弐
蜘蛛は、京士郎と志乃の様子をじっと伺っていた。
獲物を狙う眼は鋭く、京士郎は未だかつてない恐怖を感じていた。
獣の相手は慣れっこだ。
人の相手はまだできる。
しかし、相手は蜘蛛だ。虫だ。未知の敵である。
しかもこれもまた鬼だと言うではないか。その証である角が、異様に大きく見えた。
ジリ、と京士郎はじれったくなり、足を動かす。
それを隙と見たのか、蜘蛛の一匹が飛び出した。
風を切る音。京士郎の刀が振るわれた。
蜘蛛の断末魔が森に響いた。奇怪なその叫びに、京士郎は思わず仰け反る。
次いで殺到してくる蜘蛛の群れ。京士郎は思わず舌打ちをする。
「急急如律令!」
志乃が呪文を唱える。
炎が符に灯り、それは矢のように飛んだ。その矢は蜘蛛を数匹貫いた。
どうやら前に鬼と戦ったときより調子はいいらしい、と京士郎は思った。
刀を振るう。一振りで蜘蛛たちの数匹を屠る。
蜘蛛は硬くない。しかし力を抜けば一撃を受けるだろうし、気を抜けば首を獲られるだろう。
一片の油断も許されない。
(鬼との戦いとは、こういうことか)
京士郎は胸のうちでそう言った。
数多く出てこられてしまえば、力のない者はひとたまりもなく殺される。
いま相手している蜘蛛たちだって、京士郎や志乃でなければ、その強靭な顎で食いちぎられてしまうことは想像に難くない。
「くそっ、多すぎる!」
京士郎はそう叫びながら、刀を横の振るう。蜘蛛の一匹が両断され、怯んだ蜘蛛たちは一歩引いた。
不気味な赤い瞳が京士郎を見ている。
嗤っている。直感的にそう思った。
蜘蛛たちはろくな身動きができない京士郎たちを見て、喜んでいるのだ。
いつ弱るのか。いつ力尽きるのか。いつ屈するのか。
思わず、京士郎は歯を食いしばった。
自分一人ならどうにかなるだろうが、志乃はどうだろう。
術を使い、身を守っている志乃をちらりと見る。息を荒げており、顔色も良くない。
志乃の使う術の仕組みを京士郎は知らない。しかし志乃の体に何かしらを負わせているのは確かだろう。
「おい、大丈夫か!」
「誰に言ってるのよ……!」
志乃はそう言って、燃える符を再び放った。
炎の矢は正確に蜘蛛を捕らえるが、一匹を燃やしたところで消えてしまう。明らかに弱っているのだ。
もう体力が残されていない。京士郎は蜘蛛たちを刀で追い払いながら、考えを巡らせる。
(志乃がまだ歩けるうちにここから逃げるべきだ。だがこいつらからどうやって逃れる?)
周囲を取り巻く蜘蛛たち。京士郎たちを逃すまいとひしめくそれらに、逃げる隙を見つけることができない。
ならば飛び越えるか。そう思い見上げるも、木々にも多く蜘蛛がいた。赤い瞳は京士郎たちを射抜いている。
万事休すか、そう京士郎は思ったときだった。
空を見る。暗い空。夕暮れどきだからと思ったが、それにしても暗すぎる。
じっと目をこらすと、一部だけ異様な場所を見つける。
……あれは、自分たちを見下ろしている。その圧倒的な存在感にどうして気づかなかったのか不思議なほどだった。
薄暗い雲がそこにはあった。髑髏を思わせるような色と形をしており、京士郎たちを中心に覆うように漂っている。
「おい、上だ! あの雲を狙え!」
「命令しないで、もう!」
志乃はそう言って空を見上げた。
その異様な雲に気づき、志乃は人差し指と中指を結んで空へと向けた。
「忿怒よ、剣を持ちしその腕よ、その火の子よ、悪神を振り払い給え! 急急如律令!」
志乃の腕から、一際大きな炎が現れた。
柱のように伸びたその炎は木々を突き破り、天へと打ち上がる。
さながら炎の剣のようだった。
はたしてその炎は、雲を突き破る。
しかし、京士郎の目は確かに、雲が動いたのを見た。
なんと避けてみせたのだ。それは雲にあるまじきものであり、ただの雲でないことの何よりの証だった。
そして雲は東の方へと逃げていく。途端に、光が射してきた。
それと共に、二人を囲んでいた蜘蛛たちも四方八方へと散り散りになって逃げていく。
「あのくもを追うわ!」
「どっちだ!」
「空にいたやつに決まってるでしょ!」
そう言って志乃は走り出した。京士郎は志乃を抜き、前を走る。
木々を避けて抜けていく。京士郎は途中にいた蜘蛛を斬り、露払いを務める。
髑髏の雲はもう見えなくなったが、二人は走り続けた。
そして、たどり着いたのは。
「……っ、人がいる」
「えっ?」
森を抜ける。眼下には里が広がっていた。
村の者たちが農作業を終えたのか、各々が家に帰っていく最中であった。
先ほどの鬼の襲撃が嘘のようなのどかな光景に、京士郎と志乃は息をついた。
「なんだあ、おまえさんたち」
二人そう声をかけてくるのは、背に籠を背負った一人の男だった。
この里の者なのだろう。志乃が手で京士郎を制し、刀を収めるように伝えてくる。京士郎は渋々と刀を収めた。
志乃がずいと前に出て、男に話しかける。
「……失礼しました。あの、怪しげな雲を見ませんでしたか?」
「雲だあ? そんなもん、見ての通りだろ。雨でも降るっていうのかい」
男はそう言う。どうやら完全に見失ったらしい。志乃はため息をつく。
京士郎は空を見上げたが、確かにどこにも髑髏の雲は見えず、気配もなかった。
「それよりおまえさんたち、旅の者かい? この物騒な時勢に、よくやるねえ」
「いえ……まあそんなものです。私は京より参りました、志乃と申します。こちらは従者の京士郎」
従者を強調して言った志乃を、京士郎は睨みつける。志乃はそんな視線に意も介さなかった。
「へえ、京からわざわざ。村へ来な。もうじき夜になる。よければ泊まっていきな」
男はそう言って、山を降りていく。京士郎は志乃の顔を見た。志乃は頷いて、男のあとを追った。
(もう体力もない志乃を一刻も早く休ませた方がいいか)
京士郎はそう思い、志乃についていく。
夕暮れには烏が飛んでいた。その鳴き声に、京士郎は少しだけ懐かしい気持ちを覚えた。