12.不羈奔放。
これだけの全力疾走って何年振りだろう。学生時代は毎日部活動で走り込みをしていたのに、卒業後はすっかり運動習慣がなくなったその反動で鈍り過ぎたか五〇〇メートル走った所で息は切れ切れ、お腹と心臓はキリキリと痛み出して来た。……喉も痛い。呼吸が続かない。水、欲しい。
あんまさい……にりー……。
こんな風に当時も心中ずっと呟いていたっけ。試合は好きだけどボールを触らない練習は嫌いで、でもやめなかったのは走ることも大事だと知っていたからだ。負けたくないから私は「辛い」も「めんどくさい」も言葉にするのは飲み込んだ。
それは今だって一緒。走る意味は昔とは大きく異なるけど弱音を吐いてはどうにもならないのはきっと一緒。……ちょっとは、多分。とにかく、だから私は走るのをやめない。やめられない。
理由一。ミソギ君が私の手を引いたまま走り続けるから。
理由二。背後に殺気を余すことなく噴出した強面の集団が私達を追い続けるから。
怖い。下手なホラーよりも怖いよこれ。捕まったらどうなるの? どう考えても白い貝殻の小さなイヤリングをご丁寧に届けようとしているようには見えない。だっておもっくそ「死ね」とか聞こえるし。
警察の人は何をやってるの。こんな街中をチェイスしているというのにサイレンの音すら聞こえない。ミソギ君も交番に駆け込む様子はない。そもそもホントに逃げるつもりがあるのだろうか。彼の背中を追いながら私は気付いた。
だって、映画館という場所柄人も賑わう地点から始まっているのに人混みに紛れるという手段を選ばず、開けた通りに出ても心なし人気の少ない方へとだんだん向かっているように思えるのだ。
ああ何を企んでるのだろう。おそらく間違いなく笑っているのだろうなと彼の背中を見つめながら私の背中に汗が流れる。
不思議だ。こんなに走っているのに冷や汗を掻いている。
ちらりと背後を肩越しに覗く。追っ手は二十人近くに上っているだろうか。どうやら追走しながらケータイで召集をかけているらしい。まだ増えるかも知れない。まだ増えるのか……!
これはなんの悪夢だ。私はただ普通に映画を観に来ただけなのに、そこでまさか(多分)ミソギ君を狙う奴らに追われるなんてこんな安いアクション映画のハプニング展開は夢なんじゃないかと錯覚させる。
でもこれは現実だ。だって走り過ぎてお腹も喉も心臓も足も痛いもの。
痛い。でも走らなきゃ。
ああ、今日はローヒールのブーツを履いていて良かった。まだまだ成長途中のミソギ君は私が高いヒールを履いて身長差がなくなる事に良い顔をしないから、控えめな靴を履いていたおかげで走りやすいよ。――走る原因が彼にあろうとも。
次第に私は考える事も少なくなりただただ走った。
足を右に左に、バネのように反動を使って走る。
だんだんと息苦しさも心地良くなって来た。
小気味よい短い息が身体の中から聞こえてくる。これが俗に言うランナーズハイなのだろうか。
走って走って走って走って走って走って。
とにかく走る走る走る走る走る走る。
足を右に左に右左右左右左右左右左。
息が切れる。
呼吸が熱い。
火照った身体。
剥き出しの顔で風を切る。
頬を撫ぜる冷たい風、痛い。けれど快感を覚える不思議。
私の手はミソギ君に引かれながら宛先不明にただ走るひたすら走る無我夢中で走る。走る。
一定のペースを崩さずにリードするミソギ君の伴走に迷いがなく、私は繋いだ手からまるで力を貰っているように走る。
走る。ひた走る。まだ走れる。
しかし――永遠とも思える逃走劇は目の前に飛び込んだ一枚の壁に阻まれて突然に終わった。
壁。
