弐
京士郎は驚愕を隠さなかった。
鬼。そう呼ばれる存在。
目の前にいる異形。京士郎は知っている。坂東の地から迫り、無差別に人を襲い、食い、畏れられている者。
お伽話として聞かされ、しかし現実に現れる脅威。
それが、京士郎の前に姿を現したのだ。
「小僧、そこをどけ」
鬼がその口を開く。
低く、腹に響く声。地の底から聴こえてくるような、耳障りな音。
京士郎は顔を顰めた。
「その娘に用がある」
複雑なことは言えないのか、鬼は短くしか言わない。
そうだ。それはわかりきったことだ。
自分の後ろにいる少女。どこの誰ともわからない、上品な女。
「お前は見逃してやってもいい」
「信じると思うか?」
京士郎はそう言った。鬼は少し、驚いた顔を見せる。
「自分の命が惜しくはないのか」
「こいつがどこの誰かは知らん。だけど、俺がここで死ぬのも、俺がこいつを見捨てるのも、この先の里の人間を見捨てるのも、違いはない。だったらこの女を助ける」
この先には里がある。京士郎の背中にいるのは、少女だけではない。
ここで退けば、少女は、里はどうなるのか。
だとすれば、ここで退くのも、命を落とすのも、差はない。この鬼をここでどうにかしなければならない。
「くっ、はははははは!」
鬼は笑う。何が愉快なのか、滑稽なのか。
そして斧を担ぎ直すと、京士郎を見た。
「ああ、そうだ。違いはない。だが、自分は生きることができる。それは大事なことだ」
「鬼はそう考えるみたいだな」
吐き捨てるように京士郎は言った。
人ならざる身であるが、どうやら鬼に身をやつしてはいないようだと、京士郎は場違いな安心をする。
身構える。ろくに喧嘩などはしたことないし、ましてや戦の作法がわかるわけでもないが、戦う姿勢だけは見せておこうという、せめてもの心がけでもあった。
「ちょっと、逃げなさいよ!」
だが、そんな決心を知ってか知らずか、女はそう言った。
「私のことはいいから、逃げなさい!」
「俺の話は聞いてなかったのかよ」
「聞いてたわよ! でも人が一人で鬼をどうこうできると思ったら大間違いよ。この先に里があるんでしょ? だったら先に行って、逃げるように言って。それが一番なんだから!」
女はそう言う。言っていることは正しいだろうが、それは自分を見捨てろと言っていることと変わらない。
京士郎にはそれは、とても受け入れがたいものだった。
影が伸びる。鬼が腕を振り上げていた。
京士郎は女を抱えて、後ずさる。
腕が振り下ろされた。大きな音を立てて、斧が突き立てられる。地面が揺れるような衝撃があった。
斧であるがゆえに単調な動きだが、当たったら一溜まりもないだろう。
「ちょっと、何勝手に触ってんの!」
「うるせえ! ちっとは黙ってろ!」
続いて、鬼が追って斧を振り回す。
相手の体が大きいからいくらか潜り抜ける余裕もあるが、女を抱えたままではいずれ追い込まれる。
京士郎は地面を蹴って、大きく距離をとった。
鬼から目を外さず、女を下ろす。
「貴方……一体何者なの。あんな動きって」
「いいから。その荷物置いてけ。重えんだよ」
「だめよ、だってこれは!」
京士郎は強引に、女から荷物を奪った。
そして、察する。この包みの中にあるものを、直感的に。
布を解いた。するりと、地面に落ちる。
「これは……刀?」
現れたのは、一振りの刀。
鞘は赤く、中に眠る刃が上物であることをうかがわせる。
京士郎は刀を抜いた。
それは、まごうことなき業物。
輝きは銀。艶めきすらを感じさせ、ただそこに在るだけで人目を惹くであろう。斬ること、ただそのためだけの物にすぎないはずなのに。自らも刺してしまいそうな危うさには、美しさが秘められていた。
京士郎は刀を構えた。
身体を鍛えるためだけに身につけていた、棒振りの術。
それがどれほど通用するか、わからないが。
(戦える)
その確信が、京士郎の手に力をこめさせた。
スッと、目を細める。
「得物を手にしたくらいで、思い上がるなよ、人よ!」
鬼が迫る。斧が大きく振り上げられた。
京士郎と女をまとめて潰すつもりだろう。京士郎の目はゆっくりとその動きを見ていた。
「急急如律令!」
女の叫び。その文言は何を示すのか、京士郎にはわからない。
次の瞬間には、鬼の目前に火があった。
火は鬼の動きを鈍らせる。京士郎には与り知らぬ技だった。
その隙を突いて、京士郎は鬼の懐に潜り込んだ。
刀が煌めく。下段からのすくい上げ。それは鬼の胸を捉えた。
そこに術はないが、理はあった。
しかし、その一撃は致命には程遠い。
(浅い!? けど、まだ!)
鬼が再び、斧を振り下ろす。
京士郎は悟る。己の方が早く、刀を返せる。
再び閃く刃。今度は振り下ろされる斧、その持っている手を狙った。
振り抜く。手応えはあった。鬼の腕とともに、斧が落ちる。
それは京士郎と鬼の体格差が産み出した大きな隙だった。確かに遠くへ届けるその腕は厄介だったが、懐に潜り込んでしまえば、京士郎の方が早い。
踏鞴を踏む鬼。京士郎は体当たりをするように間合いを詰めた。
「これで……!」
「ぬ、ううううっ!?」
刀を大きく振り被る。
そして振り下ろされるまでは、一瞬だった。
縦に一閃。
股下まで振り抜いて、そこで止まる。
京士郎は顔を上げる。鬼と目が合った。ニヤリと笑う鬼。冷や汗が京士郎の頬を伝う。
次には、鬼はゆっくりと倒れた。
どすん、と響く音。鬼の巨体が地面に横たわる。
不思議なことに、鬼の体は黒い靄となって消えていく。
京士郎はそれを眺めて、ようやく自分は勝ったのだと理解した。
手から力が抜けそうになるのを堪えて、刀を鞘へと収めた。
軽い金属の音と共に、刃が収まる。戦いは終わったのだと告げるような感覚がした。
「ふう、何とかなったな」
「……貴方、めちゃくちゃよ」
女はそう言って、京士郎の元へと歩み寄っていく。
その表情は怒りとも呆れともとれる曖昧なものであるが、窮地を脱したにしてはよくない表情だ。
いや、よくないのは表情ではない。顔色も青白く、病人のそれだ。
「あの動きもそうだし、それに鬼に立ち向かっていくなんて、無謀が過ぎるわ。その刀だって、どうして貴方なんかが……」
そう言いかけて、急に女は動きを止めた。
かと思えば、力が抜けたようにその場で倒れかける。京士郎は抱きかかえて女を支えた。
「熱い……こいつ、もしかして」
その体は発熱しており、とても正常とは言い難い。
こんな状態で山を歩いていたのか、それとも鬼と戦っていたときに使った術の反動なのか。
わからないが、このまま放っておけばこの女の身が危ないことだけは確かだ。
「ちっ、世話の焼ける」
そう言いながらも京士郎は刀が当たらぬように、女を担ぐ。
目指すは一路、我が家へ。京士郎はいままでにない急ぎようで、山を降りていった。