第六十話 罪の貌(かたち)
「それが、私があの館を訪れるまでの事。あとは、貴方も知っての通りよ」
「…………」
雫の語りを聞き終えて、宮子は何も言えず、神妙な顔で黙り込んだ。
彼女の視線は、雫の手元に向けられている。
先ほどからずっと、彼女は手にしたカップを傾けて紅茶をしきりに口にしているように見えた。だが、その中身はあまり減ってはいない。口を湿らす、喉を潤すというよりも、ルーチンワークによって気持ちを落ち着かせているように、宮子には見えた。その細い指が震えているような錯覚を、宮子は感傷に浸りすぎだ、と振り払った。
しかし、やはりというか。
「成程。……私もまあ、似たような経緯よ。やっぱり私達、同類だったみたいね。道理で気が合う訳だ」
「私もよ、宮子さん。これまで生きてきてたった一人の友達が彼女だったなら、貴方は二人目の友人、と言っていいのかもね」
「……でもだったら、なおさら分からないわ。どうして、それなら夢から去ったの?」
そう。そこで、本題に話は戻る。
何故、罰を求めて訪れた夢を、今度は自分から去ったのか。
侍女として旦那様に仕える事が罰にならなかったから? それでは、話が矛盾している。雫が夢を去ったのは、つい最近の事だ。だから、その最近までは、侍女として身を売る仕事は、自らへの許しとなっていたのは違いない。
なら……。
自分と同じように、か? と宮子は当然考えた。
「やっぱり、貴女も、旦那様の事を……」
「ええ。そうね。好きよ……愛している、といってもいいわ」
雫はここで初めて顔を上げて、椅子の上で姿勢を正し。宮子の顔を真正面から見つめた。
黒い瞳が、切りそろえた前髪の下からじっと宮子を見つめている。深い海のような昏い色の中で、深海魚の放つ光のようにキラキラと情熱が輝いているのが宮子にははっきりと見えた。
「す、ストレートに言うのね」
「誤魔化しても仕方がないもの。とはいっても、別に、何か彼の良い所に惚れた、って訳じゃないわ。長所を好きになるって事は、それが失われたらその人の事を好きじゃなくなるって事でしょう? そんな浅い思いじゃないわ。私は、彼の全てを肯定しているし、尊いと思うの。きっかけは、もちろんいくつもあるけどね」
「そ、そう……」
思ったよりも遥かに強火の告白に、宮子は気圧されて頬を赤くした。まあ、雫も流石に平静という訳でもなく、言葉を連ねる度にその白い肌が赤く紅潮していくのが手に取うように分かるほど。ほとんど自爆というか、ヤケクソの様子。
だからこそ分からない。
「……だったら、なんで何も言わずに居なくなったの? 罰が罰にならなくなった、というのは分かるけど……だからって。私も同じような事を考えて、旦那様と距離を置こうとしたから、人の事言えた身じゃないけど……旦那様に怒られたわ。自分勝手だ、自己中だって。私の気持ちを何も考えてないだろうって。……貴女が、それをわからないとは思えない。それに……だったらなんで、旦那様の背を押して、私とあの人を取り持つような事を?」
「宮子さん。私と貴方は、確かに同類だわ。だけどだからといって、自分の罰し方が同じである道理はないわ」
そこで雫はくい、と再び紅茶のカップを傾けた。すっかり冷めてしまったそれを、音もなく静かに飲み干す。冷めて苦くなったそれを喉に流し込み、空になったカップが、チン、と音を立ててソーサーに戻された。
「愛しているからこそ。私を旦那様のモノにして欲しいと願うからこそ、それが叶うべきではないのよ」
歪む口元は、深紅の三日月のようだった。
気圧されて、宮子は唾を呑む。
「貴女……」
「誰でもいい訳じゃないわ。宮子さんが旦那様の事を好きなのはわかっていたし、旦那様が宮子さんの事を好きなのもわかっていた。きっと、二人なら幸せになってくれる。その二人の幸せを後押しして、私みたいな醜い女は黙ってその場を去ればいい。欲しかった幸せが自分の手の届かない所で誰かのモノになる、それってとっても、最悪じゃない?」
声もなく、悲鳴のようにカラカラと雫が嗤う。
それを前に、宮子は慄くばかりで言葉が出ない。
だって彼女には、雫を糾弾する資格がない。
「どう? 最高に最悪に、自分勝手な女でしょう、私? 結局旦那様も、貴方も、この胸にあった恋心も、私自身が満足する為の道具でしかないのよ」
「……そうね。最悪だわ、貴女。吃驚してる。でも……」
相手の狂気に飲み込まれまいと、きっと宮子は気合を入れて見つめ返した。
「旦那様は、それぐらいで貴女を嫌いになったりしないと思うわ」
「そうね。きっとそう。だから、私はあの館を去ったのよ」
「ちがうわ、逃げたのよ」
ここが正念場だと、宮子は勝負に出た。
ここで雫の翻意、とまではいかなくとも、言葉を引き出せねば、彼女は今度こそ本当に、永遠に戻ってこない。
彼女は恋敵だし。何だったら、戻ってこない方が宮子には都合がいいが。
……旦那様が、それを望まない。
「貴女の目的は、あの屋敷に居たままでも果たせたわ。館を去る必要なんてなかった。貴女は恐れたのよ、あの人との語らいを、あの腕に抱きしめられるのを。可哀そうな自分でいたいあまりに、貴女はあの人を傷つけたのよ」
「…………っ」
自覚はあったのだろう。宮子の糾弾に、雫は辛そうに顔をしかめた。だけど、それこそが彼女の望み。永遠の罪人である自分を、良心と愛憎の責め苦で苛むのが彼女の願いならば、宮子の言葉だけでは届かない。
届くとしたら、それは。
「旦那様と、話をして。お互いに納得するまで、とは言わないけど。せめて自分の口で、自分の言葉で、旦那様に事情を話して。そうしないと、あの人だって納得できない」
「……それは」
「ねえ、わかるでしょう、ほかならぬ貴女なら。自分の大切な人に、言葉一つ残さず永遠の別れなんて、そんなの、心をどこに置いたらいいかわからない」
それは、これみよがしに曝け出した雫の心の像を打ちぬく一言だった。
過去の、過ちともいえぬ過ちによる、友達との永遠の別れ。彼女の残した言葉は永遠に雫を蝕む呪いであったが、同時に一つの救いでもあった。何も言わず、何もわからず彼女が消えていれば、きっと雫は答えの出ない裁判を永遠に続けていただろう。仮初の罪過の在り処もわからないまま。
それを、自分が愛する人に課そうとしている。
動揺に、雫の目が泳いだ。
「わ、たしは……」
「お願い。一度でいい、またあの館に来て。あの人と話をして」
縋るように、問いただすように、宮子は真摯に雫の瞳を見つめる。その眼力に気圧されたように、先に視線を逸らしたのは彼女の方だった。
「……わかった。思えば、確かに不義理に過ぎたわ。もう一度、あの夢の中で旦那様と会って別れの話をする。……それでいい? それで満足?」
「ええ」
雫の言葉に、心底ほっとしたように宮子は脱力した。
どうやら、なんとか雫をその気にさせる事が出来たようだ。
自分の仕事は、ここまで。あとは、まあ、何とかなるだろう。
安心すると急に喉が乾いてきた。宮子は、すっかり冷めきった紅茶を口に含んだ。
「苦っ」
「……淹れなおすわ。茶菓子もどう?」
「ありがと……」




