★第十一話★
マスコミや警察が自宅前のトランクの数億円をあさっている画が頭から離れず、今日は残業をあきらめ、部下に任せて家に帰ることにした。帰る途中の沿道で、マイクを持って群がってくるマスコミへの受け答えを脳内で予習して、万全の態勢で自宅前に乗り込んだのだが……。
すでに、大麻を吸わされたような錯乱状態に陥っている。会議からは脱出できたが、これ以上平静を保って仕事を続けることは困難だ。態度の異変から悪事が露呈することだってある。私は深い残業はせずに、今日のところは仕事をここで切り上げ、自宅に帰ることにした。毎日、時計の針が定時の五時を過ぎる頃に、朝とは打って変わって疲れきった表情をして、下を向いて、とぼとぼと帰っていく部員たち、あるいは、これから同僚と飲みにでも行くのか、空元気の笑顔を振りまいて、浮き足立っている部員たちに「上がるのかい? お疲れ様!」と手を振りながら快活に声をかけるのが習慣だった。管理者である自分については、他のほとんどのフロアの灯りが消える、一番遅くまで職場に残り、黙々と仕事を続けてきた。それは我が社の常であり、今日まで繰り返してきた数年間は当たり前のことと考えていた。
仕事がトラブルに見舞わられ、あるいは、顧客の要望で校了寸前で直しが入り、納期ぎりぎりまで追い込まれたとしても、それを部下の不手際のせいにしたことは一度もない。才能や学歴ではなく、真面目一辺倒を武器にして働いてきたこの二十数年間には、それなりの自負を持っている。自分よりも、ずっと経験の浅い部員たちを真っ暗な職場に残したまま、まともに顔を向けて挨拶もできずに帰宅することが、こんなに後ろめたいことだとは思いもしなかった。それでも、これ以上みんなの前で、見苦しい失態を重ねるよりはマシだ。たちの悪い妄想に憑りつかれたまま働き続ければ、私のミスによって会社に重大な損金を与えることにもなりかねない。私は部下の金沢係長を手招きで呼び寄せて、今日は体調がすぐれないので、悪いけど残業を引き受けてくれないかと頼むことにした。彼女は快く引き受けてくれたが、ここ十数年間、体調のことで弱音を吐いたことのない、私の突然の変貌に驚き、また、何か私生活の方で重大な出来事でも起こったのではないかと、心配して気づかってくれた。明日はちゃんと時刻通りに出勤するからと告げて、彼女に深々と頭を下げ、私はそそくさと会社を後にした。
列車が順当に地元の駅へと到着すると、まず駅に備え付けの公衆トイレに駆け込んだ。そして、手洗い所に設置された鏡を見ながら、Yシャツの襟やネクタイは曲がっていないか、髪型は整っているかなど、身なりを確認した。今頃、自宅の周辺には、殺気立ったマスコミの報道員たちが密集していることだろう。皆、私の帰宅を心待ちにしているはずだ。それは、発見された膨大な札束について、この私が最も重要な情報を握っていると信じているからだ。言うまでもないが、この大事件の主役は私なのである。何の警戒もせずに普段通りの様子で、無防備に自宅へと近づいていくと、待ち伏せていた彼らに簡単に見つかってしまう。そして、次の瞬間には、私の顔に向けて、無数のフラッシュが焚かれることになるだろう。つまり、今現在のこの格好と表情が、全国放送に乗って流されていくのだ。『この大事件の主役はあの人らしい』お茶の間の全ての視聴者の際限もない憶測がそこから始まる。昨日までは誰の注目も集めず、とぼとぼと街を歩いていた一般人が、翌日には突然新聞各紙の記者に囲まれる有名人に変貌してしまうところを、ついこの間、似たような事件の最中に、自分の目で確認したばかりではないか。そういう意味では、第一印象というものは、とにかく大事なのである。カメラの前にだらしない身なりで出てはいけない。記者たちの質問に対して、無関心を装った、いい加減な反応をすれば、視聴者に最初から不快なイメージを与えてしまう。歴史に残る大事件の第一発見者にふさわしく、それぞれの質問には、冷静にハキハキと答え、なるべく下手に出ること。その上で、どんな事態にも落ち着いて対処しなければならない。