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拾えない札束  作者: つっちーfrom千葉
17/18

★第十七話★


「お父さん、ちょっといいかな?」


 警察の長い説明にすっかり集中を切らしていた私の漠とした思考の中に、巡査からの呼びかけの声が割り込んできた。顔を上げると、二人の巡査の冷たい、まるで軽犯罪でもしでかした、被疑者の表情を覗き見るような疑惑の視線に晒されることになった。そうだ、私はすでに他人が放置していった廃棄物についての相談にやって来た、善良な市民ではなくなったのだ。警察を小バカにするためにわざわざここまで来た、悪質なならず者か変質者、あるいは、仕事をさぼってでも飲み歩く酔っぱらい、最悪の場合は警察機構全体に対して、陰湿な悪意を持ってここを訪れた、偏った思想にかぶれた圧力団体の一員ではないのかと思われているのかもしれない。


「ひとつ聞くけどさ、そのメモの文章は、お父さんが自分で書いたの?」


 相当な確信を込めて、唐突にその質問は浴びせられた。私が突然発生した動揺によって、自分が演じてきた、数々の欺瞞をここで告白して、謝罪へと向かうことを誘導するかのように。残念なことに、私はまだ、この小さな紙片が発する呪詛の言葉に、いくらか心を捉われていて、不覚にも数秒間、彼の冷たい質問に対する反応が遅れてしまった。そのことはさらに悪い印象を与えたことだろう。しかし、無理もなかろう。この不気味な文言は、おそらくは、私自身に向けられたものなのである。こんなものを予期せぬタイミングで見せられて、それでもなお、平静な心境でいられる人間がこの世界にいるのだろうか。


「いえ……、これを書いたのは私ではありません。とにかく驚いています……。本当です」


「じゃあ、そのメモがトランクの隙間に、かなりの長期間に渡って、挟まっていたことは知ってましたか?」


 声色こそ穏やかであったが、この場に居合わせた、三名の警察官の表情は、YesともNOとも答えようとしない、私の曖昧な態度を見るにつけ、徐々に険しくなっていくのだった。私は警察権力に属する人間たちが、生まれながらにして持つ、一般市民が持ち得ないその威圧感に圧されて、なかなか即答できなかった。一度下を向き、いったい、どのような答えが、この場を乗り切るために適切なのかを、しばらくの間、なるべく、視線を動かさぬようにしながら、ぐずぐずと考えていた。


「その紙片を見たのは……、今日この場が初めてです。その文面自体にも、まったく見覚えがありません。そう、そういうことなんです……。もちろん、その文章を書いた人間が意図するところは、私にもまるでわかりません。今まで何度か現場を訪れていますが、私の目で確認した限りでは、そのようなものはトランクには付いていなかったはずです。ええ、それは間違いありません……。それに、私はトランクと相対するとき、常にある種の動揺にあったわけです。当然でしょう。それは他人の悪意ある放置行為に対して、少なからず動揺していたという意味です。冷静な心境において、周囲の状況を観察することなどはしませんでした。そんな小さな紙片が、あの大きな図体の陰に実際に挟まっていたとしても、きっと、この目には入らなかったでしょう」


 巡査長格の警官はそれを聞いて、何度か頷き、少しの理解は示してくれたようだ。だが、その鬼面のような眼光は鋭く、私への疑いはさらに深まっている様子が容易に見てとれた。それは当然だ。警察連中は、このメモは明らかに、私が警察をからかうために、あるいは、何らかの陰謀に巻き込むためにでっち上げた、一連のデマを正当化するための、他愛もないアイテムの一つであろうと推測していて、動揺して震えるこの口によって、いくら詳細な釈明をしようとしても、私の社会的な地位を剥奪し、いわゆる犯罪者群にまで陥れようとする、彼らの疑念を完全に払しょくすることはできないのだ。しかしながら、彼らが私の口の動きを不審の目で見つめ、いちいち疑ってかかることは正当である。なぜなら、昨日の朝早く、この交番に飛び込み、一連のトランク大金騒動を引き起こしてみせたのは、他ならぬこの私であり、それ以外に、この一件を知る関係者は誰もいないのだから。


