★第十話★
竹やぶ一億円事件の解決報道を見ているうちに、だんだん、警察に捜査を任せた、自分が発見した六億円のトランクの方が気になってくる。頭が妄想に支配され、会社の仕事に手がつかなくなってくる。
疑惑と混乱に満ちた記者会見が終わり、仕事の手を止めてテレビに釘付けになっていた部員のひとりの指によって、テレビのスイッチはすみやかに消された。さあ、仕事に戻れの合図である。私はしばらくの間、その前に呆然と立ち尽くしていた。決して、先ほどの民放の番組の中に驚くべき情報が含まれていたからではない。自分自身が昨日の夜までは、手を染めてやろうと考えていた行為の単純な恐ろしさとその重大性を改めて思い知らされたからだ。もし、自分の心が魔に憑りつかれ、あのトランクの中身を犯罪的で強引な手法によって持ち逃げしようとしていたなら、いや、そこまでしなくとも、抜き取った札束を、誰にも知らせずに、そのまま自分の財布の一部として着服しようとしていたのなら、今頃、性悪な記者たちの待つ会見の場に引きずり出され、厳しく冷酷な追及に遭わされていたのかもしれない。それほど、大金を独占しようとする者に対する、世間の嫉妬や疑惑、そして憎悪の眼は厳しいのだ。私は自分が賢明にも、六億円を警察に届け出る事を決意をしたことに対して、ひとまず安堵をした。例え、今のような、他人に誇るところのない、貧しく慎ましい生活を生涯続けていくことになったとしても、他人様の大金をちゃっかりと着服してしまい、全国民から罵倒され嘲笑され、白い目で見られ、一生外れることのない重荷を背負い続けていくよりかは、どれほどマシなのだろう……。医師に死亡を告げられるまで、ずっと他人から後ろ指を指され、バカにされながら生きていくのは、まっぴらごめんだ。私は懐からハンカチを取り出し、いつの間にか流れ出た額の汗を拭った。そして、ため息を一つついてから、ゆっくりとした足どりで自分の席へと戻り、ほろ苦いブラックコーヒーを口に含んで、ひと息ついた。
その段階で、ようやく気がついたのだが、私のデスクの正面に、いつのまにか森岡という名の中年の男性社員が立っていた。もっと早く声をかけてくれば良いものを、私が席に戻ってくるのを、恩着せがましく待っていたらしい。彼は本当に毎日着替えているかも疑わしい、いつも通りのスタイルに、だらしなくネクタイを弛ませて、不摂生な生活を続けることによって生まれた、でっぷりとした腹を突き出して、Yシャツを中途半端にズボンから出し、タバコ臭い息を吐き出していた。歳は四十代半ばに差し掛かり、すでに会社の中心的存在とならなければならない年齢ではあるが、とてもじゃないが、これから我が社を背負って立つ人間とは思えない、だらしない風貌を晒していた。こんな体たらくな社員は、管理者が直接的に判断を下さなくても、こちらが気がつかないうちに、いつ居なくなってもおかしくはないし、出来ることなら、自分の方から早いところ辞表を出してもらいたいくらいなのだ。勤務中も、仕事の締め切り時間にきわめてルーズであり、職場内の規則や習慣を守ろうともしない。元来潔癖症である私の大嫌いなタイプの人間ではあるが、管理職という立場上、それを表に出すわけにはいかなかった。何年前の話なのかは忘れたが、一応は、入社試験や健康診断を通ってうちの部署に座っている以上、どんな『できの悪い社員』でも、他のまともな社員と平等に扱わなくてはならない。うちの社の規則では、仕事の出来不出来によって、給料に差が生まれることは、ほとんどない。毎日、自分と会社の行く末に神経を尖らせて生活している、他の社員からすれば、まったく理不尽な話である。そして、この男の数々の不始末が、私を悩ませるストレスや不健康の大元になっている。彼はいつものように、まったく社会人としての責任感を持っていないかのような軽々しい態度で話しかけてきた。
「課長、この間配られた、全社員を対象にした、研修のレポートの件なんですが……」
私がうんざりした顔を上げて、さして興味もなく頷いて見せると、彼は何の遠慮もなく話を続けていった。まったく無意味で不毛で対応にも困る話を。
「昨晩ね、自宅で、ちゃんと書いてきたんです。いや、信じて下さい。本当です。私なりにいい文章にしようと、じっくりと時間をかけましてね……、書き終わった頃には、筆を取ってから、すでに三時間ほど過ぎていましたがね……。嘘じゃないですよ、へへ。ただ、ここからが大事なところなんですが……、残念なことにですね……、その仕上がった用紙をですね、自宅の机の上に忘れてきちまったんです……。これには、自分でもがっかりしましたよ……」
私は悪びれぬ万引き常習犯をみるような、疑わしげな表情を向けて、「それは本当かね?」と、ひと言呟いてみせた。
「本当です。断じて嘘じゃないですよ。つらつらと書いていった内容を、一言一句暗唱できるくらいなんです。完成した時には、人間、真剣になれば出来るもんだなあって、思いました。そんな心境に至ったわけですから、事実として、間違いなく書いたわけです。ところが、うっかりしていて、寝る前に鞄の中に入れるのを忘れちまったんです。ここがもったいない……、実に……」
