02
法務官たちに割り当てられた宮殿の一角。長官室から退出してきたアブダラは、重苦しいため息を吐いた。
「これで七件目、か」
羊皮紙に記されているのは、王都近辺で連続する放火事件。夜明け前、まだ人の寝静まっている頃に起こる、連続殺人の調査報告書だった。
今まで被害に遭った家々に関連性は今のところ見つかっていない。貴族の家も商家も市民も、ある意味わけ隔てなく被害にあっている。近頃では模倣犯も増えているらしく、もの盗りの後に火をつけていた輩は先日捕えたばかりだ。聞けば、自分たちの犯行を件の放火事件に紛れ込ませようとしたとのこと。今回は自供があったからまだマシだが、そろそろただの放火とこれら一連の事件を分けるのも面倒になってきている。
だが。王宮務めの法務官さえ動かずにはいられない理由は、それだけではない。
裕福な家では使用人以外。たまたまその日家にいなかったという者も含め、一家全員が殺されているのだ。
焼け跡からは人数分の死体が見つかり、初めの何件かは逃げ遅れたのだろうと判断した警邏も、それがあまりにも続くことからもしや、と仮説をたてた。犯人は、一家全員を殺した後に火をつけているのでは、と。
もしその仮説が真実ならば、あまりに凄惨な事件だ。たとえ盗賊の類でも、その日その場にいなかった人間まで手に掛ける必要などまったくない。怨恨の可能性も視野に入れて捜査を続けているが、どの家に対しても恨みを抱く人間など容易に絞り込めるはずもなかった。
重い気持ちを抱えたまま自分に割り当てられた執務室に戻ると、上司が鼻歌混じりに羊皮紙をめくっているところだった。今アブダラが抱えているものの写しだ。
よくこんな事件の調査書をそんな態度で読めるなと、非難がましい目つきになったアブダラに罪はないだろう。彼が戻ってきたことに気づいて顔をあげた上司は、そんな彼の表情を見て愉快そうに笑った。
「おやまあ。ずいぶんと陰気な顔をしているね、私の副官は」
「……ラグザ殿は、ずいぶんご機嫌麗しいようですね」
この人非人。わかっていたことだが改めて言わずにはいられなくて口にした非難に眉を顰めるどころか面白そうな顔をしてみせるこの上司が、アブダラは心底苦手だった。その感情は嫌悪に近い。
「昨夜の事件で、被害者は八十人を超えました」
「そのようだねえ。今回も、ずいぶん綺麗な炎だったらしいじゃないか」
「……本当に、僕は貴方の神経を疑いますよ」
「おやおや」
普通の神経をしていると思うのだけれどねえ。
ラグザが嘯く。陰で「処刑人」と噂される男が普通の神経とやらを持っているなら、その他大勢はずいぶん脆弱な神経を持っていることになるだろう。
「夢の三桁まであと十人と少し。最近は少し頻度が上がったのではないかい?」
「愉快犯や快楽殺人者の場合なら、数にこだわっている可能性はあり得ますね。……だとすると、次は一家の人数が多い家を狙う可能性が高いか……?」
唇に指を添え、思案する。
大陸の中ほど。西方の国々からは東方との仲介者として、そして何より、数少ない魔術師を育成する国として、小国でありながら一目置かれている国、マハル。
国の興りは定かではない。一説には、人の間に生まれた魔術の素養を持つ者たちが安寧の地を求めさまよう内、たどり着いたのがこの地であるとされている。その中でも最も魔力が強く、その扱いにも長けていた者が国全体を覆う結界を張り、その者を守護する役目を担った者が指導者となった――彼らの間に生まれた子、その子孫が、このマハル王国を統治する王族の始まりだという。貴族と呼ばれる者たちは、彼ら以外の始まりの者の子孫が主だ。もっとも、後には国に対して重大な功績を残した者の一族もいくつか貴族として列せられている。
そして「魔法王国」の呼び名に相応しく、この国の民はほとんどが大なり小なり魔術の素養を持って生まれてくる。魔力は血に宿る、という言い伝えが真実である証とでも言うように。無論、王族が最も強い魔力を有することは言うまでもないことである。
その王の膝元で連続する、今回の事件。……これは国家に対する反逆である、と法務長官は憤死しかねない様相だった。
