1.木刀と少年。
私、天願昴は大学進学を機に上京し、そのままそこで就職についたごく普通のOL二年目の独身女。
実家は海を越えた遥か遠い亜熱帯の沖縄。
たまに無性にあの青々とした海が懐かしくて仕方なくなるけど、地元在住時は中学以降さほど泳ぎに行った事はない。海なんて珍しくもなかったし、行けば観光客ばかりの印象ばかりあるのにそれでも離れるほどに恋しくなるのが故郷なのだろう。最近は実家から送られ来た泡盛を飲むようになった。シークヮーサーが手に入らないからグレープフルーツを搾り入れる。これがまた美味しくて一人手酌も板についてきた。
――そうじゃない。お酒の話は置いといて、つまり私は都会の端っこで、少しでも故郷の何かを取り入れながら、何処か寂しさを抱えて生きているの恋人もいない二十四の女って事。
そんな寂しさと同居する私は今、どうしようもなく荒れていた。
理由は至極単純明快。
フられたのだ。
いや、フられたという表現はおかしいのかも知れない。
恋愛だったかは別として、何となく好感を持ってたのは確かだけど、別に私達は付き合ってもなければ、私が彼に恋していた訳でもない。改めて振り返ってみても友愛の域を越えない感情だった。
しかし私はフられた。
彼とは職場での同期として知り合った。出会った時から有能で、出世株で何より顔も良く人当たりも良いから女子社員からの人気も勿論、立ち回りの良さから同性にも好かれる自慢の友人。人気者の彼とは私はかなり親密だったかもしれない。仕事帰りに二人で食事に行ったり、オフの日に映画とか行くくらいにはただの同僚よりは仲が良いだろう。
傍からしたら付き合っているように見えただろうけど、叩いても逆さに振っても艶っぽい出来事は何一つない。ホントに本当に清らかな関係だったのだ。
良い友達。私にはそのつもりだった。
でも、彼には違った。
彼にも色々あって、色々溜め込んで、結果、今日に至ったんだろう。多分、きっと。
ともかく、私にとって彼は普通に同僚であり仲間であり友達で、だから今日は一つの大きな仕事に区切りがついたから打ち上げと称して仕事上がりに彼を誘って二人で飲みに行ったのだ。
正直言って楽しかった。
疲れもアルコールで吹っ飛ぶし仕事の達成感はあるし、気の合う同僚と愚痴を交え冗談を交わすのは愉快な事だった。けれどこの時から既に決意していた彼の心境には私は気付けなかった。
口火が切られたのは帰り道の事。
帰りのタクシーがなかなか拾えずにぶらぶらと道路沿いを歩きながら彼は言った。
切り出しは唐突だったかも。寝耳に水と言うか。その辺の流れは酔っていて記憶があやふやだ。他愛ない話から恋愛の話題になった時だったかも知れない。
ともかく彼はこう言った。
「俺はずっと天願の事が好きだったけど、お前は俺とか、他の誰かを好きになろうと言う気は全くないんだな」
何故か衝撃的な言葉だった。
告白と別れの言葉が同時だったからではない。確かに初めて聞かされた彼の気持ちは衝撃的だったけど、何より、彼の私を見る憐れんだ目が鋭く深く胸に突き刺さったのだ。
そんな風に誰かに言われたのは初めてだった。
初めてだったけど言われなくとも薄々とは気付いてはいたのだ。
私が誰かを本気で愛した事なんてないくらい。
この年にもなって恋の一つもした事ないくらい。
愛情を持たない訳じゃない。
映画やドラマや小説や漫画の恋愛に憧れる想いくらいある。
芸能人の異性を見てかっこいいとはしゃいだりもする。ただその気持ちに現実味はなくて、自分の恋に置き換えようにも身近な異性に想いを馳せたりはしなかった。
何故か恋愛感情が持てないのだ。
