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拾えない札束  作者: つっちーfrom千葉
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★第十八話★


 普段なら、魍魎がひしめき合うはずの通勤車両に今日も踏み込んだわけだが、つり革の前にずらりと居並ぶ乗客たちが、そこまでの恐怖や拒絶反応を、こちらに向けて示すことはなかった。もちろん、それは今日に限った、ただの偶然かもしれない。我慢せねばならぬ程度の押し合いはあり、車内を見渡せば、それなりの混雑状況ではあるのだが、なぜだろう、楽園とまでは言わないが、身体を揺さぶられても、肩を強く押されても、その相手を敵とみなすような感情が高ぶってくることはなかった。心中は平静で清く感じられ、さっぱりとした、落ち着いた意識の中にいた。


 他人の反応や表情や、一つひとつの仕草に対して、いつも以上の研ぎ澄まされた観察眼をもって接することができた。日常的に展開される、この自分の位置を占めることすら困難な、芋洗い状態の中で、曇ってずれたルーペによって、他人の一挙手一投足を評価すれば、それはもう、乗客のすべてが素行不良に見えるのは当たり前のことだ。他人を正しい目で見るためには、まず、自分が落ち着いた心を持たねばならない。この卓越した平常心の原因は、ついにそれを取得する権利がこの手に渡ってきた、あの大金の存在にあることはすでにわかっている。もう間もなく、自分が資産家へと生まれ変わるのは当然であるが、血脈や家柄まで変わってしまうような気がした。先祖代々、自分は恵まれた存在であったかのような……。『金持ち喧嘩せず』という言葉は、常にその是非が議論されることで有名な故事ではあるが、実際のところ、金満家を戒めるために、テキトーに創られた言葉ではなく、ほとんど真実のみで構成されているのだと、はっきり理解できた。世間一般の俗人を蔑み、嘲笑ってきた、実際的で、しかも倹約家であるはずのこの私でさえ、実はどこかで他人の細かい判断や行動に、いちいち目くじらを立て、ある意味では、その分に合わぬ成功を妬み、憤りを感じていたのかもしれない。


 しかし、私はついに変わった。然るべくして変わったのだ。企業社会に生きるすべての労働者が『自分以外』という一緒くたの存在に変わったのだ。うらやむのなら我のように決定機をものにするが良い。真理を得たいのなら、毎日のように地べたを這うような、つまらない存在から脱したいのなら、自分の価値そのものを変えたいのなら、もはや、あらゆる手段を行使してでも、金を得るしかないのだ。


 しかし、世間はいまだに俗っぽい、くだらない事件の推移に神経をとがらせ、心を奪われていた。車内における他人同士の会話に、いちいち聞き耳を立てるつもりなどないが、この近距離内にこれだけの人数が押し込められいる状況では、どうしても、その耳障りな言葉たちがこの耳まで届いてくる。乗車口にもたれかかって真剣に話している、若々しい黒いスーツを着込んだ、二人の若い会社員。あるいは、時折、思い出したように甲高い声で笑いだす、外見からして九官鳥のような、二人組のOL。あとは、私の背後にも姿こそ確認できないが、おそらく、つり革に掴まった、三人組の初老の会社員の存在があった。この三人については、口ぶりや会話内容からして、ある程度の地位にはある人間なのかも知れないが、その会話の内容は、他の低俗な乗客たちと大して変わらないものだった。


「しっかし……、あんなことがあると、空き地や道路わきに捨てられてる、破れたバッグやスーツケースなんかも、いちいち、中身をチェックしていかないといけないよな……」


「うん、九分九厘無駄な行為だとわかっていても、もしかしたら……って、思うようになったもんな。俺も今日の朝、玄関わきのゴミ捨て場で、水色の半透明の中身が見えにくいゴミ袋があったから、一応開いてみて、中身を確認してからきたよ。帰宅してみて、マンションの周りにマスコミが充満していたら、たまらんものなあ……。悪いとこどりになっちゃうよ……」


「ねえ、こないだ、飲んだとき、たしか、五千円貸したよね? いや、あはは、ちがうって、すぐに返せとか、そういうことじゃないよ。ただ、いちおう、確認してみただけ。お金できたら、考えてね」