おそらく、マスコミ記者からの問いかけは長時間に渡るであろうが、その中で、一番言ってはいけない種の台詞は、私が一時的な欲望に駆られ、警察に通報する前に、トランクから百万円を抜き取ったことを肯定する言葉である。あの時はそこまで明確な意識もなく、欲望に駆られたわけでもなく、ほとんど悪気もなく抜いてしまったのだが、もちろん、世間一般の視聴者には、そんな曖昧な言い訳は通用しないだろう。何しろ、私のこれから発する一言一言は、全国津々浦々の全ての職業の人々に、普段はニュースなど見ないような、あらゆる地方の住民に、あらゆる思想の持ち主に対して放送されるわけだ。全ての意地汚いマスコミを相手にして奮闘する、私の懸命な姿を目にして、心を動かされ、励ましてくれる善人も少なからずいるであろう。しかしながら、少々のミスに対して、すぐに堪忍の尾を切らす悪意の主もそれと同様に画面を見ているわけである。嫉妬に駆られて、その言葉の一部始終を、金銭奪取のための虚偽発言ではないかと疑いの目で眺めている人間もかなりの数いるのかもしれない。いや、むしろ、通常の神経を持ち合わせた人が六億円発見の速報を知れば、単純な驚きよりも、欲望や嫉妬の方が先に生まれくるものである。そういうねじ曲がった目でテレビを見ている人が大多数であろう。つまり、私の立ち位置はほとんどの国民とは対立関係から始まるのである。彼らをいたずらに刺激してはならない。呼び集められた報道陣に質問を浴びせられたなら、私はまず、記者団の前に立ち、このように発言するだろう。
『皆さん、私は確かにこのトランクの第一発見者です。中身が大金であることを最初に確認したのも私です。しかしながら、皆さん、落ち着いて聞いてください。私の心が欲情の悪魔に憑りつかれたことはありませんでした。この大金に手を出したこともありませんし、これからも、自分がどれほど優位な立ち位置になったとしても、これを受け取るつもりはさらさらありません。私は二十数年間にわたり、会社で管理職として真面目に勤め上げてきました。人間として、最低限生活できる程度の報酬さえ頂ければ、決してそれ以上を求めない人間なのです。昼は幕の内弁当、夜のおかずは、ほうれん草のお浸しとしじみの味噌汁のみ。私を疑う方々に逆に問いたい。労働を義務とする人間にそれ以上の何が必要だというのでしょう? 私は分不相応の札束には手を触れませんでした。なぜなら、このトランクの中に仕舞いこまれていた、大量の札束はすべて本当の持ち主に返されるべきお金であります。本来この場所は、この近辺の住宅地に住む人々が共同で使用しているゴミ捨て場であります。このトランクを放り出していった人物に、どのような意図があれ、この大金が本来の目的とはまったく違う意図により遺棄されていることは明白であります。ですから、法律上、この私に第一発見者としての取得権利があるとしても、これをすべて頂くわけにはいきません。万が一、金輪際、トランクの持ち主が現れないのであれば、これは社会に奉仕されるべきお金であります。一私人が欲望のままに自由に扱っていいお金ではないのであります。私はここ数日間の熟慮の末に、これを複数の障がい者施設に寄付させて頂くことを決めたのであります』
このように切り出せば、さすがに、マスコミの敏腕特派員たちも、あまりしつこくは質問してこないだろう。なぜなら、彼らが疑問に思っていること、また、明日の朝刊のために、ぜひ知っておきたい情報がすべて盛り込まれているからである。つまり、こちらから先手を打つわけだ。聖人のような発言の後で、これ以上突っ込んでいくとなると、視聴者の目にはかえって無礼千万に映り、報道自体が逆効果になるだろう。また、自分が第一発見者だと名乗ることで、彼らの注目を一身に浴び、質問をこちらに集中させることにより、妻や娘をマスコミの質問責めから解放してやることもできるわけだ。よし、腹は決まった。マスコミへの最初の対応はこれでいこう。
