01
どうして、と女はかみ合わない歯の根を震わせた。
歪に覆われた視界。あまりに強く殴られたせいで鬱血し腫れあがった頬が、瞼を下から押し上げている。殴られた瞬間の焼けつくような痛みは、絶え間ない鈍痛をつれてきた。
痩せて、骨と皮ばかりになった足を引き寄せる。じくりとした痛みが足首に走った。そこには鈍色の鎖が絡みついている。
気に食わない嫁だ。そう言って姑が木の棒で殴りつけた腹は、あまりに毎日繰り返されるせいでもう痛覚も触覚も働かない。夫の兄弟たちは、ことあるごとに自分に当たった。今日は客が少なかった、飯がまずい、苛々する。泣いてやめてと訴えれば、煩いと怒鳴られ折檻はさらにひどくなる。かと言って黙って耐えていれば、目が気に入らないと顔を強かに殴られた。
いったいどうしろというのだ。涙腺が壊れてしまったかのように、ぼろぼろと涙がこぼれる。
夫に訴えても無駄だった。彼は優しいが、自分の母や兄弟たちを止めてはくれない。家業の中でも外回りの仕事を担当している夫は帰宅自体稀で、それが気に入らない姑はお前のせいだとまた自分を殴る。義兄弟たちはそれをはやしたて、時に混ざり、気絶する一歩手前で去っていく。
この家にいるすべての人間が敵だった。安寧などどこにもない。少し前まではそれでも夜、寝台の上にいる時だけは自由だったが、つい先日、お前などに寝台などもったいないと取り上げられてからは厨房の隅で猫や鼠とともに眠るようになった。隙間風が体を冷やし、砂の地面が傷口を抉る。
どうして。女は唇をかみしめた。どうして、私はこんな目に。
女の結婚は幸せなのではなかったのか。娘時代、母はそう言って自分を諭した。親の決めた相手に嫁ぎ、婚家で愛され必要とされることこそが喜びだと。
自分は、必要とされているのだろうか。されているとして、いったい何のために? 鬱憤を晴らすための道具?
歪み、潤んだ視界で誰かが目の前にひざまずくのが見えた。
まだ殴り足りないのか。のろのろと上げた視界は、予想外の人影に凍りつく。
「……あな、た……」
「……ひどい怪我」
労わるような声音。痛まないよう気遣って、触れるか触れないかの距離を保って頬に添えられた手に、ぶわりと新たな涙が押し寄せた。
泣かないで。可哀そうに。言って、彼女は懐からなにかを取り出す。つんとした臭い。薬草特有のそれ。容器に入っているから、きっと軟膏だろう。
「染みるけど、我慢してね」
ひやりとした感覚は一瞬。ぴりりと走った鋭い痛みに小さく呻くと、彼女は慌てたように手を離した。
その、離れていく手を、女は反射的につかんだ。
驚きに目を見張る彼女に、精一杯ほほ笑む。だいじょうぶ。吐息のようにしか出なかった声は、それでも彼女に届いたようだ。
さきほどよりも慎重に、彼女の手が女の肌を滑る。頬に、顎に、首筋に。良いか、と眼差しで問われ、答えの代わりに裾をめくった。赤でもなく紫でもない、どす黒く変わり始めている患部が露わになる。
眉を顰めた彼女の瞳に強い憤りを見つけ、女はまた泣きそうになった。
彼女の瞳にあるそれは、女の腹を見た時にはっきりとした怒りに変わる。
布を巻こうとした彼女を、女が止める。そこまでしてもらわなくていい。それに、ひと目でそれとわかる手当ては、彼らの暴力を助長するだけだ。これ見よがしに、生意気な。そう言って殴られたのは、そう遠い昔ではない。
彼女は納得がいかないようだったが、女の意思を尊重しようとしたのだろう。おとなしく布をしまった。そして、強い哀しみをたたえた瞳で女を覗き込む。
「君は、これほどになっても、まだ」
「…………」
私と一緒に来てほしい。切実な、今にも泣きそうな表情で女に告げた時と、同じ顔をしていた。