「うんうん、もちろん、だいじょうぶ、だいじょうぶ。記憶力いい方だし。親にもね、じつは言っちゃったの、電話でね、『もう、きのう、女子会でぐっだぐっだになるまで、やっちゃってさあ、ジョッキ7杯、赤ワイン6杯! んで、外に出て、タクシーで帰ろうとしたら、財布がからだったのよお、だから、ともだちにお金かりちゃったあ……。ああ、そうだね、心配いらない。給料日もうすぐだから、それでかえせるよ。でも、あはは、もしかしたら、きんじょの竹やぶで、たくさんのおかねひろうかもしれないし……』みたいな話したよ、ねえ、そうだよね、まあ、今はどこのだれも、そんな話をしてると思う……」


「検察が(強制捜査に)踏み込む可能性はありますかね……?」


「まあ……、それは(あの会社の内部が)どこまで見えてるかでしょ? あれはねえ、省庁まで絡んでいるので、かなり、捜査となると微妙な問題になりますけど……、マスコミに散々撮られてますからね……。放っておけないとなれば、可能性としてはあるでしょうね……」


「まあ、最初は黙って見てたけど、ここまで話を大きくされちゃうとね……。今回は動かざるを得ないでしょうかね……。自分たちの方でも、かなり掴んでいたネタでしょうから、検察としては癪でしょうけどね……」


「ふふ、またしても、『マスコミに食わせてもらってる』みたいな構図になっちゃいましたね……」


「うん……、まあ、ただ、彼ら(マスコミ関係者)も、それを必死に追いかけて飯を食ってるわけだからね……。別に何もないところに焚火を見つけたわけではない……」


「結局、アレを見つけた人は、まったく関係のない方向で、権力に奉仕するという形に……、なっちゃったのかな……」


 私は移動に電車を使うときには、煩わしいトラブルを避けるために、新聞や雑誌はあえて読まないし、わざわざ、この時間を利用して他の媒体から情報を得ようとも思わない。通勤時間とは、気を休めるだけの時間だと割り切っている。ただ、一般の社会人の多くは、つり革につかまっているだけの時間を、不毛であると捉えて、できるだけ有用に活用したいとの考えからか、他の乗客への迷惑など顧みることもなく、両腕をわざと大きく拡げて、新聞や雑誌の記事を隅々まで覗き込み、マスコミが垂れ流す、きわめて不正確で無責任な情報を得ることに躍起になっているわけだ。そういう形で得られた歪んだ情報は、私に言わせると、ほとんどノイズでしかないわけだ。正当な知識を汚染する、おじゃま虫と表現しても良い。しかし、自意識を保とうと、この耳を塞いでいても、否応なく、周囲の乗客たちによって交わされる不必要な対話は、まるで小学生が行う伝言ゲームのように、明らかに間違った情報や認識を、あえて、この耳に伝えようとしてくる。


 脳内を巡る、いくつかの思考の中で、突然、今朝聞かされたばかりの、ある不可解な現象のことを思い出した。つり革と共に前後左右に揺れる身体は、このことを思い出したとき、皮膚が冷風に吹き付けられたかのように固まった。


『警官たちがトランクの隅に挟まっていたと主張した、不可解なメモは、いったい、誰が書いたのであろうか?』


 交番でそれを見せられたときも、当然、頭を働かせて、それを突き詰めようとは思っていたのだが、あの短い時間では、正確に説明しうる答えは出せなかった。途方もない大金の遺棄と、メモによる取得者への脅迫とを短絡的に結びつけることはできない。だが、今回二度目の発見があったことで、少し強引にでも、この二つの事象を結びつけて考えなくてはならなくなった。つまり、このトランクをわざわざ遺棄していった張本人は、一般人が生涯かけても手に入れることなど出来ないような大金を、容易に手の届く場所に、見せびらかすように放置しておきながら、逆の手においては、それを発見した人間の行動を制約してやろうと脅迫、もしくは挑発するようなメモを、わざわざ残していったことになる。もし、ゴミ捨て場に捨てられていたのが、弾丸が込められている拳銃や、百万円程度の札束であれば、きわめて幼稚なイタズラや、安いテレビ番組の企画ともとれるのだが、今回は額が額である。『俺が置いていったトランクの中身の大金に興味を持ったら、殺すぞ』という意味にもとれる、脅しの文言には、かなりの真実味がある。


