★第十二話★
娘陽子の彼氏が家を訪れる。しかし、無遠慮で常識を持たない最近の若者であり、まったく話が合わない。こんな無礼な男と大事な娘を付き合わせるわけにはいかないと思っていた矢先、この男は家の外で死体を発見したと叫んで狂乱状態に陥り、恐怖のあまり走り去ってしまう。
「あなた、さっきから、そこで何をしているの?」
その鋭い声に反応して振り返ると、自分の背後五歩も離れていない位置から、妻が心配そうな顔でこちらを見つめていた。私はすでに人生の岐路にいる。彼女はこの重大な状況について、まったく飲み込めていないらしい。もっとも、この歴史的重大発見については、諸般の事情により、私自身の判断で妻や娘に何も話していないのだから、この魔性を帯びた奇妙なトランクについて、彼女がこの現場にいながら、何も理解できなくとも、当然といえば当然ではある。
「陽子の彼氏が今夜挨拶に来るってことは、ちゃんと言ってあったでしょう? あなたが十五分ほど前に帰ってきたのは知ってたけど、家の中にも入らずに、ゴミ捨て場の周囲を何かを探すようにうろうろとして、そうかと思えば、一か所で立ち止まったまま、ボケーっとしたりして、いったい、何があったんですか?」
私は妻のその言葉により完全に正気に返った。警察の不可解な行動やトランクの未だに解けぬ特性についての疑惑は、結局のところ、現段階では何も解決することは出来ず、それは大変心残りだが、ここはひとまず、家庭の大事なイベントの方に参加しなくてはならない。
「何でもないよ。ちょっと、池のほとりの茂みで珍しい鳥を見かけたものだから、少しの間、立ち止まって観察していただけさ。まだ、メシまでには時間があると思っていたんだ。陽子のボーイフレンドが来ているんだろ? もちろん、すぐにでも会ってやるさ。そのために早く帰ってきたんだからな」
本当のところをいえば、あの愚かしい娘の彼氏など、顔を合わせるだけでも疲れが増していくことだろう。どんな話題になろうが、会話が進むごとに、不快になっていきそうなので、対面式とやらが成功しようが、ぼろぼろに失敗しようが、実際はどうでもよいのだ。残業をせずに、珍しくわざわざ早く帰ってきたのは、トランクを調査に来た警官たちが、大量に積まれた札束を見て、どのような反応をしたのかを確認するためなのだ。しかし、まだ、身内にも真実を話すことは出来ない。とりあえず、男友達と最低限の挨拶を交わす気があるかのように、前向きに答えておいた。例のトランクのことは、ひとまず思考の隅に片づけておいて、私は妻と一緒に自宅の玄関に入った。そこには、一つだけ派手な色づかいの見慣れない運動靴があった。場末のホームセンターでなら、一足千二百円で買えそうだ。仮にも彼女の両親に会いに来たというのに、黒い革靴ではなく、こんな汚い運動靴で来るとは……。これで今夜訪ねてきた人物が、いったい、どういうタイプの人物なのか、どういう意図でここに来たのか、だいたい想像ができた。そして、十秒も経たないうちに、自分の推察の通りであることが判明するのである。居間に入ると、龍の模様の入った、ブルーの蛍光色のジャンパーを着て、サングラスをかけた今どきの金髪の若者が、ソファーに腰を掛け、ふんぞり返っていた。このバカ男は、私が居間に踏み込んだのをその目で見ても、ピクリとも動かないわけだ。それどころか、飼っているペットでも見るような眼でこちらを眺めたまま、出会いしなの挨拶のひとつもない。ああ、出来れば、こんな人間と関わり合う不幸は他所の太っ腹の亭主に任せたいものだ。
「初めまして、陽子の父です」
相手方と視線が合ってから、数秒ほども待ったはずなのに、向こうが腰を上げる気も、挨拶をする気もないようなので、仕方なくこちらから声をかけた。
「ちわっす」
