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拾えない札束  作者: つっちーfrom千葉
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★第六話★


 そんな昔のことを頭の中に自然と流しながら、眠れぬ時間を過ごした。『遠い昔に起きた細かい事件を、いちいち反芻していたら、キリがない』大雑把に生きられる人ならば、そんな感想を述べるだろうか。ふと布団の右側に視線を移すと、いつの間にか、妻が目を覚ましていて、私の顔を不思議そうに眺めていた。


「どうしたの? 気持ちが高ぶって、なかなか眠れないの? 仕事で何かあったの? 何か、ここ数日、様子がおかしいわよ……」


「いや、少し、思いついたことがあってな、大したことじゃないんだが……」


 私はこの重大な話を、少しずつでも切り出していくことにした。しかしながら、まだ、ことのすべてを話してしまうことにはかなりの抵抗があった。そもそも、私が今体験しているこの現象が、本当に現実に起きていることなのか、それとも……、ああ、こんなことは考えたくもないが……、仕事の疲れや見えないストレスによって、私の脳がどうかしてしまったのかもしれない……。だから、警察でも名探偵でも誰でもいい。信用のおける捜査員に、ことの真偽を確かめてもらうまでは、妻や娘に今回の一件の全てを打ち明けるのはやめておこうという気持ちが次第に強くなった。しかし、こんな我が家にも燦燦と輝く栄光が、すぐそこまで近づいているのだ……。そのくらいのことは、ほのめかしてみても、良いのではないだろうか?


「どうだ、そっちが良ければ、今度、家族みんなで海外旅行にでも行ってみるか? どこか、景色のよいところに」


 私の口から自然と明るい口調で、そんな台詞が出てきた。あのトランクの金を自分と家族の幸せのために、つぎ込んでいく決心ができたならば、毒を食らわば皿までということでもあり、妻にも真相を知らせて、一つの計画として、巻き込んでいく方がいいと思うようになっていた。しかし、妻はこの高級旅行の提案に心底驚いたようで、口をだらしなくぽかーんと開いて、しばらくの間、いったい何が起きたのか、とでもいうように、私の顔を呆然と見つめていた。いつも、日付が変わる直前になって、ようやく帰宅して、この近所で一番遅い夕食では、残業になったことの言い訳しか話題にしない夫が、突如として放った衝撃的なセリフに対して、驚くのも無理はない。彼女のこの表情が、私の心境を、大金をばら撒く幸福な未来に包まれた、どこまでも夢拡がる想像から、そもそも、家族を巻き込んでの大金奪取計画など実行不能なのだ、という氷のような現実へと、あっという間に引き戻してしまった。


「いったい、何を言い出すの? 今の時期に家族旅行だなんて……、そんなお金が、いったい、どこから出てくるの?」


 私は瞬時に彼女から視線を逸らした。札束の現物が捨てられていた理由を何も知らない一般の人間が、『散歩をしていたら、ゴミ捨て場で数億円も見つけてしまいました』などという夢物語を素直に信じてくれるはずはない。この案件をなるべく夫婦関係に棘が刺さらない形で前へ進めていくのであれば、ボールがどちらに転がっていくにせよ、やがては共犯と成りうる妻にも、今回の一件のさわりだけでも話しておいたほうが良いだろう。しかし、誰が置いていったかさえわからぬ大金を、うちの家庭だけで奪う奪わないの対話は、夫婦間の軽い話題とは、とてもいえない。この一件をいったいどのように伝えていけば、疑り深い妻に納得してもらえるのか悩むことになった。あの無神経な娘も一緒にいる場所で、初めてあのトランクと出会った場面からの詳細を、何時間もかけて、じんぐりと話していったとしても、真面目一辺倒の妻には、大嘘か幻覚で処理されてしまうのがオチである。娘は欲望が絡む話題においては、もう少しマシな反応をするのかもしれない。結論としては、現実がもう一歩でも前へ進むまで、本当のことは、まだ打ち明けない方がいいだろう。とりあえず、周囲の人間にはなるべく伏せながら、このまま思惑通りに進めていければ、あのトランクは半分以上の確率で私の資産になるのだから……。ただ、万全の手をうってなお、あの大金のすべてが確実に手に入ると決まったわけではない。そもそも、翌朝目が覚めたら、朝霧のように消えているかもしれない。この自分でさえ、あの巨大な夢想を現実として受け入れるには、まだ、時間がかかるだろう。自分の欲望を最大限優先させるためには困難な未来が待っている。家族のプライバシーを保護しつつ、法的に所有を確定させるには、相当骨が折れることになるかもしれない。


「いや、今年度は人件費の削減と営業成績がうまくいったのか、予算を大幅に越えて経常利益が出たからな、会社からは数年ぶりに、年度末に臨時ボーナスが出ることになったんだ。それにな、誕生日がある六月に、私にも勤続二十五周年の特別手当が支給されることになっているんだ」