ビルの壁面だ。廃ビルなのか、少ない窓にはひび割れた痕が放置され、とても管理された施設には見えない。窓は二階以上からしかなく、一階部分はおおよそ人の出入りが不可能な排気口だけ。勝手口は辛うじてあるけれどしっかり南京錠で施錠がされている。左右も別のビルが阻み薄暗く湿気臭く狭苦しい袋小路だ。
まるで映画やドラマ、漫画でよく見る光景の路地に立つ私達。これっていわゆる――
「袋のねずみだなぁ」
ごもっとも。私が思ったままを口にしてくれたのは追っ手集団の先頭を立つ、チーマー風のお兄さん。
「おー。しげちんすげー。そんな言葉よく知ってんなぁ」
「だべ? 俺、学あっし」
自慢気に笑うしげちんと呼ばれたリーダー格らしき男は、少し解けかけただらしのないドレッドヘアにキャップを被り、更にその上から黄色のパーカーを重ねて着ている。見ていて頭のかさばるファッションのチンピラもどきなチーマー。
ある意味で「お手本通りのファッション」なならず者だ。周りの人間も皆似たり寄ったりで、どれを取ってもお世辞にも「昼間は普通の会社員です」って類はいない。
「さて、どうすっかなぁ。煮ちゃう? 焼いちゃう?」
キヒヒと笑う口元の歯は所々欠けていて思わず不快に自分の顔が歪むのを感じる。
「しげちん、女がいるよ女。ひゃは! 大河の女かなぁ」
しげちん――あだ名はやけに可愛らしいよなぁ――の横から声をかけて来たのは深くニット帽を被った、眉のないやっぱりチンピラ風な男。その男が顎で示唆するのは勿論私。ざっと見回してもこの中に女は私一人だ。
舐めるような視線が身体を這い、ぞくりと背筋が泡立つ。ミソギ君の背中に隠れれば茶化すような笑いが集団から漏れた。
「かーあいいー。お姉さん、ボク達全然怖くないですよー。むしろ女の子には超優しいんです」
「優しい? マジでか。散々女殴って毟って風俗売るやつが? あ、お姉さん、俺はマジ優しいッスよ。特に夜とか!」
「おま、それ結局泣かしてるしっ」
下卑た笑いが木霊する。鉄筋コンクリートの壁と壁にぶつかって不快に奏でて反響する。
不愉快。
その一言に尽きる集団は多勢に無勢。負ける見込みがないと踏んでいるのか、追い詰めた猫達は余裕の表情で追い込まれた鼠を前に談笑する。普通なら鼠の私は怯えるのが当然の反応だろう。
けれど、不思議と私は落ち着いていた。
怖いのは怖いのに少しだけ変な高揚感が私の中に湧いているのに遅まきに気付いた。走っている間は必死だったから感じる余裕がなかったのかも知れない。
目の前にある大きくない背中を見つめて私は息を整える。
――大丈夫。だってミソギ君がいるから。
彼の強さを直接この目にしてはいないからはっきりとした確証はないけれど、敢えて此処に向かって走っていたのは今なら分かる。きっと無策でないのだろう。
果たして追い詰められたのは――鼠は――どちらなのか。
「なあ、上は大河のクビ取れってだけで女の事は何も言ってなかったべな?」
「あー。じゃあ大河取れば女自由? やっべ、俺勃ちそうっ」
「きったねぇ。漏らすなよ、くせーし」
「じゃあ出すなら女のく……チェゲバラッ」
某革命家の名前……を言う理由はないので、舌を噛んだような断末魔――死んだ訳じゃない――を残し、一人の男が地に伏した。勿論やったのはミソギ君。
彼から目を離していたからチンピラもどき集団は何が起こったか理解に遅れるだろう。
何故、壁際に追い詰められ、二、三メートルは距離を置いていたミソギ君が彼らの中に入っているのか。
別にマジックやイリュージョンの類ではない。単に映画館で見せたドロップキックを、集団の一人の顔面で再現しただけだ。それはもう神速とも言える速さをもって。
「……飽きた」