その男はまともに視線を合わせることもなく、心底つまらなそうに、そう呟いた。改造に金を使った、バイクにでも跨りながら、同年代の気心の知れた友人にでも挨拶するときのような口調だった。言葉の軽さから見るに、私の存在に対して、まったく重きを置いていないらしい。どうやら、結婚を前提にして陽子と付き合わせてくれと頭を下げに来たわけでなく、娘に強く促されて、嫌々ながらも、文字通りの交際の許可を得るための挨拶に来ただけらしい。しかも、この交際に前向きなのは、このギャングのような男の方ではなく、残念ながら、うちのバカ娘の方らしい。まったく、何の考えもなく、ほんの数パーセントの興味によって発生して始まる、男女関係とはなんと愚かしいことか! 私はこの時ほど娘の人間関係全域に対して、嫌悪感を覚えたことはなかった。専門学校での生活においても、どうせ、男にしても女にしても、これと似たような人種とばかり付き合っているのだろう。だからこそ、様々な異常性質を持った悪徳のウイルスが伝染しまくって、どいつもこいつも、昼間の内から、そこらをうろつく若い奴らは、あれほど無知でバカになれるわけだ。しかし、何も行動を起こさずに、このまま睨み合っていても仕方ない。妻も心配そうな表情で、こちらの動きを眺めている。私が彼と会ってすぐに逆上して、この世間知らずの若者を、いきなり怒鳴りつけるとでも思っているらしい。そこは安心してもらっていい。私とて一企業の管理職を任せられている人間である。相手の対応がどれほど無作法であっても、話し合いもせずに、いきなり殴りかかったりはしない。これまでだって、今回と極めて似たような難題を解決するために、どれほどの奇人や野人とも話し合いをつけてきたわけだ。私は彼の向かい側のソファーにゆっくりと腰をかけた。向こうがどれほどの無礼を働こうと、こちら側からいきり立ってはいけない。相手から有意義な返事を引き出すためには、まずは余裕を見せなければ。そうすれば、案外、向こうも警戒を解き、話せる男なのかもしれない。外見や最初の一言で、相手の人格のすべてを決めてしまうのは浅慮というものだ。
「お父さん、この人が渋谷の衣料品店で偶然に出会った逆井君。彼はそこでバイトをしていて、初めて出会ったとき、今年のモードについて、詳しく説明してくれたの。こんな丁寧な店員さん、滅多にいないわ。とっても優しいのよ。すぐに話が合うようになったの。学校のある日は、いつも、送り迎えをしてくれるの。この人と今仲良くしてるんだ」
この会の主役と思われる、二人が話すきっかけを作りたかったのか、娘の方から、おそらくは、ある程度の勇気を振り絞って、そう切り出してきた。
「ほう……、都心の衣料品店でね……。逆井君、ちなみに歳はいくつかね?」
「もうすぐ二十一です。それが何か?」
「ちなみに、大学はどこへ通っているのかね?」
「大学なんて行ってないです。この国が世界に誇る大企業で働いていく上で、まるで必要としない知識を、いくら頭に詰め込んでも、それは時間と金の無駄です。それとも、娘さんと交際する上で、自分の学歴が何か関係しているんですか?」
「脳みその柔らかいうちは、学業に勤しんでおいた方がいいだろう。その方が将来の可能性だって拡がっていくわけだし……。若者に時間的余裕があるのは、勉学のためなんだからね」
私がそこまで話すと、その指摘が何か気に障ったのか、彼は薄ら笑いを浮かべた。そして、しばし会話を止めてから、陽子の方を振り返った。
「おまえの父ちゃん、相当頭が堅いな。昭和の時代の常識が人生のすべてだと勘違いしているみたいだぞ。現代は勤勉さなどまったく必要なく、他人を出し抜く鋭い閃きと、ここぞという時の行動力で成功をつかみ取る時代だと思いますけどね……」
そのセリフは少し声を潜めて言ったが、明らかに私にも聞こえるような音量であった。ただ、相手が少し不機嫌になったのは見て取れた。明確に反応が表れたということは、高い学歴を持っていないことに、多少なりとも、コンプレックスを抱いているのかもしれない。
「常識がすべてではないが、社会人として活躍していくために、ある程度のモラルは知識として取り入れ、わきまえておくべきだ」
出来の悪い部下を諭すがごとく、自信ありげにそう言ってやると、彼は何度か瞬きをして、信じられないことでも聞いたかのような表情をした。
「それなら、こちらからもお聞きしますがね。子供の頃から親にしごかれて、必死になって勉強して、バブル期にいい大学に入った学生さんたちが、今は三十代から四十代になっていて、企業社会では中心層になっているはずですが、実際には、このところの不況で一斉に解雇されたり、給料を半分以下に減額された挙句に配置転換されたりしてますよね? それについてはどうお考えなんですか? あなたの言われる、一般常識に沿って歩んできた、これまでの努力の積み重ねが、まったく結果に結びつかなかったことになるわけですけど?」
