★第十四話★
私は木の上の悪霊と意思の疎通を取ろうと会話を試みる。だが、人外の獣に自分の心情を語るということの恐ろしさに、次第に言葉を失ってしまう。悪霊はそんな私の姿を見ると、トランクの中の大金を好きにしろと言い残して闇の中に姿を消してしまう。
「私がこのトランクを偶然に発見した時から、君はそこに居て、こちらがどのような行動に出るか、ずっと見張っていたのかね? それと、もうひとつ聞かせてくれ。私の心に魔が差して、このトランクから札束を一つ抜きとってしまったことも、君は知っているのかね?」
あまりの恐怖と焦りから、心のバランスを保てず、相手に通じるかどうかも分からぬような質問を、二つも同時に繰り出してしまった。しかし、今度の場合においても、目の前に居座る悪霊は何らかの反応を見せることもなく、ただ、こちらを不思議そうな眼差しで見つめているだけなのだった。今夜、自分がここまで懸命に走って来て、欲望のままに、トランクを我が物のように開いているところを、この人外の妖獣に一部始終見られてしまったことに対して、すっかり不安と驚愕を覚えてしまった。そのために、こちらにとって、一番肝になる質問を思いつくまでに、多くの時間を要することになった。もしかすると、この得体の知れない悪霊は、この森に棲む単なる傍観者などではなく、ことによると、この五つのトランクの本当の持ち主なのではないだろうか? もし、そうだとすると、こちらの対応はまったく変わってくる。そもそも、この私には、件の大金に触れる権利すら持たされていないことになる。大金の持ち主があそこから見張っていたのなら、そもそも、このトランクは遺棄されたものですらないのだ。つまり、この衝撃的な事件は先週末の発見当初という、一番最初の段階まで、議論を戻さねばならなくなる。私はもう一度勇気を出して、悪霊と向き直り、どうしても知らねばならぬ疑念について、踏み込んだ質問を繰り出してみることにした。
「人種の違う私と君が言葉を交わすのはおかしなものだが、これから少し重要な質問をするよ? いいかね? ここに置いてある五つのトランクは、すべて君の物なのかね? き、み、が、ここに、置、い、た、のかね?」
私は片側に積み上げられたトランクを大きな動作で指さしながら、はっきりとした口調で何度もそう尋ねた。すると、その悪霊は先程のように、くくっと二回ほど頷いたように見えた。いや、もしかすると、それは単なる野性動物特有の反射的な動作であって、人語のYESやNOといった、決定的な意味はないのかもしれないが、少なくとも、私には肯定的な意味のある動作に見えたのだ。つまり、私の耳には『そうだ、その紙幣はな、この俺がそこに置いたのさ』と聴こえたのだ……。
しかし、これは困ったことになった。ついにこのトランクの本来の持ち主が目の前に現れたわけだ。いくら相手が人外の妖獣とはいえ、これは私が最も恐れていた事態のひとつであった。内心においては、八割くらいの確率で落とし主は現れないものと踏んでいた。庶民には一生届かぬこの大金を、すでに自分のものだと考えるほどになっていた。そして、脳の片隅において、薄々は考えていたのだが、『これを開く人の心の持ちようにより中身は変わる』そう記していった、この不思議なトランクの持ち主は、高い知性を持つ人間ではなく、得体の知れぬ魔物がその正体であった。常識と法律をもとに考えれば、すでに数日間にわたり、この場に放置されていたとはいえ、この大金は本来の持ち主に返却されるべきだ。持ち主が現れないうちに、少しずつトランクの中身を使い込み、いずれは、すべての金を自分の物にしてやりたいとある程度は念じていた、私の目論見はもろくも崩れ去ることになった。ただ、このトランクの中に溢れる札束が見えているのは、人間の中では、今のところ私だけらしい。もっと以前にこれを開いたと主張している、近所の住民たちも、皆一様に中身はただのガラクタであったと主張しているのだから。
この特性を上手く利用できれば、もう少しのところで、大金を自分の懐に入れることができたはずなのに……。こうして持ち主がトランクの回収のために現れてしまった以上、その道は完全に絶たれたわけだ。この上なく残念なことだ。社会生活を営んでいく上で、高価な拾得物を手に入れる際には、決して避けて通ることができない、警察機構という巨大な関門さえも、今日の交番でのやり取りにおいて、上手にくぐり抜けることができたと思っていたのに……。落とし主が人間ではなかったことで、交渉して優位に立つ手段もほとんど閉ざされた。悔しいが、ここはトランクを置き去りにして、大人しく引き下がるしかないのか……? つまり、ここから脱兎のごとく逃げ去ることによって、これまでの試みを全てなかったことにするのか。それとも、この化物とまだ交渉する余地が残っているのだろうか。すでに、自分が抜き取ってしまった分の所有だけでも認めてもらえると嬉しいのだが……。しかし、我が国の言葉がさっぱり通じないというのに、何をどのように説得できるというのだろうか?
