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「今晩はいかがなさいますか?」と侍女は囁く  作者: SIS
第二部 彼女達の贖罪

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第五十八話 隠遁の魔女





「なんて、旦那様には大口叩いちゃったけど……」


 現実。


 休憩に訪れた喫茶店の片隅で、宮子はぐったりと机の上で潰れていた。


 雫をなんとしても探し出す、と主人に約束したのはいいものの、それから三日。彼女の調査は、何の成果も出せず時間だけが過ぎていった。


 勿論、当てがある、というのは嘘ではない。


 会話の中の些細な発言から、雫が都会から数駅離れた場所に住んでいる事、最寄り駅がどこか、という所までは掴んでいる。彼女の良くいく店も知っている。


 だが、逆に言うとそれだけ。


 地図にコンパスで円を引くようにして雫の活動範囲を絞り込んだものの、それだけで見つかるほど人探しというのは甘くなかった。


「ううーん……不甲斐ない。旦那様は焦らなくていい、って言ってくれたけど……」


 恐らく、最初からある程度難航するのは織り込み済みだったのだろう。穏やかな主人の顔を思い返し、しかし、宮子はちょっとした苛立ちを覚えた。


 期待されていない、という訳ではないのは分かっている。ただ単に彼は現実主義者で、物事が思うようにいかないというのを身をもって知っているだけなのだろう。だがそれはそれとして、あっというような成果を持ち帰ってあのすまし顔をびっくりさせてやりたかった宮子としては、現状は歯がゆいものだった。


「大体、雫さんも雫さんよ。あんなぱっと何も言わずに消えちゃって。残された私達が笑顔でよろしくやっていけると思ってるのかしら」


 そして愚痴は、薄情な同僚メイドへのそれへと段々切り替わっていく。


 脳裏に浮かび上がるすまし顔に、宮子は苛々とおつまみの豆を噛み砕いた。


「何よ、これで私に勝ちを譲ったつもり? 逆に自分が譲られたら澄まし顔でブチ切れ決闘挑んでくるぐらいの事はするでしょ、アンタ」


 旦那様の前では猫を被っているが、雫の本質は女の煮凝りみたいなもんだと宮子は知っている。嫉妬深いし、計算高いし、人を手の上で転がすのを生きがいみたいに感じている。主人は、雫をおしとやかで穏やかな理智的な才女で、ちょっといたずらっけのある面白い子、みたいに思っているようだが、それは基本的に彼女がそのように刷り込んだイメージだ。


 男が好きな女はどういうものか、それを分かった上で望まれたように振舞っていただけにすぎない。とんだペテン師である。


 それでも、最近は割と旦那様の前でも素を出している事が多かったように思う。看病生活で見せた、皮肉屋で人の痛い所を容赦なく言葉のナイフで抉ってくる、あれが彼女の本質だ。そしてそれに困惑しながらも、旦那様はそれを彼女の地だと受け入れていた。


 自分達の関係は良好だったはずだ。どうして、それを急に、何も言わずに黙って切り捨てたのか。


「ああ、腹立つ。何が一番腹立つって、雫さんの事をぱっと切り捨てられない自分に一番腹が立つ。なんでこんなに私苛々しているのかしら。ええいもう、あっちがその気なら、このまま旦那様と二人きりで失楽園でも気取ってやろうかしらね、ふん」


 心にもない事をぼやき、宮子は空になったコーヒーカップをテーブルに戻した。


 結局のところ、これだけ心乱されているのは、宮子もまた、雫の事を気に入っていた、という事に他ならない。ほかならぬ同じ男を好きになってしまった者同士として、彼女は奇妙な連帯感すら感じていた。