「逆井君、努力という目に見えない概念が、必ずしも良い結果に結びつくわけではないんだよ。成功するか、残念ながら裏目に出るか、そんなことは誰にも保証できないんだ。どんなに妙案だと思っていても、自分と同じことを考えている人間は数多くいる。厳しい競争の中では、実力が上手く出せずに結果として泣く羽目になる人も否応なく生まれる。受験戦争や就職戦線もそういうものだろう。ただ、もう一つ言えることは、挫折してしまった時も、努力を続けてきた人の方が、立ち直れる確率は高いし、その後の人生の成功にも比較的結びつきやすいということだ。過去の大きな失敗を、バネにして戦えるわけだからね」
私はそこで一度訴えかけるような視線を対面の方に向けて、二人の表情を確認した。この二人は実に似ている。考えることが愚かしいところだけではなく、今の厳しい社会を生き抜く嗅覚を、まったく持ち合わせていないところも……。昨日生ったばかりの木の実やら、初めて見る動物やらを食べて、その日暮らしをしている、南米の未開の地に住む、部族の者たちでも、もう少し、危機感を持って暮らしているはずなのだが。
「つまり、君らのように勉学に専念することもなく、若い大切な時分を遊びながら、自分の未来をまったく見据えない形で過ごしてしまうと、壮年になって不景気の波に吞まれてしまってから、この社会のどこにも行き場がなくなってしまう……。つまり、職にありつけず、衣食住の全てに困り果て、大変な後悔をする羽目に陥るということだ……」
私はひと言伝えるたびに、彼の表情の変化を注意深く伺っていたが、こちらの説諭に真剣に耳を傾けるどころか、ニヤニヤとした薄ら笑いをまったく崩そうとはせず、明らかに真面目くさったこちらの態度を嘲笑っているようにさえ感じられた。もちろん、この二人がだいたいどういう性質の人種なのかは、ほぼ理解しているつもりなので、持論を長々と語り始める以前から、何も期待はしていなかったわけである。こんな対応をされていた時点で、これ以上の説得や和解への道のりをすっかり諦めていた。娘の彼氏を名乗る無作法な男は、陽子の方を一度振り返った。
「陽子、それじゃあ、俺も少し語ってやろうか。今の世の中の正しい見方ってやつを、この真面目腐ったおっさんに教えてやろうか」
娘もその悪質なセリフを聞いて、ちっとも不安そうな表情をせず、自分の父親が目の前でバカにされたというのに、まるで、それを楽しむかのように微笑んだ。
「いいかい、おじさん? この世の構造を見渡すとね、すべての支柱はお金で出来てるの。外壁が存在するとしたら、その性質はすべて金箔が張られているんだよね。人の命なんて、それより価値は低い。99%の労働者は使い捨てなんだよ。だからね、どれだけの量の金を持っているかで勝ち組か否かが決まるの。金っていっても、あんたみたいな蟻っこふぜいが、無駄な努力をコツコツと積み重ねていって、毎月数万円ずつの小銭を、ちまちまと貯金していくことじゃないよ。あんたが想像すら出来ない、高い知性を持った資産家たちが、株式や投機で一日何十億、あるいは何百億っていう金を市場に流して、世の中全体を自分の思い通りに動かしてるわけなの。中小企業の内部で這いつくばっている貧乏人たちが、その懸命な努力とやらで、一日何千円稼いでみても、そういう選ばれし投資家には永遠に追いつけないわけよ。不況の大波がやって来たときに、努力と我慢とやらで、小さなアパートの屋根の下で、蟻のように耐え忍んで生きていくのもいいけど、僕なら株式市場に大金を投資して、この人生の一発逆転を狙いますね。まあ、見てて下さいよ。社会の仕組みを知っているからには勝つしかない。数年後には、年間数十億円を稼ぐ男になってみせます」
「才能だけで大成功する人物は確かに存在する。しかしね、この広い社会の中では、本当にひと握りだし、そういう人だって、それまでの半生を、君のように遊んで過ごしてきたわけじゃない。大学で国際経済学や各国の歴史などの研究をしたり、独学で株式投資の基本を勉強をしてきたわけだぞ。君のように屁理屈を垂れて、社会の入り口における本当の勝負から目を逸らしているような奴には彼らのような成功者と同じことは出来んよ」