「我々は意味不明な紙片は除けておき、本題のトランクの蓋を開けました。一段目のトランクには胴回り50センチほど、高さ80センチほどの薄汚れた木材が二本入っていました。二本とも隅の方が少し焼き焦げていました。詳しくは調べませんでしたが、おそらく赤樫だと思います。一般的には安く、用途の少ない資材なので、捨てる場所に困って、ここに放置されたのだと思います。二段目には蛇口の一部が破損した古い水道管。三段目は用途不明の三本の鉄材。長さは15センチほどでした。これは表面から魚介類が腐敗したような異臭がしました。何らかの化学薬品をかけてある可能性が高いです。匂いからすると……、おそらく、メチルアミンとか、アンモニアの系列ですかね。四段目は下半分が泥で占められていて、中央付近に何らかの機械製品の一部、おそらくは旧式の洗濯機などのモーターだと思いますが、それが深く埋まっていました。廃棄されてから、相当の年月が経っているらしく、その表面は、ほぼ錆びついていました。大量の泥のせいか、これが一番重量がありました。五段目の、つまり一番底にあったトランクの中には、大量の砂とスナック菓子の袋、あとは中身の入っていない、ヘアスプレーの缶が入っていました。後で、すべて処分しようかと、内部を箒で払っていると、隅の方の砂の下から、手のひらに収まる程度の小動物の骨が一本出てきました。おそらくは家畜か野馬のものだと思います。これも、ありふれたものです」


 丁寧に話をしてくれた警官はそこで説明を止めた。そして、私の反応を確認するかのように、じっとこちらの様子を伺った。もちろん、この場には気まずい空気が流れていた。私が地面に額を擦りつけて、江戸の罪人のように謝罪をするか、あるいは、狂人を装って、彼の放った現地調査をすべて覆すような暴論を繰り出すか、そのどちらかを待っているようだった。こちらとしては、『本当に六億円の札束は入っていなかったんですか? ちゃんと現地に赴いて見てくれたんですか?』と真顔で尋ねてみたくなったが、とてもじゃないが、そんなことは口に出せない雰囲気になっていた。これ以上、数億円発見の大事件を無理に押し通すならば、こちらが威圧的な態度を何も取っていないにも関わらず、事件性ありと判断され、聴取をとられるような事態になりかねなかった。


「そうですか……、しかし、中身はともかく、あのトランクはかなりの大型ですよね。どのような手段によって、あそこまで運んだのでしょうか……」


 否定や反論を繰り出すのは怖かったので、見解のずれを指摘するのはやめておいた。まずは最大の疑問点をこちらから提出することで、この事件のもっとも難解である部分について、互いの認識を共有しておこうと思った。


「確かに、あのトランクを両手に抱えて、運んでくるとなると、かなりの難儀にはなりますが、ゴミ捨て場にトランクを積み上げるだけなら、そんな馬鹿正直な手段を使わなくとも、十分に可能だと思います。悪質な産廃業者がトラックを使用して、この近くまで大量の木材などを運んできて、遺棄しようとしたが、あまり早くに人目につくとまずいので、付近に遺棄されていたトランクを目に留めて、その中に押し込んだという可能性もあります」


「あの五つのトランクが以前から、この林に遺棄されていたと仰るんですか? そんな馬鹿な……」


「あなたの家のすぐ近くには、大型のテレビだって、放置されていたじゃないですか」


 私の反論を即座に打ち砕くべく、佐藤という一番若そうな巡査は厳しい口調でそう言ってきた。


「トランクの中に入っていたのが、火薬や拳銃などの危険物ではなかったということで、誰が置いていったのか、とか、どうやってあそこまで運んで来たのか、などといった方法論は、もはや、それほど重要ではありません。そもそも、あそこはゴミ捨て場であり、棄てられていた物に関しても、まったく事件性のないものだからです」


 警察のこの主張の正当性は、この事件を現実のお札を目にしていない、向こう側から見た場合のみに適用され、実際にこの目で何度も現金を見てきた私にとっては、まったく受け入れられるものではなかった。警察は先ほど挙げたいくつかの主張によって、この一件の事件性、つまり、悪意のあるものによる加害行為は、いっさいなかったと完全に証明できたと考えているようだが、それは明らかに間違っている。私は警察による事件性の否定を覆すに足る、重要な証拠を持っている。