私はもう一度、木の上にいる悪霊の方に視線を移した。彼は遊び相手のいない幼児が、床に落ちていた型紙をハサミで乱暴に切り抜いていったような、その雑な造りの目を紫色に輝かせながら、先程までとは打って変わって、こちらを少し興味深げに眺めていた。『おまえの判断一つで、まだ、この大金を手に入れる可能性は残っているのだぞ』そう伝えようとしているようにも思えた。あと少しでも、何か上手いこと意思の疎通が取れれば、こちらの主張を通せそうにも思えた。
「君、君、もう返事をしてくれなくてもいい。このトランクの中に秘められた大金については、君が正当な所有者であることは、良くわかった。こちらに、まったく異論はないのだ。私もすっかり納得したら、退散するつもりだ……。暴力的な手段にだけは出ないようにしてくれたまえ……」
まずは下手に出てみることにした。もちろん、木の枝に居座る怪人の気を高ぶらせないためだ。相手が人間という、知性が高く、愚かで便利な種族ではない以上、ひとたび、怒らせてしまったなら、どんな悲惨な事態に発展するかは想像もつかない。奴はまだ、あの場所から一歩も動いていない。牙の一本も見せてはいないのだ。こちらから下手に話しかけて、万が一、交渉が決裂したならば、魔法の力によって、あの離れた位置から、この首を刎ね飛ばされるかもしれない。
「君のような人外の生命体でないと、とてもあのような不思議な性質を持ったトランクなど作れないのだろう……。地球の科学者があと何万年研究を重ねても無理だ……。心から敬意を表する」
私は自分の気分の悪さのことはひとつも伝えずに、なるべく悪霊を褒める方向へと台詞を発した。とにかく、この場所からは手の届かない位置にいる、彼のご機嫌を取っていくつもりだった。すると、悪霊はこちらの主張に対して、若干の興味を示し始めたのか、顎をいくらか前方に突き出すような仕草を見せて、こちらを凝視した。私はここぞとばかりに言葉を継ぎ足していった。
「いやあ、実に、実に素晴らしいトランクだ。それに触れた人間の心情や欲情を深く読み取って、中身を七色に変化させてしまう……。その人間の思想や信条が優れていれば、その人に有益な品をもたらすというところが……、実に気に入ったよ」
私は時間が経つにつれて、人外の生物の前で何が通じているかもわからぬのに、自分の心境をとくとくと語るということが、次第次第に不安に感じられるようになってきた。しかし、目の前の悪霊の目や口から発せられる、紫色の光を眺めていると、何故か心が透かされていくと同時に、気が楽に感じられ、身体から余計な力が抜けていき、それに連動して、自分の意思に関わらず、自然と舌が回っていくのだった。まるで、ヘマをやらかして敵国の諜報機関に捕らわれ、自白剤を飲まされた間抜けなスパイのように、自分の本音を本来あるべき抵抗を通り抜ける形で語り続けたわけだ。
「しかし、君のような、決して人とは呼べない生命体にとって、あんな大金が果して必要なのかね? もしかすると、君の魔力なら、人間が製造した紙幣など持たなくとも、生活に支障は無さそうだが……。蛇足だったようだな……。まあ、話を変えよう。見たところ、あのトランクの札束は、一部を引き抜いても、しばらく時間が経つことで、どういう秘法が働くのか、失った部分が自然と補充されていくようだね。いわば、君は無限の資産を持っているのと一緒だ。だが、君のような、人との関わりを全く持たない生命体に、果たして、あのような大金が使いきれるのかね? 私には……、少し、意味が無いような……、無用の長物とも思える。まあ……、聞き流してくれたまえ……。あくまで、こちら側の意見だからね」
私は桃源郷に辿り着いた旅人のように、すっかり浮かれて、夢中になりながら、数十分の長きにわたって、木の上の悪霊に必死になって呼びかけていた。同じ生命体とはとても思えぬ、あの醜い悪霊に、いつの間にか、仲間意識を持ち始めていたのかもしれない。もちろん、得体の知れない生物相手に、そこまでしたのは、あのトランクの大金を、たった一切れでもよいから、何とかこの手に入れようという、果てしない欲望が執念となって働いたためだろう。元々、ゴミ捨て場に放置されていたあの大金に対して、私は第一発見者と思い込んで、様々な思索を働かせ、片手をかけたつもりでいたのだ。おそらく、あのトランクを目にした人間の中で、一番気を揉んだのも、一番力を尽くしたのも、この私のはずである。今になって、未来に描いたはずの希望のすべてを失うのは、余りに酷というものではないか。こうなったからには、宇宙か、魔界か、いったい、どこから現れたかもわからぬ、この不気味な生命体を、何とかだまくらかして、持ち前の弁舌を駆使して、最低でも、あの大金の何割かをこの手に握ってやろうと思っていた。