だからって同性が好きとかでもなく、恋愛を伴なって相手を見れないだけ。
出来ないのだ。
きっと彼は私の自覚よりそれに気付き、私を寂しい女で可哀相だと呟いたのだろう。
酷く胸が痛かった。
知ってるよ。そんなの。
私だって寂しい。
とてつもなく寂しい人間だって気付いてる。
言われなくとも憐れまれなくとも自分で気付いてた。無意識に気付きながら蓋をしていた。
だからこそ直視しなかった物を敢えてこじ開けた彼に腹が立ったんだ。
腹が立って、相乗りする筈だったタクシーに一人で乗り込み、結果残金が足りずに途中下車して自宅まで歩いている現在とか腹立たしいのと情けないのと、それから友人を失ったのとでもうぐちゃぐちゃだ。
ツイてない。なんてツイてない週末。
予定なら今頃はほろ酔いで機嫌良く帰宅してひとっ風呂浴びて、冷蔵庫でキンキンに冷えたビールを飲んでベッドにダイブして休日の明日は昼まで寝て過ごす筈だったのに……。
そして、ツイてない時はとことんツイてない。
「……でーじやっけー……」
最悪だと思いを込めて吐き出して、惨めな突起を摘み取る。
細かい傷が履き古した証の赤いエナメルのヒールの踵部分。怒りに任せてずかずかと歩いていたら、側溝の穴にハマって左足だけぽっきりと折れてしまった。
五センチもあるヒールだ。踵がない状態で履いたりしたらアンバランスもアンバランス。
これが時代劇なら切れた鼻緒を自分の袖をこより状に切って紐を結ぶ所だけど、生憎それは草履の話。布切れを持ってしてもこの五センチの突起はくっつきはしない。
神様は裸足で歩けと言ってるのか。
歩くさ。歩けばいいんでしょ!
「小さい頃は当たり前みたいに裸足で遊んでたんだから」
両方の靴を脱ぎ捨て指につっ掛け口にはするも所詮は強がり。惨め過ぎる現状に自然と流れ出る涙を拭って私は歩いた。
悲しい。
寂しい。
寒い。
負の感情がぐるぐる渦を巻いて私の心を掻き乱す。
拭っても拭い切れない涙にうんざりして、寝転がって泣き叫んでやろうかと垂れ落ちる鼻を啜りながら僅かな光を心の支えに進めば闇の中から音が発せられた。
凛と鈴を鳴らしたような清涼感のある静かな声が夜道に響く。
「……不様だね」
凛と澄み渡るから聞き間違えようのない突然の一言にカチンと来るて足を止めて顔を上げた。
涙で崩れた化粧顔とか気にしない。堪えていた鼻水が垂れたけどどうしようもない生理現象だ。
言葉通り不様だと自分でも思えた。
ホント、笑える。
けど、それでも他人に言われる筋合いはない。
赤く腫れているだろう目を擦り闇の中に
立つ声の主を睨みつけようと勇んで前に出る。が、威勢が良かったのはそこまで。文句の一つでもくれてやろうと口を開いた私は吐き出す言葉も忘れて声を失う。
暗いと思った先の道に突如光が湧き、人影が浮かび上がる。蛍光灯が切れかかっているのだろう。怪しく頼りなげに点滅する外灯の僅かな光りの下に映し出された影は真夜中に溶け込むような漆黒の学生服を着た一人の男の子。
いや、一人じゃない。正確にはもう一人いた。少年の足元に意識がないであろう首の座らない男が顔を青痣で腫らせて気絶している。
そいつは伸びた状態で男の子に脚を抱えられて地べたを引き摺られていた。白っぽい薄い色の安っぽい一張羅の下に派手な開襟シャツを着た、いかにもチンピラ風な男が。
何で学生とチンピラ!?
考えられない取り合わせに私は夢でも見ているのかと目を擦ってもう一度確認する。すると今度は別の事実に気付いた。
どうしてこの少年は向きだしの木刀なんかを肩に掲げているのだろう。
「あぎじぇ……」
異質過ぎる光景に遅れて出て来た言葉は予定とは全く別のものとなった。