★第十三話★
私は陽子の彼氏を追い払ったあと、風呂に入り、その後、書斎で休憩する。すると、窓の外を得体の知れない、光の塊が通り過ぎていくのを見る。慌てて、着の身着のままでゴミ捨て場へと走っていくと、そこには人語を話さない生命体が待っていた。私はこいつを悪霊と名付けることにした。
妻と娘はバイクが走り去った方向を呆然としながら見やっていた。気持ちの整理は簡単にはつきそうになかった。その間に、私は一人、二人の目を逃れて、自宅の北方面にあるゴミ捨て場へと向かった。あいつは確か、トランクの中に死体が詰められているのを見たと叫んでいたのだ。きっと、あれを開いて見たんだ。そして、あのトランクの中身を見て……。
程なくして、ゴミ捨て場に着くと、その足元には、彼が残していった、いくつもの靴跡が、しっかりと残っていた。これで奴の行動の全てがほぼ裏付けられた。無作法にタバコを吸いながら、何の危機感も持たず、ほとんど何ごとも考えずに、ここまで歩いて来たことは明白だった。そして、ゴミ捨て場の中央に積まれている立派なトランクに興味をそそられ、その中を覗いた……。この先は憶測になってしまうが、奴は本当に人間の死体を見たのだろうか? 実際には、底からびっしりと敷き詰められている札束が視界に入ってくるはずである。そう言えば、数日前にここで発見した小さな紙片には、おかしなことが書いてあった。確か……、このトランクの中身は、これを開けようとする者の思想信条によって変化すると……。あのときは実にバカらしい、完全なる嘘っぱちであると信じ込んでしまい、そのまま破棄してしまったわけだが……、もし、あれが真実だとするならば、あの逆井君の持つ信条が、惨殺された人間の遺体にこそふさわしいということなのか? だとすると、あの片目の老婆の生き方は空っぽの状態である。警察官たちは、この中に木材と鉄材などのがらくたを見たと紙に書きつけていった。皆、それぞれが積み上げてきた人生にふさわしいものを、このトランクの中に見ているということなのだろうか? と、するならば、この私に大量の札束が与えられているのは、いったい、なぜだろう? 私はこの通り、決して欲深い人間ではない。冷静で実直な人生を歩んできた。少なくとも、自分では長い間そう思って生きてきたわけだ。しかし、心の奥底では、いつかはこの手で大金を掴んでみたいと、そう願っているのだろうと、何者かに見透かされてしまった、ということなのだろうか?
そこまで考えが及んできたところで、妻と娘が私を呼びにやってきた。慌てて自分の希望であるトランクから目を逸らした。何の興味もない、という素振りをして見せた。我ながら実に不自然な動作であった。心中は混乱をきたしていた。家族とはいえ、この二人には、まだ、トランクのことを説明する段階ではないというのに……。戸惑う私を尻目に、我が娘はトランクを指さして、あっけらかんとこう言うのだった。
「逆井君が死体を見たって言ったのは、そのトランクの中身のこと?」
「いや、こ、これは違う。これは違うんだ」
私は懸命になって、それを否定しなければならなかった。純朴な妻と娘を、この奇怪な一件に巻き込むのは良くないと直感的に思ったからだ。自分の気持ちだけでも収まりがつかないのに、周囲の多くの人物に関わって来られると、ますます、気持ちの収拾がつかなくなる。『私という人間はですね、お金というものには全く興味が無いのです』とのたまう御仁がいたとしても、仲間になって貰うわけにはいかない。船頭多くして船山に上るではないが、適切な助言であればあるほど、それが道徳に則っていればいるほど、余計に邪魔なのである。まずは、私一人の推測によって、この事件の最善の解決方法を、ある程度の段階まで模索しなければならない。
「ふうーん、私が開けたときは、たしか……、水道管に使われていたような、きったないチューブとか、煉瓦の破片とか、大きな木材だったけどなあ……。あの人、あんなガラクタを見て、怖気づいて逃げていったの? いったい、何を怖がってるんだろ?」
「なに、おまえ、まさか、このトランクを開けたのか?」
「うん、先週の金曜の夕方に通りがかったときに開けたよ。こんなに幅を取る物が家の近くに置いてあるから、いったい、どんなものが入っているのかなと思ってさ……」
娘はまたしてもあっけらかんとした表情で、そう言ったみせたのだ。私は混乱と驚愕で、何も言えなくなってしまった。最低限の叱責をするべきだったのだろうが、それすらも出来なかった。自分とほぼ同時期にトランクに触れて中身を見た人間がいた……。しかも、それは自分の肉親なのだ……。これ以上話が広がっていくのはまずいと思い、私はそこで会話を打ち切った。彼女に尋ねてみたいことは、まだ多かったが、それを出来る状況ではなかった。今の段階で大金の処理にまで話が及ぶのはまずい。向こうに先手を打たれる形になってしまった。