 私が最初にトランクを発見した月曜の朝、その巨体と異様な雰囲気に驚いたのは確かだが、もう一つ、気にかけたのは、積み上げられた五つのトランクが、上から下まで、まったくずれることなく、四つの角も、上の隅と下の隅がぴったりと、本当に数ミリのずれもなく、重ねられていたのだ。確かに、警察の言う通り、あの林を隅から隅まで探せば、同型の大きなトランクが五つ落ちていることも『奇跡的にだが』ありうるかもしれない。そして、廃材の処理に困った違法業者が、偶然にも私の家の前のゴミ捨て場を選び、丁寧にその雑多なゴミたちを五つのトランクに分けてそれを詰め込み、その上、わざわざ、縦に五つ積み重ねて、そのまま放置して逃げ去ることは確率的には起こりうるのかもしれない。


 だが、『もし、通りすがりの業者がトランクに廃材を詰め込んで、逃げるように捨てていったのならば、律義にも、五つのトランクの四つ角の隅を、きっちりと、まったく何のズレもなく、丁寧に重ねていく必要など、まったくない』のだ。


 私は放置してある、不審なトランクを見たとき、その光景に驚いたのはもちろんだが、それと同時に、あの光景から、神がかり的な雰囲気も感じたのだ。それまでは経験したこともないので例えるのは難しいが、夢の中で見た、まったく現実的ではない空想的な光景が、実際に目の前に現れてきたような感覚であった。


 私はこれらの証拠を提示して、この議論をさらに続けることはできたわけだが、それは、不毛な行為であることもわかっていた。警察があのトランクの遺棄自体に事件性を認めないのであれば、それは、私にとって、完全にプラスに働くからだ。私があの大金に手をつけて、本能の赴くままに、自由に使い始めたとしても、警察はもうこの一件には関わってこないと同義である。あの大量の札束を君の自由に使ってもよいという、いわば、白紙委任状を手に入れたことになる。警察官たちの思考は、常識をあざむく幻の中にあるが、こちらから優しく手を差し伸べて、あるいは適切なアドバイスを送ることで、わざわざ、その幻覚を解いてやる必要はないわけだ。彼らがこの私を単なる通りすがりの酔っぱらいか、狂人とでも思い込んで、この事件に片をつけ、小さなメダルを手に、この舞台から降りてくれることは、そのまま、私を幸福の道へといざなってくれることだろう。


「まあ……、何と申しますか……、今思うと、仰る通りかもしれませんね……。あのトランクは元々廃棄物を隠避するために利用されたのかもしれません」


 私は警官の一連の推論に同意して、この一件に幕引きを図ろうとした。早めに家を出てきたつもりだが、ここでこんなに時間を使うなどとは思いもしなかった。さらに言えば、この一件は会社の同僚には知られていない、完全に個人的な問題であり、遅刻した際の理由を説明することの難しさを思えば、今、これ以上、ここで足止めを食うわけにはいかなかった。しかし、警察側は、私をこのまま解き放すつもりはないようだった。彼らの冷たい視線やその態度を見れば、それは一目瞭然だった。


「お父さんは、昨日初めてここに来たときに、『トランクに大量の札束が入っているから、その対応を頼みたい』と申告してきたのを覚えています。まあ、数億円に及ぶ現金が遺棄されているとか、自分の力では及ばないので、ぜひ、警察に動いてほしいとか、そういったことを申し出て来られたので、我々の方も、ある程度の事件性を感じて、内部で慎重に打ち合わせをした上で、それでは現地へ向かおう、という結論にしました。しかし、トランクの中に入っていたのは、ほぼすべて意味を為さない廃材でした。しかも、どれもこれも数時間以内に入れ替えられるようなものではない。侵入者の痕跡が存在しない、周囲の状況から鑑みて、ここ数日間にわたって、ずっと、あの場所に遺棄されていたと考えられます。つまり、お父さんが、ここへ訴え出て来られたとき、もうすでに、あの大きなトランクの中には、ゴミが充満していたわけです。でも、あなたは確かに、トランクには大量の札束が入っている、と言われましたよね。このことについては、どのように思われますか?」