そんな目を見張る技を出したあとのミソギ君は、ぽつりと肩を竦めて零した。
「つまらないよ。何か余興で楽しく吠えてくれるのかと黙って聞いてたら、お決まりの御託だし、仕舞いにはスバルの耳を汚そうとするし。貴方達、聞くに堪えない」
淀みなくすらすらと述べながら、ミソギ君は次から次へとチンピラ共を薙ぎ払って行く。軽くいなしているようでその実的確な攻撃はとても無駄がない。掴みかかろうとする手を逆手に捻り、捻って投げ、またそれを別の相手にぶつける。
惚れ惚れするような見事な攻防。
襲う彼らは気付かなかったのだろうか。自分達が誘い込まれた事に。
多勢相手にぶつかるならば、狭い路地で一対一に持って行くのは定石ではないか。それこそ漫画などでよく見る定番の策なのに、彼らは露とも考えつかなかったのだろうか。考えもしなかったのかも知れない。
一般常識として、いかにタイマン勝負に運ぼうとも結局相手は多数。倒れても次がいる。物量作戦でいずれはミソギ君の力だって尽きると思ったのかも。
普通ならそうだ。体力には限界がある。いくら無駄な動きを省いたとして、連続何ラウンドも続けるのは相当な疲労だ。ましてやこれは試合でもなければインターバルも許されない喧嘩だ。
なのに何故だろう。闘えば闘う程にミソギ君の拳は重くなる。蹴りは鋭さを増す。鮮やかになる。闘志を帯びた身体が光り出すように克明になる。そして鬼となり修羅となり武神になる。
喧嘩はやめて欲しいと思っていた。
でもどうしてだろう。今は目の前で生き生きと拳を奮うミソギ君に目を奪われる。離せなくなる。
格好いいと思う。
元々格闘技を見るのは好きだ。ボクシングにプロレス、K―1にプライド。世界柔道も見るし、私の地元は空手の発祥地だ。
強さは憧れで、強さで君臨する自然界の覇者のような獣の猛々しさは理想だった。
それなのに何故喧嘩は駄目だと言えたのか。簡単だ。強さと暴力は違うからだ。
だけど、それがどうした。今目の前に繰り広げられている喧嘩は暴力とは違う。正当な鉄槌である。
大体、多勢に無勢を働いたのは向こうだ。下手したら集団リンチの所を彼は体一つ見事な体裁きで片付けているんだ。
格好いいと思ってしまうではないか。
背中に走る震えは武者震いだ。
強い。
凄い。
怖い。
格好いい。
私は息を飲んで見詰める。目では追いきれない速さの一撃を一つも見逃すまいと見詰め続ける。
そして、今はリングを戦場とするクロアチアの元兵士の繰り出す稲妻が如きハイキックにも勝るとも劣らない蹴りを相手の側頭部に打ち付け昏倒させた後、気付けば彼を襲う者はいなくなっていた。
立っている者はいる。ただ、圧倒的な強さを前に刃向かう気がないのだ。
戦意喪失。まさに今に合った言葉。
彼らの中で誰も考えはしなかった筈だ。この人数で仕損じる筈は絶対にないと。
「もう終わり? 呆気ないよ。呆気なさすぎる」
その上、肩で息をする様子もないミソギ君を誰が想像しただろう。けろりとした声で物足りなさげに不満を零されるなんて。
格が違う。
生きる世界が違う。
細胞一つ取った種が、個が違う。
存在そのものが覇王とでも言うのだろうか。
不思議と笑ってしまう私がいた。
突然に巻き込まれた非日常。
その彼の日常に惹かれる自分。
私って案外図太いのかも。そう思い、私を見やるミソギ君の視線に気付く。
「……そこで笑うんだ」
「ん、ああ、そうね。普通、怖がるよね」
自分でもおかしい反応をしていると気付いているから首を傾ぐ。
「多分、あまりの事態にメーターが振り切れたんだと思う。だって、今までの私の日常とはあまりにもかけ離れているもの」