 だが、これを書き記した本人が、あの現場において、始終見張っているわけではなかったので、その意図はまったく見えない。本人が大木の陰から、トランクに近づいて来る者を見張っていたのなら、そもそも、メモ書きは必要のないことになる。自分で脅すなり、その愚行を笑い飛ばすなりすればいい。常識ではおよそ考えられぬほどの大金を衆目に晒しておいて『黙って持っていったら殺す』というのは、金を持て余した資産家の基地外沙汰としても到底考えにくい。私の信条でもある、『金持ち喧嘩せず』のロジックとは、まったく相容れぬものだ。熟慮に熟慮を重ねてみても、犯人の意図は不明瞭であり、この段階で結論を出すのは難しく思えた。


 電車は目的地に着いたことで、ようやく、その扉を開き、待ちかねていた多くの勤労者をすし詰めの牢獄から解放することにした。私も仕方なく考えを止めて、列の一番後ろにつき、他の乗客に倣って電車から降りた。時計は八時四十五分を示していた。私をなんとか焦らせようとしているように思えた。勤務先へと向かう、多くの人が朝食などの買い物を駅構内で済ませて、自社へ向けてのラストスパートなのか、暗い駅構内から外界の光に向かって、一気に駆け出して行った。駅を出てすぐの街頭ビジョンの前には、通勤途中と見られる、数人のサラリーマンが群がっていた。何の気なしに、画面を覗くと、民報のニュース番組であり、『竹やぶでの一億円発見から、今日で一週間』の大見出しが見えた。始業間近にも関わらず、足を止めた会社員たちは、そのほとんど変わり映えのしない情報たちを、ほとんど力なく、虚ろな表情で、砂漠での遭難最中の、あり得ぬ蜃気楼でも見ているかのような、呆然自失のふるまいで眺めていた。『おそらくは、誰かが私を騙そうとしている』という、目に見えぬ不安に取りつかれていた私は、その奇妙な情景に何の感想も見い出せず、通り過ぎることになった。


 始業時間には、すでにぎりぎりであるが、長年同じ道を通勤している体験から、このくらいの猶予があれば、遅刻にはならないであろうことは、わかっていた。九時三分ほど前に、無事に会社に辿り着き、ほとんど意識もなくタイムカードを押した。階段を登る途上で、今日も嫌な予感が湧いてきた。多くの社員が低俗で曖昧な情報を求めて、テレビの前に群がり、あの事件の顛末に一喜一憂している姿が再び脳裏に浮かんできた。あの得体の知れない一億円が、どのような結末を用意したとしても、私はすでにそれほどの興味を持てなくなっていた。新聞やテレビのニュースから、いい加減、この話題をそっくり取り除いて欲しいと願っていた。不労所得により、大金を得てしまったという事件を、どんな丁寧な形で報道しようと、あらゆる分野の人間にとって、有益な情報になるとはとても思えないからだ。どんな方面の問題であっても、そうだろうが、自分があまり興味を持てない話題について、普段は目を向けないはずの人種に大盛り上がりをされてしまうと、本当に不快な気分になる。このまま、このバカ騒ぎを放置しておけば、自分の社会的道徳観まで良くない方向に変えられてしまうような気がするからだ。


 しかし、今日のところは、すでに始業時刻が迫っている。廊下で立ち止まり、ぐずぐず考え込んでいる時間もない。私は多くの隠し事を胸に秘めて、平静を装いながら、フロアへと踏み込んだ。最初の印象は不気味なほどの静寂であった。多くの社員が入り口方向に背を向けていた。不意に、フロアの奥の方で、誰かが天井を貫くような叫び声をあげていることが分かった。比較的平穏に思える、うちの会社ではあり得ないことに思えたため、最初は気のせいかと考えた。私はその異変にいくらか気を留めつつ、「おはよう」と、皆の方に声をかけた。返事は一つもやって来なかった。さてはと思って、左手奥のテレビのある方にも目をやったのだが、いつもは若手で騒がしいその付近にも、人影は見えなかった。そのまま進んで行くと、この入り口付近から、いくつかの衝立を挟んだ、休憩室にも近いテーブルの脇に多くの部員が集まっているのが見えた。叫び声とも泣き声ともとれる、甲高い女性の声は、そちらの方から聴こえてきた。