私はそう覚悟を決めると、勢いよく公衆トイレから飛び出そうとしたのだが、ふと、眼前に掛けられている、薄汚れた鏡の右横に使い捨てのひげ剃りが一本置かれていることに気がついた。自分より少し前に、ここで身だしなみを整えていった誰かが置いていったのだろうか? 刃の両脇はすっかり錆び付いていて、相当長い時間ここに放置されていたと推測できた。刃の中央は窓の外から差し込む夕陽の光を真っ向から浴びて、いまだに光り輝いてはいたが、他人の使ったそれを自分の顎にあてる勇気は誰にもないだろう。だが、何気ない気持ちでそれを見ていた瞬間、脳裏には、ある突拍子もないアイディアが突風のごとく吹き抜けたのだ。それは本当に思考の網では難問解決へのアイテムの一つとしては捉えきれぬほどの一瞬の出来事であり、一度まぶたを閉じた、その次の瞬間には、シャボンの泡のように破裂してしまい、いったい、それが何であったのかすら、わからなくなるほど細かく飛び散ってしまった。もはや、どのような手段でも再生することは出来ない。しかし、それは確かに人生の窮地にある私に対して、神がかった何者かが、起死回生の救いの手を差し伸べるために作成したアイディアだったはずだ。私の抱えている、いくつかの困難な情勢は、この一つのアイテムを用いれば、そのすべてが解決されるような気がした。その仄かな考えは、今は時空と記憶の彼方へと堕ちていった。少しの悔いが胸を衝いたが、この先の時間のどこかで、再び浮かんでくることを願って、とりあえず、ここを出て家に向かうことにした。
少しの考慮の末に、畑の間を抜けていく、南側の細い裏道から回り込んで、自宅に向かうことにした。この幅の狭い道は普通乗用車では通れない。農作業用のトラクター専用の非公式の通路だからだ。今や、私は特別な人物であり、表側の太い道から、いつもと同じような態度で、堂々とゴミ捨て場のある林の方へ向かうとなると、鬱陶しいマスコミ集団と正面から鉢合わせることになるだろう。我々を長時間待たせておきながら、悪びれもせず、わざわざ正面から乗り込んで来るなんて、なんて図々しい奴なんだと思われるかもしれない。これから、要人となる人物の第一印象としてはどうなのだろう。あまり、世間一般への印象はよろしくない気がした。ここは裏道からこっそりと入っていって、家の敷地の傍まで来て、多数のマスコミや警察の訪れを知り、さも驚いた素振りをして見せてやるのがベストだろう。
『まさか、平凡な自分が、これほどまでに注目を集めているなんて!』
大事件の始まりとしては、その対応がいいだろう。この位置から広く眺めまわしてみた結果、家の裏側にある大通りには、マスコミの車や警察車両は一台も停まっていないように見えた。まあ、ここに大型車両を停め置いても、事件現場であるゴミ捨て場までには、まだ、だいぶ距離がある。カメラや大型モニターなどの、大きい機材を運ぶのには、いくらか不便である。そのために、どこか別の動きやすい場所に乗ってきた車を停めたという考え方は理解できなくもなかった。それにしても、報道陣の関連車両が一台も停まっていないというのは、少しばかり不自然な気もした。地理にはあまり詳しくない記者や、予備の機材を積んだ車両が待機のために停まっていてもよさそうなものだが……。ここから先は沿道のどこにマスコミ関係のカメラマンが潜んでいるか知れない。私は少し視線を下げて、身を堅く強張らせて、畑の間の小道をゆっくりと進んでいった。申し訳ない、何も存じません、今はまだ言えません、という切り返しの言葉を、心中で何度も何度も念じていた。いくら、有名人の仲間入りを果たしたとはいえ、顔も知らない人間から、突然話しかけられることには、慣れていないし、まだ怖く感じた。
『旦那さん、お帰りなさい。ちょっとお話をいいですか?』
そう呼び止められるのも、もう間近なのだろう。各報道記者からの矢継ぎ早の質問が、幻聴となって聴こえてくるような気がした。先ほど考えたマスコミ向けのメッセージを心の中でもう一度反復してみることにした。呼吸が浅くなってはいけない。極度の緊張がばれるとまずい。疑われてしまうぞ。今一度、大きく深呼吸をした。
