★第七話★
私が今手に持っている札束を戻すべき位置は、忽然と消えていた。冷静沈着と評される私とて、こういう場面においては、通常の人間とまったく同じような反応しか出来ない。心は平静でいられるはずもなく、混乱は理性を食いつぶそうとしていた。焦りと戸惑いから、背中には、とめどなく冷や汗が流れた。札束を返せば、この一件はそれで終わると考えていた。しかし、自分の思っていた通りには進んでいないのだ。何者かの指の先で弄ばされているかのような、この奇妙な現実はなんだ? いったい、この事態をどう考えれば良いのだろう? この場合、考えうる可能性はすべて当たらなければならない。なにしろ、最悪の場合、私は盗人扱いされてしまう可能性すらあるからだ。昨夜、私は疲労のために思い違いをしていたと仮定して、半ば血迷って、上から二段目のトランクを開いたのだろうか? いや、そんなことはどう考えてもありえない。だいたい、最上位に積まれている、この大きなトランクを、一旦持ち上げて、地面の上にどかしておく作業がある。すでに初老に達した、たった一人の力では、そんなことは到底できないだろう。もちろん、あらゆる危険を冒してまで、そんなトリッキーなことをする理由は何もない。
もうひとつ考えられる要因は、持ち主に近いと想定される何者かが、昨夜、私が立ち去った後にここに現れて、抜き取られた百万円を、取り返しにくるどころか、わざわざ補充していったという可能性だ。現実的どころか、これではまるで怪談奇談の部類であり、それこそ、金輪際起きそうもないことのように思えた。その場合、この大金の持ち主は、自分の住み家から、昨夜のうちに、のこのことゴミ捨て場を覗きに来て、このトランクの中から百万円が抜き取られている(盗み取られている)ことを確認した上で、そのことに対して何ら腹を立てることなく、警察に通報するなどの厳しい対応をとることもなく、ご丁寧に新しいお札まで補充して、それ以上の対応をせずに、そのまま自宅に戻っていったことになる。そんなにこのお金が欲しいのなら、もっと取っていきなさいよ、と言わんばかりである。そもそも、あんなに巨額の金を、一切の理由も明かさぬままに、ひと気のないゴミ捨て場に放置しておくこと自体が、この上もなく非常識なことである。この付近に居を構える、悪意のある人間が、もし、放置されているという情報を掴んで、ここに現われた場合、あの重量を持ち運ぶ手段さえ揃っていれば、数億円という大金を、そっくりそのまま遠い彼方へと持って行かれたとしても、文句のつけようはないのだ。どうも、この落とし主には、常識や金銭感覚といったものが、根本的に欠如している気がする。現在、テレビで盛んに流されている、あの不可解な竹やぶ一億円事件と全く同じような犯人像が想像できるわけだが、より神がかったような無関心が感じられ、さらに大掛かりな陰謀の臭いもする。この一件の犯人も、悪行で成した資産がマイナスの意味において余りすぎて、税金の支払いが億劫になり、ほとほと困っている人間か、あるいは、大金を見せびらかすように、この場に放置して、それを見つけた獲物たちの、極めて人間らしい細かい反応の一つひとつを(望遠鏡をのぞきながら)楽しんでいる性悪な人間なのかだが、いずれにしても、私はもうこの一件から、手を引く決意をしたのである。いつまでも、金持ちの道楽に付き合っているわけにはいかない。
