エドガー
バイト仲間から押し付けられた、スナック菓子と酒と日配品コーナーのメンテナンスを終えたおれは、定時よりも一時間半送れた十一時に店を出ていつもの公園へ向かう。
蛾の張り付いた蛍光の下のベンチに腰掛けて、バイト先のスーパーからちょろまかしたから揚げを床へと放る。ジュースを啜りながらしばし時間をつぶした。
現れた。
猫というのは夜になったら餌を求めて行動を始める。ここのところ毎日のように餌をばら撒いているので、公園の猫たちも警戒心なくおれの足元に集まってくる。
おれは猫のうちの一匹を拾い上げてなでてやる。暴れる様子はない、餌付けの効果でおれに完全に身を預けている。追っかけては引っかかれた過去がうそのようだ。おれは微笑みながら猫を抱えて帰路に着く。
家のドアを空けるなり漂ってくるのは、かすかな悪臭。たまったゴミと、死骸の。
おれの腕の中でくつろいでいる猫の首根っこを捕まえて、その額を壁に力いっぱいたたき付けた。
骨の砕ける音がする。頭蓋骨が砕けて脳漿と血が滴り落ちる。猫の顔を見る。つぶれたパンに目玉と鼻が浮き上がっているような姿だ。そんな姿になって悲鳴を上げ続ける猫を床に放り出し、思うさま踏み抜いた。
悲鳴がやむ。痙攣していた体から、力が抜けていく。
「お兄ちゃん」
と、後ろから声がかかった。
「それ臭くなるじゃない。自分の悪趣味なんだからちゃんと片付けてよ」
妹のめぐみだ。あきらめたような声
「ごはんさめてるよ。早く食べよ」
「待ってたのかよ」
「一応ね」
なにが『一応』なのか分からなかったが、こんな時間まで腹をすかせて待っていた妹をいとおしく感じた。おれは機嫌を良くして食卓へ向かう。
猫の死体は放置した。
両親が失踪して数ヶ月たつ。金だけは残っていたがそれもすぐに尽きてしまった。金のかかることはたくさんある。水道光熱費、妹の携帯電話の代金、メシ。
だからおれは高校をサボってバイトを始めた。真面目に中学生をやっていた妹を養う為だ。動物の死骸が部屋の隅に積み上げられたゴミ屋敷みたいな家で、おれたち二人は適当に暮らしている。
愛するのは妹だけ。妹を養うことがおれの生きがい。
将来への不安はない。おれたちはいわばネグレクトという虐待にあっている『かわいそうな子供』で、だからこの状況だってどっかの大人がそのうちやってきて解決するはずだ。だからおれは今はこの生活を続けている。妹は何も考えていないが、おれのためにまずいメシを作って待っていてくれた。
それなりに幸せだった。
満たされているつもりでも、腹の中には瘴気のようなものは溜まっていく。その日はバイト先でおれがうっていたレジで一万円の誤差が出て、店長から嫌疑を受けた。
なんとなく隣の女が引き抜いたのは分かったのでそれを主張する。水掛け論になって、嫌疑は晴れぬままだが一応釈放となる。別にこんなことでむしゃくしゃしたりはしない。おれは自分の生きがいを持っている。だからべつにいやになったりはしない。
気が付けばいつもの公園へと足が向いていた。
その日、連れて帰ったのは、切れ長の目をしたデブの黒猫だった。体のでかいボス猫のような奴。餌は食うくせに持ち上げようとしても逃げる、そんなずうずうしいところが気に入って、無理やり連れ帰ったのだ。
ドアを開けるなり、猫は跳ねるように反応しておれの腕から逃げ出した。追いかけるおれから、猫はさっきまでおとなしかったのが嘘のように逃げ惑う。
その追いかけっこをあざ笑いながら現れた妹が、おれに言った。
「仲間の死骸のにおいをかいだのよ。それで警戒してるんじゃない」
そう言って妹はゆっくりと猫に近づいていく。しばらく妹と見つめあっていると、猫の体からふっと力が抜ける。
「賢い子ね。あんたじゃ殺せないんじゃない?」
そう言って妹は猫の体を持ち上げる。
そういわれ、おれは尚更そいつが殺してやりたくなって猫を取り上げる。すると猫は激しい声を発し、おれの頬を爪で切り裂いて抜け出した。痛み。自分の腸にどす黒いものが滴るのを感じた。
「ほらね。お兄ちゃんが危険だって分かってるの」
妹はおかしそうに
「この子気に入った。お兄ちゃん、この子は殺しちゃダメだからね」
その黒猫はおれの家にいついて妹の遊び相手になった。名前はエドガー。おれにはどうしてかそれが気に入らない。おれが守っているこの家の、異物という感じがする。
その苛立ちをもてあますままに、おれはエドガーに良く似た黒い子猫を連れ帰る。嬲り殺してやろうと思っていると、エドガーがおれに飛び掛ってきた。
「うわ」
腕でなぎ払う。エドガーはうなり声をあげながら着地し、おれを威嚇する。おれは自分の掴んでいる子猫とエドガーを見比べる。
明るいところで見ると本当に良く似ている。おれは気付いた。
「こいつおまえのガキか? それとも弟か?」