 私は何の罪悪感もなく、愚にもつかない大嘘を並び立てた。真実をいえば、うちの会社の経営状況は臨時ボーナスの支給どころか、赤字ライン上を万年彷徨う、青色吐息である。嫌味な顧客との商談は常に赤字との瀬戸際で行われ、賃上げ率は年々下がる一方、ボーナスカットは常にすぐ背後まで迫っているわけで、特別手当など存在するわけがない。しかし、自分が出どころの知れぬ大金を持っていることを、これから先も、何とか信じさせなければならないのだ。そうしないと、今すでにこの手にしている、百万円の存在の信憑性が全くなくなる。


「今度休暇を取って、家族みんなで海外にでも行かないか? どこにする? やはり、人気のロンドンやパリがいいか? 比較的近場がいいなら、シンガポールという選択肢もある」


 私が投げかけた軽率な言葉のうち、いったい、何割くらいをそのまま受け入れたのかはわからなかったが、妻は勢いよく布団を跳ね除け、怒鳴り散らすように反論してきた。結婚して以来、常日頃温和であった彼女の鬼のような形相を見るのは初めてだった。


「ちょっと! あなた、本気で言ってるの? 本当にお金が余っているのなら、少しでも預金に回しておかないと、もうすぐやってくる老後の生活に、耐えられなくなるわよ。最近は老年の家庭の一家心中が後を絶たないし、うちだって、あなたがあと数年で定年を迎えたら、雀の涙ほどの年金の他には貯蓄を維持する手段は無いし、陽子だって、今のところ定職に就く気配もないし、結婚が出来ないと家からは出ていけないし、食費にも学費にも、まだまだお金がかかるのよ」


 数十年来の貧乏性が抜けない妻は、顔を真っ赤にして、怒りの言葉をぶつけてきた。おそらく、私の一連の提案を質の悪い冗談だと受け止めたのであろう。凡人が容易には体験出来ない豪勢な旅行をして、生涯にわたり記憶に残る思い出を作り、一刻でも幸福感を味わうことよりも、今のギリギリの生活を墓に入るまで維持していくための方策を考え出すことで精一杯のようだった。ゴミ捨て場のトランクの中に詰め込まれている札束の山を、彼女の眼前に披露しなければ、私が大金取得の権利を持っていることを、信用させることは難しいようだった。しかし、切り札をすべて見せるのは余りに危険すぎる。このきわめて現実的な妻とて、おそらく社会全体をも巻き込む、この重大な案件においては、完全な同志として信用するわけにはいかないだろう。神々しく輝く札束が、トランクの内部にびっしりと居並ぶあの光景を見てしまったら、瞬時にパニック状態に陥ってしまい、その後、どんなキテレツな行動に出るか想像もつかないからだ。狂乱状態に陥られてしまうと、例のゴミ捨て場から周囲の民家にまで、その叫び声が届いてしまう恐れがあった。『数億円もの大金が自宅のすぐ傍に放置されている、ということを身内に信用させることは不可能である』私は彼女の現在の認識に同意するしかなかった。


「そうだな……、わかっているよ……。まさに君の言うとおりだ……。臨時ボーナスは貯蓄に回した方がいいな。では、そうしようじゃないか。疲れているところに、変なことを言い出して済まなかったな。さっきの話はすべて撤回するよ。忘れてくれ……」


 私はとりあえず、彼女をなだめるためにそう言った。妻はこれまでの話を、すべて冗談と受け止めたのか、ようやく平静を取り戻して、安心した様子を見せた。


「それならいいんですけど、そんなことより、明日、陽子が最近付き合い始めた男性を紹介したいって言いだして、家まで連れてくるんですって。あれが言うには、どうしても今、両親に紹介しておきたいらしいの。いったい、何を言い出すのやら……。無事に卒業してくれるかもわからないのに、いったい、どんなことを言い出すんでしょうね……。とにかく、私はそのことが不安で仕方ないの。あんな単純な性格の子だし、どんな向こう見ずな男性を連れてくるかも……。私だけでは対処できないので、あなたも父親として同席してくださいね。夕飯をみんなで食べることになっているから、なるべく早く帰ってきてください」