隣家に住む人々が、不穏な物音を聴きつけて、いつ何時、この場に現れるか知れない。よって、ここで長い時間、呆けていることもできない。まだ、考えておかねばならないことは山のようにあるのだが……。私はとりあえず、百万円の札束を再びポケットに戻して、バスに飛び乗って駅へと向かうことにした。いつも通りの時刻のバスに乗って、十五分ほども揺られている間に、事の真相について色々と考えてみた。やはり、警察に通報するならば、出来る限り早いほうが良いのだろう。この分不相応の大金を、いつまでも自分のコートに隠しておくわけにはいかないからだ。大金を手元に置いておくと、いらぬトラブルに巻き込まれる要因になるかもしれない。自分の身の丈以上の金を不正に握っているという事実が、これまで安泰であった自分の地位を崩しかねず、得も言われぬ恐怖へと変わりつつあった。これ以上、この奇妙なトランクの一件に関わっていると、こちらの頭がどうにかなってしまいそうだ。終点に着き、バスから降りると、早朝の駅前は人通りもまばらであり、チャチャチャと会社員たちの素軽い靴音が響く以外は、まだ静寂に包まれていた。昨晩遅くから、夜明けまで酒に飲まれて騒いでいた若者たちが、この付近にたむろしていたはずだが、さすがにこの時間には正気を取り戻して立ち去っていた。私が交番に入っていくと、一番手前の机に座って、喫緊の用事がなく、半ば退屈そうに日報をつけていた、若い巡査が顔を上げて、何事かとこちらの様子を見た。他の署員は朝の巡回にでも出ているのか、今は留守のようであった。私はゆっくりとポケットから百万円の札束を取り出し、彼の眼前の机の上に置くと、そのまま指で押してやり、彼の目の前まで差し出した。
「お父さん、こんな大金をどうしたの?」
その巡査は朝から警官を騙しに来るという、度を越えた詐欺師にでも出会った思ったのか、例え、どんな嫌がらせを受けても、市民の守り神として、決して動揺を見せまいと、うすら笑いを浮かべながら、そう尋ねてきた。
「実は、自宅のすぐ傍で……、困ったことが起きまして……、後で、警察の方に見に来て欲しいものがあるんです」
私は彼の目を見て、真剣に、落ち着いて、しかも静かでやや冷えた口調でそう告げた。
「数日前から、家の近くのゴミ捨て場に、大型のトランクが五つも重ねられた形で放置されています。初めは気にしていなかったのですが、戸締りをするための鍵は付いていなかったことが後になってわかりました。その後、蓋を開いて、中身を確認したみたところ、詰め込まれているのは、全て札束のように見えました。重量があるため、二段目以降の蓋を開けることはできず、そのトランクの中身を上から下まですべて調べたわけではないですが、仮に一段目と同じであれば、総額で六億円は入っているようです」
その警官は私の説明をそこまで聞いても、話し終わるまで、にやけ笑いを消そうとはしなかった。時折、勢い余って交番の中まで攻め込んで来る、酔っぱらいや詐欺師の話には慣れていて、驚いて見せたら負けだとでも思っているかのようだった。
「お父さん、今どき、そんなでっかいジョークだめだよ。俺みたいな上位大学を出てないバカでも、勤務中はね、一応真面目にやってるからね、簡単には引っかからないんだよ。いったい、何が目的で来たの?」
私を半ば意識を失って、絡みに来た酔っぱらいだとでも思っているかのような口ぶりだった。思えば、ここは駅前であるから、終電間際にでもなれば、それこそ、金か意識のどちらかを失って、場末の飲み屋から這い出してきた、おかしな連中も、毎日のようにここを訪れているのだろう。よって、その辺の扱いにも慣れているように思えた。どうすれば、このほとんど冗談としか思えないような真実が、常識に固められた人々に伝わるのだろうか?
