★第四話★
翌朝、目が覚めたとき、昨夜の燃え盛るような気の高ぶりは、幾分収まっているように感じられた。そして、自分があの森で何を発見して、どんな解決方法を目指して、際限なく夢想していたのかを、はっきりと覚えていた。無論、私を欺こうとしている者が本当にいるのなら、危機に瀕している自分の立場は、何時間睡眠をとろうとも、まったく変わるはずはなかった。例のトランクの現在の状態を確認するために、朝食はお代わりなしで、できる限り早めに済ませた。妻には池に棲んでいるカワセミが撮りたいからと、余りにも幼稚な嘘をついて、いつもより三十分ほど早くに家を出た。すれ違うであろう人々に、不審に思われぬ程度の速足で、例のゴミ捨て場へと向かった。
今朝は予報通りに雨は降っていなかったが、地面はほどよく湿っていて、私以外の足跡が、増えていないことを自分以外の者がここへ来ていないことの根拠とすることができた。私が就寝している間に、このトランクの持ち主は取り戻しに来なかったらしい。もっとも、今さら大金に未練が出て、このトランクを持ち帰りたいと思っても、札束がぎゅうぎゅうに詰め込まれて、それが五つも積み重ねられた重量である。ほんの少し持ち上げるにしても、大変な苦労になるであろう。そして、五つのトランクは昨日とまったく同じ位置に、他の誰の触った形跡もなく、積まれていた。私には幼い頃から霊感のたぐいはないのだが、この時点においても、周辺から、ある種の霊的な意思を感じることはなかった。昨夜、家に戻ってから、意識の奥底では薄々考えていたことなのだが、もしかすると、昨日札束の山と見えたのは、完全な幻覚だったのかもしれない。テレビで報道されている例の竹やぶ事件を精神的に強く意識しすぎて、それが過度の期待へと変わったからこそ、そう見えただけなのかも……。元より、この中に札束の山なんて、入っていないのかも……。
私はこの辺りの木々の隙間を見回し、こちらを見張っている怪しい影がいないことを、もう一度確認した。それから勢いよく、昨日よりもさらに大きく、トランクの扉を開いてみた。その銀箔の箱の中には、昨日と同様に、まったく隙間を空けずに美しい札束がぎっしりと詰まっていた。大手CMに出番のない、二流俳優が総出演する安っぽいテレビドラマなどで、銀行強盗に人質と引き換えに札束を渡すシーンがよくあるが、まさか現実において、それと同じ光景を見ることになるとは思いもしなかった。だが、そんな非現実的な光景を、まざまざと見せつけられても、叫び声一つ上げることのない、自分の冷静さに対して、内心ではさらに驚くことになった。この広い社会においては、ここ数十年ほどの間に、想定外の災害や事件が次々と起こっているが、そういった大事変に慣らされているうちに、想定外のことに驚かされるということに、神経が慣れてしまったのかもしれない。不思議なことに、私はこのとき、この大金はすでに自分の所有物であると思うようになっていた。まず、何よりも、私が第一発見者であるということ。これを否定する事象が、あの日以前に起きているのであれば、何者かの通報により、すでに警察がこの場に来ているはずである。周囲で『自分は目も眩む大金を見つけてしまった!』と飛び跳ねて、狂乱して騒いでいる人間も家族も他には見当たらない。つまり、このトランクの扉を開いて、札束と対面を果たしたのは、現時点において、私一人のみのはずである。私は幼少の頃より、努力家ではあったが、残念なことに、有名大学に進めるほどの才能は持ち合わせていなかった。おおよそ考えうる、どんな職業に就いていたとしても、私にこんな大金を得る才覚や力量はないのかもしれない。だが、この謎のトランクの本当の持ち主は、金輪際、現れないような気がしてならなかった。