 警察の綿密な調査によって、トランクの中身が廃材であることを認めざるを得ない状況になった以上、こういう厳しい指摘を受けることは、当然予想出来ていた。今のところ、まだ柔らかい口調で述べられているが、これは『早く謝罪しろ、でないと、架空の罪をでっちあげてでも逮捕するぞ』という意味合いの説諭であり、私にとっては、これ以上強情を張るのは危険極まりなかった。依頼者に裏切られたと思い込んでいる、彼らの熱い感情を推し量れば、夢うつつや勘違いなどによって、この場を切り抜けることはできないだろう。自分の視力をどれほど信じ切っている者でも、『私はそれでも大量の札束を見たんです』などという非現実的な言い訳は、もうあり得ないのだ。私はここで、警察官たちが『おそらく、そうなのであろうな、と推察している結論』に、こちらから歩調を合わせなければならなかった。私は決意を込めて、一歩前に歩み出た。


「実は……、昨日の朝は、近くの居酒屋で一杯引っ掛けてから来てしまいました……。あのとき申し上げたことは、すべて嘘なんです……。酒に弱い体質でよくやらかすのです……。本当に申し訳ない……」


 私の真に迫った言葉を受けて、この場にはさらに緊張した空気が流れた。しかし、警察側としても、このことさえ確認できれば、もうこれ以上、私を追い詰めていく理由はないはずだった。確かに、警官に対して、嘘(厳密には嘘ではないのだが)をついたのはまずかったが、これ以上、問題を大きくしなければ、警察側としても、法律上、私を長く引き留めておくことはできないはずだった。しかし、先ほどから誰よりも鋭い目でこの私を睨みつけていた、あの佐藤と名乗る、若く陰険そうな巡査だけは、謝罪の意思を込めた、今の発言だけで、私を許そうなどとはまったく思っていなかったようだ。


「ちょっと、あなたねえ……」


 佐藤巡査は能面のような平静な表情であったが、やや血の気が引いたような、真っ青な顔で、こちらの方に向かってきた。丁寧に説明をしてくれていた、巡査長格の警官はその様子を見て、「いや、もういいから!」と言って、腕を伸ばし、度を失った若い巡査を引き留めにかかった。しかし、佐藤巡査は一度冷静に立ち返ったような振る舞いを見せて、「いえ、一言だけ言わせてください」と言いつつ、上司の手を振り払い、私の眼前まで歩んできた。


「少し、言わせてもらいますけど……」


 佐藤巡査は少し強ばった顔をさらにひきつらせ、釣り上がった目で私の両眼を捉えた。これからどんなことを言われるかは、だいたいわかっていたし、自分がやってしまったことを思えば、言われてしまうのも仕方はないのだが、この件に関しては、自分にも反論する余地は十分にあると思っていたので、ここで睨み返すことが出来ないのは不本意でもあった。


「あのですね、警官の休暇や勤務日の休憩時間は、確かに正式な業務ではないです。時間給として支払われるわけでもありません。しかしですね、我々はその休憩時間も気持ちを緩ませることなく、市民の安全のことや、凶悪犯罪を何とか抑制することなどを考えて過ごしています。警察官が、交番の休憩室で休んでいても、それは本当の意味での休息ではないんです。大規模な災害や重大事件が起きたときの心構えを常に取っているんです。いいですか? あなた方酔っぱらいは、たとえ通勤途中であっても、勤務時間でさえなければ、駅の構内や近辺の飲食店で、好きなだけ酒を飲みまくり、周囲の人に対してくだを巻き、電信柱に小便を引っ掛け、通報によって交番まで連れて来られても、自分の名前や住所さえ言えず、まったく意思の疎通ができない。その上、警官の説諭に逆上し、怒鳴り散らし、唾を吐きかけ、挙句の果てには、汚いゲロをまき散らして帰っていくわけですが、もし、その同時刻に、近所で交通事故や通り魔などの悪質な犯罪が起きていたらどうするんです? 誰が負傷者や被害者を助けに行くんですか? あなたたちは酒にかまけて、普段より少し強気になって、あるいは、ほんの軽い気持ちで、警察を小馬鹿にしに来ているのかもしれないが、これは完全に業務妨害ですよ。こちらが法に則って何もできないと思って、これ以降も、こういった挑発的な行動を続けるのなら、威力業務妨害罪を適用することだってできるんですよ。自分が逮捕されるかもしれない、というリスクを背負っても、同じような行為が出来るんですか? その辺はどう思っているんです?」