私は情けない知識を次々とひけらかしながら、それを恥とも思っていない、男の顔を睨みながら、噛んで含めるようにそう諭してやった。しかし、相手はそれを聞かされても、まったく後ろに引く様子はなく、他人の忠告を理解するという概念を完全に失った生物のように思えた。まだ、言葉が理解できない子供相手に話しているのと同じ状況である。いや、それよりもさらにレベルが低い。
「へえー、これだけ丁寧な説明を聞いても、まだ旧世代的な、ちまちまとした生き方を肯定するんですか? 畑で蜜柑や大根を育てて、一円単位の買い物にこだわる主婦たちに、一個30円で安売りしていくとして、それが本当に幸せになれるんですか? 台風や干ばつの一発で全てを失うんですよ。お父さん、インターネットって知ってます? マイクロソフトってわかりますか? 世の中には、あなたの年収くらいの金額を、たった数分で稼いでしまうような凄腕の投資家がたくさんいるんですよ。退職後の生活や貯蓄を気にするなら、そちらを目指した方が断然早いでしょうが……」
「短時間で信じがたい大金を稼ぐ人がいるということは、逆に言えば、腹黒い資本家に不法に搾取されている低賃金労働者が、数多く存在していて、職の安定も得られぬまま、歯を食いしばり、地道に働いているということなんだぞ。金銭的にせよ、肉体的にせよ、彼らの苦労がこの国に存在しなかったなら、君の言う投機家だけが生き残る資本主義とやらだって成立しないわけだ。残るのは、誰も住めない破綻した世界だけだ」
「はいはい、わかりましたっと! 驚いたなあ、ここはジャングルの集落で暮らす、南米やアフリカじゃないはずなのに、今どき、こんな人がいるとはね……。月給十五万で働いている、低賃金労働者の幸福まで視界に入れて働いていたら、経済なんて回らないでしょうに……。アメリカや中国のような大国に勝つつもりはないんですか? 自分が一番になる夢を持ったことはないんですか? まったく、飽きれたよ……、本当に現代人なのかね……」
「じゃあ、ちょうど、メインのハンバーグが焼けたみたいだから、みんなでお食事にしましょうよ」
まったく噛み合っていない、たったこれだけの不毛極まる会話によって、この場の雰囲気は、すっかり崩れ去ったわけだ。それを見て取ると、うちの妻は、何とか仲裁しようと間に入ってきた。このタイミングでレフェリーが割り込んで来なかったなら、もう、入るところは二度とないであろう。言うまでもなく、ノーゲームである。
「おばさん、食事の前にちょっとタバコ吸ってもいいですか? 久しぶりに長く会話したら、呼吸が乱れちゃって、気分が悪くなってきたので……」
彼は妻に対して、少し乱暴な口調でそう呼びかけた。少し言い負けた気がしていたのか、誰かに怒りをぶつけたい気持ちがあったのかもしれない。
「逆井君、うちは禁煙なんだ。すまんが、玄関から表へ出て、外で吸ってきてくれ」
私の方からは、右手で玄関を指さして、冷たい声でそう命じた。娘の彼氏は怒気が消えないのか、こちらを鋭く一瞥してから、無言のままに立ち上がると、強い足音を立てながら、玄関の方へと歩み去っていった。
「陽子、こんな数分間のやりとりで、一人の人間の内面がすべて解き明かせるわけではないだろうが、父さんは、おまえがあの男を恋人にすることは、絶対に認めないからな」
私は玄関の方に一歩踏み出し、男が外へ出ていった姿を見届けてから、娘に背を向けたままでそう告げた。
「えー、なんでよ。今日はちょっと興奮してるみたいだけど、いつもは本当に態度のいい人なのよ。わたしの言うことなら何でも聞いてくれるし、大型バイク免許だって持ってるのよ。頼むから、見かけだけで判断しないでよー」
娘は泣きそうな顔をしてそう叫んだ。『優しさ』の本来の意味もろくに理解できていないくせに、あんな男の内部にそれを認めるとは、本当に単純で幼稚な子だ。もちろん、これは彼女の成長過程での問題もあり、私の責任とて大いにあるのだろう。定年も近くなることだし、これからは仕事以外の時間も増やし、なるべく家族の面倒を見てやれればいいのだが。
「とにもかくにも、だめだ。実地調査や勉学など、自分では何も行動に移さないくせに、ネットで一番目立つ情報だけを見て、人生を渡っていこうとする人間は、必ず失敗する。それにあの男の語り口は、それ以前のように聴こえる。詐欺師レベルの生き方だ」
