弐
気づけば夜は明け、目を覚ませば小桃は自室で寝ていた。
昨晩のことが夢のようにも感じた。物の怪に襲われ、風変わりな男に助けられ。
考えれば荒唐無稽で、自分の間抜けさが招いたことだったけれども、小桃はむしろ満足感すら感じていた。
けれど、夢心地だけは抜けなかった。
屋敷の者は誰一人として小桃が屋敷を抜け出したことなど知らないようだった。
小桃としても知られたくはないから、一切を口にすることはなかった。
だから翌日の一日を、小桃はぼんやりと過ごすことしかできない。
昨晩の出来事が本当にあったことだとようやく理解できたのは、その日の晩のことだった。
上手く寝付けず、うっすらと目を開けていた小桃。
その目線の先にある簾、その先に人影が浮かび上がった。
「こんばんは。機嫌はいかがかな」
その声音を、小桃が聞き間違えるはずがない。
三輪がそこにいる。
小桃は慌てた。化粧はろくにしておらず、服も飾っていない。
とてもではないが、男に会えるような状態ではないと。
まだ昨晩の、気に入らないとは言え地元の名主と会ったときの方がまともな格好をしていた。
どのようにすればいいか、ずっと布団に入っていて、顔だけ出して受け答えしようかとも思ったが、それは失礼だと考えたところで、ふと思った。
(三輪を相手にどうしてここまで)
恥ずかしくなり顔を赤くした。
身体を起こし、布団から出る。少しだけ考え、三輪の問いには答えず、
「そこにいては家の者に見つかります。どうか、中へ」
と言った。
大胆な、これが侍従が見ていたなら「はしたない」と言われたろう。
何より父に、屋敷を抜け出したことや三輪と親しくなろうとしていることが露呈してしまえば大変なことになってしまうだろう。
けれど恩人である三輪を蔑ろにはできないし、小桃としてはそちらの方が問題だった。
失礼する、と言って三輪が入ってくる。
小桃は、昨晩より落ち着いて三輪を見ることができた。
瞳の赤は妖しく輝いていたが、好奇の心のように揺れている。屈託のない笑みは少年がそのまま大きくなったかのようだ。
「ああ、よかった。もしかしたら嫌われたんじゃないかって」
「どうして嫌う必要があるんですか?」
「はは」
そう言って三輪は笑った。
首を傾げる小桃を見て、三輪はまた笑う。馬鹿にされてる、と思いながらも嫌な気持ちにはならなかった。
「さあ、夜は長い。僕の話にちょっと付き合ってくれないかな」
小桃が頷くと、三輪は本当に楽しそうに語りだした。
そうして三輪は毎晩のようにやってきては、色んな話を語り聞かせた。古今東西で起こった面白い話、悲しい話を軽快な語り口で聞かせていた。
それは都から離れ、退屈な時間を過ごしていた小桃の胸をくすぐったのだった。今では毎日の楽しみにもなっている。
都から移ってから笑うことが少なくなった小桃は、昼もよく笑顔を見せるようになった。歌や琴の勉強も精を出してするようになっていった。
元から備えていた美貌が、一層眩しくなったと侍女に言われ、小桃は照れると同時に三輪を思い出し、恥ずかしさから顔を赤くする。
* * *
奇妙な繋がりが数ヶ月続いた。
日々を楽しく過ごすようになった小桃だったが、平和な日々はそう長く続かなかった。
小桃の様子が気にかかった者は多くいた。その理由を勘ぐり、噂をする者も多くいる。
曰く、意中の男と夜な夜な逢瀬を重ねていて、執心なのではないか、と。
逢瀬を交わしているところを見た者はいなかったが、そう思われても仕方ない。半ば合っているだけに、小桃も強く否定できなかった。
そして、その噂を気に入らない者たちもいた。
特に小桃の父と、名主とその息子である。
子煩悩な父は自分の娘によくない男が寄ってきているのではないかと考えた。
名主たちとしては、貴族の血と小桃の美貌を手に入れるのを諦めるわけにはいかなかった。
娘の噂に心を痛める小桃の父に、名主はある話を持ちかけた。
「娘には悪霊が取り付いておる。早く祓わなければ家に不幸が降りかかるだろう。少なくとも娘の命は危うい」
こうは言うが、名主たちは小桃の元にいるのは悪霊だと思っていない。ただ、祓う儀式の後に小桃の元に通う男を捕らえ、秘密裏に処分すれば嘘は真になると安易に考えていた。
それを聞いて早とちりをした父は、近くの山にある寺から僧を呼んだ。
呼ばれた僧は屋敷を見渡すとこう言った。
「確かに、強大な物の怪の気配がします」
その発言は、状況をさらに混沌とさせたのだった。
* * *
昼間から、何やら屋敷全体が騒がしいなと小桃は感じていた。
忙しく屋敷の者たちは動き回っていて、落ち着く暇もない。
身の回りを世話する侍女たちに尋ねてみるが、知らないと首を振られてしまう。
父も屋敷におらず、事情を知ることができない不安な気持ちのまま夜になってしまった。
いつも通り、三輪を待った。
しかし、その日は嫌な予感がしていた。昼間からずっとしていたが、夜になると一層増した。
早く三輪に会いたい。