あの時は即答できたのに、今は何も言えなかった。大丈夫、私はまだ、頑張れる。きっと、私が駄目な嫁だから悪いの。自分が言った答えが、そのまま自分に返ってくる。
(あれは、本心だったのかしら)
もう、わからない。あの時の自分の気持ちも、言葉の意味も。
「わた、し……まちがったの……?」
「…………」
「わたしがわるいの? わたしがわるいから、こんな……」
「君は、そう思うの?」
「……?」
「君は、自分が悪いって。自分が悪いから、こんな目に遭っても仕方ないって、思うの?」
「――だって……だって、そう思わなきゃ……!」
何のために、生きているの。
実家に、両親の傍にいた時は思わなかった。考えもしなかった。それは自分が幸福であったからだと、今ならわかる。失ってから初めてわかる自分は、愚か者だ。
「嫌いよ、嫌い……! お義母さんも、義兄弟たちも、みんな、みんな……! 助けてくれない夫だって、いくら私に優しくたって、そんなの本当の優しさじゃない! ……でも……でも、本当に嫌いなのは……」
「自分?」
頷く。
こんな状態から抜け出せない自分が嫌い。抗議したくてもどうすればいいかわからない自分が、誰かにいいようにされてしまう自分の無力さが、憎くて憎くてたまらない。
膝に顔を埋めて、女は肩を震わせた。涙は堪えた。せっかく彼女がしてくれた手当てを、与えられた優しさを、無駄にしたくなかった。
「君が、自分を嫌いになる必要はない」
触れるか触れないかの曖昧な距離で、彼女は女の頭に手を伸ばしゆっくりと撫ぜた。
泣いている子どもをあやすように、いつくしむように。何度も、何度も。
壊してあげる。彼女は囁く。
「君を捕えるこの檻も、君を傷つける人間も。みんなみんな壊してあげる。我慢する必要なんてないんだ。理不尽を許す必要だってない。君は人形なんかじゃない。まして物なんかじゃ」
だから、私と一緒においで。
どこまでも穏やかで、哀しげで、優しさに溢れた言葉だった。
胸がつまる。急速に広がるのは安堵だ。そして、喜び。
ずっと暗闇だった。光だと思っていたものはハリボテの紛い物で、辛くて苦しくて、本当は誰かに救い出してほしかった。うずくまりただ待つだけでは駄目なのだとわかっていても、手を伸ばすのが怖かった。
ずっとずっと。女は彼女にすがりつく。本当はずっと、こうして助けてほしかったのだ。逃げてしまいたかった。彼女が伸ばしてくれた手に、自分も手を伸ばしたかったのだ。
声を殺して泣く女の背を、彼女は優しく叩いてやった。もう大丈夫。そんな、ありったけの思いを込めて。子どもに戻ったように泣く女に、ずっとついていてやった。
その夜。暁の空を切り裂くように白い炎が突如立ち上った。
轟々と唸りを上げる炎の柱に、深い眠りについていたはずの人間までもが何事かと家を飛び出す。そうして、空を焼く炎がぽかりと口を間抜けに開いた。次いで、人々は慌てて風の行方を探る。
炎が持つ熱の高さにより色を変えることを知っている者は、白というあまりにも高温な炎に顔色をなくして。またある者は、炎柱が自らの家の風上にあることに気づき延焼の可能性に身を震わせて。
だが、不思議と――奇妙なことに、その炎柱は風に揺らぐことはなく、また都中から見えるほど高く燃え上がっているというのに周囲にはいささかもその熱を分け与えることはなく。
警備隊や魔術師隊が慌てて炎柱の元へ駆けつけるまで、そして駆けつけた後も――唯々轟々と燃え盛り、曙の光に吸い込まれるようにかき消えた。
それまで都で続いていた事件と同じように、或いは、それまでよりも更に巨大な炎の威容だけを都中に見せつけて。