「でも……」
そんなとき、妻が夕食のハンバーグの大皿を持って、居間の方に戻ってきた。
「まあ、とにかく、もう少し話し合ってみましょうよ。今夜はまだ時間がありますしね。何もすぐに結婚するってわけじゃないんでしょ? 家族同士が真心こめて、長い時間をかけて付き合っていかなきゃ、本当の人間性はわからないわよ」
妻は、娘の肩を持っているわけではないのだろうが、この重要な会見がたった十分程度で破綻してしまうのだけは何とか避けたいようだった。夕食の支度ができたので、皆で席に着き、先ほど、外へ出て行った例の男が、タバコ休憩から戻ってくるのを皆で待つことにした。
「でも、遅いわねえ……、お父さんがあまりにも辛辣な言葉を浴びせたもんだから、ここに居づらくなっちゃったのかな?」
娘は相も変わらず向こうの肩を持ち、信じ難いことに、真面目な顔でそんなことを言い出してきた。だが、あの図々しい男は、断じてそんな神経質なタイプの人間ではない。我々を散々待たせたあげく、さっぱりとした表情で戻ってくるに決まっている。おそらく、その時には、謝罪の言葉のひとつもないはずだ。そして今度は、私を家族の対話から置き去りにして、つまらない話を延々と続けるわけだ。私の神経はそういう展開に耐えられるのだろうか?
「それなら、私が声をかけて連れて来ましょうか? 彼だって、そろそろ頭も冷えてきて、お腹だって、空いてくる頃合いでしょう」
妻はそう言って立ち上がり、玄関の方に向かって歩みだした。そのときだった。ドアの外から劈くような叫び声が轟いてきた。普通の生活の中で聴くような声ではない。例えば、想像だにしない何ものかに、背後から、突然襲われたときのような……。とにかく、これはただ事ではない。全身が総毛立つような、おぞましい声だった。
「だ、だ、誰か来てくれ!」
その叫びは確かにそのように言っていた。今度は落ち着いて聴いてみたところ、間違いなく、先ほどの陽子の彼氏の声なのだ。それからすぐに、何者かが壁に体当たりをするような、鈍い音が何度も響いてきた。その直後、ドアが勢いよく開いて、先ほどとは、まるで別人のような顔をした逆井君が飛び込んできた。
「血だらけの腐乱死体だ! に、庭に積まれた、でっかいトランクの中に! 森だ! 森に捨てられている、トランクの中に、ばらばらの死体が!」
そのおぞましい台詞を証明するかのように、顔は体験したこともないような恐怖にひきつっていて、ほとんど真っ青だった。これは常人が演技で作れるような表情ではない。我々を脅かそうと、ただのお遊びで嘘をついているようには、とても見えなかった。
「死体って、なに? どこに? ねえ、ちょっと、落ち着いて話してよ」
娘はすぐに駆け寄って、懸命に彼の肩を支えてやり、落ち着かせようとしていた。しかし、何かを見た男の方は、完全に火事場からの逃亡のようなパニック状態に陥っていて、玄関先で立ちすくむことも出来ずに、何度もよろめいてみたり、自分の見てしまったものを、何とか記憶から掻き消そうと、その両腕を乱暴に振りまわしてみたり、地団太を踏んだりしていた。我々家族が近づくことも許さないような振る舞いだった。
「あんたら、あそこに死体が捨ててあること知ってたんだろ! 最初から、俺を嵌める気だったんだな! どんだけ頼まれたって、こんな恐ろしいところにあと数分でもいられるか! 俺はもう帰るからな! 二度と来るもんか!」
その視点はまったく合っておらず、何度となく、どもりながらもそう叫ぶと、陽子の彼氏は大切な所持品のいくつかを、我が家の居間にそのまま置き忘れて、背中から声をかける間もなく、玄関から飛び出していった。娘は動転して、意味もとれぬ言葉のいくつかを叫びながら、慌てて彼の後を追いかけていった。しかし、彼はすでにヘルメット着用を済ませて、バイクにまたがっており、そのまま、噴煙をあげて走り去っていった。
「変なの……、突然、気がおかしくなったように、逃げ帰っちゃった……」
娘のその率直な言葉が、我が家族全員の混迷に陥った気持ちを代弁していたわけである。あの男の余りの豹変に気を取られ、彼の叫びの中に、トランクという単語が含まれていたことをしばらく忘れてしまっていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。