しかし、このままでは、あと数時間のうちに、資源ごみ専門のゴミ廃棄業者に丸ごと持っていかれてしまう。いや、その前に中身を確認されてしまい、結果的にこの集落は大騒ぎになるだろう。このトランクにはぞんざいにも、小さな黄銅カギの一つすら付いていないのだ。つまり、ここを通りがかり、興味を持った人間ならば、誰でもこの蓋を開けられることになる。私と警察だけの問題だったはずだが、第三者である廃棄業者までが割って入ってくるとなると、厄介なことになる。もっとも多くの利益を得る権利を持つはずの、私の立場はどうなるのだ。欲望を最大限完遂させるためには、善よりも悪に傾く必要があるのだ。こうなれば、非常手段だ。今のうちに両手で持てるだけの金額でも抜き取ってやろうか? 会社で使用している、この手提げ鞄にどれほどの札束を詰め込めるのだろう? しかし、そんなよこしまなことを考えていると、突如として、背中に冷たい風が当たるように感じられ、樹の蔭から、色褪せた葉に覆われた、低い茂みの奥から、誰かがこちらを伺っているような気配がした。無関係の業者になどに取られてしまうくらいなら、誰も近寄らないような、田舎町へと全部運んでやりたいところだが、札束は一番下段のトランクまで、ぎっしりと詰まっているようで、すっかり老いてしまった私の腕の力では、一段目のトランクでさえ、まともに動かすことはできそうにないのだ。できれば、二段目以降に敷かれているトランクたちの中身も、すべてこの目で確認していきたいところだが、それは不可能だった。それに加えて、これは全て偽札か、あるいは、おもちゃの紙幣だという疑念が未だに消えなかった。私は震える手で百万円の札束を一つ抜きだして、その中から慎重に三枚ほどの紙幣を抜き取って、高く掲げて、陽の光に透かしてみた。思った通り、まがうなき本物であった。その苦しい真実は、おそらく、この先の未来において、余計に私を苦しめていくのだろう。
私はしばし考え込んだ。素直に警察に届け出るべきか、それとも、業者に全ての幸運をさらわれてしまうことを想定して、今のうちに、自分で持てる分だけでも抜き取り、どこかへ持ち去ってしまうべきか。しかし、これが誰かの悪意あるトリックだったとしたら、それこそ、飢えたマスコミの餌食になってしまう。大金をわざと道端に放置しておいて、それを通りがかった一般人にわざと発見させて、悲喜こもごもの反応を容赦なくあざけ笑うバラエティ番組だって昔から存在するではないか。私は大金と体面を天秤にかけるならば、社会的立場や家族の幸福を選ぶ。欲望につられて深い落とし穴にはまり、恥をかくのはまっぴらごめんだ。ゴミの回収に来た連中に、大金の第一発見者の座を譲るのは口惜しいが、ここは仕方がない。大胆な手段を取りにくい今の状況では、きっぱりと諦めるしかない。仕事を終えて家に帰って来たとき、大金を発見した業者が意気揚々と、マスコミ関係者や警官の質問に答えているところを見ることになるかもしれない。本当はすべて私のものなのに……。人生で一度の輝かしいチャンスを自ら放棄して立ち去るのは、この上もなく口惜しかったので、私は何度も後を振り返り、誰もトランクに近づいて来ないことを、今一度確認してから、渋々と会社に向かうことにした。仕事を無事に終え、帰り道に再びここへ寄ってみて、もし、五つのトランクが跡形も無くなっていれば、それは回収業者が中身も確認せずに、持ち去ったということで、また明日からは、いつも通りの平凡で穏やかな日常が戻ってくるだろう。自分の本心においては、もっとも無難なその結末が、まったく期待していない結末であるということは、非常に残念なことである。
ありがたいことに、都心へ向かう電車はダイヤ通りに動いてくれていた。出来れば休暇をとる口実が欲しかった、私の身体を否応なく会社へと届けてくれるわけだ。ただ、始業時間になっても、当然のことながら、自分の目で発見してしまった札束の山のことが気になって、自分は未来の億万長者になるかも、ということに対して、いくぶん鈍感だった、昨日の自分よりも、もっと仕事に気が向かなかった。ゴミ回収業の業者は、今頃、仕事の障害としか思っていなかった五つのトランクを、気兼ねなく開いてみて、その恐るべき展開に仰天している頃だろうか? そうだとすれば、我が家の周辺は、今現在、きっと大騒ぎになっていることだろう。すでにうちの前には、出足の早いテレビ局のカメラマンが、多数陣取っているのかもしれない。好奇心旺盛な近所の住民が、こぞって自宅の前に集まっている様子が目に浮かぶ。お昼のニュースで妻の顔が近所の住民代表として、テレビ画面に大写しにされ、たどたどしくインタビューに答えていたなら、どうしたものか……。その事態を会社の同僚にはどう説明すればいいのだろう。そういうことであれば、今日一日くらいは、会社を休んで、私がマスコミ関係者の相手をすれば良かったのかもしれない。しかし、昼のニュースの時間帯になっても、民放のテレビ局は相変わらず、先週から報道しっぱなしの、竹やぶ一億円のニュースを、兵糧がまるで足りていない狩人のように、しつこく追いかけ回していた。
