★第三話★
私が頭の中において管理職論のようなものを次々と並び立て、密かな自己満足に浸っている間も、フロアの左側の壁際に設置されている中型のテレビからは、いわゆる竹やぶ一億円遺棄事件の続報が次々と報道されていた。このフロアの多くの部員は、すでに始業時間に入っているというのに、テレビを消して仕事に集中する、という当たり前の行為を選択するつもりがないらしい。ワイドショーを牛耳る司会の女性の金切り声が、ここまでキンキンと届いてくる。このような状況では、こちらとしても、完全に無視を決め込むのは難しい。硬派な表情を決して崩さぬように留意して、ちらっと横目で画面を見ると、そこでは一億円発見者の一家が、玄関先に横一列に並ばされ、報道陣からの矢継ぎ早の質問に答えていた。一億円を意図せずに発見してしまってからの数日間は、おそらく、何度となく同じような悪意を含んだ捻りのない質問をぶつけられていることだろう。世間一般の人々としても、この一点だけは、大金の発見者たちに心から同情してやりたいところであろう。誰にも知られることなく、札束を懐に仕舞えるのであれば、それに越したことはないし、それ以外の選択肢は、どれも厄介な解決策を見出さねばならぬものばかりである。
「仮定の話になりますが、このまま、もし、落とし主が名乗り出なかったら、あるいは警察の捜査によって、遺棄者が発見されなかったら、この一億円という大金は、全て、あなた方のものになるわけです。その場合、このお金をどのようなことに使いますか?」
老年の主婦は、無作法な記者から、そのようなことを尋ねられていた。たいそう困惑した表情で、どもりながらも、次のように回答していた。
「そ、そうですねえ、それはもう、それはもう、例えば……、これが見つかったときに、みんなで話していたのは……、ハワイやグアム島への海外旅行ですとか……、東京に最新のマンションも買ってみたいなんて思っているんですけど……」
「それでは、拾ったお金を自分の欲望の限りに散財してしまうことについて、罪悪感のようなものは少しも感じられませんか?」
報道陣から、冗談混じりのこんな質問も飛び出したが、このような突っ込んだ問いかけには、発言者の悪意を感じないわけにはいかなかった。だいたい、万が一、例の一億円が法的にこの一家のものになったとしても、その金を利用して、何を購入するかについては、わざわざ、マスコミを通じて世間に公表する必要はないからだ。こんな脅しに近い問いかけに答える必要などない。無慈悲な問いかけに返答するのが嫌なら、黙秘でも構わないと思う。『もし、あんたが道の上で金銭を拾ったとしたなら、そのことについて、いちいち罪悪感なんて感じているんですか?』とでも、返してやればいいと思うのだが、全国中継のテレビカメラを向けられている以上、国民の多くの目が見ているわけだ。そんな他人の気持ちを逆撫でしかねない発言は、なかなか出来ないものなのだろう。
「そうですねえ、まあ、もし、どなたかの、大切なお金だったとしたら、きっと、ゴミ捨て場には捨てないでしょうし……、これは神様からの贈り物なのだと思って、大事に使わせてもらおうと思います……。私たち一家も、もう二十年以上にわたって、このゴミ捨て場から、一番近くに建つ家に住んでいますのでね……」
記者の質問自体も非常にレベルが低いが、拾った住人一家側も、こうまで図々しく『拾ったのは私たちだから、これは自分たちのものです』と答えられるのだから、相当肝が座っているのだろう。普通、これだけ名のある報道機関に所属する、報道陣の群れに取り囲まれたら、もう少し萎縮してしまいそうなものだが……。もし、私が……、いや、あるいは、我が家の誰かがこの大金の拾い主だったとしたら、いったい、どのような反応をしていたのだろうか?
