参
さて、それから幾月かが過ぎる。その間、様々なことがあった。謹慎を命ぜられた小桃は離れの一室で、己の腹を撫でた。命を宿したそこが愛しくてたまらなかった。
多くの誹りを受けた。
物の怪の子を孕んだ娘。
それは間違いではない。だから否定できない。
辛い言葉の数々であったが、受け入れ飲み込んだ。
一族の内は未だ混乱のさなかにある。幸いにして、京には知られずに済んでいるようだ。
父の命によれば、子を産むことは許すが、里親を見つけそこに預けるのだという。その生涯、農民という身分から離れることはできず、小桃とも会うことは許さぬのだと言う。
父の信頼を裏切り、家の威信を貶めることをしたにしては、軽い処罰である。少なくとも、この世に生まれてくることを許されただけ、良かったとさえ思う。
しかし、我が子の生きる姿を見れぬというのはさすがに堪えた。己の愚かさを呪い、そして自嘲した。
「失礼します」
日も沈んだ頃、間に一人の女童が入ってくる。女童はいまの小桃に仕える者で、外のことを伝えてくれる少ない人。
そして小桃の、数少ない味方でもあった。
「お加減はいかがですか?」
「ええ、おかげさまですこぶる良いです」
小桃は笑顔で答えた。囚われの姫とは思えない気丈なその態度に、女童は小桃の強さを見た。
この女童は美しい姫の笑顔に気を良くして、外のことを語る。
その中で、小桃が気にかかったことがあった。
「ここのところ、あまり良い噂を聞きません。何やら鬼が近くに出ているだとか」
「鬼、ですか?」
「ええ。村が襲われたそうで。何とか近くの村へ逃げ延びた者がいたおかげで近隣の村々は逃げる算段を立てているとのこと」
「まあ。父もさぞ頭を悩ませていることでしょう」
ましてや、娘もこの体たらくである、とは小桃は口がさけても言えなかった。
それはさておき、鬼のことである。
以前より噂に聞いていた。鬼の多くは東の方、穢土より現れ人を襲うものどもであると。しかしそれも遥か彼方のことであると聞いていたが……。
不意に、自身の腹を触る。ここに宿る命の父である三輪を想う。
彼はいまどうしているのだろうか。会えない時間が続き、心細かった。
あの日を境に、小桃が三輪と会うことはなかった。彼のことだから今ももしかしたら、どこかで自分を見ているのかもしれない。だが言葉を交わせないというのは、寂しかった。
次いで、三輪が妖を退けたことを思い出す。
もしかして、鬼たちが動き出しことと関係があるのでは、と勘ぐってしまう。
「我らも、せめて京へと逃げられればいいのですが」
女童の言葉に、小桃は頷けなかった。
京を逃げるとして、腹の子はどうするのか。どうなってしまうのか。
小桃も女童も、そのことを考え、黙りこむしかなかった。
夕暮れの冷えた風が小桃の身に障らぬようにと、女童が御簾を下ろそうとしたときのことだ。
外が騒がしくなり、一人の侍従が駆け寄ってくる。女童はそれを見てカッとなる。
「何事でしょうか。姫様はいま、懐妊されておられる身。騒がしくせぬよう申したはずです」
「鬼、鬼による襲撃でございます!」
ハッと息を飲み、女童は小桃の方へと向いた。小桃もまた、目を見張っている。
「つきましては、姫様を逃がすようにと仰せつかりました」
「でも、どこへ行くというのです?」
「川を下りましょう。船も一隻、用意がございます」
「姫様、参りましょう」
女童の言葉に、小桃は頷いたものの、思わず声を荒げる。
「しかし、父はどうするのです? 一族の者たちは?」
「主様はここにて最後まで指揮されるとのこと」
「そんな! 置いてなどいけませぬ!」
「御身を思われてのことです。ご理解を……」
声の萎む侍従に、小桃は強くは言えない。鬼に対し無力である自分は何もできず、目の前の侍従を責めることもできぬことを理解しているからだ。