「課長、このチャンネルがつまらなかったら、NHKに回しましょうか?」
よく気の付く部下の女性係長の金沢さんがこちらの心中を気遣って声をかけてきた。我が部の中で私が最も頼りにしているスタッフである。覚えが早い、提案が鋭い、人当たりがいいの三拍子である。出来れば、未来を背負う若い人にこそ役職をやって欲しいと、常日頃から考えている私の願いを叶えてくれる存在である。
「いや、このままでいいよ。今の時間帯は、どこに回しても、同じようなニュースを取り扱っているだろうしね……」
私は食後のコーヒーを飲みながら、なるべく愛想よくそう答えた。公共放送にしろ、民放放送にしろ、六億円という途方もない札束の山が発見されたのが分かった時点で速報が入るだろう。
「竹やぶのお金のことばかりで、政局や経済の動向なんて、全然やらないんですね……」
金沢さんは私に同情するようにそう呟いた。彼女程度の高い知性を持ち合わせている人間が世に溢れていれば、すっかり病んだこの国が、少しずつでも、まともな社会へと変わっていくことを、もう少し、期待できるのだが……。
私はぼんやりとした視線で、テレビの画面を見つめていた。先週の金曜の深夜に一億円を遺棄して走り去ったとされる不審車が、周辺の一部の居住者によって目撃されているにも関わらず、いまだにその行方が知れず、こちらも迷宮入りの様相だった。一億円を最初に発見した家族は、その地味な半生の一部始終や、事情を知らない人間には、まるで理解できない、これまでの栄光の数々が紹介されていた。大工を職としている祖父が、近所で催されたノコギリを研ぐ大会で入賞したことや、長男が自宅の畑でこの国では珍しい種のニンニクを栽培していることなど……。一億円を拾ってしまうと、あんなどうでもいい情報まで、世間に暴露されてしまうのか……。その開き直りともとれる彼らの明るい表情の数々は、今日もテレビに大写しにされ、全国から妬みの籠ったファックスや、いたずら電話がひっきりなしに届けられ、実際、家のガラスが割られるなど、執拗な嫌がらせに遭って困っているという本音が、報道陣たちによって伝えられていた。一億円ぽっちで、これだけのバカ騒ぎをやらかすのだから、これが六億となったなら、どんな気狂いじみた大騒ぎに発展するのだろうか? 慎ましい自宅に嫌がらせの手紙やファックスが、日常的に送り付けられることを想像すると、不安を通り越して、恐ろしいことこの上ない。ここ数日、睡眠がとれていないのか、顔色の良くない発見者の家族たちをあざ笑うように、報道陣からは嫌みの籠った質問が次々と飛んでいた。
『率直に言って、持ち主が現れない方がいいと考えていませんか?』
『近所の人たちは、この発見について、どのように考えていると思われますか?』
『家族の内部では、お金の配分方法などを、すでに決めてあるんですか?』
『各地の恵まれない人や障碍者施設などに、寄付はなさらないんですか?』
一億円を届け出た家族は、比較的ちやほやされていた発見当初とは打って変わって渋い表情になっており、「ええ、寄付をすることもね、人間が生きる上で大切なことだとは思いますけれど……、ええ、そうですね……、頼まれれば、少しくらいなら……」などと当たり障りなく答えていた。それが決して本心でないことだけはしっかりと伝わってきた。意図せずに大金を発見してからの、この数日間の状況の変化で、幸福から不幸へと転落したこの一家も、一生働かずに済むような大金を不労によって得るということが、どれだけ世間から妬まれ、疎まれるかということに気が付いたらしい。質問への回答にも、視聴者の冷酷な視線を意識した慎重なものが目立つようになってきた。一億円を手に入れた一家を妬ましく思うのは、ご近所の親友でも実家の親戚でも、皆一緒であり、例え、血が繋がっていようと無かろうと、周りに助けてくれる人などいるわけがない。大金が関わってくれば、自分も参加資格があり、それに手が届くと考えている人間は皆、敵意を剥き出しにしてくるものなのだ。
