4.虎で猫。
生まれて初めて目にする生の札束に頭クラクラ。
これって桁いくつ?
ティーチ、ターチ……ム……六桁あるかも。
これは綺麗なお金ですか? なんて聞けない。見た目は綺麗よ。ピン札。まだ世間の垢に塗れていない生まれたての赤ちゃんの肌のように艶々だ。勿論擬人化表現で。
手にするのも恐れ多くて床に放り投げてしまった諭吉さんをミソギ君が代わりに拾い上げる。
「何ビビってんの。お金が襲いかかるとでも思ってんの?」
「なわけないでしょ! でも、誰だってこんな急に大金出されたら肝だって潰すに決まってるじゃない! あまりにも唐突過ぎて受け取れないわよ! 受け取れませんっ」
ビビリだろうがなんだろうが此処だけはなけなしの勇気を持って鮫島さんに言ってやった。
「ヤ、ヤクザ屋さんからなんて怖くて受け取れませんよっ」
ビビってる。声震えてる。でもこれは至って真っ当な人間の反応だ。
ああでもこんな態度で私、簀巻きにされて東京湾に浮かぶのかしら。
怖いけど、物凄く怖いけど此所で拒絶を見せなきゃ、たとえ命が助かっても泥沼にハマって後悔だけの人生は必至。
ほら、ドラマとかであるでしょ。此処でお金を受け取れば何かにつけてそれ以上の高い代償を要求されたりするやつ。きっとこの場合、最初は私の家を拠点にヤクの売買を始めたりするのかな。そこからだんだん運び屋だとか任されてゆくゆくは……二時間サスペンスの見過ぎ? でも現実は小説より奇なりって言うし、まず最初の出会いが奇なんだから可能性はゼロではない筈だ。
どんなに震えても鮫島さんを正面から見据えて私は丁重に断る。明るい未来のために!
「い、いくら善意の申し出でも……こ、こんな大金、私には不相応です」
だから、いりません。ごめんなさい。勘弁して下さい。
そう言ってミソギ君の持つ諭吉さんを鮫島さんに突き返す。鮫島さんは開いてるのか分からない鋭利な細い目を丸くして諭吉さんと私を交互に見た。
そして震える私を見て、何故か破顔したのだ。
「お言葉ですがぁ、自分はヤクザ稼業ではありやせんよ」
「……え?」
その言葉を引鉄にミソギ君が大きく吹き出して、腹を抱えて笑い出した。そう、そんな風に笑えるのね、ミソギ君。
「鮫島が悪い。こんな物騒な面構えなんてしてるから」
「しかし若ぁ、人相は簡単に変えられるものじゃあねぇですよ」
参ったと頭を掻いた鮫島さんはなにやら思い付いた様子でまた懐から何かを取り出す。
「申し遅れてすみませんでしたぁ。自分、タイガ・セキュリティーサービスの鮫島孟と言います。若はそこの代表の嫡男でして、自分が長年世話役を預かってまさぁ」
「タイガ……」
手渡された名刺はタイガ・セキュリティーサービス常務、サメシマツトムとフリガナまで打たれてある普通のものだった。いや、紙は私の名刺より上質かも。
というか、この人これで常務なの!?
それに、タイガ・セキュリティーサービスって、確かうちの会社もお世話になってる大手の警備会社だ。確か‘迅速で強い!’がキャッチフレーズで通っていたような。私設のボディーガードも派遣していて、ハリウッドスターから世界の要人といった名立たるV.I.Pからも信頼厚いと聞いた事があるけど。
「それじゃああっちの人では……」
「どちらかと言えばそっちは敵みたいなものだよね」
鮫島さんと顔を合わせてミソギ君達は頷き合う。
「極秘だけど、警察に変わって一斉摘発とかしたりね」
「極秘ですが、要人暗殺を目論む輩を締め上げたりしてます」
「先々代までは仕置人もやってたんだっけ。極秘だけど」
「戦後の混乱期まではやってたそうでさぁ。極秘ですが」
「あの、極秘なら私に明かさないで下さい」
詰まるところは普通じゃない人達には変わりないじゃないか。警備会社の域を越えてむしろ梁山泊の輩のまるで映画のCIAさながらのご活躍にまたクラクラと頭を抱える私。
でも良かった。すっきりした。胸を撫で下ろした。
家業がこれだからミソギ君って血の気多いんだと変に納得も出来たりしてさ。ヤクザ屋さんでない事が分かっただけでも安心する。そうと分かると鮫島さんもちょっと強面なだけの社会人に見えて来た。
「ご納得頂けましたかい?」
私の顔色で誤解が解けたと感じたのだろう。鮫島さんが精一杯そうな柔和な顔で体を縮めて尋ねる。その気遣いが変に滑稽で、私はえぇと頷いた。
「それじゃあこの金は受け取って……」
「それとこれとは別です。やっぱり私には分不相応な大金だと思います」
「しかし……」