「暁の空に昇る、黄金色に輝く白火。これを綺麗と思わないなんて、お前はよほどの朴念仁のようだ。やれやれ、困ったことだね」
「それが人の命を喰らう魔性の焔でなければ、僕も素直に美しいと言えますけどね」
「ふふふ。素直でないことだ」
ぱさり。読み終わったのか、それとも単に飽きたのか。目新しいもののない報告書であっただけにおそらく後者だろうと思いつつ、アブダラは上官が床に捨てた羊皮紙を拾い上げた。ついでに、じろりと彼を睨むのも忘れない。
「……一応、機密情報なんですが」
「天を焼く炎が魔法によるものだなんてことは、通りの小僧でも知っていること。今さら機密もなにもないだろうに」
「それでも、その魔法がどの程度高位なのかは知られていないでしょう」
――警備隊に同行するよう指示された魔術師たちが、実際に現場に駆け付けた途端、顔を蒼白にした。その意味。
果たして犯人を見つけたとして、自分たちに捕えることができるだろうかと、弱気なことを言った魔術師たちの顔を思い出す。
「せっかく警備隊に同行させた魔術師たちがまったくの役立たずだったことが証明されて、ここのところ朝議で責められてばかりだった軍務長官も些か溜飲を下げたみてえだな。代わりに、法務長官の面目は丸つぶれ。今頃躍起になって対策を考えている頃だろう」
「――サウディ殿!?」
「よ、アブダラ」
邪魔するぜ。いかにも気楽にそう言って入室してきた黒髪の大男は、いきなりの乱入者にアブダラが目を白黒させている間にするりとラグザの前まで移動した。
「姫さまがお呼びだぜ、ムハマト。水晶宮だ」
「……やれやれ。私も暇ではないのだけれどねえ」
ため息を吐きつつ、立ち上がる。
億劫だ、ということを隠しもしないラグザに、サウディは不敬だと怒るよりも鼻で笑ってやった。
「部下いびりを趣味にしてるヤツが、どの面下げていいやがるんでい」
「おかしなことを言う。部下をいびらずに、何のための上司だというのだね」
くつり。喉を鳴らしたラグザだが、その瞳は笑っていない。
先ほどまで文句を言っていた相手だが、その酷薄にも映る笑みにアブダラはぞっと背筋を凍らせた。サウディが呆れた、とでも言うように肩をすくめる。
「ビビらせてんじゃねえよ、爺さん。さっさと行ってきな」
「……やれやれ」
気が進まないねえ。
ふっ、とすぐに表情をいつもの飄々としたものに変え、ラグザが部屋を出ていく。
と、サウディが気遣うようにアブダラの肩をたたいた。
「お前さんも苦労してんな。あんなのが直属の上司でよ」
「は、はあ……」
「まあ、気をつけるこった。気に入られてる内はいいが……『その時』は、アイツに情なんか期待すんじゃねえぞ」
――薄氷を踏むようなものなのだと。冗談めかしているが驚くほど真剣なサウディの瞳に、アブダラはこくりと喉を鳴らした。
ムハマト・ラグザという男を、まことしやかに囁かれるその噂を知らぬほど、アブダラは世情に疎くない。だからこそ、サウディが言わんとすることもわかっている。
代々大臣や王妃を輩出する、国内屈指の大貴族。正式に迎えた夫人だけでも七人はいるという父親を持つおかげで、同母の兄弟姉妹こそいないものの、異母兄弟姉妹は合わせて百人を軽く超えるという。だが、それだけならば、そう珍しいことではない。妻子の数が財力の証と諸外国に揶揄されるマハルにおいて、大家族というのは貴族どころか裕福な商家であってもあり得ることなのだ。
目的のためならば手段は問わない。彼はまさにそういった人間であり、闇から闇に葬られた人もものも五万といると聞く。「処刑人」という呼び名は、何も彼が刑法を司る役人、そのトップにあるからという単純な理由からではない。
(迂闊なことをすれば、前任者の二の舞、か)
アブダラの前任者は、王宮前広場で処刑された。他ならぬ、ラグザ自身の命によって。
罪状は知らない。だが、死刑を適用されるほどの大罪が公表されていないということは……そういうことなのだろう。
最期まで慈悲を請い泣き叫ぶ男をみて、彼は微笑んでいたという。いつものように。いっそ優しげともとれる表情で。
それに、あの瞳。