逃げ帰ってしまった娘の彼氏に連絡をとることはあきらめて、三人でそのまま家まで歩いて帰ることにした。妻が今日のイベントのために特別に作った料理はとても出来が良く、都会のレストランの献立のように美味かった。私としては、娘の連れてきた愚かしい男と激論を交わしていたことで生じた不快感が、まったく尾を引かずに吹き飛んでいく思いだった。彼が我が家からいなくなったことで気持ちも軽くなり、会話も自然とはずんだ。久しぶりの家族団らんであった。私がトランクの行方を気にして、たまたま早く帰宅したために生まれた、安らぎの日となった。やはり、しばらくは三人で暮らすのがいい。まだ、娘の旦那候補などは、まったく必要ないのだとはっきり思えた。しかし、我が家が大混乱に陥ることなく、あの無礼な男を無難に追い返すことが出来てよかった。我が娘の彼氏を名乗っているとはいえ、あんな男が始終ここを訪れることになったら、そのたびに対策を考慮せねばならず、仕事以外に大きな悩みを抱えることになるところだった。
難題の幾つかがうまく片付いたことで、気分がすっきりしていたせいか、久しぶりに風呂に気持ち良く浸かることが出来た。昨日、試みに買ってきたレモンの香りがする、新しい石鹸を使って全身をくまなく洗った。驚かされることも多い一日であったが、なぜか気分は高揚していた。風呂からあがると寝室には向かわずに、取り敢えず、二階にある六畳の書斎に入った。ここには小さな机がひとつと本棚だけが置いてある。精神を集中させて難題を片付けていくのには、ちょうど良い場所だ。普段は閉め切ってあるカーテンを開けると、窓の外には、ちょうど我が家の北側の斜面に向かう通路が見えた。この位置からなら、ゴミ捨て場に向かっていく不審者がいれば、その姿を見張ることができるかもしれない。自分の娘にまでトランクの中身を見られていたのは不覚だった。思えば、これだけ近い距離で生活をしているのだから、もっと、家族の行動には注意を払うべきだった。これからは、自分の力だけで、あのトランクを見張らなければならない。トランクの中身が札束の山に見えているのが、この私一人だけなら、あの莫大なお金は、やがて私の物になるはずだ。そうなれば、いつでもあの金を自分の欲求のままに使い込むことができる。他の人間にはガラクタにしか見えないとなれば、いったい、誰に遠慮することがあろうか。しかし、主導権を握っているはずのこちら側にも、幾つか弱ったことがある。人によってはガラクタにしか見えない札束など、本当に正式な紙幣として扱えるものだろうか? 大金を得たからといって、調子に乗り、銀座の貴金属店で高価な装飾品を両手に山ほど抱え込んで、それを支払う段になって、財布を確認したら、札束がガラクタや葉っぱに化けていました、では困るのだ。
そんなことを呆然と考えていると、突然、視界が白く細長い閃光を捉えた。窓の外が一瞬パッと明るくなり、光の帯が自宅の前の通路を横切っていったように思われた。軽乗用車やバイクのライトではない。それは見たこともない怪奇現象であった。長い半生の中で、体験したこともないことであり、まともに驚くことすら難しかった。私はなぜか理性を保っていたのである。あれは何であったろう? 一瞬にして起きたことであり、通っていった物体の詳細な姿を、肉眼ではっきりと捉えることはできなかった。ただ、この世界のものではない、異質なものを見せられたような気がして、思考が一時的に中断したのだ。白く輝く光の塊のような物体が、我が家の玄関の前を一瞬にして通り過ぎて、何かを求めるような動きで、北方に向かっていったように思えた。ついに、これまで正体不明であった何者かがゴミ捨て場に現れたのかもしれない。そして、それはトランクを回収する目的で来たのかもしれないのであった。私はいつまでも驚いてはいられず、床に脱ぎ捨ててあった薄い生地の浴衣を羽織って、書斎から飛び出し、一気に階段を駆け下りた。例え、悪意を持った誰かが、トランクを奪いに来たのだとしても、私にはそれを力づくで阻止する権利は持っていなかった。だいたい、取りに来たのは、トランクの本当の持ち主なのかもしれないではないか。
『これから相対するのは、トランクの持ち主かもしれない』
