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かぎろひの立つ  作者: 桂式部
序章 千世をかさぬる こゝろなりけり
1/109

 秋月に照らされた庭が、青く輝いていた。

 冷たい風が、女の白粉(おしろい)(まぶ)した頬を撫でる。

 その女は、貴族の生まれだった。

 美しくも儚げで、今にも消えてしまいそうな女だった。

 小桃ことという名の女は(うたげ)の喧騒から抜け出して、自室のある東の対へと行こうとするところだ。

 ため息が空に溶けて消えていく。

 京の都で生まれ育った小桃にとって、地方に任官された父についていくことは苦痛であった。

 風流のわかる者はおらず、思いを馳せる相手もいない。

 京であれば、歌に琴に、取り留めのない話に、恋の話……などをして笑っていられたものの、この地ではそうもいかない。


「父上……あのような」


 今も執り行われている宴の席でこの地の名主と酒を酌み交わしながら、父が口にした言葉。


『そちらのご子息も、そろそろ婚姻を考える時期だろう。私の娘は如何か。父としての贔屓目もあるだろうが、器量の良い娘だ』


 笑いながら父は言い、相手の名主と同席していたその息子も笑っていた。

 が、その目は笑っていないことを、小桃は知っている。

 二人のなぶるような卑しい視線が小桃へと向けられ、気持ち悪かった。

 やはり、地元の名主と言えど、武で賊を蹴散らしたにすぎない野蛮な者たちだ。

 止してほしいと言えば父は聞くだろうが、憤りを感じずにはいられない。

 宴が盛り上がってきたところで抜け出し、いまに至った。

 虫の鳴き声が大きくなった。冷たい風が、冬の到来を告げている。

 空を見上げれば、望月まんげつがほの温かい月明かりで小桃を照らしていた。

 乳母から聞かされた話がある。

 満月は人を狂わせる魔力を持っているのだと言う。それはこの世に対し、月の国はあまりに美しいからなのだそうだ。その美しさに魅入ったとき、人は狂ってしまうと。

 だから、小さい頃から月はあまり見るなとよく言われている。特に満月のときは。

 だが、小桃にはそれが疑わしかった。

 人を狂わせるのはいつだって、金と女と酒、そして名誉だ。

 さっきの宴の席だって。

 父のことはもちろん愛している。

 けれど、それとこれは別。

 酒に酔い、自分の娘を差し出すとさえ言ってしまう父。

 そしてそれを、肉欲に濡れた目で受け入れる名主たち。

 宴の戯言だと言って聞いてくれればいいのだけれど。

 小桃は再びため息を吐いた。

 視線を落とすと、どこから紛れ込んできたのか、子狐が一匹いた。

 毛並みの整った子狐は、まさに縁側へと登ろうとしついるところだった。


「こらこら、だめだよ」


 小桃が手を差し伸ばす。

 子狐はそれを承諾と勘違いしたのか、くすぐるように身体を擦らせる。

 猫や犬が人に懐くという話は聞くが、こうやって擦り寄ってくる狐は聞いたことがなかった。

 頭を撫でてやると、目を閉じて心地良さそうにしている。


「どうしたの? もう寝る時間よ」


 そう言うと、子狐は丸い瞳を小桃をじっと見る。

 喉を鳴らして、子狐は縁側から降りた。

 そして振り向いて、小桃をまた見る。

 まるでそれは、自分を誘っているかのようにも思えた。

 小桃は、身体をぶるりと震わせる。

 自分の中にある好奇心が疼いた。

 何かに当てられたかのように、ふわふわとした足取りで縁側から降り立つ。

 ひたひたと、軽快な足取りで子狐は走り出す。

 小桃も小走りで追い掛けるが、今まで走ったこともない身体は上手く言うことを聞かない。

 それでも早く前に進むように命じて、小桃は子狐を追い掛けた。

 門を抜けて、屋敷の裏にある山へと向かう。

 鬱蒼と茂る木々。

 一部は色を紅に染めているはずだが、暗くてわからない。

 小桃は一人で山に足を踏み入れたのは、貴族の娘の多くがそうであるように、これが初めてであった。

 土と葉の匂いが小桃の鼻を満たす。

 子狐の行方はわからないが、それももはやどうでもよくなっていた。

 いままでにない、清々しい気分だった。

 何もかもから、解き放たれた気分だった。