扉が閉まる一瞬。おそらくは「姫さん」からのお出迎えであろう女官と兵士の一団に向ける瞳は、アブダラが見たこともない冷たいものだった。
「ムハマト!」
扉を開けた途端、駆け寄ってきた少女の姿に、ラグザは目を細めた。
翻る衣は上質な輝きを放つ絹。髪色に合わせたのだろうか。淡く黄金に照るそれは一見してかなり高価であることが知れるが、彼に抱きついた少女はそのようなことに頓着することはない。
面倒なことだ。口には出さず心の中だけで呟いて、ラグザは「姫様?」と少女を呼んだ。
顔をラグザに押しつけて、無言のままさらにぎゅっと抱きついてくる少女に、ラグザは自分をここまで先導してきた女官に視線を移した。心得たように、その女官は口を開く。
「王都での事件を王太子殿下が姫様にお教えになってしまって」
「……おやおや」
王太子。言われて浮かぶのは、最近朝議の場に顔を見せるようになった少年の顔だ。
幼さを勝気さで覆い、居並ぶ臣下たちに気圧されぬよう虚勢を張る姿はそれなりに滑稽であったがラグザの関心を引くかといえばそうではなく。大変なことだとうそぶいて、それきり忘れていた。だが、なるほど。確かに例の件を話した時、彼の王子もそこにいた。法務長官こと、魔術師長の報告も聞いていたのだろう。
母親譲りと評判の美しい金髪に碧い瞳を潤ませて、美しいというよりは愛らしい美貌を曇らせた少女に、なるほど、とラグザは頷く。
「それで、姫様は怖がっているのだね?」
「――違うわ!」
がばり。勢いよく顔をあげたせいで、ふわりと視界の端で金糸が遊ぶ。
目に一杯に雫をためてラグザを見上げた姫は、すぐそこにあったラグザの金瞳に思わず息を止める。が、すぐにぶんぶんと首を振って気を取り直した。
「悪い魔法使いが、手当たりしだいに人を襲ってるって聞いて……私、ムハマトが心配で……!」
間違ってはいないが正しいとも言えない解釈だ。ラグザはふむ、と顎に指を添えた。
「いったい、王太子殿下はどのような説明を妹君にしたのかねえ」
「茶化さないで!」
ムッとして、姫はラグザの服を握りしめた。心なしか、その拳は小さく震えている。
「わた、私……本当に心配だったんだから……っ。ラグザの家はいっぱい警備の人もいるから大丈夫だって言われても、でも、ミーシャの家だってそうだったのに……」
殺されちゃった、もの。
ぽつりとこぼされたのは、身近な人間の死だったからだろうか。
ミーシャ、と聞いて、ラグザは頭に入っている被害者の名前を洗い出す。
さほど時間もかからず思い出せたのは、つい先日の被害者、その内のひとりだった。商家の娘で婚家もまた商家だったはずだが、そういえば娘時代はこの王女のお世話係兼話し相手として行儀見習いから女官にまで取り立てられたほどの才媛であったと聞く。
ミーシャ・バルロイ。王宮を下がったのは確か三年ほど前のはず。よく覚えていたものだ。
表情に出ていたのだろう。女官に促されて渋々体を離した姫が、「ずっとお手紙を送ってたの」とやや涙声で言う。
「手紙」
「そうよ。……ミーシャ、とっても優しい旦那さんだって、言ってたのに……」
ぐすりと、再びこみあげてきた涙の発作に姫の体がふるふると震える。
慌てて女官たちが姫を落ち着かせようとあの手この手で――「せっかく綺麗になさったのに、泣いてしまっては台無しですわ」だの、「ラグザ殿がご無事で、ようございましたわね、姫様」だの――主人を宥めているのを眺めながら、ラグザは思案するように瞳を伏せる。
「姫さま。その手紙、お借りすることはできますかな」
「え? え、ええ。構わないけれど」
「なに、最近のだけで構いませんよ。何か資料の足しにでも、という程度ですので」
にこり。微笑んだラグザに、ぽっと姫が頬を赤くした。
女官が捧げ持ってきた幾つかの手紙を受け取り、ざっと中身を見分するラグザは、ふむ、とその中からいくつかを引き出し、手に持った。
「では、お借りします」
「あ……その、」
「何か?」
もじもじと何かを言い淀む姫は、先を促すラグザの視線にやがて意を決したように言った。
「それ……返さなくても、いいわ」
「おや」