まだ興奮しているのか、上気する頬に僅かな熱を感じた私は努めて冷静になろうと改めて周囲を見渡した。
「ところで、この状態はどうするの? 警察?」
それとも救急車だろうかと、ミソギ君の周りに倒れ込む集団を前に一応ケータイを取り出した。
残党はとうに散会し、倒れた彼らの仲間はいない。僅かに呻く声は流石に痛ましく思えて、ケアぐらいはしたくなった。
この人数だ。ミソギ君だって正当防衛は認められるだろうから、警察沙汰になってもきっとあまり咎められないよね。否、むしろこの人数をミソギ君一人が太刀打ちしたと信じて貰えるか疑わしいけども。
信じられない事に彼は無傷だ。
まるでファンタジーだなと、目の前の現実をどこか別の次元のように捉えながら溜息を零す。呆れるというより、感嘆の。
これだけ強ければ鮫島さんもさほど心配はしないだろうな。なんて思いながら私は足元に転がる哀れなお兄さん方を見回す。
喧嘩する相手を間違えたってこの事ね。ご愁傷様。
「スバル、こいつらの始末は鮫島に任せたから僕らは帰ろう」
「あらいつの間に」
私が心の中で合掌をしている間に手配をつけたのか、スマホを閉じたミソギ君が手招く。
この人数の後始末って鮫島さん大変だろうなと、足場の悪い肉の絨毯をどう抜けようか苦戦しながら強面だけど面倒見の良い殿方の心中を察する。
きっとミソギ君の事だから鮫島さんに丸投げする事なんてよくあるのだろうなぁと、しげちんを跨ごうとした時だった。
「スバルッ!」
「後ろ!!」とミソギ君が叫んだ頃にはもう遅い。私は背後で何かが地に着く音に振り返る間もなく拘束されてしまっていた。
「女ゲェェェ~ット」
嬉々として声が耳に痛いくらいに突き刺す。
何? 何これ何事?
あまりの唐突さに身を捩ると痛みが腕に渡る。両手は男の手により羽交いにされているから無理もない。
「おっと、動いちゃヤ~よ。お姉さんには大河からの盾になって貰わなきゃ困るんだから」
盾と聞いてハッとする。顔を上げると苦々しげにこちらを睨むミソギ君が拳を握り締めて立っていた。
「女を背後に匿って守ろうとしたのかもしんねぇけど上から来られちゃうしようもねぇよなぁ」
さも自分の機転を誇示するように、男の舌は回る回る。饒舌にビルの中に潜入し、二階窓から飛び降りて私達の不意を突く作戦を自慢げに語った。そして、私を盾に、呼び戻した仲間を引き連れミソギ君を痛めつける企てを露呈する。
楽しそうに楽しそうに。
それから男の舌は私の頬を撫でるように舐めた。
ゾクリと、肌が泡立つ。
顔は見えないけどきっと男は喜色満面ね。そう、ぼんやり心の隅で思った。
ミソギ君はどんな顔をしていただろう。
足手まといの私に怒ってたかな。心配してくれていたら嬉しい。
でも、
正直私には彼を見る余裕がなかった。
まるで棺桶に詰められたような、もしくは水底に沈められたような圧迫感や閉塞感、息苦しさに襲われそれどころではなかったから。
捕まれた手首が痛い――汗ばんだ手、気持ち悪い――首筋にかかる生温かい息が、頬に当たるナイフの冷たさ、引き寄せられる腰が気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い離して気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い離して気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い悪い悪い悪い気持ち離して気持ち悪い離して離して離して離して離して離して離して離して離して離して――……。
ワタシニサワラナイデッ!!
――……その後の記憶は、ごめんだけど忘れた……。