失くしもの
僕は、ある日を境に記憶を失った。
ある日がいつなのか、僕にはわからない。そして、その日になにが起こったのかも、僕はすっかり忘れていた。
失ったものは他にもある。
僕には妻がいる。三十歳で結婚してもう十年になるが、妻の美しさはまるで衰えることがない。それが、僕の自慢だった。
僕たちは、喧嘩という喧嘩をしたことがない。周りからはおしどり夫婦と言われるほど、本当に仲のよい夫婦なんだ。
それなのに、その妻が、近頃は僕を避けるようになった。
なぜなのか。どんなに考えても僕にはわからない。本当に、まったく心当たりがないんだ。
もしかしたら、失くした記憶になにか関係しているのかもしれない。
僕は、記憶とともに、妻の信頼も失ってしまったようだった。
僕は、妻に連れられて病院に行った。
脳神経外科だった。
妻が、先生に言う。
「最近、よくうなされるんです」
「うなされる?」
「はい。変なものが見えたりも……」
「ほお」
「首に、人の手形がついていたこともありましたわ」
僕は、自分の首に手を当てた。
鏡がないのでわからないが、手形がついているのだろうか。それに、うなされているとも妻は言った。けれども、僕にはまったく心当たりはない。
――まあ、寝ている時の話だものな。
きっと、気づかなかっただけなのだろう。僕はそう思った。
それに、僕は嬉しくもあったんだ。
――やっぱり、君は僕を心配してくれているんだね。
そう思ったから。
でも、それなら、なんで妻は僕を無視したりするのだろう。
「先生」
僕は、妻が診察室を出て行ったのを見届けると、医者に声をかけた。
「妻が、最近僕を避けているんですよ。僕には無視されるような身に覚えはないんです。これも、記憶を失くしたことになにか関係しているのでしょうか?」
僕は、真剣に尋ねたつもりだった。だが、医者は、
「ここは脳神経外科だぞ。そういう話なら精神科の管轄だろうが」
ぼそりとそう言うだけだった。
なんて医者だ。来院した患者に対して、ほんの少しのカウンセリングもしないのか。
――精神科だと? ふざけるな!
僕は腹を立てたが、医者と喧嘩しても仕方がない。妻に続いて、僕も診察室をあとにした。
それから間もなく、妻の様子がどんどんおかしくなっていった。僕に、酷い罵声を浴びせかけるようになったのだ。
「私に近寄るな! 来ないで! 消えてよ!」
妻がそんな乱暴なことを言ったことなど、これまで一度もない。これならば、無視をされていた方がずっとマシだった。
僕が妻の豹変ぶりに戸惑っていると、
「お願いよ。来ないで。消えて。もう、私に関わらないで……」
妻の訴えが、懇願するようなものへと変わった。
僕はこの時、医者が精神科を勧めたのは僕ではなく、妻に対してだったことを知った。
それから、気がつくと僕はある薄暗い一室にいた。
本当に、どうしてこんな所にいるのかわからない。
どうやってきたのかも、わからない。
大体にして、そこは見たことのない部屋だった。
もしかしたら、僕の記憶はいまだに混濁しているのかもしれない。
そんなことを思っていると、
「やあ」
突然、暗がりの中から声が降ってきた。一人だと思っていた僕はかなり驚き、後ずさる。
「だ、誰だっ」
上擦った声で尋ねると、闇の中からぬっと男が現れた。一人ではない、ふたりだ。どちらも整った顔つきではあるが、具合が悪いのかそれとも暗がりのせいか、二人そろって青白い顔色をしていた。
「あれ? 憶えていないのかい?」
長身の男が言う。
「ショックで、一時的に記憶が混濁しているのかもしれないな」
痩せ型だが少し筋肉質の男がそう言った。
「なんなんだ、君たちは。記憶が混濁って……僕のことを知っているのかい?」
二人はうなずく。
「ああ、知っているとも」
「俺たちは、同じ敵を持つ者同士なんだよ」
「同じ敵……? 一体なんのことだ」
その時、勢いよく部屋の扉が開かれた。光を背に入ってきたのは、僕の最愛の妻だ。
しかし、どうしたわけだろう。
妻は僕に目もくれず、ずかずかと部屋に入ってくるなりカーペットの下の床板を外し始めたんだ。
それを呆然と見ていると、床下から大きな木箱が出てきた。それは、本当に大きくて、まるで棺桶のような大きさだった。
その蓋を、妻がぱかりと開けたんだ。
僕は、驚いた。
だって、そうだろう?