「……持ってると、ミーシャを思い出して、辛いから」
肩を落とし、俯く少女の言い分は、なるほど、真理なのだろう。
姫だけでなく、周りを囲む女官たちまでもが、かつての同僚の訃報に表情を暗くしているのを見て、ラグザはでは、と一度は戻した手紙を含め、すべてを受け取り微笑んだ。
「これは、私がいただくことにしましょう」
「いいの?」
「ええ」
「……ありがとう、ラグザ」
「いえいえ」
まだどこか陰りを残すものの、華やいだ笑顔を見せる姫。それは、この手紙の存在が彼女にどれほどの負担を強いていたかを物語る。
「薄情なことだ」
「ラグザ?」
「いえ。さて、それでは、私は仕事に戻りましょう」
「もう行っちゃうの!?」
「今度の副官は真面目なのですよ。あまり苦労させては、気の毒でしょう?」
この場にその「今度の副官」であるアブダラがいれば「どの口が言うのか」と食ってかかったことだろうが、生憎彼らの内実を知る者はそこにはいない。
それでも渋る様子を見せる姫を年配の女官が窘めて、ようやくラグザは自身の執務室へ向かうことができた。
また来てね。不安げに、僅かばかりの期待をにじませて見送る姫に、微笑で答える。
戻ってみれば、当たり前のことだがサウディはいなくなっていた。代わりに、出て行く時よりも肩を緊張させた副官がやたらと硬い声で「お帰りなさいませ」と口にする。
何かあったのかと考えるまでもなく、十中八九サウディが何か言ったのだろうことはわかっていたから、ラグザは何も言わなかった。代わりに、机に置かれた蝋燭を手に取り、簡易調理場で火をおこす。
「飲み物なら、私が」
「構わないよ。君は先にそちらを終わらせるといい」
慌てて席を立とうとしたアブダラは、そのひと言でびたりと足を止めたが、再び席につくことも躊躇われ、何となく上司の行動をそのまま眺める。
「法務次官の気配が残っているね。何か報告でもしてきたかい?」
「あ、はい。ええと……『例の件、現在対応できる法務官だけでは手に余ることが予想される。よって、次回の朝議にて〈魔法の君〉への協力を要請する方針』だそうで」
「ほう」
「『ほう』って、それだけですか? 〈魔法の君〉に協力要請だなんて……事実上の降参宣言じゃないですか」
〈魔法の君〉。
マハル王国全体を覆う結界、その守護を司る存在は、王宮内最大にして最重要の秘事である。
そもそも、誰がその〈魔法の君〉であるかを知る者は、当代の国王のみ。いつ代替わりが行われているのかも民は愚か臣下ですら知らされることはなく、ただ、王宮の地下に迷宮があり、その最奥に住んでいるという真偽を測りかねる言い伝えがあるのみだ。
「これ以上被害を出すなという、貴族院側からの圧力でもあったのだろうねえ。普段は始祖の加護があると言って高みの見物を決め込んでいるものだから、いざ自分たちも殺されるかもしれないとなって、戦々恐々としているのが目に見えるようだよ」
「陛下は、〈魔法の君〉の協力を容認なさるでしょうか」
「さて。そればかりはわからぬさ」
ある程度まで火が大きくなったところで、ラグザは水を張った器を火に乗せるでもなく――無造作に、手に持っていた紙の束を火の中に放った。
「ラグザ殿!?」
「……ふむ。やはり、そううまくはいかないものだね」
炎の紅に黒褐色が混じったのを見て、ラグザは肩をすくめた。
「それは……それは、そうでしょう。例の炎と同じにしたいなら、魔術を使わなければ」
そういえば、この上司はあの事件の焔を「綺麗」だと評していたのだったか。
思考回路どころか行動自体も掴めないこの上司が、きっと実際にその色を見てみたくなったのだろうと。そう納得して、アブダラは腰を下ろした。焦った自分が馬鹿みたいに思えて、妙な脱力感がある。
「だからといって、こんなところで白い焔なんて出さないでくださいよ。いくら小さくても、白いってことは、普通の焔より高温だってことなんですから」
ただでさえ暑いのに、とこぼすアブダラの言葉を聞いているのかいないのか。炎に包まれ、焦げ、灰になっていくソレを眺め、ラグザはくつりと笑みをこぼした。
「ああ、本当に――うまくいかないものだね、ルーナ」