「ほらほら、こんなところで道草食ってると遅刻しちゃうよ。怖い上司がいるんでしょ? その百万円をしっかり持って、早く会社に向かったほうがいいよ」
私が何も答えず、無言のままで、微動だにせず、立ち去らないでいるのを見て取ると、その警官は表情をさらに緩ませてそう言ってきた。いかなる理由であれ、交番に押しかけてきた連中を雑に追い払おうとすると、思わぬ事態に発生することもある。相手が凶器を所持している可能性もあり、麻薬中毒者である可能性もあるからだ。そのため、この若い警官は事態を大きくしないように柔らかい対応を心掛けているのであろう。
「本当に自宅の前で数億円を拾ったんです。自分の目で札束だと確認したんです……。第一発見者であることが暴露されたら、マスコミの理不尽な取材に晒されることになります。この一件を何の被害も被らずに穏便に解決するには、庶民の力には重すぎる。もはや、私にはどうにもできない。何とか警察の方で動いて頂きたい……」
「だからさあ、お父さんが仰りたいのは、あの竹やぶに一億円が捨ててあった事件のことでしょ? あの事件を見て、このジョークを思いついたんでしょ?」
警官は二三度ゆっくりと頷いてから、楽しそうにそう続けた。彼の態度には自信がみなぎっていたし、推測になるが、すでに、そういった模倣犯が交番に駆け込むような事例が各地で起きているのかもしれない。大事件出来後の庶民たちの行動はきわめて単純である。暇を持て余した嘘つきが大金を見つけたと、交番に駆け込む……、実にありそうなことだ。
「そう、あの事件とまったく一緒です。どこからどう見ても、非常によく似ています。どんな説明をしても、冗談と受け止められるでしょうが、実際のところ、先週の竹やぶ事件の方には、私は何の興味もなかったんです。完全に他人事でした。ただね、実は今回起きたこのトランク放置事件も、中身は本物の札束なんです。私の方から、初めて会ったあなたに対して、たちの悪い嘘をつく理由は何もない。私は企業社会に管理者としての居場所がある、まっとうな人間です。あなたにわざわざ嘘をついて騙す理由もないし、落ちている金に手を出すわけにもいかないんです。今回の事件も警察の力で対応してください」
私は硬い表情を崩さぬまま、強い口調でそう伝えた。ただ、信じて欲しいと願いを込めて。
「そ、それじゃあ……、まさか……、本当に?」
私の言葉の真剣味が次第に伝わってきたのか、この若い巡査はようやく事の重大さを理解し始めた。こちらの申告が、もし真実であるならば、自分たちが、いかに大きな責任を背負わされることになるのかが、ようやく理解できてきたらしい。このような僻地で数億円という大金が発見されたら、この周辺に勤めている警察官すべてが、無事に済むわけがない。しばらくの間、署内の人員は総動員となるだろう。ほとぼりが覚めるまで(マスコミがこの件に飽きてくれるまで)は、休日返上でトランクを遺棄した犯人探しの毎日だ。この彼としても、重要関係者(第一発見者である私)から最初に聞き取りを行った張本人として、責任の一端を担がされることになるのだ。
「いいですか? 念の為にもう一度説明しておきますよ。ゴミ捨て場に遺棄してあるトランクは現時点で五つあります。少なくとも、今週の日曜の深夜から放置されている。付近の住民と思われる足跡は泥の上に複数あったが、運んできたと思われる人物の足跡は全くなかった。付近にはトラックや4WDワゴンなどのトランクを運びうる大型車のタイヤ痕もいっさいありませんでした。トランクの中には札束がぎっしりと詰められていて、とても一人の人間で運べる量ではない。おそらくは数人がかりで、あの場所まで運んで来たと思われるが、道幅がきわめて狭く、大型トラックが入れるような場所じゃないし、付近にはそんな形跡もなかった。もちろん、それほどの苦労をしてまでトランクを遺棄していった人間たちの動機はさっぱりわかりません。さあ、後は警察の方で調べてください。トランクから試しに抜き取ってみた、この百万円と私の名刺を一枚置いていきます。何か進展があったら、連絡をください」