妻が開けた箱から、腐りかけた人の顔がのぞいていたんだから。
しかも、なんていったって、それが、僕の顔だったんだから……。
僕は、しばらく放心していた。
なにが起こったのか、まるでわからない。
……知りたくもない。
妻がうつむき、肩を揺らしている。
きっと、泣いているのだろう。
――ああ、僕のために泣いてくれているんだな。
そう思った僕は、少しだけ正気を取り戻した。
そして、ひとつだけ思い出したんだ。
――そう、僕は、殺されたんだ……。
薬を使われたのか、その時の僕は意識が朦朧としていた。
そこに、激しい衝撃があって、僕は倒れた。床に打ちつけた体よりも、頭が激しく痛んでいたのを憶えている。僕は、なにかで頭を殴打されたんだ。
そして、倒れる瞬間に見えたあの人影……。
――そうだ、あれは……。
「お前たちだっ!!」
僕は、突っ立ったままこちらを見ている二人の男に飛びかかった。
「お前たちが、僕を殺したんだな!」
男たちはなにも言わない。
「あの時、僕が殺された時、お前たちは確かにここにいた」
男たちはそろってうなずく。
「お前たちは、二人がかりで僕を殴って殺したんだ。そして、僕の死体を床下に隠した。そうだろう!?」
けれど、それには二人とも首を横に振った。
「僕らは君を殺していない」
「そうだ。俺らはただ、君が殺されるところを見ていただけだよ」
「見ていただけだって? なんで……」
「考えればわかることだと思うよ。どうして、君に僕らが見えているのか。僕らに君が見えているのかをね」
僕はそこで、ふと妻のことが気になった。こんなに騒いでいるのに、妻がこちらを気にするそぶりはない。僕は、ちらりと妻を見た。
妻は、肩を震わせていた。
そして、あろうことか……笑っていたんだ。
「あはははははっ!!」
それは、僕がこれまでに耳にしたこともないような、品性のかけらもない妻の高笑いだった。
「ほら、やっぱりそうだ! ちゃんと死んでいるじゃないか! 三人ともここにいる! この箱の中で、三人ともいい子にねんねしてやがる!」
妻は、激しく笑い転げながら続ける。
「だから、ありえないんだ! 死人を見るなんて……死んだヤツが私の所にくるなんて、ありえないっ!!」
そう叫ぶと妻は、すでに腐りかけている僕の顔に、手にした包丁を突き刺した。
何度も……何度も……。
「死ねっ! 死ねっ! 死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!」
妻は笑いながら、僕の顔を見る影もなく潰していく。狂ったように、何度も包丁を突き刺していく。
僕は、驚きと、悲しみと、いろんな感情が一度に込み上げてきて、ただ茫然とそれを見つめることしかできなかった。
そんな時、
「これが、君の妻の正体だよ」
男の声が耳元で聞こえた。振り向くと、二人の男がこちらを見ている。
男たちは、無表情の中にも、うっすらと笑みを浮かべているようだった。
「あれは、ひどい女だよ」
長身の男が言った。
「僕たちは、君と同じなんだ」
「同じ……?」
「あの女はね、僕たちの妻でもあったんだよ」
「は……どういうことだ? まさか、重婚していたとでもいうのか?」
けれど、それには長身の男が首を横に振る。筋肉質の男が続けた。
「俺はいくつに見える?」
尋ねられ、
「三十代だろう。四十まではいってないように見えるが」
僕は答えた。
「ああ。今の君と同じぐらいだな。俺たちは、君ぐらいの歳に殺されたんだよ」
「……それは」
「俺は三十年前に、こっちの彼は十五年前に、妻だったあの女に殺されてここに埋められたんだ」
「……そんなこと、ありえない。第一、計算が合わないじゃないか。その話なら、彼女はもう六十になっていてもおかしくない。だが、彼女が僕と出会った時はまだ二十五。今は、三十八歳だ」
