善悪を計る眼は決して曇ってはいないだろう。誰もが、一個人の犯罪である可能性は限りなくゼロに近いと思っていることだろう。後で警察の社内捜査により、真実がばれないとでも思っているのだろうか? 素直に『税金逃れの裏金を捨てるために、自分が社員に命じてやらせてしまいました』と述べて、頭を下げればいいのに……。どんな大事件であっても、モニターを通してしまうと、あくまで他人事であり、最初は冷静にテレビを見ていた私でさえも、嘘を積み上げられるごとに、だんだんと興味が薄れてきた。巣穴から引きずり出されて来た、このような場面において、企業のトップたちが真実を語って、心からの反省の弁をする、などということは絶対に起きないことを、この国の長年の不祥事の反復から容易に判断できるからだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。