異形、襲来
「逃げるぞ!」
獣人が遠吠えを上げるのと桐生がそう言って俺と佐藤の手を取ったのはほぼ同時だった。俺たちは桐生に引っ張られて我に返り、全力で屋内へと続く扉に飛び込む。一番最後に入った俺の背中を、獣人の爪が掠る。
「すぐ扉を閉めて鍵を掛けろ!」
「桐生!?お前なに言ってんだ!」
桐生の叫んだ言葉に佐藤が怒声を上げる。確かに、扉を閉めてしまえばただでさえでかい獣人が俺たちを追って校舎に入ってくることはできなくなるだろう。しかしそれは屋上に残っている人達を見捨てるのと同義。他に逃げ場のない彼らは獣人に殺されるだろう。
「あの化け物は屋上に残ってる人達と扉の間に立っている。どちらにせよもう無理だ!早く閉めろ!」
「馬鹿野郎桐生!そんなことできるわけないだろ!おいみんな!そいつをかわしてどうにかこっちに来い!」
「おい!それじゃ化け物がこっちに来るだろう!」
しかし桐生の考えとは合わず、獣人はこっちに襲ってこない。おかしい。さっさと俺たちを襲えば、もしかしたら一人くらいなら捕まえることはできるのかもしれないのに…。
「扉を閉めるだって!?ふざけんな!そんなことしたら俺たちは全員こいつに食い殺されるしかねえじゃねえか!」
「俺もそっちへ行く!それまで扉は開けたままにしろ!」
「でも、扉の所まで行くにはあの化け物の前を通り過ぎなきゃいけないんだぞ!あいつがすんなりと通してくれるわけないだろ!?」
「男子!こういうのはアンタたちの役目でしょ!こういう時こそ率先してあの化け物と闘いなさいよ!」
「はあ!?相手は俺たちの二倍以上のでかさなんだぞ!それにさっきてめえも見たろあの鋭い爪を!あんなの相手に戦えとか死ねっていうもんだぞ!」
屋上に残った人達は、遂に言い争いを始めてしまう。しかしその間も獣人は手を出さない。不気味にじっと静観している。そして静かに口を開いた。
『人間どもよ。喚くな騒がしい。今から喋ったやつは殺す』
その獣人はなんと喋った。そして、その獣人の言葉の意味を理解した屋上の人間は、ぴたりと口論をやめる。
獣人はこくりと首を動かす。
『それでいい。人間ども、お前らに慈悲をくれてやろう。今から俺の出す要求を呑んだら、見逃してやってもいい』
その言葉に、屋上の人間たちの顔が一気に明るくなる。声こそ出しはしないものの、一縷の希望を宿していた。もし、地獄の中で目の前に一本の蜘蛛の糸が垂れてくれば、皆、このような表情をするのだろう。
「あの化け物、一体何を考えている…」
俺は眉根を寄せて考える。桐生も気になるのか、今のうちに逃げようなどと口にしない。それは、獣人の真意を知ることで、行動原理を探ろうしているのかもしれない。
そして、獣人の真意はこの後すぐに分かることとなる。
『俺からの要求は簡単だ。。――男を全員か、女を全員、俺に差し出せ。男ならば喰うし、女ならば犯す。これを満たせば、残った方は見逃してやる。今から3分間、喋る時間をやるから、そのうちにお前らでどちらにするか決めろ。時間内に決まらなければお前ら全員を喰うことにする』
『!?』
「なっ…」
「なんだと…?」
俺たちは言葉を失う。そんなことを要求すればあの人達は…。
俺が慌ててそちらを向くと既に収拾がつかに状態になっていた。
「女子たちすまない!頼むからあいつの相手をしてやってくれ!」
「はあ?ふざけんなよ!男なんだからこういう時こそ役にたてよ!」
「俺たちは殺されるんだぞ!その分お前らならその心配もない!全員助かるにはそれしかないんだ!」
「あんな大きいの無理に決まってるでしょ!?それに…ま、まだ初めての人だっているのよ、ただで済むわけないじゃない!」
「じゃあ俺たちに女子の為に死ねって言うのかよ!?」
もう話し合いにすらなっていない。しかしそれが当然だ。こんなもの、話し合いで決まるわけがない。むしろ自分たちで決めろなど争いになるのが当然で…。
「!…まさか」
俺はそろりと獣人の顔を見た。顔は屋上に残る人達へ向けられていたが、ここからでもかろうじて横顔は見て取れた。その顔を見て俺は身震いした。
獣人は、口論する人達を見て、先ほどよりはっきりと顔を歪め、笑っていた。不意にその口からぼそりと、俺だけにしか聞こえないくらいの声量でつぶやいた。
『醜い…』
「―――ッ!野郎!!」
その言葉で理解した。あの化け物は、あえて人間同士で争わせるようなことを言って、混乱するのを楽しんでいるのだ。そんな争いの原因を作ったやつがそれを見て、よりにもよって醜いなどと…。俺は頭が真っ白になる。扉から出ていこうとすると、佐藤と桐生は慌てて止めに入って来た。
「ど、どうしたんだよ立花!落ち着けよ!」
「今行っても殺されるだけだぞ!」
「っ!」
桐生の言葉で我に返る。確かに、ここであの獣人に向かっていっても殺されるだけだろう。
『…約束の3分だ。決まらなかったようだな。それじゃあ――食事の時間だ』
「ッ!!」
「あ、おい待てよ立花!」
獰猛に言う獣人の声が聞こえた瞬間、たまらずそこから駆け出した。後から慌てて佐藤達がついてくる。
背中越しに聞こえてくる悲鳴は、なぜ自分たちを見捨てたのだと非難しているように聞こえ、頭がおかしくなりそうになる。一体なんだ、俺たちが何をしたというのだ。いくら考えても答えは出ない。
そして3階まで降りてきて窓からグラウンドを見たとき、眼下に広がった光景に絶望を強くした。
もう少し現世界編は続きます。