 それを、一方的に切り捨てられた。逆恨みとわかっていて、その憤懣を当の本人にぶつけなければ気が済まない。


 最初は困惑と後悔ばかりが心の縁を満たしていたが、時間経過とともにそれらの燃料に火がくべられ、怒りという炎がメラメラと燃えている宮子なのであった。


「……なんてね。はぁ……」


 しかし、炎を燃やしたところで、現実的には無理難題もいい所である。厳しいリアルの壁に、燃え上がっていた炎も忽ち鎮火してしまう。落ち込むように机の上で俯せになる彼女の頭に自然と浮かぶのは、恋しい旦那様の事である。


 彼に対する恋心を決定的に自覚したのは、現実でファミレスで食事した、あの一件がきっかけだった。それまで好意を持っていない訳ではなかったが、それはあくまで頼れる年上、信頼できる主人、そういった、夢の世界での関係ありきの話だった。だからこそ、夢の侍女という立場に甘んじていた訳だが……。


 ファミレスでの一時。そういった、建前を全部取り払っての時間を過ごした結果、彼女はそんな理由がなくてもあの人との時間があまりにも楽しくて幸せだという事を自覚してしまった。ただ一緒に居られるだけで幸せ、言葉を交えて、軽く触れてもらえるだけでうれしい。


 ましてや、夜を共にするのは喜びでしかなく。……それが、もはや罰でも何でもなく、彼女にとっての楽園である事を、あの出来事から決定的に理解してしまった。


 だから、夢の世界を、彼女に与えられてしまった楽園を自らの手で濁った泥沼のように変えてしまおうとした訳である。


 最もそれは失敗し、結局彼女は透き通った綺麗な水底で、自ら編んだ鎖に繋がれる事になってしまったのだが。


 それはそれで、罰には違いないのかもしれない。神様というのは、意地悪である。


「ん……」


 頬を赤くして、もじもじ、とする宮子。


 本当ならば、夢だけでなく現実でもあの人の隣に居たい。だが、雫の事がある限り、それは選べない。


 きっとそうなったら、宮子はもう雫を探す気にはなれない。雫の謀ったように、安寧と楽園の沼に沈んで二度と浮上する事は出来ないだろう。


 それは悔しい。なんていうか、本当の意味で負けた気がする。


 何よりきっとそうなれば、雫の存在は永遠に旦那様の心の奥に棘となって残り続けるだろう。そうなればきっと、真の意味で旦那様は宮子の事だけを見てはくれない。


 それは。


 ちょっと……いや、かなり、嫌だ。


「そうよ。あんたの思う様になんかなってやらないんだから」


 よし! と気合を入れなおし、宮子は調査を続行する事にした。


 会計を支払い、店の外に出る。


 途端に吹き付ける寒風に、宮子は襟元を合わせて身を小さくした。


 そろそろ冬本番。人肌が恋しくなってくる頃だ。


 見つけたらそのまま湯たんぽにしてやろうかしら、そんな事を考える宮子がそのままビル街を横切り、今日の調査目的地に向かおうとした、その時の事だった。






「お嬢さん。黒川宮子さん、ですかね?」








 名前を呼ばれて反射的に足を止める宮子。


 振り返る先。ビルの間、路地裏の暗がりの中に、野暮ったい恰好の中年の男が立っていた。


 ぴり、と宮子の警戒ゲージが一段上がる。


「何か?」


「そう警戒しないでくださいませぇ。あっしは、しがない単なる、自称探偵ってやつです。怪しいもんじゃない」


「あ、そ。それで? その自称フリーターさんが、私に何の用?」


 これ以上近づけば通報する。これ見よがしにスマホを取り出して警戒の仕草を見せる宮子に、男はとりなすように手を振った。


「おっと、そんなつもりはこっちもないんです。あっしはただの使いでして……こいつを、アンタに渡すようにってね」


 彼は張り付いたような笑みを浮かべたまま、白い封筒のようなものをこれ見よがしに見せつけながら、決して宮子に無視できない名前を口にした。


「天満雫さんから、お手紙を預かっております。……探しているんでしょう?」




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