後から来た数人の侍従に連れられ、小桃は屋敷を出た。見れば、夕飯どきであったためか、あちこちで火の手が上がっている。やがて炎は里を包むであろう。
呆然としている間もなく、小桃たちは道なりに進んで行く。川までいくらかの距離がある。
その途中、獣の唸るような声が聞こえた。侍従たちは、小桃を守るように周囲につく。刀を抜いて、気配を探った。
「お、鬼っ!?」
侍従の誰かが言った。
横から現れたのは、人よりも数回り大きい体躯に、角を生やし、奇怪な形相を浮かべた者。人が見聞きした通りの鬼である。鬼は油のようにギラついた瞳を侍従とその中央にいる小桃へと向けると、にんまりと笑ってみせる。
その巨大な腕を振るう。ひどく緩慢に見えたが、実際のところ刹那のできごとであった。
侍従の一人が血を撒き散らしながら鞠のように跳ねて飛んでいく。
それを見た侍従たちは、縮み上がってしまった。小桃も、身体から力が抜けてしまう。
勝てない。
逃げ果せることなどできない。
これほどまでに強大な敵を前にして、何ができるというのだろうか。
それでも、侍従たちは己の任を全うすべく、小桃を背に預け、川へと向かわせる。
小桃を先頭にし、侍従たちは刀を抜いて後を追った。
だが、抵抗もむなしく、一人、また一人と倒れていく。
最後に残ったのは小桃だけであった。船まであと少しのところまで来ているが、鬼もまた目前まで迫っている。身体は恐怖から震え、全身が鳥肌立っていた。
小桃は死を覚悟し、目を瞑った。しかしその時は訪れない。代わりに聞こえたのは侍従の「ひっ」という怯えた声のみだった。
まぶたを開ける。
映ったのは巨大な白い蛇であった。鬼に負けぬとも劣らぬ体躯を持っている。
蛇の瞳は小桃を捉えていた。鋭い視線であったが恐怖を覚えることはなく、むしろ懐かしさを抱いた。正体はわからないが、仇なすものではないことがわかった。
白い蛇は鬼へと飛び掛る。大きなうねりは木々を薙いだ。
その隙を見て、小桃は船へと乗り込んだ。どうにかして船を進めるが、操舵の仕方など知らないので、流れるままに任せるしかない。
鬼と蛇の戦いはどうか。小桃が見た時には、傷つきながらも蛇が勝っていた。そしてまた、蛇と目が合う。
視線から慈しむような思いを感じ、小桃はその正体に気づく。
「まさか」
「誓いは果たした。子をよく育め」
そう言うと、蛇は火で空を朱に染める里へと降りていった。小桃は涙を流し、ただその光景を眺めることしかできずにいたのだった。
朝になる。ある里の端に住む老婆が川へ洗濯に向かえば、貴人風の女が一人倒れていた。
駆け寄って様子を見れば顔色は青白く、もはや虫の息だった。
さらに見れば、腹のあたりが膨らんでいる。産気づいているのだと気づくや否や、老婆はすぐに翁を呼んだ。翁はさらに村の医者を呼んだ。
出産は老夫婦の家で行われることとなった。長い時間を要せず、すぐに元気のいい赤子が出てきた。泣き声は勇ましく、男の子であった。
しかし産んだ女はというと、川に流されてきたことと、出産により体力を使い果たした。子供が無事に生まれてきたことは、その女の精神と子供の力強さによるものとしか言えないような状態であった。
女は最期に、生まれたばかりの子に向けて「今日を生きよ」と言ったが、かすれた喉によりかろうじて聞こえたのは、
「きょう……よ」
とだけであった。
老夫婦にはそれが何を思い、何を指しているものかはわからなかったが、貴人風の女であることから「京よ」と解釈し、生まれてきた子に「京士郎」と名付けた。
それからしばらくは緩やかに世は動くことになる。次にことが起こるのはそれから十五年経ったときのことであった。