壱
地面を照らす、赤の木漏れ日。
冷えてきた空気が突き刺すよう。
それらが日暮れの気配を告げている。
霧を吸って気を得た草木が、首を上げていた。
そんな深い山を、一人の少年が歩く。
少年の顔立ちは精悍で気品すらも感じられたが、日に焼けた肌が妖しい美しさを持たせている。
何より、赤く輝く瞳が目を引いた。
野原を駆ける獣のような。
孤高を誇る獣のような。
少年を見れば、誰もがそんな形容を思い浮かべてしまうだろう。
少年の名前は京士郎。十五年前、川から流れてきた女から生まれた子どもだ。
養父母に育てられ、健やかに大きくなり、今では村で知らぬ者がいないほどのやんちゃとなっている。
「あいも変わらず、向かうのかい」
その声は空から聞こえた。
少年が立ち止まり、顔を上げた。
木の幹に一つの人影が立っている。
大きな、黒々とした翼。赤ら顔に高い鼻。山伏の装束。高い下駄。
自らを天狗だとそれは名乗っていた。少年もまた、疑っていない。
あいも変わらず、と天狗は言った。彼の言う通り、京士郎は毎日山を登っている。
それは、彼の母の墓が山の中にあることによる。幼い頃にそのことを養父母に伝えられてから、京士郎は欠かさずに、母の墓参りをしているのだ。顔も知らない産みの親ではあるが、その感謝の念だけを伝えに行く。
京士郎が無言のまま、また歩き始めると、それさえも面白いと天狗は笑った。
「かっかっか、よくもまあ飽きずに毎日毎日。そこには奴さんはおらぬと言うのに。人とはよくわからんのう」
「いいだろ、別に」
京士郎は眉をひそめるも、いつも通りのやり取りであるから気に留めず進んだ。
京士郎の足取りを、天狗が追う。彼は空から、少年の背中を笑って眺めている。
「お前、棒振りはまだ続けてるのか」
棒振りというのは、言わば剣術のことである。師を持たない京士郎のそれを術と呼んでいいかは定かではないが、暇を持て余した京士郎は棒を振って身体を鍛えていた。
そして元はといえば、この天狗が剣術について口にしたことが発端である。
「だからどうした」
「これからは武士の時代と言ったがな。笛や歌を学んだ方がよほど身のためだ。お前の顔は公家受けするだろうからな。評判になれば、どこぞやの家の者がお前を見定めに来るかもしれん。そっちの方がよほど親孝行だと、儂は思うんだがな」
「知らん。興味がない」
京士郎はそう言った。
そもそも、そんなことはありえないだろうと。
自分は人とは違う。人のようには生きれないし、人は自分を人としては見てくれない。
だからせめて、自分を育ててくれた者への報いとして、彼らを守ろうと、そう思うのだった。
「おいおい、色恋ってのに興味がないってのかい? こいつは放っておけねえな。いいか、この国は色恋から生まれたんだ。伊奘諾と伊邪那美の奴らがくっついて生まれたんだ。つまり色恋ってやつはこの世の真理なんだ。そいつを蔑ろにするってことはだな、お前、この世を捨てることと同じだぞ? 坊主どもを見てみろ。毎日念仏を唱えて、飯も質素で、色恋もなし。そりゃあ世から離れられるってもんだ」
「うるせえって」
「何だ、お前さんのために話してやっているというのに。ああ、男色は色恋とは別だからな?」
「……そんなこと聞いてねえよ」
このお喋りな天狗には何を言っても無駄だ。京士郎はとっくの昔に諦めている。
だが、このお喋りな天狗とともにいて飽きることがないことも事実である。
幼いころから、気づけば近くにいたこの天狗。多くを語り、多くを見せてくれた。
里でも浮いていた京士郎の、ともすれば唯一の友と言える存在だった。
「お前、いま変なこと考えただろ」
「俺の考えてることがわかるのか」
「ああ、簡単だ。顔に出てる。お前ほどわかりやすいやつもいないだろう。いいか、儂とお前は違う。儂は天狗で、お前は人だ。生き方も生きる場所も生きる長さも違う。共に生きるなどと世迷言を言ってくれるなよ?」
「…………」
「また考えてることが顔に出てるぞ」
これは見せているのだ、と言いたいところをぐっと堪えた。
いくら何を言おうと、この天狗には無駄だろう。頑として譲ろうとはしないのだから。
ならば、京士郎には疑問の思うことがある。
「どうして俺といるんだ」
「それは、約束だからだ」
「約束? 誰とだ?」
「お前の父親だ」
「俺の……?」
京士郎は天狗の方を見る。しかし、そこから天狗は姿を消していた。
辺りを見渡すも、どこにも見当たらない。
ただただ、声だけが響く。
「おしゃべりはここまでだ。どうやら時が来たらしい」
「何を言ってんだ、さっぱりわからねえよ!」
「京士郎、人と交われ。人として生きろ。人は人と触れなければならん。でなければ人ではなくなってしまう」
「おい!」
それきり、声は消えた。
静けさの中に京士郎は取り残される。
これまでも、天狗がいなくなったことは多々あった。それも、長くとも三ヶ月もすれば帰ってきたが。
今度は少し、違う気がしてならない。もう帰ってこないのではないか、会えないのではないか、という思いが胸に去来する。
(最後の会話がこれか)
ため息を吐く京士郎。人と交われ、とはまた無茶な注文を。人ならざる身で自分と語らってきたのはどこのどいつだ、とも。
仕方なく、また足を進める。
しばらく歩けば、母の墓が開けた場所にあった。
簡素な、石を積み上げてできた墓。
しかし京士郎が毎日訪れて手入れをしているから、綺麗であった。
京士郎は墓の前で手を合わせる。里の誰かがやってたことの真似であるが、何かしら意味があるに違いない。
母との声なき会話。それが京士郎の孤独な日々を慰めていた。
京士郎は孤独だ。そう自分で思っていた。自分には人にない力がある。それを幼い頃から自覚をしていて、周りの人たちはその力に恐れおののいて、離れていってしまった。自分を育ててくれた養父母もまた、何も言わずに自分と接していた。
だから、京士郎はここに来てしまうのかもしれない。
「ん……?」
顔を上げる。
森がどうにも、騒がしい。
いつもと様子が違うように、京士郎には思えた。
気づけば鳥の声はなりを潜めて、日も陰り薄暗くなっていた。
京士郎の五感は四方へ集中する。
そして、見つめたその先に。
一人の人影が現れる。
「っ!? 貴方……」
それは一人の女だった。
京風の女で、紅白の装束を身に纏い、顔は小さく上品だ。目がきりりとしており、気性の強さを感じられる。背も小さく、もしかすると自分より年下なのではないかとも京士郎は思った。背丈に反して、布で巻かれた大きな何かを持っている。
その女は息を荒げて、京士郎を見ていた。
山道に慣れていないからか、その足取りは覚束ない。
「お前、誰だ」
「いいから逃げて! ここは!」
噛み合わない会話。京士郎は女へ近づく。
そのときだった。女の背後に、大きな影が現れる。
「危ねえ!」
京士郎は女の腕を引き、背中に庇う。
目前を、風が抜けた。
巨大な斧が振り下ろされていた。
京士郎は振り下ろされた斧越しに、その持ち主の姿を見た。
赤黒い肌に、金に輝く瞳。頭に生えた捻れる角。自分の倍はあろうかという巨体。
その姿を持つ者を、京士郎は何と呼ぶか知っている。
「鬼……!?」
この世で最も恐るべき存在が、そこにいた。