「もしかしたら……、君のような異端の生物には、この大金を生み出したところで、その重要性は理解できないのではないかね? 君たちの棲んでいる世界の価値観では、あのぐらいの札束は、その辺に落ちている紙くず同然なのかもしれないが、この人間社会においては、金というものは、それこそ、その多寡によって、人ひとりの人生がすっかり変わってしまうほどに重要なものなんだ」
私はいっそう力強くそう訴えた。悪霊は顔をこちらに向けたままにして、今のところ、静かに話を聞いているようだ。しかし、私が話し疲れてきて、一度口を止めると、野猿のように、二度ほど素早く両手を引っ搔き回し、まるで『もう少し、その話を聞いてやるから、早く、その先を続けてみろ』と促しているようにも思えた。私はこのような悪魔の一味に、自分の心情を丸々聞かせていくという事実が、だんだんと恐ろしくなってきた。しかし、すでに後に引くことは出来ない。今が人生の分岐点である。この徒労にも思えるやり取りこそ、あの目も眩む大金を手に入れる最後のチャンスなのだという思いもあり、懸命に話を続けた。
「つまり、こちら側の要件を要約すると、こういうことなんだ。あの札束の山は、君には放置して当然のゴミなのかもしれないが……、私にとっては非常に重要で価値のあるものなんだ。他の人間はあの大金を上手く使っていけるかは疑問だ。もし、君さえ良ければ……、あの金を……、いや、ほんのわずかでもいいから、私に譲ってもらえないかね? いや、譲ってくれという言い方は、あまりにも図々しいな……。では、こうしよう。わずかな期間でいいから、私に貸しておいてくれないか? 君にはこの国における、紙幣の使い方はわからないのだろう。それは当たり前のことだ。価値観の違う世界に棲んでいるのだからね。しかしね、私なら投資やギャンブルで、その金額をさらに増やしていくことができるわけだ。君が置いていったトランクの元金を、まったく減らさずに運用して、増やした分だけを私の取り分にすれば、君もさほど困らないんじゃないかね? 元々、君には紙同然なのだし……。それに……、それに……」
相手からの反応はなかった。何とか話し続けなければと思ったのだが、自分が今、欲望のままにしていることが恐ろしくなってきて、気がつくと顎が震え出して、声が出て来なくなった。私の話が再度途切れると、悪霊は木の枝から少し身を乗り出して、その怪しい瞳で、私の目を再び睨みつけた。距離こそかなりあるが、今度は単なる観察ではない。完全なる威嚇である。妖獣はついにその秘めた魔力を見せたのだ……。彼の瞳の内部で宝石のように見えた輝きが広がっていくたびに、この辺り一帯が、まるで昼間のように明るくなっていき、その正体不明の光に封じられるように、私は身動き一つできなくなってしまった。まるで、科学的に証明できない金縛りにでもあったかのように動けなくなったのだ。それを見て取ると、悪霊は口をゆっくりと動かしてこのように話した。
「オマエ、アノ カネガ ホシイノカ?」
全ての感覚が失われたように思ったが、こんな状態にあっても、私の耳は正常に機能していた。悪霊はこの国の言葉を用いて、確かにそう話しかけてきたのだ。彼が人語を話せることには驚いたが、顎が固まっているため、うまく返事をすることは出来なかった。まったく返事を切り返さない私への興味が薄れてきたのか、彼の意思を反映するように、少しずつ、辺りを照らしていた光は薄れていった。悪霊自身の姿も闇に溶けこんでいくように、ゆっくりと消えていこうとしていた。この瞬間、私にはほとんど意識はなかったのだが、その希望の残り火が消えゆく最後の一瞬、彼は「スキニシロ」と言ったように思えたのだ。辺りをまばゆく照らしていた光が完全に消えてしまうと、私の動きを完全に封じていた呪縛は、徐々に解かれていき、そのまま地面に倒れ伏した。その後のことは、まったく覚えていない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。