そこで薄暗い気持ちに光が射したかのように、思い出した光景があった。それは、この私も今朝方、自宅近くの森の中のゴミ捨て場において、素性の知れないトランクを発見していたこであった。あの中身が、大量の札束だと想像することは、まるで御伽噺のようで、絶対にありえないのだろうが、世間をにぎわす大事件の後には、愉快犯による似たような模倣事件がやたらと続くと、週刊誌などで、ことわざのように繰り返して言われることもある。トランクの中身はどうせゴミだろうと、単純思考によって、最初からあきらめない方が良いのかもしれない。そう考えていくと、テレビの雑音に心の奥まで踊らされるように、落ち着かない気持ちになってきた。やはり、少し会社に遅れたとしても、中身がいったいどんなものであるのかを、しっかりと確認してから、電車に乗れば良かった。そうすれば、テレビの中に映るスタジオで陽気にコメントをしている芸能人たちが、いかに騒ごうが、他人事だと大笑いしようが、心を乱されずに仕事ができたというのに……。もし、今日仕事に取り組んでいる間に、第三者に先を越されてしまい、現金一億円以上の大魚を横取りされたとしたら、それこそ、悔やんでも悔やみきれない結果になるのかもしれない。例え、中身が札束や貴金属ではなかったにせよ、こちらの目でしっかりと確認できないままに全てのトランクを持っていかれてしまうと、後々、かなりの後悔を産むことになる。
色々な思いがよぎったが、一番後悔していることは、例のトランクを守っている、鍵のタイプを確認して来なかったことなのだ。頑丈な鍵が付いていただろうか? それとも、暗号で開けるタイプの鍵だったろうか? もう少し、よく見てくれば良かった……。鍵がどういう状態かによっては、次の選択肢だって生まれたかもしれないのに。もし、あれが鍵などかかっていないトランクであり、ゆっくりと開けてみると、その中には……。多少、心を揺らされる展開にはなるわけだ。
この瞬間にも、何者かがトランクの中身に手をつけているかもしれない。姿かたちの想像は出来ないが、彼がもし、巨万の富を手に入れたなら、この一件において、一番の間抜けは私である。相手より先にその存在を知っていながら、完全に出し抜かれてしまった、愚かな自分の姿を想像するたびに、集中力は途切れ、仕事の手は必然的に止まり、頭の中を無数の札束が浮かんで行ったり来たりしていた。例のトランクのことをぼんやりと考えながら、丸一日仕事をしていたため、くだらないミスを二回も出してしまった。まあ、二回とも、書類の名前欄にハンコを押し忘れた程度の、ケアレスミスだから、周りの人間には、自分の心境の変化について、不審がられることはなかったと思う。しかし、入社したての部下からも、ミスがあるとの指摘を受けてしまったため、プライドは多少傷つくことになった。
仕事は少々の残業時間を得て、午後八時過ぎには無事に終わった。電車を順調に乗り継ぎ、数分の遅延もなく、いつものように道草も食わずに我が家の前についた。自宅の玄関をくぐる前に、やはり、トランクの状態を確認しておきたかった。どうしても、あの中身が気になるのだ。もし、頑丈な鍵がかかっていたとしても、どうやっても開かなければ、それはそれで諦めがつくわけであるし……。私はなるべく足音を立てずに、慎重にゴミ捨て場に近づいた。辺りはすっかり宵闇の静けさに包まれていた。姿を見せぬアオサギがひと声高く鳴いた。それに呼応して、いつものウシガエルの合唱が聴こえてきた。それは『早く開けろ、早く開けろ』と私の心に呼び掛けて来る。拘置所の内部のような、冷酷な雰囲気が漂っていた。幽霊には好かれたことのない私でも、そこには一種の霊気を感じないわけにはいかなかった。近づいていくたびに、何か得体の知れないものに手招きされているような気がした。だが、内心では底知れぬ欲望が恐怖に打ち勝っていた。
『おまえだって、テレビ番組に映し出されていた、例の一家を、あれだけバカにしていたじゃないか。自分のいやらしい行為については、欲望を優先させてもいいと説明するのか?』
そんな罵声を浴びせて来る人間にしたって、自分の鼻先に数億円が突きつけられた日には、全ての考えが変わるに決まっている。物欲、性欲、食欲のほぼ全てが解決できる金額である。この状況に直面して、動揺しない人間がいるとは思えない。自分の人生が思いもかけぬ大金を得るという可能性を、薄々と感じ始めていた。どれだけ理性的に努めようとしても、酔っぱらったような浮ついた気分になるのは、仕方のないことだろう。この大金を巡って、この身に多少の危険が迫ったとしても、その奥まで手を差し込むつもりでいた。例え、ライバルが迫っていても、この段階において、金を置いて逃げるという選択肢は全くなかった。
『先にトランクを開けた人間に優先権がある』
