9.喰らいついたら――。Misogi side
「――スバル?」
急に泣き声と鼻をすする音が止むから呼んでみれば返事がない。
見やればソファベッドに突っ伏して泣いていた姿勢そのままにスバルは深い寝息を立てていた。
今の今まで泣いて声を荒げて僕に手まで出していたくせに、落ちる時はまるで電池が切れたような早さに感心すら覚える。ほんの一分ほど前だと記憶しているのだけど。
ふと昔鮫島が見せてくれたアニメを思い出す。確かあれには三秒くらいで寝入る人がいなかったっけ。それぐらいの寝入りようだ。泣き疲れると落ちる構造にでもなっているのかもしれない。
そういえば以前にも似た経験をした気がするなと妙な既視感を感じていたら、あれはスバルと初めて会った日だった事を思い出す。怒りながら泣いていた彼女はそれはもう鬱陶しかったけど、泣くだけ泣いて喚くだけ喚いたらやっぱり今夜みたいにこてんと眠ってしまったんだ。
変な人。
会った日から今日まで変わらずに僕が持つスバルへの印象だ。
まず出会いが滑稽に印象的だからね。
まず出で立ちが良くなかった。夜道を啜り泣きながら裸足で歩く女の影を見た時は流石に幽霊なんて存在を信じたくらいだ。勿論それは幽霊じゃなくてスバルなのだけど、幽霊じゃないのならその様はあまりに無様だったので内心驚かされた腹いせに思った事を正直に述べたら今度は靴が飛んで来た。
これまでに鎖鎌や鉛玉なんてものを向けられた事はあっても靴を投げられたのは初めての経験。それも女の人から攻撃を加えられるのはほぼない。あまつ彼女は動転していたから聞き慣れない訛りで話すから何を言っているのか通じなかったんだよね。
泣いて崩れた化粧に赤く晴らした目と鼻、嗚咽混じりの濁った声に伝わらない言葉を話せばそれは宇宙人に等しい遭遇だ。
あれで僕より年上なのを笠に着て大人ぶるからよりおかしい。
スバルはいつだって僕の姉さん面をするけど、本当は恋も知らない点ではある意味僕と同レベルの人。
異なる箇所をあげるなら、色恋なんてなくても困らないどうでもいいむしろナニソレな僕とは対称的に彼女はそんな感情を抱けない自分を嘆いていた。
『人が当たり前みたいに持っている気持を持てないって悔しい――』
不意にあの夜の言葉を思い出す。
そう言えばそんな事も言ってたっけ。
『恋がしたい。一度でいいの。たった一回だけでもいいから胸が苦しくて張り裂けるくらい本気で誰かを好きになりたい……』
その訴えは特別僕に向けて投げ掛けた訳じゃないくらい知っていた。彼女はただそこに僕がいたから酔いに任せて本音をぶちまけたかっただけだろう。僕にすればそれはとんだとばっちりで、酔っ払いに付き合う暇などないとないって思った。だから逃げる訳じゃないけど、無視して通り過ぎようとしたら……。
そこまで反芻して反射的に額の痛みを思い出す。
そうだよ。スバルは僕の足にしがみついて引き止めたんだ。そして僕は不覚にも前のめりに……。
今思い出しても癪に障る。物理的ダメージよりもただの素人に不意を突かれて受けた精神的苦痛の方が大きい。
「――スバル、あの日の仕返しがまだだったよね」
今更ながら反撃と彼女の額にでこピンを一発見舞いするが、彼女は僅かに呻くだけで起きる気配はなかった。
寝付きも深いらしい。全く、彼女を見てると色々飽きない。
本当に、スバルくらいだよ。見捨てようとした僕に向かって「恋をさせろ」って嘆願するのは。
何をどういう思考回路でそれに至ったかは理解不能だけど、必死さだけは伝わった。
僕である必要がないのは分かっている。彼女はきっと藁をもすがる思いでぶち当たっただけで言うなれば特効。言うなればがむしゃら。後先見ずに願望をただ伝えただけ。
ただ一心なだけだったんだ。
みっともない姿には違いない。けど、僕はそうやって足掻いている彼女はとても綺麗だと思えたんだ。
そして、それをもっと身近で見ていたいと思った。
同居の経緯は強引だったと認める。なんだったらうちに連れ帰るのも手だとは目論んではいたけれど、まさか本当にこの家に住み着けるとは思わなかったから彼女の次の行動はたまに読めない。でもいざ今の生活が始まってみれば案の定、僕の分の料理から洗濯諸々に振り回されて奮闘するスバルの働きぶりは見物だった。元々器用ではないのだろう。あれこれ失敗しながら、それでも立ち向かう姿はなかなかに壮快だ。