「黙ってないで、いい加減、返事をしなさい!」


 今度ははっきりとそういっているのが届いてきた。自分のテーブルに鞄を置くと、私はすぐに現場に向かった。ここまで近づいて、うちの部所の若き係長金沢さんが、声の主であるとわかった。怒鳴られている側は、案の定、平岡だった。顔を真っ赤にして激昂する管理職から、激しく詰め寄られてはいるが、持ち前の図々しさを発揮して、何の謝罪も返答もせずに、『この余計なイベントが、早く終わってくれればいいな』という内心が、はっきりと透けて見えるような表情だった。勉学や仕事において、『手抜き』を最大の信条とする、こういうタイプの輩は、説教や叱責というものを受け流そうとしか考えないものだ。社会人としては許しがたい態度であるが、この広い社会においては、決して珍しいタイプではない。実際に、こういう愚かで卑屈な人間を、もう何人も見てきた。金沢さんはそんな奴の心中が、よく見えているからこそ、余計にその繊細な神経を逆なでされて、説教の時間を無駄に延長されるごとに、怒りを増しているのだった。


 ここで簡単に紹介しておくが、この金沢係長は何ごとにおいても、きわめて冷静沈着で、しかも、冷めているわけではなく、難題に直面しても、知的な対応ができる。その上、他の社員に対しては、どのような局面でも、分け隔てなく、おおらかに接することで知られ、このような想定外の事態は、まったく予測できなかった。よほどのことが起こっているのだと、見て取れた。私はまず、素早く左腕の時計を見た。まだ、始業までには、若干の猶予があることを確認した。金沢さんに歩み寄り、彼女にしか聴こえぬように配慮しながら、声をかけた。


「ちょっと、いい? まだ、仕事の前だからね。こういうのは、まずいからね」


 なるべく、相手に反論の余地を与えぬように、声のトーンを落とすことにした。このまま周囲にはばからず、怒鳴り続けていても、彼女にとっては決してプラスにならないだろう。金沢さんは私の言葉で正気に返ったようだ。その尖った目を愚か者から逸らして、そのまま私に向けた。もちろん、今のまずい状況を鑑みる冷静さを持っていた。多くの社員の眼前に、二人の不和を晒してしまったのも不味かっただろう。平岡の馬鹿さ加減も、そろそろ、放っておくわけにはいかない。何とかしてやらなくてはなるまい。私は次いで平岡の方にも視線を向けた。


「仕事が始まったら、二人とも、第一会議室に来てください。少し、話をしましょう」


 そう声をかけてやると、鋼鉄製の首輪を外された狂犬のように軽快に動き出すと、平岡は何事もなかったかのように自分の席へと戻っていった。自分より若い女性から罵声を浴びせられたことによって、心中に深手を負った様子は、まるでなさそうだった。彼女の怒声によって、周辺から興味の視線をそそいでいた観衆たちも、私の存在を知ると、あわてて自分の席へと引き返していった。部長が急を聞いて、駆け寄ってくるのが見えた。私は右手を挙げて、その接近を制した。


「九時から、今の件で少し打ち合わせをしますので、お時間を頂きます。部内の業務報告の方は、そちらでお願いします」


 いまだに事態を受け止められず、呆けている部長に向けて、私は冷静な態度でもう一言付け加えた。


「いや、本当に大したことではないんです」


 時を置かず、始業を知らせるチャイムが鳴り響いた。想定外の出来事に動揺を隠せない、いくらかの社員は、今後の推移をぜひ見守りたい、という興味心からか、なかなか仕事に取り掛かれないでいた。始業ぎりぎりにタイムカードを切って、息を乱して入室してきた多くの社員は、まだ、この複雑な事情を知らされていないために、部内の異様な雰囲気を見て取り、さらに動揺しているように見えた。


「はい、もう九時になりました。今日もいつも通りに、仕事に取り掛かりましょう」


 私は皆の目を覚ましてやるために、あえて、大声でそう呼びかけた。この件に関しては、余計な詮索をしないようにとの警告を発する思惑があった。私や金沢さんの様子をちゃっかりと伺っていた、いくつかのハイエナのような視線は、今の警告を帯びた言葉によって、ようやく追跡をあきらめたようだった。二人に目で合図をしてから、私は第三会議室の鍵を開けて、その中に入った。会議室には大きな八人掛けのテーブルがあったが、そこを使用するのではなく、窓のそばにある向き合った、肘掛け椅子に二人を座らせた。


「では、ここで先ほどの続きをやりたまえ。ただ、どのような事情があるにせよ、感情をあまり表に出さないように。出来事を時系列に並べて、できる限り論理的なやり取りをお願いします」


 私は金沢係長にそう声をかけた。彼女は少し戸惑った様子を見せた。すぐには言葉が出て来ないようであった。課長である私を差し置き、自分がこの場を取り仕切って良いのだろうか、という遠慮がちな思いがあるようだった。