 妻は喉につかえていたことを、そこまで一気に語ってしまうと、気が済んだのか、いくらかの怒気を含んだまま、向こう側に寝返りをうち、そのまま寝てしまった。


 妻との一連の会話において、私はすっかり心中に生まれ始めていた悪魔たちから解き放たれ、現実へと引き戻されていた。今では、いくら遺棄されていたものとはいえ、自分が働いて得たものでもない札束を横取りするなんて、とんでもない無法行為のように思えた。例え、あのトランクの金の一部が、私のものになる権利が存在するとしても、それを個人の勝手な判断で散在するわけにはいかないのだ。私は一家の主として、この決して恵まれているとはいえない家庭を守らなければならない。軽々しく横領などをして、妻や娘をマスコミの汚いカメラの前に晒すわけにはいかない。竹やぶで一億円を拾って、良かれと思ってそれを届け出た、あの不幸な一家のように、ならず者やマスコミに延々とつきまとわれることになるかもしれない。会社に出かけるときや、たまの休日でさえも、ドアを開いて外に出ようとするたびに、顔のすぐ近くまで多数のマイクを向けられ、あざとい質問を浴びせられていたら、数ヵ月ももたずに気が狂ってしまうだろう。強引な手法により、例え、ある程度の金を所得できたとしても、悪意ある人間たちに日々見張られて、取り囲まれる、そんな窮屈な状態から、元のまともな生活へと戻っていける保証はなかった。遊び半分な行動によって、三人の人生を棒にふるわけにはいかないのだ。


 翌朝、目が覚めると、この数日の様々な迷いや、ジレンマから解放されて、私はすっかり日頃と同じ落ち着きを取り戻していた。朝食を食べ終わると、「今夜はなるべく早く帰るから」とだけ、妻に言い残して、すがすがしい気持ちのままでドアの外に出た。昨夜、出来心で盗ってきてしまった百万円の札束を、あのトランクに返しに行くつもりである。この返却さえ、きちんとやれば、もう、他人の目を恐れることは何もない。今後の憂いは完全になくなるわけだ。厄介ごとを先延ばしにして、悪魔に取り憑かれるのはまっぴらである。その後、もし、時間的に余裕があれば、遺棄された大金について、交番に通報しようとさえ思っている。この一報が知れ渡れば、マスコミはここぞとばかりに騒ぎ立てるだろう。だが、私はまだ後ろめたいことは何もしていないし、我々家族としては、遺棄者からのお礼のお金も含めて、一円たりとも受け取るつもりはないことを主張しておけば、それほどしつこくは追ってこないだろう。被害にはほとんど遭わずに、私の名誉も無事保たれるわけだ。もし、時間に余裕がなければ、警察に相談するのは、帰宅してからでもいいだろう。その間に、他人がこれを先に見つけて通報するようなことが起きても、それはそれでいい。第二の発見者がどういう対応をするも、他人任せになる。おそらく、自分としては、このトランクには、もう触れない方が良いと思っていた。


 林の奥のゴミ捨て場の前に着くと、五つのトランクは相も変わらず、整った形で、五段に積まれたままになっていた。初めてこれに出会ったあの日以来、その位置も形も全く変わっていない。もちろん、誰もここに踏み込んだ形跡もなかった。いい加減、この近所に住む、他の欲深い人間の目に見つかって、荒らされてしまっても良さそうなものだが……。周囲の土の上には、私以外の足跡もまったく見当たらないのだ……。


 とりあえず、後々警察の捜査を受けることを前提にして、指紋はすべて消しとっておくことにした。私が一時的にでも、欲に駆られて、百万円の札束を抜き取ったことがばれてしまうと、その経過について、詳しい事情を聞かれることになり、少々まずいからだ。私はスーツのポケットから、まだ汚れてもいない白い新品のハンカチを取り出して、一番上に乗せられているトランクの表面、特に取っ手の部分をきれいに拭き取っていった。その後、スーツの逆側のポケットから、昨日不本意にも盗み取ってしまった、百万円の札束を取り出して、トランクの元の位置に戻すことにした。指紋を付けないように新品の軍手をはめてから、トランクの取っ手に手をかけ、慎重にそれを開いた。そして、手のひらで札束の表面をゆっくりと撫でていき、百万円をはめ込む位置を探した。昨日、この札束を抜き取ったのは、確か、かなり手前の取っ手に近い方だったと記憶している。しかし、昨日百万円を抜き取った場所、そのひとつ分の凹みを、何分経っても、なかなか探し出すことができなかった。『あまり時間をかけると、通行人に見られてしまう!』私は焼けつくような焦燥感を味わいながら、何度も何度も一段目の札束の表面を撫でて札束の元の居場所を調べた。しかし、結論からいうと、このトランクの一段目には、札束を戻すべき窪みなど、どこにもなかったのだ。つまり、トランクの中の数億円の札束は、一番上から下まで少しもずれることなく、びっしりと隙間なく並べられているのである。『自分はあの時、いったいどこからこの札束を持ってきたのだ?』私はこの時ほど驚いたことはなかった。単刀直入に言ってしまえば、昨夜、私が盗んだ百万円を戻すべき場所が、どこにも存在しないのだった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。

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