とにかく、それだけを念頭に置きながら、慎重に話しかけるしかないが、実際には、互いに違法行為を抱えている状況でのこの対面において、最初に向き合ったときにどういう言葉をかけてみるかは、この時点では判断できなかった。例え、相手の方が有利な立場にあることが判明したとしても、何とか、冷静な話し合いへと持ち込んでいきたかった。とにかく、私の残りの人生の大きな希望である、あのトランクを引き取られてしまう前に何とか追いつくべく、全力で急ぐしかなかった。自分がきわめて不利な状況にあるのはわかっている。しかし、心に湧いてくるのは大金への未練の気持ちしかなかった。
「ちょっと、外を見て来るから!」
居間の方にそう呼びかけてから、私は浴衣姿のままドアの外に飛び出した。後で思えば、家族への呼びかけなど、しないで静かに出て来た方が良かったのだが。風呂上がりの熱い肌に秋の夜風がいっそう冷たく感じられた。わずか数百メートル先のゴミ捨て場までの距離が、今夜はなぜかいつもより遠く感じられた。普段散歩をするときの習慣で、意識せずにサンダルを履いて出てきてしまったので、途中何度も地面の凹凸に躓き、よろめき、転びかけながらも、必死の思いで現場に到着した。そして、ゴミ捨て場のトランクは、淡く光る電灯の下で、自分が期待していたように鈍く輝いていることを、この目で確認した。私は何者かに操られるように、深い思考もなく、ゆっくりとトランクの方に近づき、その取っ手をつかんで開いてみた。そして、中を埋めるべくびっしりと詰まった札束を、今一度確認した。
「よかった、さっき見た光る物体は、これを取りに来たわけではなかったのか……」
そのとき、頭上の木の枝から誰かが『グググ……』と、不気味に笑っているような声が響いてきた。私はその不気味な声に呼ばれるように反射的に振り返った。そこには一見して人らしきものがいた。しかし、地上から三メートルほどの、松の木の枝に妖気を発しながら座っていたのは、決して人間とは違っていた。人らしき胴体があり、人によく似た上腕と手があり、そう言われてみれば、人のようにも思える足がついていたのだが、それは断じて人ではなく、人外の生命体であった。その怪人は器用にも上下に黒い背広のような服装を着込んでいた。胸の合間からは白いYシャツも見えていた。しかしながら、人間の肌にあたる部分は、すべて白く発光していた。そして、その顔はといえば、その詳細をここに描写することさえ、はばかれるような恐ろしい形相であった。簡単に例えれば、ハロウィンのかぼちゃに彫られている亡霊のような容貌だった。ただ、あのかぼちゃのように、アニメキャラのような、幾分整った顔形はしておらず、目と鼻も縦に斜めにと醜く崩れていて、真っ直ぐには並んでいないのだった。内部で輝く紫色の結晶は、その構造が全く分からず、目や口などの隙間から、その光が薄く外へと漏れ出てしまっていた。その身体全体には、人間や動物の顔からは、おおよそ感じることのできない気味悪さがあった。そう、この瞬間、私はこいつを悪霊と呼ぼうと決めたのである。
悪霊はその醜い目を光らせて、木の上からこちらの様子をじっと伺っていた。今思えば、先週末に、このトランクを発見してから、ほぼ毎日、このゴミ捨て場に札束を確認するために来ているわけだが、自分の頭上にまで、気を配ったことはほとんどなかった。もしかしたら、この悪霊は私が大金に釣られながら、毎夜のように、ここへ現れるたびに、今夜のごとく大木の上から、顔を歪めて眺めていたのだろうか? そうだ、そうに決まっている。こいつはずっと私の行状を見て常に笑っていたのだ! 私は空恐ろしくなってきた。木の上を眺めながらも、何歩か後ずさりしていた。しかし、このまま長時間にわたり、黙って向き合っていても仕方がない。私はとりあえず、木の上にいる怪人と何らかの意思の疎通を取ってみることにした。不可能に思えることでも、挑戦してみることで光が見えることもある。相手は怪物であり、この国の難解な言葉が、そのまま通じるかはわからないが、私は大きな声でゆっくりと話しかけた。
「君はいったい何ものだね?」
しかし、悪霊は微動だにせず、何の反応も示さずに、ただ疑惑の目をこちらに向けていた。私の問いかけに素直に答える気はまったく無いようであった。ジャングルの奥に暮らす、人語を全く解さぬ獣のように、それからしばらくして、何度か首を傾げて見せただけだった。人間などと、まともに話すつもりなど最初からないのだろうか? それとも、あまりにくだらない質問を受けたと感じているのかもしれない。そもそも、答えようにも、人間の言葉はまったく喋れないのかもしれない。私が何を伝えようとしているのかさえ、理解できないのかもしれない。それでも私は、このおぞましい生物と、何とか会話を試みようとした。もちろん、自分の壮大な野望を達成するために。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。