私の心はいつしか、その不思議な法則に捉われていた。朝になってしまうと、他人の目に触れる可能性がある。中身を確認するなら、今しかないと思っていた。なるべく慌てずに、スーツの胸ポケットから、災害時用のペンライトを取りだした。もう一度、周りに誰もいないかどうかを確認した。いつの間にか、虫や野鳥の声すら聴こえなくなっていた。この森に潜む、全ての存在が私の行為に注意を注いでいるのかもしれない。トランクは全てが同じ型で、その造りも思ったより単純な構造であった。飾り気がなく、旅行者用とは思えず、資材などの荷物運搬用に開発された物と思われる。私は自然な動きで、一番上に積まれていたトランクの、鉄製の取っ手をつかみ、ゆっくりと蓋を持ち上げてみた。鍵はかかっていない! その瞬間の冷徹な判断力を、この先もずっと忘れることはなかった。凹凸がなく丁寧に積み重ねられた札束の一部が隙間から見えたのだ。前頭葉を完全に凍り付かせていくような冷気が走った。『自分に今訪れた、この瞬間は何だ!』それとも、誰かが自分の地位や品格に嫉妬して、あえて陥れようとしているのか? 私の最初の反応はそのようなものであった。無理もないだろう。決して長くはない、たった一度の生涯において、いったい、どのくらいの人間が、このような奇異な体験に巡り合えることだろう。
「今時分、ここでどうなされました?」
突然、背後から鋭い声をかけられた。泡を食って、反射的にトランクの蓋を閉めた。その声色には明らかに聞き覚えがある。隣家に住む、片目の不自由な老婆の、くぐもった声と思われた。振り向く必要すらなかった。周囲には十分に気を使っていたつもりだが、トランクや札束に神経を集中させている間に、背後から近づかれてしまったらしい。老婆の悪意のない挨拶に驚いたというよりも、すでに自分が悪いことをしてしまったような気になって、うまく反応できなかった。まだ、札束に手をつけたわけではないのだから、もう少し堂々と対応できれば良かったのだが。
「何をなさってるんですか? そのトランクの中には、何も入っていませんよ」
老婆はその一言を言ってしまうと、それ以上、私のしている行為に興味もないようで、すぐに立ち去ってしまった。彼女のセリフは明らかに嘘である。今、この目で確認した通り、このトランクには相当な量の札束が詰まっているではないか。だいたい、目がまともに見えないのに、内部の詳細を確認できるわけがない。嘘をついているのか、何か他のものを調べた経験と勘違いしているのか、だ。ただ、相手が間違っているということを、こちら側から、わざわざ指摘してやる必要もないだろう。しかし、その正しいはずの考えにも、少しの罪悪感は感じた。さて、胸は高鳴るが、これから、どういう展開が待っているにせよ、自分の両足が大変な泥沼にハマってしまったことは確かだ。
『再び、数億円の現金が発見される!』
このことが公になれば、私も警察やマスコミに捕まり、根掘り葉掘り事情を聞かれることになるのだろうか? 札束を目にしてから時間が経過するごとに、私は次第に怖くなってきた。先ほどまでの、自分だって大金を得る機会があっても良い、といった自己中心的な気持ちは、相当に薄れてしまっていた。今や、第一発見者の権利を誰かに譲れるものなら譲りたい気分になりつつあった。すでに、この場から、走って逃げることさえ、難しく感じられた。自分が今、この事態の重大な岐路に立たされていることは間違いなかった。自分の心が窃盗などの悪い方向に流れていくことが怖くなり、ひとまず、ゴミ捨て場を離れることにした。私は辺りの様子を伺いながら、ごく自然な態度で、少しずつ、その場を離れていき、何食わぬ顔で自宅に入った。心を落ち着けてから家族に会おうと思い、いつもよりも多くの時間をかけて、玄関で靴の泥を払った。結局、妻にも娘にも何も伝えなかった。あの大金が誰のものになるかなど、取りあえずはどうでもいい。この周辺が大騒ぎになることで、平穏だった日常が破壊されていくことの方が何より怖かった。
晩御飯を食べている時も、三人そろってテレビを見ている時も、努めて平静に振舞った。『とにかく、紙幣を別の場所に確保すべきだ』『早めに通報しなければ、犯罪になるぞ』『こんな森の中でのことは、どうせ、バレやしない』思考は同じところを堂々巡りしていた。ただ、家族との当たり障りのない会話で盛り上がっていると、先ほどトランクを発見したときの感情の高ぶりについては、記憶の中で徐々に霞んでいくような気がした。そうだ、今思えば、あれは悪しき夢だったのかもしれない。それとも、仕事で想像以上に疲れていて、幻覚を見たのかもしれない。それとも、どうしても大金を手にしたいという、私の心に潜む、単純な願望であったのかも……。