そう思う一方で、今日は三輪に会うべきでは……いや、三輪はここに来るべきではないと感じ始めている。だが、それを伝えようとしても手段がない。結局、小桃は三輪をただ待つこよしかできない。
風が強く吹いた。春が近づきつつあるのだ。春を運ぶために、風は強く吹く。
しかし風が運んできたのはそれだけではない。夜にも関わらず、大きな声を運んできたのだった。
聞き覚えのあるそれは念仏だった。
何事かと小桃は外に出る。中庭へと向かえば僧と父が揃っており、加持祈祷をしている。
いつの間に用意された祭壇。火が焚かれたそれは、夜の屋敷を赤く染めていた。
驚いた様子でそれを眺めていると、父が小桃に気づいた。
「どうした、夜中に外に出るなと言われてなかったのか。いや、そうでなくとも夜更けには外を出るんじゃない」
「父上、これは一体何なのですか。どうしてこのような儀を」
「お前はじっとしていればいい」
「父上!」
小桃が問いつめると、父はようやく口を割った。
「お前には悪霊が憑いている」
「悪霊?」
「そうだ。夜もよく寝れなかったのではないか?」
「そんなこと……!」
小桃は叫びそうになって、やめる。
三輪のことをどう説明しろと言うのか。この父に真実を伝えたところで、父は納得してくれるのだろうか。
そのとき、気配がした。小桃は後ろを振り返ったが、そこには誰もおらず、開け放たれた門だけがあった。
気づいたときに、小桃は走り出した。邪を追い出すために解き放たれている門をくぐり、脇目もふらず山へと駆ける。
「おい、戻りなさい!」
後ろから声が聞こえるも、構いはしなかった。慣れない足場に素足で走り、たくさんの傷ができて痛むも、小桃は気にせず走り続ける。
鬱蒼と生い茂る森の中で、小桃は泣きながら走っていた。
涙が枯れるのではないかと思うほどに。
屋敷の灯りから遠ざかり、もう見えなくなった頃、少し開けた場所へ出た。
そこは奇しくもかつて物の怪に襲われ、三輪に助けられた場所である。
そこに横たわる者が一人。見紛うことなく、それは三輪だ。
小桃は息も絶え絶えに三輪へ近寄る。一目見ただけでは、小桃の方が傷ついているように思えた。
三輪は小桃を見るとその赤い瞳を見開く。
「こんな森の中まで、追いかけることはなかったのに」
三輪はそう言った。寝そべっていたのを起き上がり、小桃の側へと寄り添おうとする。
それよりも先に小桃は三輪の肩に手を当て、自分が三輪の隣に座った。
「貴方がいなくなるのではないかと」
「まさか。私はいなくならないさ。森の中にいればこの傷は癒されるだろう」
「それは本当ですか?」
「嘘は言わないさ、それは貴女が一番わかっているだろうに」
三輪がそう言うと、小桃は頬を膨らませる。
知っている。しかし疑いたくなるのも人情。無邪気な瞳を向けられても、困惑するだけだった。
「心配をして追いかけてきたのに、その言い草ですか? 信じていても、心配なものは心配なのです」
「ふふ、それは悪い事をしたかな」
「貴方は悪くありません! 全ては私の父の、早とちりなのです!」
「そう騒ぐな。もう夜だ、獣たちが目を覚ます。良くないものもね」
思わず、小桃は口に手を当てて、周りを見る。それを見て三輪はまたクスクスと笑った。
小桃の全身から力が抜けた。三輪はいなくならない。ただそれだけで、心が安まった。
瞳から雫が溢れる。こんな気持ちになったのはいつぶりかは知らなかった。
三輪が人ならざるものなのだろう。仏法僧の念仏で傷ついたことから、それはわかった。
否、出会ったときからそうとわかっていたはずだった。物の怪を、仏法も武も借りずに退けたのだから。
しかし、今となってはそんなことはどうでもいい。
小桃はそのまま三輪の胸倉を掴むと、はしたないとわかりながらも声をあげて泣いた。記憶のない赤子の頃以来だろうか。
三輪は優しく小桃を受け止めている。
「私は……貴方をお慕いしております」
小桃は、か細い声で吐き出すように言った。それがきっかけになり、小桃の想いは嗚咽となって喉から溢れ出す。
「それは本当かい?」
「偽りのことなど申したことはございません。それは貴方が一番、わかっていることでしょう」
「でも」
「私の想いを、受け止めてくださいませんか?」
ここまで言っていよいよ、小桃は己を恥じた。
女から男を求めるなどと、しかも婚姻も結んでいない相手を求めるなどと、売女のする行いである。
けれども、箍の外れた小桃は言ったことに後悔はなかった。
小桃は三輪を見た。三輪は珍しく狼狽していたが、神妙に頷いてみせたのだった。
元より、三輪もまんざらでもなかった。
でなければ警護を申し出ても、夜に訪れることはしない。
そして小桃の純朴な心と、女にしては珍しい気だてに惹かれていたのだった。
男と女は見つめあう。体は傷つき、疲労の色も濃い二人であったが、不思議なまでに気は昂まっている。
月も見ることのできない夜の森で二人は重なり、契りを交わしたのだった。