 慣れない山歩きにくたびれて、座り込んだ。固い石に腰掛け空を見上げれば、葉の間から零れた月明かりが照らしていた。満月の光は強く、小桃の居場所を暴いたのだった。

 ふと、木々が揺れた。

 風がぞっとするような寒気を運んできた。

 暗闇がその色を濃くしていった。雲に隠れたのか、月の明かりがぱたりと消える。

 木々の間に、瞳があった。それに気づいた小桃は小さく悲鳴を漏らす。

 双眸はじっと、小桃を見つめていた。

 小桃が弱った瞬間を狙っている。

 獣か、妖か。正体はわからないが、それは小桃を食おうとしている。

 恐怖が身体を支配していて、言うことを聞かない。


「お、お許しください……!」


 そう言って、喘ぐので精一杯だった。

 助けを求めることもできないし、仮に求めたとして誰が応じると言うのだろうか。

 草に隠れている双眸が近づいてくる。小桃は少し後ずさりした。

 逃げられない。それは山歩きの疲れからでも、恐れに震えるからでもなく、純粋な感覚であった。

 自分はすでに捕えられているのだと、そう感じていた。

 音はすでに消え、暑いのか寒いのかももうわからなくなっている。

 馬鹿なことをした。屋敷から抜け出るなど、するべきではなかったのだ。

 自分は貴族の娘。ならば、それ相応の生き方があるはずなのだ。欲を出してはならないと思ったのも自分ではなかったのか。

 飢えも知らず。命も脅かされず。求められるままに娶られる。

 不満はあっても、死ぬことと比べてしまえば……。


「名を」


 覚悟を決められず、述懐していたときだった。

 男の声が響いた。荘厳だが心地よい声。それは胸に響くかのようだった。


「名を、名乗られよ」


 その声は小桃を急かした。

 わけもわからないまま、恐れに震える喉から声を絞り出した。


「小桃、小桃です!」

「ここに契りは結ばれた。僕の名は三輪。真名に懸けて、末代まで守護することを誓う」


 そう言って降り立ったのは、大きな影だった。

 そして大きな気配だった。存在感だった。

 草の向こうからこちらを見つめていた双眸は、その影に驚いたのか、姿を消した。

 ふっと、小桃を縛っていた圧が消えた。二つの瞳から解放されただけであるが、小桃はすべてを取り戻したかのような気持ちになった。


「大丈夫かい? 怪我はなさそうだけど」


 降り立った影はそう言った。

 先ほどの、契りを交わしたときの荘厳な声はなりを潜めており、優しい声音だった。

 月明かりが再び、地面を照らしはじめた。

 目の前の三輪と名乗った男の全身が見えた。振り向いて、笑顔を浮かべている。

 すらりと高い背丈。野暮さが一切ない、一度見れば忘れられぬ美貌。

 何よりも目を惹いたのは、輝いて見える赤い瞳だった。


「貴方は……」


 小桃は小さくそう呟く。


「改めて、僕の名は三輪。用あってこの地に帰ってきたのだけど、たまたま君を見かけてね」


 そう言って三輪は手を差し出した。

 小桃はその手に自分の手を重ねた。優しく引っ張られ、立ち上がらせられる。


「ありがとう、ございました」

「礼には及ばないよ」

「それでその、契りとは一体?」


 小桃がそう聞くと、三輪は少し気まずそうな顔をして視線を逸らした。

 しかしじっと小桃が顔を見つめていると、折れたのか白状してみせる。


「勝手に失礼した。僕は互いの名を知ることが、ここにいるために必要なことなんだ」


 その意味することはわからないが、小桃はそういうものなのだと納得して、それ以上は聞かなかった。


「だけど、契りを違える気はないよ。僕らにとって契りは絶対だ」

「そんな大切なものを、私と結んでよかったのですか?」


 そう言うと三輪は、少しだけ頬を染めて答える。


「君がよかった。というのは気障すぎるかな」


 その物言いに、小桃の頬に朱が挿した。心の臓がうるさくなるのを、小桃は自覚する。風がびょうと吹き、小桃と三輪の間の静寂を葉音でかき消した。

 この出会いが国の未来を動かすものであるとは、まだ誰も知らないのだった。

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