慎重に辺りの様子を伺いながら、ゆっくりと進んだ。家まではあと百メートル。そろそろ、家の前の林に待機している報道員たちが、私の姿を遠目に発見して、こちらに向けて、我先にと走り寄ってくる頃合だろう。付近の人通り可能な林道は、すべて情報に飢えている特派員たちによって監視されているはずだ。私の姿はもう見つかっているのだろうか……。畑の中で農作業をしていた老夫婦から、いつもと同じように、丁寧に挨拶されたが、今日は返事をするどころではない。無視をするつもりはなかったが、明るい気持ちにはなれなかった。何しろ、あと数分で自分の姿が全国のお茶の間に届けられ、私は一躍時の人になるのだ。我が家の色褪せた青い屋根が眼前に迫ってきた。表側にはマスコミ記者が大挙して帰宅を待ちわびているのだろうが、この裏道は完全にノーマークだったらしい。私が思わぬ方向から、いきなり姿を現したなら、皆、さぞかし驚くだろう。自宅の前へと続く最後の曲がり角が迫ってきた。先に寄ってくるのは、おそらく駅前の交番からやって来た警察官連中だろうが、すでに数十人単位で集まっていると思われる、マスコミ各社にもきちんと挨拶しなければ。こういう大事件の場合、第一印象は何より大事だ。ついに曲がり角に右足を踏み入れた。私は決意を胸に大きく息を吸った。
「皆さん、どうも、お待たせしました!」
顔面を機関銃のように襲う、カメラのフラッシュが怖くて、私はなかなか顔を上げられなかった。しかし、そんな無礼者たちはどこにも来ていなかった。周囲は思いのほか静かだった。林の奥から、慣れ親しんだ、カラスやコオロギやウシガエルの鳴き声が聞こえてきた。私は恐る恐る顔を上げていった。家のドアの前にも、その先の林の中にも、自分の帰りを待ち構えている者など誰もいなかったのだ。大勢の記者とやじ馬たちでお祭り騒ぎになっているはずの森林には、結局のところ、誰一人としていなかったのだ! 警察の捜査車両はどこだ? 私にマイクを向ける、公共放送のテレビカメラはどこだ? 数百人のマスコミカメラマンはどこにいった? 大金を一目見ようと臭いを嗅ぎつけて集まってきたやじ馬どもも、どこにもいないではないか。結局のところ、我が家の周囲には、何もいないではないか! 呆然とした心持のまま、周囲を見回したが、朝家を出た時と変わったところは、ほとんどない。わずかに、林の中に子供用のクマの人形を模した、安っぽいシャボン玉作成機が放置されていた。近所の悪ガキが遊びに飽きて、ここに投げ捨てていったのだろう。しかし、彼らとて、高く積まれた不気味なトランクには気がつかなかったのだろうか?
太陽が高い位置にあるうちにこの場を警察の連中が訪れているにも関わらず、第一発見者であるこの私の存在が完全に無視されてしまった要因は、端的にいえば、二つほど考えられる。駅前の交番から、警察数名がこの付近を訪れて、調べにくる前に、悪意を持った、他の第三者が事前にトランクを持ち去ってしまったのか。あるいは、私の通報を受けた、あの交番の若い警察官が、結局は私の言葉を信じておらず、ここには来なかったかだ。私は事の真偽を確かめるために、ゆっくりと林の奥にあるゴミ捨て場へと近寄っていった。事前に誰かが持ち去ってしまったのではないか、という疑念は、完全に誤っていたことがすぐにわかった。件のトランクは五つともその堂々とした巨体を晒したままで、これまでとまったく同じ場所に佇んでいた。何とか移動させてやろうと努力したような形跡すらなかった。ただ、つい先ほど、朝との景色の変化は、落ちているシャボン玉製作機だけだと述懐したが、それについては、いくらか間違っていたようだ。砂地と草地の上には、数人のものと思われる革靴の足跡が、はっきりと残されていたのだ。明らかに私以外の誰かが昼間の間に、ここへやってきて、何らかの行動をとったわけだ。しかし、それにしても疑念は残る。もし、それが交番からやって来た警察官の一団だとしたら、なぜ、このトランクをそのままにして立ち去ったのだろうか? 一段目の蓋を開けてみれば、これがただならぬ事態であることは、すぐにでも理解できるはずではないか。このトランクに鍵はかかっていないこと、そして女性や子供の手でもその気になれば開けられる、ということはすでに確認済みである。私はもっとよく調べてみるために、トランクの眼前まで迫ってみた。そこまで寄ってみて、初めて気がついたのだが、一番上に積んであるトランクの表面に薄い白地の張り紙がしてあった。