若い巡査は私の言葉に真剣に耳を傾けながら、最初に顔が会った時とは打って変わって、この先の証言は一言も聞き逃すまいと、懸命の形相でメモを取っていた。それはそうだろう。これは、この国の歴史上に刻まれるべき大事件の発端であり、この地域全体を揺るがすような大捜査が動き出すのだ。
「私はこれから仕事に向かわなきゃならんのですが、警察の方では、事件現場のゴミ捨て場には何時くらいに来れますか?」
「他の仕事もあるので、複数の捜査員が向かえるのは、午後三時以降になると思います」
「うちには、妻と娘がいます。二人とも、まだこの事件のことは何も知りません。だが、簡単に新聞や雑誌類にプライベートが公表されてしまうようだと困ります。マスコミ対策だけは、警察の方でしっかりとお願いしますよ」
私はその言葉にやや力を込めて、懇願するようにそう告げると、一礼をしてから交番を出て、小走りに駅へと向かった。
満員電車に身体を揺られながら、ここ数日の劇的な出来事の数々を思い返し、物思いにふけっていた。このとき、私は一抹の寂しさを感じていたのだ。もし、この事件が警察の捜査によって、順当に解決されるとすると、トランクを捨てていった犯人が現れて順当に解決するにせよ、このまま現れないで迷宮入りするにせよ、私が生涯に数億円という金額をこの手に得る機会はもう来ないであろう。結局のところ、妻にはあの大金のことを詳しく話してやれなかったが、一度くらいは、贅沢な思いをさせてやりたかった気もする。だが、警察に通報して、下駄を預けた以上、もう後戻りはできない。ボールがどちらに転がっても、あの大金の全てが私のものになる可能性は完全に消えたわけだ。そして、これまでのように、進むか引くかで、うじうじと悩んではいられない。私としても、マスコミや世間の目と対峙する覚悟を決めなくては。
あのトランクを見つけた当初は、積み重なる札束に手を出す気が幾らかはありました、などとは口が裂けても言えないわけだ。『不審なトランクの中に何が入っているのかは、警察に届け出る直前まで、まったく知りませんでした』とシラを切るしかあるまい。そうだ、鍵がかかっていると思って諦めていた、と供述すればいい。しかし、このまま落とし主が現れなかったなら、この大金を受け取るつまりはあるのか? と尋ねられたらどうしようか。率直にいえば、全額、自分のものにしたいと言い返したいところだが、そんなにあっけらかんと本音は言いづらいし、かと言って、その場の空気に飲まれて、『すべてを恵まれない方々に寄付します』と答えるのも、あとに悔いが残る気がする。マスコミには、使い道は家族みんなでゆっくり考えます、とでも言っておくしかあるまい。
通勤途中では、そんな妄想を膨らませながら、悶々とした心持のままで職場に着くと、この数日感の中では、一番騒がしい朝の風景がそこにはあった。すでに出社している部員の全員がテレビに寄り添っていたのだ。テレビの前は大変な人だかりで、人波に押されて、傍まで近寄れない社員たちは、後方から必死に背伸びをして、テレビの画面をなんとか覗き込もうとしていた。私の席からは、テレビのモニターはかなり離れているのだが、ガヤガヤと聞こえてくる皆の声やワイドショーらしき番組の音声に聞き耳を立てていると、どうやら、先週末に竹やぶに一億円を遺棄していった当人が、ついに判明したらしい。なるほど、この事件に注目していた、多くの一般大衆にとっては、待ちに待った展開といえるだろう。私はテレビに背を向け、右手にペンを持ちながら、机上の書類を見つめ、何も聞いていないフリをしながら、耳をそばだてた。
『……村の一画にある竹やぶの中に、一億円の入ったカバンが捨てられているのが付近の住民によって発見されてから、ちょうど一週間、事件は新たな展開を見せることになりました……』
『……それによると、昨夜七時半頃、大手建設会社の竹間建設の役員の一人から、警察署広報課の方に電話連絡があり、ここ数日にわたり、社員の一人から事情聴取を行っていたところ、件の竹やぶに一億円を遺棄したことを認めたので報告をしたい、との申し入れであったということです……』
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。