「うん、いいから、君が平岡君への質問と通告とをしてください。私はここで聴いているから」


 私は彼女に対して、再びそう声をかけてやってから、机の上にB5のノートを置き、メモを取る準備をした。金沢さんは森岡の方を向き直り、再び、あのときのような厳しい目で睨みつけた。


「では、もう一度伺いますけど、先週、柏の製本所へ見学に行った際の感想文を、いまだに提出していないのはなぜですか?」


 平岡はその質問を聞かされても、さして重要なこととも考えられない様子で、すぐには返答をせず、両眼をぱちぱちとさせながら、右手で何度か髪をかきむしり、その後、窓の外の代わり映えのしない風景に目を移した。彼にとって、この問題は重要ではないことのようだった。


「さあ、特に理由とかはないですね……。やっぱり、仕事の方に集中しなきゃと思っているので……、感想文くらいに多くの時間は使えないですね……。単に忘れました、としかいいようがないですね……」


「研修に参加をしたなら、感想文を書いて提出することも、大切な仕事の一環です。では、書くことを忘れているんですか? それとも、会社に持ってくることを忘れているんですか?」


「さあ、どうなんすかね……。もう、相当前の話ですからね……。感想なんて、書いたっけかな……? まあ、用紙が家にあるのは確かです」


 そのだらしない返答に気持ちが反応したのか、金沢さんの声が上擦り始めた。


「あなたは先日、課長の問いかけに対して、『感想は書いてあるが、家に忘れてしまった』と報告していますよね? では、書いてあるんですよね?」


「う……、うーんと……、まあ、それは言葉の綾でして……、実際は、まだ、書いてません」


 平岡はこの息苦しい場をうまく切り抜けるために、どのような判断したのかは、わかりにくいが、結局のところ、そのような、ふてぶてしい態度で回答をした。自分のプライドをなるべく傷つけられずに、修羅場を切り抜けたい、という小物にありがちな思考が出てきたようだ。


「それは、課長に対して、嘘をついたということですか?」


「嘘じゃないです……。そういうふうに言っておいた方が、人間関係が円滑にいくかな……、と思っただけです。そういう小さなミスで、いちいち怒られてたら、仕事にならないと思ったからです……」


「では、怒られたくないために上手くごまかした、ということですね? 法律も常識もわきまえない高校生くらいなら、その発言も笑って許されるでしょうけど、平岡さんは社会に出てから、もう十五年以上経つんですよ。自分の労働と引き換えにお給料を受け取っている以上、規則を守るつもりはない、では済まされないんです」


「まあ、社会人にもいろいろいますから……。労働者全員が規則を守っているわけではないでしょう……」


 平岡はうつむいたまま、なるべくなら相手に聴こえないように、そのような屁理屈を吐いた。一般の企業の社員が、今のようなふざけた言葉を吐けば、社内規則や倫理の観点から、当然、首を切られることになるだろう。ただ、うちの会社は、世間一般とは隔し、労働基準法を遵守する、民主主義経営を標榜している。お得意先にも、官公庁や都庁、区役所などのお堅い名前がずらりと並ぶ。社員の過半数は労働組合に加入している。不良社員のお粗末な不祥事が判明したとしても、簡単には退職させることはできないのだ。それを逆手にとって、『俺はどんな悪さをしても、絶対にクビにならないんだ』などと、反抗的な勤務態度を繰り返すことによって、その情けない主張を体現している者も少なからずいるわけだ。もちろん、これは『なるべく多くの労働者に永年労働を保証するという恩恵を与えたい』という善意によって、組織を動かしている経営や管理職の人間にとっては頭痛の種である。つまり、ユートピアの創造など、現実には難しいということだ。


「あなたは仕事で大小さまざまなミスを犯したり、遅刻や無断欠勤などをするたびに、そのことを『小さなこと』とか『どうでもいいこと』と表現なさっていますけど、社会一般のルールでは、そういう行為はまったく小さなことではないんです。そのような規則を遵守しない、反抗的な精神はいずれ絶対に大きな不祥事を起こすと考えられるからです」