『トランクの内部を確認しました。釘が数本刺さった木材と鉄パイプが五本。内部のほとんどは、工事現場でかつて使用された廃材と思われます。どこかの悪質な業者が遺棄したと思われますが、こちらで不必要であれば、市役所に連絡をとって引き取りに来てもらってください。○○警察署○○交番担当鈴木』と書かれていた。
これはいったいどういうことだ? 私は思考をどちらに向けても、混乱の只中にあった。警察は自分との約束通り、わざわざここまで来て、トランクを開いて中身を確認したが、札束の存在には気がつかなかったということか? だいたい、このトランクの中には工事用の廃材などといったゴミは、いっさい、入っていないことは、この目で何度も確認している。間違いなく、新品の札束が、隙間なくぎっしりと詰まっている。ただ、それだけで大事件のはずだ。それとも、これまで起こったことは、すべて私の妄想や勘違いだったのだろうか? まさか、そんなことが……。ただ、一応は、自分の幻覚や思い違いだったときのことを想像して、顔面が熱くなっていくのを感じた。私はみたびトランクの取っ手に手をかけた。大したことではないのだろうが、その時、取っ手が白くぼうっと光った気がした。おそらく、勘違いか、疲れのためか、気のせいだ。余りの予定外の事態に、心が動揺しているせいだ。私は取っ手を片手でゆっくりと引き上げた。あえて言うまでもなく、今度の場合も、中には札束がぎっしりと詰まっていた。
どういうことなんだ、これは? 誰かまともな人間が、これを発見したなら、これは間違いなく大事件だ。だが、内部を確認したはずの警察官たちには、この重要性がまったく理解できていないのだ。まてよ、そう言えば、近所をよく徘徊している、片目の不自由なあの婆さんが、このトランクの中身は空っぽだと言い張っていた……。あの時は自分が発見した札束に夢中で真に受けなかったが……。私が初めてこれを見つけたと思ったとき、周囲の地面には、ひとりで歩んできたと思われる、小さなサンダルの足跡が残っていた。あの時は彼女の余りに無関心な態度を見て信じられなかったのだが、もしかすると、あの老婆は私より先に、このトランクを開いていたのだろうか? その上で、これは空であると申告したのか? 実際には開いていたにも関わらず、彼女にも警察にも大金は見えていなかったのか? そう仮定すると、このトランクの中に札束の山が見えているのは、現時点では、私一人だけなのかもしれない。真実に向けて、まだ、考えていかなければならないことは多い。ただ、今夜の件で、ようやく、この事件の解答の一端が見えたような気がした。
『私以外の人間には札束は見えていない』それを前提に考えていくとどうなる? まず、この魔法のお金は実際には使えるのだろうか? 本当に幻影ではなく現物なのか? 偽札ではないのか? そして、本当に私がこれを独り占めして大丈夫なのだろうか? 警察官たちも、このトランクの中を開けてみて、実際に確認したが、このお札は見えていなかった。そうすると、私以外の誰にも、この札束を使用することはできないと仮定するのが妥当だろう。しかし、それでも、それでもまだ、私にはこれが何者かの悪質な罠だと思えてならなかった。誰かが私を騙して、嘲笑おうとしているのだ。長年にわたり、真面目一辺倒で生きてきた私が、人生の床板を外され、金の亡者へと転落していくところを見たいと願う人間がいるのだ。私は様々なことを思いながら、少し場所を移動して、林のあちこちを慎重に見回してみた。しだいに鳥の鳴き声は聞こえなくなっていった。夕日は地平線の彼方に、徐々にその姿を消して、地上は貴重な光を失い、辺りはさらに静寂に包まれようとしていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。