 恐れを知らない、若い巡査が怒りに任せてまくし立てていたところで、後ろでそれを聞いていた巡査長が慌てて止めに入った。


「もう、いい。もういいから!」


 彼は佐藤巡査を押しとどめ、この緊迫した場は、とりあえず、事なきを得ようとしていた。この人柄の良い巡査長は、私の言動や行動にある程度の不満や憤りは感じているものの、その真面目そうな人柄や会話を聞いて、『もしかすると、悪意からの行動ではなく、背景には、何か複雑な事情があるのかもしれない』といった、少なからぬ同情や理解があるように思えた。怒りを爆発させてしまった佐藤巡査も、一通り、不満をぶちまけたことで、多少は落ち着きを取り戻したようで、これ以上何も言うことなく、大人しく後方へと引き下がっていった。


「本当に申し訳ありませんでした。この通りです!」


 私は若い巡査がまだ立ち去らぬうちに、その背中に向けて、心からの謝罪の言葉を投げた。佐藤巡査はこの言葉に対して、いいも悪いも言わなかったが、少し視線を後方に向け、こちらの様子を一度確認してから、控え室にその姿を消した。


「お父さん、もういいから、これで終わりにしましょう」


 巡査長は優しくそう言うと、一つ横の机の上段の引き出しを開けて、中から分厚い封筒を取り出した。


「これ、お父さんが昨日置いていったものね。こういうものは簡単に人に見せると危ないから、今後は気を付けるんだよ。近所にいる全ての住民が、札束を見せられて、笑っているわけではないからね」


 彼はそう言って、その封筒を手渡してきた。私は最初のうち、その意味がよく呑み込めなかったので、封筒の上部の隙間から、そっと中を覗いてみた。中には紙幣が充満していた。ここで、昨日、警察にトランクを調査してもらうための品として、この百万円の札束を証拠としてここに置いていったことを思い出した。本来ならば、通勤途中である、私が持ち得る額ではなく、これを所持していること自体、何らかの疑いをかけられる恐れがあったわけだが、現在はすでにトランクの一件は、酔っぱらいの戯言という結論で片付けられているため、私が下手に動揺を見せなければ、何の疑いも生じるはずはなかった。私はこの封筒のことも含めて、もう一度深く礼をした。


「お父さん、あとね、あのトランクのことだけど……」


 逃げるようにその場から立ち去ろうとした私に、巡査長は何かを思い出したように言葉をかけてきた。


「あの中に詰まっていた砂や泥などは、こちらですべて洗い流しておきました。目についた小さなごみや機材なども、やれる範囲で処理しておいたからね。ただ、あのトランク自体と中身の大きな廃材は、やはり、粗大ごみの回収者に来てもらわないと駄目だと思う。こちらから、市役所に連絡したところ、家の近くにあるコンビニエンスストアなどで買える『粗大ごみ処理券』を貼り付けておいてくれれば、数日以内に回収に行くとのことでした。あれはお父さんが捨てたものではないので、その事情を話せば、かかったお金は後で返金するとのことでした。もし、時間があったら、明日にでも役所へ連絡してみて下さい」


「お心遣いいただきありがとうございます。重ねてお礼申し上げます」


 私はそう言い残して、ようやく緊張の場から解放され、交番の外の澄んだ空気を吸うことが出来た。すでに早朝とはいえない時間になっていた。街は都心に本社のある企業に始業時間ぎりぎりに到着しようとする、いわば、通勤最終便の電車に乗ろうとしている、多くの人々が足早に駆け抜けていた。あれだけ怒鳴りつけられ、何度も頭を下げ、謝罪を繰り返した後ならば、普通、落ち込んだりもしようが、今の私の気持ちは嘘のように晴れやかであった。かつて、これほど爽やかに風を感じたことがあっただろうか。もはや、これは勝利宣言と表現してもいい。悪しき想像の中で蠢いていたギミックはすべて解きほぐされたように思えた。心中の靄もどうやら消えたようだ。やっと、未来に確信が持てた。私は足取り軽やかに駅の構内へと入っていくことにした。




 ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。

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