「例え長くとも、文章として書いたことを暗唱できるくらいなら、もう一度、全文思い出せるはずだろう。ここで書いていったらどうだ? 新しいレポート用紙をやろうか?」
私の鋭い指摘を受けて、平岡は慌てて首を横に振って答えた。こういった追及を受けることを予想だにしていなかったことの証拠でもある。五分先のことすら、予測しないで上司の前に出てくるわけか。まったく、愚かな男だ。
「とんでもない。原稿用紙五枚分くらいの文量があるんですよ。記憶力にはそこそこ自信はありますが、とても全部は思い出せません。もう一度、一からやり直すとなると、仕事に差し障ります。明日、明日にしましょう、今度こそ、必ず持って来ますんで、どうか、どうか、今日ばかりは……」
森岡は両手を胸の前で合わせて祈ってみせた。
「それは、まあいいのだが、レポートの締め切りはもう三日も過ぎている。我が部の中で、提出していないのは、すでに君だけだ。今年入社した若い子だって、もうとっくに出しているんだぞ」
私は苦々しい表情でそう通告した。どうせ、『昨夜、がんばって、原稿用紙五枚分くらいの文章を書いた』なんて嘘っぱちであろう。明日にでもなれば、書きなぐったような、いびつな文字で記された、三行分くらいの雑な感想文を渡されるのだろう。だが、本人は少なくとも見た目だけは真摯に謝罪していることだし、これ以上は四の五の言わずに、放免してやることにした。会社に何の貢献もしない、この低劣な男とこれ以上親しく接したいとも思わなかった。しかしながら、その瞬間、心の奥で予期せぬ何かに呼びかけられた気がした。これは今後の展開において、必要なことであると……。私は反射的に立ち去りかけた平岡を背後から呼び止めていた。
「森岡君、いつもより少し浮かれているように見えるのだが、何かいいことでもあったのかね?」
彼はそう呼びかけられると、まんざらでもない表情で少し照れくさそうに頭を掻いた。再び、私の方に歩みながら、その質問を待っていました、と言わんばかりに得意顔で語り始めた。
「ええ、課長、実は七月に出たばかりのボーナスで、外車のジープを買っちまったんです。4WDのやつを」
「ほう、それはめでたいね。昨今、GDPも公務員の給料も下がり続けているというのに……、我が社においては、君が一番景気がいいんじゃないか?」
「いえ、実は中古なんですけどね。休日の暇があるときに、ふらふらと中古車や巡りをしていたんですが、二週間ほど前に、まだ一万キロも走ってないやつを見つけたんです。五十万を頭金にして、残りは二十回のローンにしました」
私はそれを聞いて深く頷いた。『つまらん話だが、聴いてやっているぞ』と示すために。
「まあ、そうだろうな。我が社のボーナスの額では、中古とはいえ、乗用車の一括購入は厳しい……。独り身であっても、ローンを組むのが無難だろうな……。それを手に入れたことで、これまでより、ずいぶん遠出が出来るわけだ……。趣味の釣りにでも、余計に力を入れていくつもりかね?」
彼がこんな外見にも関わらず、意外にもアウトドア派であり、単独でのトレッキングや、釣りやキャンプなどを趣味にしていることは、社内でも有名な話である。ゆくゆくは海外の主要な山岳地帯の踏破にも挑戦する気があるらしい。これは、もちろん、良識を持ち合わせた、ほとんどの社員にとっては、無用な情報なのだが。
「へへ、そうなんですよ。今週の土日にでも、さっそく長野の方の湖畔にでも出かけようと思ってるんです。寒くなってくると、とにかく、夜空が綺麗なんです。課長も良かったら、今度一緒にどうですか?」
「おお、いいね。実は山中湖あたりで、大自然の澄んだ空気に浸りながら、のんびりと釣りでもしたいと思っていたんだ。機会があったら、ぜひ、よろしく頼むよ」
お互いに実現化する気配のまるでない、不毛な約束を交わして、その場は別れた。私は左手の腕時計を確認した。十時五分前だった。
そういえば、我が家のトランクの一件は、いったい、どうなったのだろうか? 早朝に約束を交わした、あの警官は他の同僚と一緒にゴミ捨て場に向かえるのは、だいたい三時頃になると話していた。彼が私の語った話を真に受けているとすると、実際には、もっと早くに動き出して、ゴミ捨て場に向かっている可能性もあった。それを考慮に入れると、警察側があの大金を上手く対処できずに、マスコミ各社に情報がそのまま漏れてしまっていた場合、そろそろ、テレビに『森林のゴミ捨て場に遺棄されたトランクから六億円を発見』の速報がスクープ映像として飛び出てくる可能性もあった。立場上、仕事中にテレビを見たい、などと言い出すわけにもいかないが……。だが、知らんふりを決め込んでも、私が帰宅する頃には、自宅の周りは新聞社と報道局のスタッフでごった返しているのかもしれない。やはり、今日この日だけは、無理にでも仕事を休み、自宅周辺で待機していて、どんなに質の悪い記者たちが押しかけて来ても、私自身が現場を取り仕切ってやるべきだったのかもしれない。