ある意味で戦っている彼女の姿は、それで勇姿だった。
――そもそものきっかけで同居の肝である恋愛云々については僕もどう動き始めたらいいか皆目見当もつかず、全く無為に過ごしていたからこれといった進展は何もない。一度話を受けたからにはどうにかしようと思いはするけれど現状の居心地の良さにどうにも緩慢になっている気もする。
色恋にあくせくするスバルも見ものだろうけどこればかりは僕でも苦戦だ。
この前、森屋が聞いて来たっけ。僕がスバルを好きかって。
その時僕はただ足掻く彼女を見たいだけで、好きとは違うものだと決め付けていた。
果たしてそれは違うのだろうか。あの森屋の手前、深く考えるのはやめていたけどそもそも好きってなんなの。
好きな食べ物や好きなことならすぐに思い浮かぶ。
僕の好きなもの。相手を屈服させる事、血の匂い、張り詰めた緊張感。
その好きに人を介すると何かが違う気がする。スバルへの気持はそれと同じ括りにはならない。まるで違う。
もし僕が異性を相手にするなら、理想としては強い方がいい。虎が猫に戯れて対等に渡り合えないようにに、僕が噛み付いても倒れない相手がいい。
そうなるとスバルはてんで弱く、それ所か今日のように僕の実力さえ計れない素人だ。
所詮、僕らと生きる世界の違う一般人。だから自分の物差しで計って喧嘩をするなとか言うのだろう。そんな余計なお節介には時々腹が立つ。そこは学校の人間のように分かり合えない同じ隔たりが確実に僕らの間にある証拠だ。
それなのに不思議だよね。
「貴方が泣くと僕の胸も痛むんだよ」
深い寝息を立てるスバルに顔を近付けわざわざ耳元で囁いてみたけど何の反応もない。当然か、この時間は普段なら寝ている頃だ。
多分朝まで起きる事はないだろうと、仕方なくスバルを抱き上げて彼女のベッドまで運ぶ。初日もこうやって勝手知らぬ家まで運び入れたっけ。正確に言ったら酔った彼女に言いように使われて運ばされたのだけど。
今思えばよく初対面の女性に僕も大人しく従ったものだ。同様に初対面の人間をこき使い部屋にまであげる方も問題があるね。
起こさないように静かに布団をかけてやると、スバルは安定した寝床を体で感じたか更に心地良さそうに寝息を深める。
安心しきった顔。無防備なのは奇襲を想定したら褒めたものじゃないけれど、この安堵感を僕が居る事で与えたのだとしたらなんとなく嬉しかった。
寝ないで僕の帰りを待っていてくれたスバル。
食卓に用意されていた約束の夕飯を目にした時、僕を想って胸を焦がしていただろう彼女を想像をした時、言い様のない感情が湧き上がったんだ。
心がざわざわと騒いで喧しくて、彼女の心配を僕が一身に受けていたと考えると変に頬の筋肉が緩んだ。
心配なんて侮辱だと思うのは本心なのにどうしてか胸の辺りがむず痒い。
これは精神面を狙った新手の攻撃だろうか。
だとしたらスバルは最強だ。鎮めようとしても治まってくれない。そもそも何をしなくても仕掛けられる見えないこの攻撃にどう対処したらいいのだろう。
「――ムカつく」
これは生まれて初めての敗北だ。
気付いてしまった。
難しく考えていたのに湧いて出たように突然閃く。とっかかりがあればこんなにも簡単に理解した。
この誰にもない特別な感情。スバルだけが着火出来る特別な導火線。
有り体に言うとこれが恋だ。
間違えようもない。こんな感情は今まで誰にも感じたことのないものだ。素直に認めるのが少し癪だけど、現実から目を逸らすのは嫌いだ。
落とす筈がまさか僕がやられるなんて思いもしなかった。――いや、案外最初の方でとっくに落ちていたのかも。何処の時点かは分からないけど、きっと不意を突かれたに違いない。スバルは色々読めない人だから。
となればスバルは初めて僕を負かした最初の人だ。しかも女性に負けるなんてとんだ不名誉だよ。
でもそうだ。僕がこれを明かさずにスバルの気持を僕に向かせれば勝ちなんてどっちにあったか分からないよね?
だとしたら僕は本気にならなければ。誰にも気持を悟られずにスバルを落とす為に――。
「覚悟、しなよね」
眠るスバルに宣戦布告。
貴方は知らないだろうけど、僕は狙った獲物は逃さない主義なんだ。