夜は更けていき、私は明日の仕事に備えて、早く布団に入った。脳が眠りを受け入れるまで、冷静になって考えてみることにした。まだ、脅える必要は何もない。法律に照らしても、何も悪いことをしているわけではない。トランクの五つすべてに、同様の札束が入っていると決まったわけでもない。先ほど目にしたのは、子供たちがおままごとで使う、おもちゃや、あるいは裏社会から流れてきた偽札かもしれないわけだ。しかし、あのトランクの厚さからすれば、中身がすべて本物の札束であると仮定した場合、総額で六億円くらいはあるだろうか? 私の見たものが真実であった場合は、とりあえず、警察に届けた方が良いのだろうが、そういった冷静で正しい行動を取ったにせよ、マスコミ各社に知られてしまうのは時間の問題なのだ。なにせ、竹やぶの一億円でさえ、あのお祭り騒ぎだ。ゴミ捨て場に六億となったら、日本中がひっくり返るような大騒ぎになるだろう。おそらくは、五十年に一度の珍事件となる。仮にトランクの中身の全てが、本物の札束であった場合だが、数億円を自分の懐にちゃっかりと入れておいて、それでもなお、テレビや新聞に自分のプライバシーを掲載させずに、やり過ごすことは完全に無理だろう。とりあえず、早い段階で警察に届け出た方が良いのだろうが、そうなると、私や家族のプライバシーが、マスコミに知れ渡るのも時間の問題になる。しかし、中身が中身だけに、あのトランクの存在を無視することも出来ない……。これからの自分にとって、どの道を選択すれば良いのかを考えていると、だんだん、顔が熱くなってきた。身体は疲れているはずだが、気分が高ぶって、なかなか眠れない。今夜、他の誰かが、あのトランクに近づいていくかもしれない。明日の朝、あのトランクたちがなくなっていたらどうしよう?
私はまんじりともせず、隣の布団で横になって分厚い本を読んでいる妻に冗談交じりに尋ねてみた。
「なあ、もし、うちのすぐ近くにあるゴミ捨て場に大金が捨ててあったとしたら、おまえはどうする? どう対応をする? もちろん、例えばの話だよ」
私にしては少し思い切った質問だった。妻はこちらを向いて、少し呆れたような顔で答えた。
「そんなの決まっているでしょ。まず、警察に届けないと」
長年にわたり連れ添ってきた彼女は、本来どんな人間も持ち合わせているはずの、野望や願望にはまったく無縁の、実につまらない女なのだが、その返事にしても、こちらの思っていた以上に冷静だった。
「そうだよな……、まず、警察だ……」
妻は私の質問の真意を、まだ測りかねているようだった。もちろん、この段階で、私が数億円入りのトランクをすでに発見していて、しかも、それを周囲に隠し通そうとしている、などとは勘ぐるはずはない。妻は読んでいた小説に向けていた集中を、すっかりかき消されたようで、私の意図せぬ質問にいくらかの注意を向けてきた。しばらくの間、不思議そうな顔をして、こちらの様子を伺っていた。
「あなたもようやく、あの竹やぶの事件に興味を持ったの?」
彼女は私の表情の変化を伺うように、そう尋ねてきた。どう切り返すべきかわからず、返す言葉がみつからなかった。『自分の身に迫ってくると、考え方や対応の仕方が変わってくる』と答えてやりたかったが、それとて、真実の一部を明かすことになってしまうので口に出せなかった。
その後もしばし眠れず、朦朧とした意識の中で『私のトランク事件』について考えていた。自分がもし想定外の大金を手に入れたとしたら、今後の生活はどう変わっていくのだろうか? 人格や他人への対応も少しは変わるのだろうか? これまでの半生では、金融業や不動産業など、金を増やすことだけに執着している、ケチな連中を心の中ではあざ笑いながら生きてきた。こんな自分にも守るべき財産ができたとしたら、欲望だけに向かってひた走る、他人の愚かな行動を、笑えなくなるかもしれない。今抱えている、いくつもの悩みを思えば、この私にだって金は必要なのだ。そう考えていくと、いつしか、気持ちは追い詰められ、胸が高鳴って、ますます眠れない。こんな総毛立つような不安と緊張感は初めてだ。この十数年間、遠出の旅行や高級品の買い物などを一切せず、普段の食事にも、街へ着ていく衣服にも、贅沢などあり得なかった。蟻のように地道に一円ずつ貯金を積み立て、地味に質素に生きてきたつもりである。そんな私でも、実際は、心のどこかでは、数億円という大金を手にしてみたいとの願望が密かにあるのだろうか。しかし、それでは、テレビのワイドショーのくだらないひとコマを見て、手を叩いて喜んでいる俗物たちと変わらないではないか。人生の道は、出来る限り堅実な道を選択していくべきであり、決して、ピエロになってはならない。『あのトランクの中身が、全て本物の紙幣であった場合は、生涯最大の試練になる』楽な方向には避けて通れない。今回のことも冷静に対応しなければ……。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたのでぼちぼち公開していきます。