しかし、今日は午後一番から、常務一同も出席する、管理職会議がある。これを大した理由もなくサボるわけにはいかない。警官には見本の札束と一緒に、私の名刺も渡しておいたはずだ。彼らが現地で大量の札束を確認したら、大急ぎで第一発見者のところまで連絡をするかもしれない。その場合、会議の最中であろうが発言の途中であろうが、書類をぶちまけてでも、そこから抜け出して、大急ぎで家に戻らざるを得ないだろう。それに加えて、上司連中に対しても、これ以上、数億円の大金を発見したことを黙っているのは難しいだろう。上役にこの一件を伝えれば、それは社内の多くの人間に、私が数億円を発見して、その占有者になっていることが露見することになる。いずれにしても、今日はすぐに抜け出したとしても、九時十時まで残業して働いたとしても、このまま無事には済まないだろうし、どういう結末を目指して、ことが進んでいったとしても、私の人生の中でも、もっとも、大きな分岐点のひとつになるであろう。
当然のことだが、いつにもまして仕事には集中できなかった。頭の中は、次々と湧き上がる、悪しき妄想に取り憑かれていて、仕事に最低限必要な集中力をまったく欠いていた。それどころか、視界が揺れて定まらない、目眩がする……。大金の詰まったトランクを発見してからの数日間は、自宅を遠く離れた職場まで来ると、ずっと、このような心理状態だ。これまでの自分ではあり得なかったような、ミスやトラブルも目に見えて多くなってきている。そろそろ、職場の他の部員も、私の様子が日に日に以前と違ってきていることに、気づいてしまっているのかもしれない。
午後の会議が始まっても、思考や想像の内容は良化しなかった。普段のような集中力など望むべくもなかった。必要もないのに配られる分厚いレジュメ。何一つとして頭に入ってこないのに、それを捲っているだけでウンザリして視界はぼやけてくる。頭の中に映し出されてくるのは、緊張感に包まれながら、慎重な態度により、ゴミ捨て場でトランクを開けている複数の警察官。眼前の常務からは、長々と発表される今月の収支の経過と来期の見通し。頭の中では開かれたトランクの内部に数億円の札束を発見して、パニックになり、大声で近くにいる署員を呼びつけている上役の警察官と、その一報を察して、すでに動員されていた、マスコミ各社の報道員。会議は来期の人事体制の見通しと長期病欠して療養している社員たちの現況の発表。そこで他の部の管理者から、退職者の休暇の取り扱いについての質問が出る。私の耳と頭脳を透明な矢のように貫通して、常務が淡々とそういった質問に答えていく。私の頭の中の映像では、ハイエナのようなマスコミ記者に捕まってしまい、嫌々とインタビューに答える妻の映像が流れた。そこへ、さらに何も知り得ない娘が無邪気に学校から帰ってくる……。当然のことながら、娘もマスコミの餌食となり、すぐさま取り囲まれる……。彼女らは、この私がすでに札束を発見していることや、それを自分の判断で交番に届け出たことを、まったく知らないのだ。二人とも、訳が分からないので、上手く返答が出来ず、心無い記者たちから罵声を浴びせられ、耐えられない心痛によって、苦悶の表情を浮かべている。
妻と娘はトランクが開けられて大金が見つかるまでの、これまでの経過を何一つとして知らないわけで、「主人が帰ってくるまで、もう少しだけ、待ってください」のひと言も言えない。「大金が家のすぐ傍に放置されていることなど、何も知らなかった」と語って、下を向いて、そのまま、恥ずかしそうに黙り込むだけだ。非情にも、その様子は全国放送によって流されていく……。ここで我に帰る。何も聴こえていなかったが、会議はどこまで進んだのだろうか。今月の顧客からのクレーム報告と、来期の重要銘柄の進行状況か……。だめだ、札束の動向が気になって、重役会議の中身など、まったく頭に入って来ない。自宅の周辺では、新たな情報を求めて、サバンナで暴れる飢えた野獣たちのようになったマスコミ記者が暴徒化している。捜査の進展の鈍さに、いよいよ、我慢ができなくなった警察からは、私の個人情報に関する発表がある頃合いかもしれない。あの若い警官に不用意に名刺など渡さなければ良かった。いよいよ、こんなくだらない会議に参加している場合ではなくなってきた。早く終わらせてでも、自宅に戻らねばならない。そう思い始めると、会議はようやく終幕へと向かったようで、最後に常務が各参加者に対して、全体を通じての質問を求めている。やめてくれ! もう、たくさんだ。こんな精神状況で業務上の質問になど答えられるわけがない。「会議の内容など、最初から最後まで、何も聞いていませんでした。よって、答えかねます」とでも言い返すしかないだろう。幸いにも(あるいは、参加しているどの役員も、この会議をそろそろ終わらせたいと願っていたのかもしれないが)これといって専門性を要する質問は出なかったため、本日の定例会議は、そこで閉幕となった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。完成が見えてきたので、ぼちぼち公開していきます。