 金沢さんは、こんなでくの坊からでも、なんとか、ことを収めるための反省の弁を引き出そうと、語気をさらに強めていった。管理職とはいえ、自分より遥か年下の女性から、ここまで責められると、さすがに不良社員といえど、反論を続けるのは難しくなってくるらしい。平岡はその顔色をすっかり青くして、沈黙の海に沈んだ。彼は次の明確な反応を示す前に、一度だけ視線をこちらに向けて、私の表情を伺ったが、そこには、『このタイミングで、ちょこっとでも頭を下げてやったら、そろそろ許してくれないかな』という、子供じみた思惑が見え隠れしていた。


 私は自社、下請け、得意先などで、これまで数千人にも及ぶ、様々な種類の会社員に出会い、労働を共にして語り合い、意見をぶつけ合い、その中で一人ひとりを観察してきた。こういう平岡のようなタイプの人間は、何らかの不祥事を起こした際に『自分の過ちを素直に認め、心から反省し、次回の仕事に生かす』などという、企業社会における倫理規範を決して守ろうとはしない。それは概して彼の内部に生まれながらにして潜む、反抗的な精神からではない。仕事自体を拒否しようとする姿勢でもない。管理職を体験したことのない人には、信じがたいであろうが、こういった人種は、自分の情けない勤務成績の中にも、ある一定のプライドのようなものを持っていて、『自分に過ちがあったのかも知れないが、ここで非を認めて、素直に頭を下げてしまったら、沽券に関わる』と頑なに信じているのだ。それゆえに、彼らは上司や同僚たちから、どれだけ怒鳴られ、その下劣な体質について厳しく問い詰められたとしても、改宗を拒む信者たちのように、その謝罪要求を拒み続けるのである。


 私の心中には、平岡を弁護する気など、この段階ではさらさら生まれなかったわけだが、彼が反論できずに打ち沈んでいる間、何の気なしに、その横顔を眺めていた。奴の醜く緩んだその顔には、まったく、何の興味もなかった。だが、私は何らかの神意に導かれ、その目を逸らすことができなかった。明確な言葉で捉えることのできない、何ものかの思惑を認め、『だらしない社員が上司から叱責を受けている』という、きわめて日常的な問題から、しばし、心を解き放ったのだ。


 平岡の一見鬱屈で無益な表情の裏側には、私の今後の人生をより活かすための方策(それは、あのトランクの問題に違いない)の鍵になる、重要な部分が含まれていることが、ようやくわかってきた。ただ、現時点においても、それがいったい何なのか、どういうタイミングで、どのように利用すれば私の側にに有利になるのかが良くわからない。そもそも、人生を左右する大金を賭けてまで、こんな愚か者とつるむ気にはまったくなれない。今思えば、先日、帰宅の途中、駅の公衆トイレの洗面台で例えがたい違和感として感じた、氷の結晶のように小さな閃きと同様のものに思えた。あのとき、私の心をつよく捉えたのは、たしか、鏡台の傍に置き忘れられていた、錆びた剃刀だった。平岡の無意味で憎らしいだけの表情と、使い古された剃刀、そこには一考して、何の共通項も存在していないように思えた。確かに長い人生においては、全く異なる時間に存在していて、目に見える共通点を持たないはずの、二つの事物から、不思議と同じ匂いを感じることもあるだろう。凡庸なる人の目には、まるで感じられなくとも、その二つの事象には、運命という、最も強力で動かしがたい結びつきの上で、確かに重なり合っているといえる。会ったこともない人間と同じ雉に理由もなく見惚れてしまうように、もう二度と出会うはずもない人間と共通の閃き、導き、啓示を得ることだってあるのだろう。今回の場合も、おそらくは、それと同様であり、この自分の頭が、その小さな光を完全に捉えて、確信を持てたのならば、間違いなく、そこには重大な啓示が隠されているはずだ。


 私は金沢による、不良社員矯正への真剣な取り組みからは、しばし心を逸らして、このきわめて小さいが不可解な問題に没頭した。突如として訪れた、この重大な暗示は、この会社内での社員同士による、ありふれたトラブルには何の恩恵も与えはしない。私はこの小さな閃きが導く、正答への道筋を見据えていた。この小さな輝きは、社内の人間関係に関するものや、自分の家族の悩みの解決、あるいは、定年も近づいた自分の航路を、ちびちびと数%ずつせり上げていくようなものでもない。真剣に悩みぬいた数日間を乗り越えて、ようやく、今、心で感じているこの奇妙な感覚は、あの大金の詰まった謎のトランクを手にするという難題を解決へと導く回路に繋がっているはずだ。



 ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。(6月13日 朝)

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