エドガーは敵意をむき出しにしてこちらに近づいてくる。おれはあざ笑いながら、子猫の額を壁に叩き付けた。頭蓋骨の壊れる感触。エドガーはおれに飛び掛る。
「おまえが怒ってるの分かるよ。おれにも妹がいるからな」
言って、エドガーをたたき飛ばして子猫の額を握りつぶす。おれは死体を投げ捨てて腹を抱えながら食卓へ向かった。
「はいおにいちゃん」
言われ。おれは妹から食事の器を受け取る。カレーだけはどう作ってもうまくなる。おれの妹が作っても。
どんなにまずい飯でも妹の作ったものなら完食することにしている。ただそのことと味の感想は別なのでまずいまずいと言って妹をわざと怒らせて遊ぶ。
「そんなこと言ってるといつか毒をもってやる」
妹はむくれて言う。おれは笑う。スプーンでカレーを取る。
ちくりと痛む感触を覚える。おれは思わずカレーを吐き出す。
「どうしたの?」
カレーの中から浮かび上がったのは、細い裁縫針。妹は「大丈夫?」と戸惑っておれに近寄る。「飲んでない? ほかに入って無かった? ねぇ、全部吐き出して?」
「大丈夫だ」
おれはそう言ってもう一度スプーンを取る。
「ちょっと」
妹は怒ったように「もうそれ食べるのやめよう」そう言って涙ぐむ。
「どうしたのかしら……」
隣ではエドガーが鋭い目をこちらに光らせている。おれはそいつと目を合わせて、立ち上がる。エドガーはすぐにその場を飛び跳ねて、消えていった。
バイトのない日おれは学校から戻ってくる妹の代わりにメシを作っていた。おれは料理もうまい。少なくとも妹よりもうまい。
野菜を刻んでいる時だった。背後でエドガーの気配がしたと思うと、おれの手元に包丁が落ちてくる。おれは思わずその場を飛び跳ねて、距離をとる。
台所の上でエドガーが包丁をこちらに投げつけている。おれは憤怒して床に落ちた包丁を手にとって応戦する。エドガーを殺そうと包丁を振りまわしていると、しばらくして妹が戻ってきた。
「もうこいつを飼うのはやめよう」
おれはそう主張する。そしてこれまでの顛末を語る。「本当に、賢い子なのね」妹は驚いたようにそう言ってエドガーを見る。
「遠くに捨てて来よう。その辺に捨てたんじゃ戻ってきておれを殺そうとするはずだ。絶対に戻ってこれないような遠くへ捨ててくれ。おれも付いていく」
妹は静かに頷いた。
夜の街を歩く。一時間歩いて妹はおれの顔色を見るが、おれは首を横に振る。二時間歩いてもおれはまだ首を振る。
三時間歩いて、おれはようやく妹に「ここで捨ててくれ」と言う。妹の腕の中では、エドガーが静かな表情で丸くなっている。妹は頷いてその場でエドガーを離す。
エドガーに背を向けて、二人で道路を歩く。おれは悪い予感がして後ろを振り向く。何もいない。一時間歩いても、二時間歩いても恐怖は消えない。何度も何度も後ろを振り向くおれを見て、妹は心配げに言う。
「びびらないでよ。もうあの子はいないから安心して」
「びびってねぇよ」
嘘だった。いつまでもいつまでもあいつが追いかけてきておれを殺しそうな気がしていた。
交通量の多い場所で、おれは後ろを見ていた所為でひかれそうになる。「危ないよ前見て」怒鳴る妹。おれは笑い出した。
「あんなクソ猫がなんだってんだ」
啖呵を切る。妹があきれたような顔をする。そのときだった。
「……あ」
物陰から、黒い悪魔の影がおれたちを追いかけて来た。おれは驚いて絶句する。妹は「嘘でしょ……」言って絶句する。こっちに走ってくる奴に、おれは頭に血が滾るような気持ちになる。
「あいつっ!」
しょうこりもなく現れやがったそいつを、今度こそぶち殺そうとおれは脚を踏み出す。エドガーは一目散にこちらに向かってきて、掴みかかるおれの手をかわす。
おれたちの間をすり抜けたそいつは、妹に飛び掛って、すぐに飛び去っていく。なにをされたかと妹を見ると、妹はポケットに手を入れて叫ぶ。
「携帯取られた。なんで? わたしにいたずらなんて……」
言って、妹はエドガーを追いかけていく。おれはふと、悪い予感を覚えて「待てっ!」と叫んでその妹を追いかける。エドガーの黒い体が闇の中へ消えていく。
トラックがおれの視界を覆うのと同時に、道路に飛び出していた妹の姿が消える。
おれが立ち尽くすタイミングで、トラックが急ブレーキをかける。停止したトラックから男が出てくる。トラックの前へと回る。おれは淡々とそれを追いかける。
無残につぶれた妹の姿を発見する。アタマがひしゃげていて、トラックには真っ赤な血の跡がついていた。おれはその場で膝を付く。「おい大丈夫か、あんた?」男の声が遠い。遠い。
暗闇の中で、エドガーの金色の目がこちらを見ているのが分かった。おれが目を合わせると、エドガーは嘲るように、その大きな口をまるで悪魔のように吊り上げて笑って、暗闇の中へと、消えていった。
猫ってなんで人気なのか分からん。ひっかいてくるし怖いじゃん。