鮫島さんも困る。そりゃあ、これは鮫島さんのお金ではなく、鮫島さんのボスでありミソギ君の親御さんから預かってる物だから仕方ないのかも知れないけど。それでも鮫島さんには悪いけど私が受ける理由はない。
「貴方の給料で同居なんか出来るの?」
「ちょ、貯金出来るくらいはあるよっ」
まあ、同居となると切り崩すかも知れなくなるけど。
「というか、そもそも同居の必要なんかないんです! 全部勘違いなんですってばっ」
警戒も解けたし今しかないこの機にとうとう鮫島さんに事の経緯と、ミソギ君の認識違いを説明する。
私が酔った勢いで自棄に走って変な挑戦を叩きつけた事、それをミソギ君が勝負事として受け入れてしまった事。そんな訳だから同居生活を始めたところで意味がない事を鮫島さんに訴える。
記憶が曖昧な部分は濁す説明になったけど鮫島さんは口を挟まず最後まで聞いてくれると難しい顔でそうですかと呟いた。
納得、してくれただろうか。
隣りのミソギ君を窺えば彼はまるで玩具を取り上げられた子供のように不貞腐れている。
「若、天願さんはそう言ってますが?」
真偽を確かめるというより意思を確認するようにミソギ君に聞くと、彼は尖らせていた口を開いた。
「食い違いだろうとなんだろうと、一度受けた話をなかった事にするのは僕の性に合わないよ」
「――だそうで」
「ミソギ君がなんと言おうが、私はお断りです! 大体常識的に考えてもおかしいし、私の身の安全もどうなるんですかっ」
「若がその気になればとっくに済んでます」
「いつその気になったら困るでしょうっ」
「責任は我が社上げて取ります! ボスは乗り気ですっ」
何に乗り気だっ! 何に!
埒が明かない問答に私が息切れすると、体力のありそうな鮫島さんは「とにかく」と引く気のない態度でその怖い顔をずずいと寄せて仕切り直す。
「若が興味を持った異性は天願さんが初めてなんでさ。別に無理して恋仲にならんでもいいです! ただ、若にきっかけを与えて下せぇっ」
「き、きっかけって言われても……」
自分よりも年上の男の人に懇願されて弱る。ほだされてしまいそうだ。だって、鮫島さんはあまりに必死だ。
世話役とはどこまで心労が耐えないのだろうか。赤の他人に矯正を縋るほど殺伐とした日常でも送っていると言うのか。まだ十代の身空で将来を心配されるミソギ君。それなのにそれを尻目に当の本人は自分の分だけお茶を淹れて飲んでいるマイペースさ。これにはちょっと同情が湧かなくもない。
出会ってほんの一日ばかりだけど、既に普通から外れていると見受けられる彼の行く末には私でさえ頭が痛くなりそうだ。想像しようにも全くかすりも浮かびやしない。
それを思えばある意味ミソギ君は異性としては無害と言えるかも知れない。
物騒な世の中だ。失礼な話、ミソギ君なら立派な番犬にもなりそうだ。このマンション、部屋は良いけどオートロックがない分セキュリティ面が心許ないから木刀チンピラを涼しげに引き摺る彼はどんなに強力だろう。
この時点で同居の動機から離れてるいるけど、どうせ毛頭その気はないから合縁奇縁、情けはなんとやらだ。
「――分かりました。そっちの方で力になれる気はないですが、彼の気晴らしになるのなら協力します」
最初にミソギ君を巻き込んだのは私だし、一応お世話にもなったし、ちょっと妙な形だけれど義理を返す意味にもなるでしょう。
渋々とだけど鮫島さんの嘆願に了承すると、パッと輝くヤクザ顔。怖可愛いとでも言おうか。
「では、当面の生活費を……」
「ですからそんなに必要ないですって!」
「それではこちらの面目が……」
なかなか引っ込めてくれない諭吉さんを間に、ミソギ君があっさりと口を挟む。
「嫌だね。大人ってすぐ変な見栄張って理由を作りたがる」
……確かに。育ち盛りの男の子一人を預かるのに私の給料だけでは懐が寒い。お金が貰えるならそれに越した事はないではないか。
「三万。それで十分助かります」
「しかし――」
まだ言い渋る鮫島さんを私はきつく見据える。
ここは私も引かなかった。
私が貧乏性ってのもあるんだろうけど、何もせずに人から与えられたお金って怖くて持てないんだよね。宝くじとかはまた別だけど。
でも出来れば早くその諭吉さんをしまって欲しいと内心願う。だって、ちょっとは欲が動きそうなんだもん。人間だもの。
「とにかく! 必要以上の物は与えない! うちの教育方針ですっ」
半ば強引に押し切ると鮫島さんは私の迫力に不意をつかれた顔をして、ミソギ君は笑ってた。
ま、これでひとまず決着?