ぼんやりとした思考状態のまま、コーヒーを胃に流し込み、カップを洗い終えてから、再び午後の仕事に戻ることにした。やがて、仕事の量はピークを迎えた。サラリーマンというものは、忙しくなると、時の流れも忘れて働き続けるものである。翌日の夜に、恋人と会うことまで忘れるとなると、行き過ぎだとは思うが。しかし、そのまま夕方になっても、自分のモチベーションはまったく上がらず、頭に鮮明に浮かんでくるのは、大量の札束が詰まった、あのトランクのことばかり。小さな打ち合わせのような、無くても誰も困らないような会議が数回あったように記憶しているが、自部署の仕事が進んでいるのか、それとも、遅れているのか、今期は利益が出たのか、出なかったのか、なんてさっぱり頭に入らなかった。結局、定時になっても、テレビに映るニュースには、『ゴミ捨て場のトランクから、現金数億円が発見される』の速報は入らなかった。今日はあっという間に時間が過ぎたように感じられた。この自分が妄想にかまけて呆けていても、仕事というものは、周囲の気まじめな人たちが勝手に片付けてくれるものなのだとわかった。
管理者としての性分か、あるいは罪悪感からか、わからなかったが、正味二時間ほどの残業をして、七時で仕事を切り上げて、人が変わったように駅まで夢中で走り、ドアが閉まりかけた下り電車に慌てて飛び乗った。
「かけこみ乗車はおやめ下さい! 危険ですよ!」
という駅員の怒鳴り声が響いていたが、自分の焦りは、この数分の勝負に数億円の大金がかかっているかも知れぬ、という類まれなチャンスを得るために来ており、日々平凡に過ごしている一般人には、まったく理解出来ないはずだ。今日一日ずっと考えていたが、結論としては、やはり六億円が欲しい。あれが、ゴミ捨て場にそのまま残っている可能性が、例え1%でもあるのであれば、急がなくてはならない。仕事終わりの疲れのことなど、完全に忘れてしまったかのように全力で走り続け、若い頃から慣れ親しんだ、林の中に飛び込むと、自宅のドアを力いっぱい開き、取り敢えず「ただいま」も言わず、玄関のマットの上にカバンを放り投げた。そして、素早く身体を反転させ、今度は、林の北側にあるゴミ捨て場に向かってがむしゃらに走った。獣道と見紛うような細い林道を縫うように最短の道を選んで懸命に走った。「もしかしたら……、もしかしたら……」と頭では考えながら、奇跡を得るために必死だった。そして、それは自分でも目を疑うような幸運な結果が待っていた。ゴミ捨て場には薄明りに照らされて、銀色に光るトランクが五つ、そのままの姿で残されていたのだ。足元をペンライトで照らして歩き回ってみると、生ゴミやペットボトルの類いはすっかり回収されていた。つまり、ゴミ回収業者は、ここへ来ることは来たのだ。なぜ、一番目立つであろう、このトランクだけをそのままの状態にしていったのだろうか? 重すぎて持っていけなかったにせよ、まともな業者であれば、その中身くらいは確認しそうなものだが……。中身を見て、運び去ろうとする前に、何か不測の事態が起こったのかもしれない。
私の顔には自然と笑みがこぼれ、ぽんぽんと盟友の丈夫なトランクの蓋を二回叩いた。ここまでの苦労は報われたのだ。
「よく、残っていてくれた」
私の口からは、不思議とそんな言葉が漏れた。しかし、回収業者がこれを見逃した理由は、いくら脳を巡らせても、さっぱりわからなかった。私は堅牢なこのトランクの外観を、なめるように眺めていき、ゆっくりと見回しながら周囲を歩いた。すると、トランクの裏側の一段目と二段目の僅かな隙間に、五センチほどの小さなメモ用紙が挟まっていた。これまでは裏側のこんなに細かいところまでは目が届かなかった。初めて発見したときから、私がずっと見過ごしていただけなのだろうか? それとも、回収業者がこれを書いて、残していったのだろうか? そのメモ用紙には、このように書かれていた。
『このトランクの中身は、開く者の信条によって変化する。心の悪しきものが、この中身を持ち去ろうとすれば、必ずや裁きを受けるであろう』
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。