「君だって、本当はおかしいと思っていたんじゃないのかい。いつまでも変わらない、若々しいままの彼女の姿をさ」
「それに、計算なら合っている」
長身の男が話し出した。
「十五年前、君はあの女に出会ったのだろう? だからさ、僕のことが邪魔になったのさ。君と結婚するために、僕を殺してここに埋めたんだ。殺された僕たちは、世間では失踪したことになっているはずだよ」
「でも、年齢が……」
「それは、ただ誤魔化していただけさ」
「そんな! いくらなんでも、二十以上も誤魔化すなんて……」
「最初に結婚した彼ね、なかなかの資産家だったんだ。そして、僕も実業家だった」
「それは、どういう……?」
「成形だよ。それも、顔だけでなく全身ね。そうやって、あの女は年齢を偽って君に近づいたのさ」
「どうして、僕に……。僕は、君たちのように資産家でも実業家でもない」
「そうだね。でも、顔はいい。あの女の好みだったんだろうね」
「そんな……」
「けれど、老いには勝てない」
その言葉が、僕には重くのしかかった。
「なら、僕は、彼女の好みではなくなったから殺されたのか……」
二人の男の悲しい目が、僕を見つめている。
「もう少しだったんだよ」
長身の男が、口の端を釣り上げて言った。
「君がきてくれて、よかった」
筋肉質の男が、今も僕の顔をぐちゃぐちゃに刺し続ける妻に向けて、手を伸ばす。その瞬間、
「かは……っ!」
妻の動きが止まった。まだ、触れてもいないのに。けれど、妻は首をかきむしるようにして苦しんでいる。そして、僕は気づいた。妻の首筋には、まるで締め上げられてでもいるかのように、大きな男の手形がくっきりと浮き上がってきていることに。
「あれは、どういうことだ?」
「念ってあるだろう?」
長身の男が言った。
「ひとりひとりでは淡い力しか出せないけれど、同じ念を持った同士が集まると大きな力になるんだ。ほら、子供の頃にこっくりさんとかやらなかったかい? あれも、三人以上でやる遊びだろう? 僕ら二人だけでは、あの女の夢の中でくらいしか力を持てなかったんだ。でも、君がきてくれた」
「ぎやああああぁぁぁぁっ!!」
耳をつんざくような妻の叫び声を、僕はどこか遠くで聞いていた。
それから何日が経ったろうか。
どかどかと、たくさんの人がこの部屋に押し入ってきた。服装を見る限りでは警察官だろう。
「女の遺体を発見しました!」
「床下にも何かありますね。うっ……これは」
「床下に複数人の遺体があります。一人は顔を潰され、腐乱しています。あとは白骨化してますね。何人分かは正確にはわかりませんが、頭蓋骨の数からおそらくは二人だと思われます」
口々に言い合う警察官。
「やはりこの女、失踪に見せかけて次々に自分の夫を殺していたんだな」
「そうみたいですね。でも、その女がなんだってこんなところで死んでいるのでしょう? まさか、自殺ですかね?」
「そんな可愛らしいタマか。自分の夫を三人も殺して、こんな所に埋めて隠していた女が」
「なら、どうして……」
妻を調べていた警察官が声を上げる。
「首に鬱血と手形が見えます。どうやら、誰かに絞め殺されたようですね」
連続夫殺しの女を殺したのは誰か……。次の捜査で重点が置かれるのは、どうやらそこらしい。
だが、僕にとってはもはやどうでもいい。
だって、僕は誰が妻を殺したか知っているから。
そして、妻は、今もなお、継続して殺され続けているのだから。
彼らは、ずっとこの時を待っていたんだ。
僕なんかよりも、ずっとずっと、深い悲しみ、恨み、憎しみを持って……。
妻は死んだ。殺された。まさに、呪い殺されたんだ。
だから、妻は死ねない。
死んで、なお、妻は殺される。彼らの恨みが晴れるその時まで……。
「ぎやああああぁぁぁぁっ!!」
あれから、一度だって途絶えることのない妻の断末魔の叫びを聞きながら、僕はそっと目を閉じたのだった。