* * *
「ほらミソギ君、見送りなよ」
私はベランダから階下を覗いて、これから帰ろうと車に乗り込もうとする鮫島さんを見下ろす。
「何の意味がるの。今生の別れじゃあるまいし、必要ないよ」
口ではそう言いながらなんだかんだでミソギ君もベランダに出て密かに下を気にしていた。
上からの視線に気付いたか、鮫島さんはこちらを見上げると大きく一礼をして黒塗りのベンツに乗り込んだ。私、明日からヤクザと付合いのある女って目で近所から見られないか不安だわ。
しかし引き受けた手前そうなったとて、実際はそうではないから気にしなければいいのか。
「――あれ?」
車に乗り込む鮫島さんを見届けて私はふと気付く。
鮫島さんの代わりにドアの開閉をしてから運転席に乗り込む部下らしい若い男の人。
その人がチラリとこちらを見上げたから分かった。
スキンヘッドになってるけど、顔にガーゼを宛て頭に包帯を巻いてはいるもののその顔には見覚えがある。
「あの人、ミソギ君に引き摺られていたチンピラだっ」
間違いない。気絶した顔しか見ていないけどあの人もある意味でインパクトのある出会いだからはっきり記憶している。
「ああ、あいつか。筋が良かったから鮫島に預けたんだ」
慌ててミソギ君を仰ぎ見ると彼はしれっとした顔で答えた。
「丸坊主にしたんだ。すっきりしていいじゃない」
それ、おそらくミソギ君に引き摺られてダメになったからじゃないかなぁと思ったけれど敢えて口には出さなかった。
「あの人、タイガ社に勤めるの?」
「運転手しているからそうなんじゃない? 鮫島はその辺の気に入ったゴロツキとかチンピラとか世話したがるから」
なんとなく想像出来そう。
顔は怖いけど、鮫島さんは面倒見の良さそうなタイプに見えるもの。怖すぎて多大な誤解を招きそうだけれど。
「いい人だね、鮫島さん」
「鮫島はうちで一番の穏健派だからね」
発進して車が見えなくなるとさっさと室内に戻るミソギ君の後に私も続く。
ミソギ君は届いたばかりのソファベッドに腰掛けると、読みかけの小説を開いた。私はどうにも手持ち無沙汰でおもむろにテーブルのティーセットを片付け始める。
「鮫島はただ吠えるしか能のない奴等を掴まえて‘暴れる体力があるなら、うちで社会に貢献になる使い方を勉強しろ’って言うんだ。全く何考えてるんだろ。物好きな趣味だよ」
あ、まだ続いてたのか、鮫島さんの話。
本に目を向けながら語るミソギ君の声に私も耳を傾ける。ミソギ君は肩を竦めて辟易として言うけど、聞いていてちょっと微笑ましい。
「それで? 鮫島さんが面倒見た人達は今はどうしてるの?」
気になるので尋ねたら、ミソギ君は本を閉じて手の平を天井に向けて溜息一つ。
「全部物になってる。育てるのが得意なんだろうね、あいつ。だから僕もあの趣味を馬鹿に出来なくてつまらないんだよ」
「つまらないのか」
繰り返して応じながら、私は込み出す笑いを堪える。それって単に鮫島さんをその人達に取られてミソギ君が妬いてるみたいに聞こえるからだ。
この子、案外と可愛いのかも知れない。
「ミソギ君も鮫島さんに鍛えて貰ったらいいんじゃない?」
「僕の方が強い」
提案すればミソギ君は失礼だと言わんばかりに眉間に皺寄せた。そうですね。君の強さがどんなものか素人の私には分かり兼ねるけど、プライドの高さは伺えるから世話係の鮫島さんから教示を受けないのかもしれない。
「だから鮫島さんの為に見込みのある人をミソギ君は届けるのか」
優しいよね。
そう続けると、ミソギ君はそんなんじゃないとそっぽ向いてしまった。
でも分かる。耳がほんのり赤い事。
この子と一瞬に暮らすのは楽しいのかも知れない。
そう感じながらソファで寛ぐ大きな猫を見るように、私は二人分の夕食の支度を始めるのだった。